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首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)
著者 後藤 明生 (著)
マンションの14階から語り手は、開発によって次第に変化する遠景の中にこんもりとした丘を見つけ、それが地名の由来となった馬加(まくわり)氏の首塚と知る。以来テーマはひたすら...
首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)
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商品説明
マンションの14階から語り手は、開発によって次第に変化する遠景の中にこんもりとした丘を見つけ、それが地名の由来となった馬加(まくわり)氏の首塚と知る。以来テーマはひたすら首塚の探索となり、新田義貞の首塚から、さらに『太平記』『平家物語』のすさまじい首級合戦へとアミダクジ式につながり、時空を越えて展開する。
〈第40回芸術選奨文部大臣賞受賞作〉【商品解説】
収録作品一覧
ピラミッドトーク | 7-30 | |
---|---|---|
黄色い箱 | 31-64 | |
変化する風景 | 65-92 |
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こういう話はこういった静かな作家が語るから面白い
2020/11/27 22:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
刺激的な作品「愛人」と「悲しみよ こんにちは」を読んだ後だから余計にまったりと読めた。”首塚”とタイトルはおどろおどろしいのだが、作者が購入した幕張のマンション14階から見えるこんもりとした山には首塚があってということから話が新田義貞の首塚、瀧口入道、平家の首、高師直と塩治判官高貞の話に向かっていくという読みやすい話になっている。いちばん面白かったのは塩治の女房への師直のラブレターは実はあの徒然草の兼好法師が代筆したものだということが「太平記」に書かれていたということ、そしてあまり効果がなかったので怒った師直が兼好を出入り禁止にしたということ、江戸時代、兼好がブームになっていろんな本に材料にされて遊興所の亭主にまでされてしまったということ、こういうとんでもない話はこういった静かな作家が語るから面白い
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「読む/書く」のメビウスの帯的実践
2003/10/09 22:04
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
首塚とアドバルーンという取り合わせの妙が印象的なタイトルを持つ本書では、千葉幕張に越してきた「わたし」(ほぼイコール後藤明生と考えてもいい)が、家のベランダから見つけた「こんもり繁った丘」が鍵となる。
その丘の上で偶然見つけた「馬加康胤の首塚」から話は逸れはじめ(しかし、いったい“何”から逸れたのか?)京都や「雨月物語」の舞台、新田義貞の首塚から、「太平記」「平家物語」など、さまざまな方向へと縦横に飛躍し始める。
いくらか後藤明生を読んできたものにとってはなじみの光景ではあるが、これではじめて後藤明生を読むものはなんとも困惑する以外にないのではないか。最初の二篇などは幕張の都市の光景を、あくまで「わたし」の視点から細微に描き出しており、この小説を片手に現地に行っても道に迷わないのではないかと思わせるほどである(もちろん、相当景色は変わっているはずだから、今そんなことはできないだろうが)。また、郊外の都市の変貌をも細かく捉えており、「首塚」と「アドバルーン」という取り合わせが示すような、現代都市の不思議な関係もまた、この小説の主題となる部分である。
しかし、首塚を見つけてから、一気に話は遠心的に加速する。それとともに筆法も変わり、書簡体小説に変貌するのである。
「マンションの十四階のベランダから見える、こんもりした丘の上で偶然に見つけた首塚からはじまったわたしの『平家物語』『太平記』めぐりが、めぐりめぐって、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたということです。馬加康胤の首塚→新田義貞の首塚→『太平記』→瀧口寺→『平家物語』→『瀧口入道』→『平家』→『太平記』→『徒然草』→『太平記』とアミダクジ式遍歴を重ねるうちに、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたという不思議なのです」208頁
作品の主な部分は、上記に羅列されたテクスト群を偶然によって遍歴し、それをまさに「読む」ということに費やされていく。おそらく上記のようなプロセスはふつう、小説のための情報集めとして行われるものだろう。が後藤明生にあっては、書かれている「現在」とはまさにその「読んでいる」プロセスそのものだ。ふつうの小説に比して、徹底して情報を開示するこの小説は、それ故独特の展開を成すのである。予定された物事を流暢につないでいく「語り」ではなく、徹底して現在的であろうとするため未完結になるしかない「読んでいる」というプロセスは、「書く」という方法でしか表現し得ないということだろう。
「現在」ということに関わるが、『太平記』と『平家物語』の読み比べから「わたし」が見出したのは、『太平記』の以下のような方法である。
「つまり、『太平記』は、「小島法師」によって書かれた同時代史ということです。完結した一時代を過去として書いた『平家物語』と違って、政治も合戦も事件もすべて「昨日」の出来事として書かれています。そのまま「今日」に連続しており、目下進行中であり、未完結である、という意味での「昨日」です」155頁
後藤明生もまた「小島法師」と同様の方法を用いているといえる。後藤明生が過去を書くときにも、歴史小説のように歴史的過去を現在として書くのではなく、回想として、つまり現在との関係において描こうとするのは、まさに上記のスタンスによってである。そしてまさに、それが現在であるがために、終わることのできないのが、後藤明生の小説なのである。
本書において、「書く」と「読む」とが表裏一体の現象であることが見て取れる。読んでいるプロセスを小説化するこの小説は、「文学とは「書く」と「読む」とがメビウスの輪のように結びついているものである」とする後藤明生の小説のマニフェストの実践として、読まれうるだろう。