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最初よくわからなかった。
不思議な感じ。
糖子とヒヨとあなちゃんとまるさんと蜜生と蜜夫。
赤砂漠とススキと月
2008.5.12
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逃亡中の在日ペルー人、日曜人(ヒヨヒト)と恋人のアナはメキシコの赤砂漠に似た厚木にある糖子の家でかくまってもらう。
これを読んでさっそくアラビアータを作った。
愛する人と家族をつくるのは難しいことなのかなぁ。タイトルが超すき。 さとこ
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「昔のこと話すと嘘ついてる気分になる。
自分じゃない人のこと話してる気分になる。
ほら、それがなま身の自分よ。
話の中でだけ生きていられる自分があるのよ。
なまの自分なんて、いつだって他人行儀なもの。
なじむためには今すごしてる干からびた夢から覚めて、
遠い自分によりそうように話すことが大事。」
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文章が所々好みだったのに、眠かった。
解説が角田光代だったのに、眠かった。
どうしてかわからない。
幸せは長くは続かないこと。
気がつけば壊れていること。
そこから一歩踏み出さねばならないこと。
珍しい、カメラの視点がこまめに入り交じる文体。
ヒヨと糖子の視点の入れ替わりは予期なく起きることも多いのに、すんなり読める。
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自分、好きです。この人の文章。文字をただ追っていくことより、ページに並ぶ文字を見てるだけでも心地よくさせてくれるから。
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星野智幸の言葉は、いい。ただもうその一言につきてしまうくらいに。まず、書き出しの一段落に、しびれた。白熱球のような月、プラチナ色のススキ。思えば、それらは深海のイメージだ。タイトルの意味をずっと考えていたけれど、最初の一段落を熟読するうちに、少し分かったような気がした。深海のイメージをもって語られる、糖子の住む家とその周囲。そこで、夢だか現実だか、過去だか現在だか分からないような生を営む人々。現実へ踏み出せ、目覚めよ。間違っているかもしれないけれど、私はそんなふうに解釈した。最後は唐突に終わったようにも感じたけれど、そう考えれば、これからヒヨはタケリートを止めに、現実の中へ入っていく、というふうに受け止められる。
ここで語られているのは、たくさんの自分。一人の人間として繋がっていかない、自分。繋がっていかない、出来事。過去が現実で、現実が過去で、混乱の中、逃げようとするけれど、逃げる場所などどこにも無い。だから、その一つ一つを考えて、理解して、繋げていかなければいけない。たくさんの、語られる言葉。人は理解するために言葉を使うけれど、その言葉は現実とはズレているかもしれない。でもそのズレを少しでも埋めるために、さらに言葉は重ねられるのだ。そんな言葉の洪水が、いつか真実を語り始めると信じて。
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赤土の台地に立つ家に住む女と子供、血のつながりのない男。そこへ日系ペルー人と恋人がトラブルから逃げ川崎からやって来て滞在するという話。家は実在しているとは思えないような土地にあり、現実からの隠れ家として機能している。
章ごとに三人称と一人称を行き来する語りだがたまにそれがするりと移動している。面白かった。
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書店で題名買い。作家については前情報はまったくなかった。
ともかく、ゆらゆらと漂うような文章が印象的。それも喩えるなら川のような流れる水ではなく、真夏に容器にためられたまま温くなった、どこか退廃的なよどんだ水。
特徴的なのが地の文の書き方だ。糖子の一人称で始まった物語は、ヒヨについて語る時は三人称になる。
そしてそのまま読み続けると、三人称で描かれる文章中でいきなり何の前触れもなく糖子の一人称に切り替わり、また三人称に戻る。
正直最初は面食らったものの、その文章構成自体から夢と現実の境界が曖昧に溶け込んでいく様を感じさせて、素直に感心してしまった。
だがこれは文章の基本がしっかりしているからこそだろう。本来なら私が嫌がる書き方なのに、この作品に関してはすっと受け入れられたのもそのためだと思う。
内容については、何とも難しい。共感するかと言うと全くそんなことはなく、心は凪いだまま最後のページを迎えた。強い痛みも、喜びもなく。
そのため、「面白かった」という言葉は出てこない。「楽しかった」も違う。強いてあげるなら「読んでよかった」。
ただ美しい風景を眺めるように読み終えた。解説の中で、この作家の作品に触れることを「異国を旅する」と喩えてあったが、まさにそういった感じだと思う。
不思議な読後感だが、これがこの作品だからなのかこの作家だからなのか。また機会があったら別作品を読んで判断してみたい。
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MDのような物語。ひとつのディスクの中にたくさんの人格があって、それぞれが依存し協調しハーモニーをつくる。そして語りかける。
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濃密・爛熟・糜爛・・・。強い日差しが照りつけ、存在するもの全てが熱く、熟し、融解する夏の日。妄想癖を有する糖子が「疑似家族」と住む家に、暴走族との抗争に巻き込まれた日系ペルー人のヒヨヒトが恋人とともに逃げ込む。
糖子は現実と失った恋人との妄想との間で、またヒヨヒトは自身の不安定なアイデンティティのはざまで、相互にゆらぐ二人は出会い、共振し、サルサを舞いながら溶け合い人称は混濁する。
が、サルサはいずれ終わる。揺動するアイデンティティを抱きながら、一人は妄想の内に住い実体を欠いた者として存在し、もう一人は外へ、「巨大な綿の中を這うような不安」を抱きながらも外へ「歩みを早め」た。その差異。
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高校生の頃、図書館の本棚から手当たり次第小説を引っ張り出していて、現代小説の奥行きのなさを感じさせられていた中で「あ、この人は違う」とはっきり感じた冒頭、書き手の頭の中のイメージの奥行きがどこまでも広がってる安心感というか。
それにしても最初のところの甘いしびれのようなものは殆ど官能的ともいってもいいほどで、そこから蜜夫がそこに実在しないと分かったときのショックといったら。しかも蜜夫は死んだんだろうなと何となく予想していたらそうではなく、まるで『パリ・テキサス』みたいな生き別れ状態だし。
この『目覚めよと人魚は歌う』は、著者が書いた中で一番普通に小説的に楽しんで読める作品だと思う。そして高校生のときの私のように、普通に上質な肌触りの作品、と思って読むことも可能なのだけれど、この作品の中には日系ペルー人を扱うという社会的なテーマ以外にも、もう一つ別の「欲望のあいまいな対象」いうコードも隠されている。
この「欲望のあいまいな対象」とはこの著者が好きらしいルイス・ブニュエルが監督した作品のタイトルでもあるのだけど、(原題は「 Cet obscur objet du désir」)私にとってこのテーマが浮かび上がったのは、彼の名前の付け方、そして言葉の交わりに関する意識についての記述からです。
彼はデビュー作である『最後の吐息』で、主人公の恋人になる女の人が、「ジュビア」(スペイン語で「雨」)と「雨子」を登場させているのだけれど、自然の出会いとして生まれた恋人関係を描く場合にも、「我々は恋人に同じものを求めているのではないか?」という疑問が読み取れる。
同じ現象はこの小説の中にもあって、ヒヨの恋人は「あな」。そして彼がペルーで恋人だった女の人の名前も、「アナ・マリア」。どちらも個性的に描かれているし、あなに至ってはすごく強烈にヒヨにぶつかってくるのだけど、物語の中の登場人物たちは意図してもいないらしいところで、著者の手で恋人の名前があまりにも近似したものと設定されているのは、私の上げているテーマについて、直接語っていないものの、気付いて欲しいものとして物語の中に潜めているからだとも思える。
この著者は、言葉の魔術を確かに信じていながら、その力の及ぶ範囲の弱さというか脆さもすごく自覚しているようなところがあって、例えばこの作品では主人公の「日曜人」(ヒヨヒト)は、日系ペルー人の間のもめ事に対して、俺が日曜日の人になってバランスをとる、なんて言いながら結局その役割を果たせなかったと嘆くことになるし、ヒヨがあなのことを考えながら部屋の中を歩き回るシーンで「あなが必要、穴が必要、あながひっよー、あながひよ」と、「あながひよ」という言葉による「あな」と「ヒヨ」の交わり(というか最早同化かこれは)を行うけれど、現実にはその結果「…などと支離滅裂な日本語が渦巻き、混乱は深まるばかりだ」となってしまう。
ここ思いがけず爆笑だったのだけれど、糖子が息子の蜜雄(夫の蜜夫と同音)がヒヨとサルサを踊ってる場面を見て、また私を置いてきぼりにするの、の意味で「またなの」と思うところもすごく馬鹿らしくて笑える。でもこの糖子のくだりもまた重要で、彼女が愛しすぎて関係が破綻したの夫との子供に、おなじ響きの蜜夫という名前を与えてはばからず、現に今でもかつて夫であった蜜夫のことを思い出して恍惚としているといつも息子の蜜雄のことをすっかり忘れてしまうくらいで、関係が破綻したのも、蜜夫が蜜雄と仲良くしている状態、「みつお」が二人いる状態が原因だとすると、彼女の愛の対象は一体なんだったのだろう? という疑問がわいてくる。
そしてこれは糖子に限ったわけじゃなくて、あなとアナマリアもそうだし、『最後の吐息』のジュビアと雨子も同じなのだけど…。
「あなた」の存在は絶対ではない、呼びかけとしての「あなた」でしかないという悲しみがある。
この著者の小説の中では登場人物たちがこれでもかというくらいぶつかる場面が多いのだけれど、それは表層的な意見やなにかの衝突というのに留まらず、根源的な自分にとっての愛の「対象」の曖昧さへの、著者のジレンマというかいら立ちというか、あるいは簡単に馴れ合ってはいけないのだ、そんなものまやかしなのだから、というような自戒のようなものが隠されているような気がする。
このジレンマが加速して「あなた」は実は僕だった、みたいな地点にたどり着く設定は『俺俺』にまで通じている。
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早稲田。三島賞、野間文芸賞。
冒頭からめっちゃ「文学」してる。
伊豆高原。疑似家族。ペルー人、サルサ。
ふーん。ぼやんとした読後感。
「読んでも得しなかったなー」が本心。
良くも悪くも文芸誌に載ってるような作品。
もう星野さんの本は読まないだろうな。
合縁奇縁。それが無かった。
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とにかく読みにくい。誰一人登場人物に共感できないけれど、圧倒的な筆力でぐいぐいと引き込まれてしまう。偏執的で気持ちが悪い人物しか出てこないし、得体のしれない気持ち悪さがずっとつきまとっていて、不快なんだけど読むのをやめられない。この違和感はなんだろうとモヤモヤしながら読み終える。
角田光代さんの解説が個人的にとてもしっくりと来た。異国への旅とは全く思わなかった、気持ち悪い他人の夢に悪酔いさせられているようだったけど、それでもこの異様さを描けることは秀逸な筆力なんだと思う。
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世俗と離れて暮らす中年女性の家に、恋人とともに逃亡してきた日系ペルー人の若い男性。心の支えを失った者同士が繰り広げる濃密な3日間を描く。
強烈に愛した人への思いを忘れられない女性と、日系ペルー人として日本人にもペルー人にもなりきれずアイデンティティの欠落に悩む青年。埋められない空洞を抱えた二人が、サルサのリズムに乗って踊る様は、南米が舞台の映画でも観ているかのようだ。
それも、開放的な明るさではなく、むせ返るような暑さとうんざりするような閉塞感、熟れきって停滞する倦怠感というような。かつて観た映画『予告された殺人の記録』を思い出した。
内に残り続ける女性と、不安ながらも外に踏み出す男性との対比もいい。
作者のまだ青いけれど確かな言葉の積み重ねに、現実と幻想とが入り交じった場所に心が連れ去られるのが心地よく、才能を感じる一冊だった。
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完全にタイトル買いしたが良かった。
かっこよくて情緒的な本だった。夢と現実が混ざり合って何がなんなのかわからないけど、わかる、と思った本だった。読んで良かった。
また人魚に呼ばれたら読みたい。
ちなみに古本屋で買ったのだがら前の持ち主の2002年のスキー旅行の写真が挟まってた。えもい。