紙の本
「狂気」を囲い込む社会
2005/03/14 11:22
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:後藤和智 - この投稿者のレビュー一覧を見る
我が国は世界有数の精神病国家である。というのも、我が国には精神障害者として収容されている人々が実に約40万に及ぶのである。さらに、その中には軽微な窃盗罪をやらかしたに過ぎないのに刑法39条により「責任能力なし」と指定されて裁判にかけられる代わりに精神病院に収容され、実に数十年も社会に出られずに精神を病んでしまう人も存在する。また、一方では、凶悪な殺人事件を犯したにもかかわらず半年で娑婆に出られる犯罪者もいる。
なぜ、このような現象が起こってしまったのか。本書によれば、そのルーツをたどると、それは我が国が欧米列強に対抗するために急速な近代化を受け入れなければならなかったことにたどり着く。江戸時代まで、我が国では服を着ないで過ごしたり仕事をしたりすることが日常茶飯事と化していたが、それでは欧米から「野蛮」と見られてしまうので、それらを警察権力で取り締まったのである。瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)が列強と張り合うために憲法を必要としたことを描いたのに対し、本書では列強と張り合うための社会政策を描いているわけだ。
また、明治16年に起こった「相馬事件」によって、精神障害者の私宅監置がクローズアップされた。さらに、それまで厳格に「罪」を裁いていたが、近代化に伴って「罪」と同時に「人」を裁かなければならなくなった。すなわち、罪人の「性格」によって量刑を考慮しなければならなくなったのである。しかし、ここに精神医学が司法に介入する隙を与えてしまい、それを画策したある精神科医は、将来的には「悪性」が精神分析によって発見され、犯罪をやらかす前に取り締まることができるようになり、刑法はいらなくなる、と夢想した。
これでは予防拘禁ではないか! しかし、司法に介入しようとする精神科医は本当にそう夢想したのである。そしてそれが切望したのは精神病院の設立であった。しかし、戦前はそれが実現しなかったが、戦後になって我が国が精神病国家になる条件は戦前には既に完全に整っていたのである。
戦後になって、昭和25年、精神衛生法が施行された。かくして我が国は精神病院列島への道を驀進し始める。戦後の我が国において、刑法39条に基づき犯罪者の「責任能力」を考察するのは裁判所ではなく(!)検察なので、検察に都合の悪い事例(「動機」がやけに理解不明だとか)は即座に精神病院送りとなる。そのような事態に国民や国連人権委員会からの批判が高まる中で、ついに「宇都宮病院事件」が起こってしまう。以降、精神病院の環境は改善されるが、精神障害犯罪者への人権侵害(憲法で保障されている「裁判を受ける権利」が剥奪されている!)などは現在になっても依然として続いている。
著者は、このような事態の改善のために「狂気の脱犯罪化」、そして精神病を「普通の病気」にすることが必要だと主張し、そのために刑法39条の破棄を主張する。確かに刑法39条は不条理なものであろう。しかし、私はこれには悲観的である。いくら刑法39条を破棄し、刑法全体を厳格な罪刑法定主義に変えても、「悪性」を発見しようとする欲望はいまだ社会、特にマスコミに極めて強いからである。素人どころか本来玄人であるべき人でさえ、素人以下のプロファイリングを行い、それをありがたがる聴衆は我が国には多い。「ゲーム脳の恐怖」「ケータイを持ったサル」「フィギュア萌え族」「ネオ依存症」…。
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思想史という見方で、江戸時代辺りから現在に至るまで、淡々と冷静に分かりやすく書かれています。
どうして、刑法第三十九条があるのか。そのせいで、精神障害者は裁判を受ける権利を剥奪されてしまうわけです。社会の一員として、認められない状況になるんですね。
なぜ、そんな状況になってしまったのかが、よく理解できました。
今の世の中、何か犯罪を起こしたとき、過去に精神科通院歴があると、その途端、扱いが変わります。どうしてそんな過剰な対応になってしまうのか。よく考えなければならないと思います。
精神病だから、何か犯罪を起こしても仕方がない、いや、しでかすに違いない、なんていう考え方は、とても恐ろしいものだと思います。
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議論が皮相に思われる。精神障害者でも有罪になった人は沢山いる。そういう具体的な個々の事例を扱わずに単純に触法精神障害者=無罪という前提を疑わずに論を進める筆法は納得行かない。
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「ミヤザキ学習帳」において2005年度新書第1位に選ばれていたそうですが、相当面白く一気に読了しました。また、今月には、同じく講談社+α新書から『ホラーハウス社会』が出るそうで、ぜひお勧めします。
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この本は,前任校(福山平成大学)の同僚が教えてくれた本です。社会学の視点から精神科医療や精神障害者福祉について書かれている本です。
「はじめに」で,著者は「精神障害者の処遇の歴史と,それを支えてきた『思想』を描き出そうとしている。思想というのは,ものの考え方であり,ある発言や行為を当然だとする根拠でもある」と書いています。
これまでには,このような内容の本には出会ったことがないように思います。。精神保健福祉の制度がどのようにして作られてきたのかということについて,その時代の背景や精神医学や精神保健に関する諸外国(アメリカが中心)の対応などについての記述については多くありますが,日本の歴史を振り返ることによって考察するという方法は珍しいのではないでしょうか。
欧米の精神保健福祉に関する理論も重要かつ必要ですが,人々の考え方や行動の仕方に大きく影響を与える「思想」も非常に重要だと思います。今や社会福祉を支えるようになっているノーマライゼーションの思想も,それは実際の行動や制度につながってはじめて意味を持ちます。逆に,この本に書かれているように,人々の考え方や行動の仕方に大きな影響を与えているのは「思想」ですから,どのような「思想」がもとにあって人々の行動や考え方になっているのかということも考える必要があると思います。
欧米で作られた思想や理論が日本ではなかなか根付かず,活用されにくいことを考えると,思想とそれを具現化した結果としての考え方や行動の仕方の関係を改めて整理することも重要であると,この本を読んで思いました。
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江戸時代の日本の風土と、文明開化によってそれが払拭され、整然とした環境が整えられた代わりに失われたものがある。
「本当か?」と疑う記述もあるが、総じて説得力のある良い本だった。
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信じがたい犯罪が起こるたび、多く目にする犯人の精神病歴や精神鑑定。日本が近代化の過程で、狂気に対しどのような措置をこうじてきたかを精神医学・刑法学などの知見から俯瞰し、現代の開放化精神医療にいたる歴史を検証した本。「犯罪を犯した精神障害者は処罰されるべきか」という問題の核心は、この本を読んでも依然として残るパラドックスだ。
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[ 内容 ]
患者数、病床数、入院日数のすべてが世界一。
精神障害者を取り巻く、驚愕の歴史と現状。
[ 目次 ]
第1章 社会から排除される「狂気」(徘徊する浮浪者を排除せよ;文明と裸体の取り締まり ほか)
第2章 「狂気」を監禁する社会(精神障害者管理は家族の責任;相馬事件というお家騒動 ほか)
第3章 法の世界における「狂気」の地位(死刑の光景;江戸時代の刑事裁判 ほか)
第4章 社会から「狂気」を狩り出す精神医学(法律の消滅を夢想する刑法学;刑罰が癒す「悪性」という病 ほか)
第5章 社会と法の世界から排除される「狂気」(「精神衛生法」の制定;精神病院ブームへの公的援助 ほか)
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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最初はひたすら江戸明治の「狂気」の扱われ方の歴史が書かれていて、挫折しそうになった。
社会の治安と精神障害者の人権のバランスをとるのは難しいなあ…
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大正期の精神病患者の扱いは解り易かった、が、読み進められない本であった。
時間のある時に最後まで読めるといい。
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日本人の根底に流れる「狂気」と「近代化」との話。
一度否定してしまったものを取り戻すのは難しいなぁ。
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この本を手に取った理由は
「なぜ、刑法39条などというものがあるのか」
が知りたかったからである。
答えは本書にある。
現行刑法改正時、それまで罪に対して下された罰が
罪人の「性格」を裁くようになったからだ。
つまり、「どんな罪を犯したか」から
「罪を犯したのはどんな奴か」に変わった。
さらに、精神障害者を犯罪者予備軍にしたてあげたのは
精神科医であると述べている。
これは批判する対象がなくなれば飯が食えない論客と同様で
自然に納得できるものであった。
著者は日本における狂気と犯罪を
歴史的に辿っていき
人道主義と治安の意識の歴史が合流して
刑法39条にたどり着く。
著者は結論として
精神を病む者を特別視しないこと
精神障害者へ裁判を受ける権利を与えること
を主張する。
刑法39条を運用しているのは裁判所ではなく警察
精神障害者の懲罰を減免しているのは精神科医
等うなずける批判があったのに
代替の策を述べていなかったことが
やや残念であった。
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昭和30年代、長期の措置入院をさせる・向精神薬の導入・医療法特例で少人数で患者を管理できるようになり、精神病院の経営を安定をさせた(精神病院ブーム)。昭和40年、精神衛生法改正、精神障害者(狂気)の強制収容の強化(社会からの排除)。刑法39条により、病人と見なされ裁判を受ける権利を奪われる(法の世界からの排除)。「触法精神障害者」が刑法で裁かれれば、精神障害者(狂気)の脱犯罪化になり、精神病は「普通の病」として脱社会的排除につながる。
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明治から現代まで、社会の精神障害者への対応の歴史を書いた本。
家庭での管理、刑法上での扱い、日本での精神医学歴史と精神病院の成り立ち。
衝撃的だった。
新書で読むには重すぎるな。
けど、非常に興味深かった。
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精神病を患う犯罪者。
狂気として扱うようになった、歴史的な背景が説明される。明治、文明開化がきっかけとなって始まる。世界の中で、賤民から国民となるために、社会的に狂気を封じ込めるための収容所施設として、病院が誕生する。社会として取り締まるために、テンキョウイン(松沢病院)、警察権力と結びついていく。
狂気は病院に収容するために診断が必要だが、まだ、精神医学はなかった。あやふやな診断では、法曹と対立をすることもある。狂気にかかわらず罪人を裁くと言う点から、江戸時代には、死は当たり前の見世物として行われた。
監獄、時間を奪う、拘束する(明治)vs(江戸)死刑、身体を奪う。
狂気:理解不能になものを、報道として、識者といわれる人たちが、解説をして、公の興味をそそる、話題にする。精神病院法、精神衛生法より、狂気は、結核等の不治の病と同列に扱われる、と説くが、社会的、保健衛生上からもその様な位置づけをされたことになる。
自殺が3万人を越えている今、狂気はうちに向かっているのかもしれないと感じた。