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  3. 後藤和智さんのレビュー一覧

後藤和智さんのレビュー一覧

投稿者:後藤和智

82 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本戦前の少年犯罪

2007/11/24 20:33

「戦前は」キレやすい少年の時代、と言えますか?

26人中、25人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 戦前から現代まで種々の少年犯罪の記録を集成したサイト「少年犯罪データベース」の管理人がこのたび『戦前の少年犯罪』というタイトルで、その名の通り戦前の少年犯罪について解説した本を出した。

 本書は実に、いろいろな意味で衝撃的だ。例えば戦前においては、小学生がナイフで人を刺したり、少年による幼女レイプも多く起こっており、体罰を起こす教師に対して児童や親は警察や訴訟を利用して徹底的に反抗し、さらには旧制高校生は連夜の如くストームと称して暴虐の限りを尽くす。さらに本書の著者は、この程度の事実を調べていないで、戦前についてさも理想的な教育(学校、家庭問わず)が為されていたと無根拠に断定する「識者」たちを非難する。私も、一応本書第10章「戦前は体罰禁止の時代」で採り上げられていた事例や、そもそも戦前においても体罰は禁止されていたことについては知っていたが(広田照幸『教育言説の歴史社会学』名古屋大学出版会など)、少年犯罪についてはほとんど知らなかった。私も著者に非難を受けるものの一人なのだろう(苦笑)。

 とはいえ本書の醍醐味は、(もちろん戦前の想像を絶する少年犯罪もさることながら)現代の子供たちや若年層の「病理」を説明する道具として使われる概念が、戦前の子供たち、及び若年層に平気で当てはめられてしまうことだ。各章のタイトルだけ見ても、「戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代」(第2章)、「戦前はいじめの時代」(第6章)、「戦前はニートの時代」(第11章。しかし私はこれはこの章の内容にそぐわないと思う。正確には「戦前はニート犯罪の時代」とすべきだろう)、「戦前はキレやすい少年の時代」(第13章)などなど。

 さらに本文中においても、《授業中に教室を歩き回ったりする〈学級崩壊〉は……戦前の小学校ではわりと当たり前のことでした》(本書pp.140)、「旧制高校生は勉強していないことを誇っているゆとり世代」(pp.280要約)などと散々であり、「援助交際」などという言葉も小見出しに平然と出現する(pp.192)。

 このような過激とも言えるラベリングは、明らかに「現在」の教育言説に対するパロディであり、また皮肉であろう。「脳の壊れた異常犯罪」も「ニート」も「キレやすい少年」も「学級崩壊」も「援助交際」も、多くのマスコミや「識者」が「現在」になって急に問題が深刻化したと考えているかもしれないが、「理想」として捉えられていたはずの戦前の教育、及び子供たち、若年層に当てはめられることによって、このようなマスコミや「識者」たちはどのように反応するのだろう。

 もしかしたら彼らは、あらゆる手を使って、戦前の少年犯罪はよい少年犯罪、現在の少年犯罪は悪い少年犯罪と言いくるめるかもしれない。そのような光景を目にしたら、我々は彼らの底の浅さと、現在の子供たちに対して使われるラベリングの空しさを身にしみて感じることとなるであろう。現在の少年犯罪について、わけのわからないラベリングをまき散らして生き生きと語っている姿を、戦前の少年犯罪についても見てみたいものだ。

 従って本書は、少年犯罪、さらには子供たち、若年層について饒舌に語る人たちであれば、絶対に逃れることのできない書物なのである。本書は戦前の子供たちや若年層の荒廃ぶりを嘲笑するためにあるのではなく、むしろ現在の「識者」たちを嘲笑するためにあるのだと思う(我々が「識者」たちを嘲笑する一方で、自分たちも著者に嘲笑されているのかもしれないけど)。

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紙の本

この著者抜きにして若年雇用問題を語るなかれ!

19人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

《むしろある程度生産性の高い人は、例えば今まで8時間かかっていたものを4時間で作り上げてしまえば、あとの4時間は自分の別なことに使えるわけですよね。ある部分フレキシブルに、個人に自主性を持たせた働き方へのシフトが必要です》《この仕事でいいものを作りたい、そして、お客様に満足してもらいたい、自分でお客様から評価を得たいと思う人というのは、どんどん仕事をするわけですよ》(奥谷禮子の発言。風間直樹『雇用融解』東洋経済新報社、pp.222,223、2007年5月)
 このような財界の人間観を金科玉条とし、ここ10年の間に、労働市場、特に若年労働市場や末端の起業において、様々な雇用破壊が行なわれてきた。平成18年中頃に、朝日新聞が「偽装請負」(と、それを推進してきたキヤノン)に対する批判のキャンペーンを行なったり、あるいは主要な経済誌が「格差」問題、そして貧困の問題を採り上げるようになってから、例えば国会で枝野幸男が追及するなど、このような企業の挙動に対する批判は一気に高まった。
 本書は、そのような現在の状況の基礎を築いたものによる記録である。著者は平成15年頃より、編集部の批判や苦言を押し切って、毎日新聞社の経済誌「エコノミスト」の契約社員として、(本書のサブタイトルでもある)「娘・息子の悲惨な職場」という不定期のシリーズものの特集を執筆してきた(実際に初めて記事になったのは平成16年5月のことであった)。この書評の執筆現在、最新のものは第6回で、ついに少子化の問題にまで踏み込んでいる。
 本書が主として論じるのは、主として1990年代後半から、2000年代前半の、起業の新卒採用率が極めて低かった時期(つまり「就職氷河期」。超氷河期も含まれる)に新卒で正社員になることのできなかった人たちが、いかに苦しい生活を強いられているか、ということである。この時期を経て、今や労働者の3人に1人が非正規である。にもかかわらず、政財界のトップや、それに近いところに属する多くの「大人」たちは、彼らをさも自らに都合のよい存在としてのみ取り扱い、彼らにも彼らの生活があることには少しも耳を貸そうとしない――そればかりか、そんな彼らに対し、「大人」たちはお前たちの意欲が低いからだ、と罵声しか浴びせないことを、私は経験的に知っている。
 「雇用なき回復」の元に、いいように取り扱われる非正社員。自らの都合のために末端の社員を派遣やら請負やらと、その身分をころころ変える管理職。担保されない育児休暇後の復職。やっとの思いで正社員になれたと思ったら、その給料は派遣社員だった頃に比して下げられている――それでも正社員になりたいという皮肉。正社員のほうが「安定」しているからだ。また、氷河期脱出といえど、氷河期の内に大きく変貌した労働市場によって、増えたのは「新卒派遣」「紹介予定派遣」という名の不安定雇用。正社員への求人倍率は今でも1を割り込んでいるにすぎない。大学の就職課も立ち上がらざるを得ない状況である。
 本書を読んで、多くの人に対して人間らしい働き方を提示しない企業、さらには政治に対して、怒りを覚える人もいるだろうが、その怒りは、これまでこのような労働破壊に対して、青少年問題ということでむしろ若年層の側を批判してきたメディアにも向けられるべきだろう。著者は、そのようなメディア状況において、ほとんど独りで奮戦してきた。孤軍奮闘というものだ。本書の存在は、非正規で働く人や、彼らを支援するのみならず、非正社員、若年層、子供たちなどに対する不当なバッシングと闘っている人たちの励みにもなるだろう。

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紙の本

紙の本神は妄想である 宗教との決別

2007/10/02 10:35

宗教なんてなくても、人は生きていける

16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は怒りの書である。というよりも、著者は明らかに激怒している。神の名の下に、人間の尊厳を踏みにじり、科学を侮辱する、宗教という巨大なモンスターに。
 なるほど、我々は確かに――我が国においてはそれほど身近であるわけではないが――宗教なるものの悪徳を目の当たりにしている。宗教をめぐって人が殺され、あるいは幼い子供たちが偏狭な思想を植え付けられ、貧困が拡大し、疑似科学がまかり通る。特に著者の住んでいる米国においては、教育の分野においてすら、進化論を教えることは道徳を崩壊させる、と大きな声で主張されているのだ(そういえば一昨年の今頃、同様の主張が我が国でも見られましたね(産経新聞))。

 著者は科学者(動物行動学者)である故、まずは宗教がいかに科学を踏みにじってきたかを立証してみせる。曰く、創造主が存在する宇宙を想像することはできるか、と。我々が現在住んでいる地球、ないし宇宙は、もし創造主が存在していたら、まったく別なものになってしまっただろうし、またそのような考え方が、一部の人たちに対して偏った期待や不安を与えるかもしれない(例えば病者。著者はある病者に対して、その病気が治るように人々が祈ったグループとそうでないグループを比較した実験を提示している)。そもそも神を支持する論拠すら、既に崩壊している。有神論者はありとあらゆる方法を用いて、「これは科学や論理では説明できない、だから神はいるのだ!」と強弁したがるけれども、彼らはなぜ「神」以外のものに対して想像が及ばないのだろうか。

 科学的、あるいは論理的な反証だけでは終わらず、さらには著者は道徳にまで斬り込んでしまう。宗教を肯定するものは、西洋人は一神教的な秩序があるからこそ道徳的でいられるのだ、と主張するけれども、人々が道徳的であるためには宗教や神などいらないと筆者は反問する。また聖書の記述や(これが決して(現在の視点から見れば)道徳的とは言えない、ということは一部で指摘されてきた。もっとも、だからこそおもしろいという意見もあるが)、宗教による児童虐待の凄惨な現実を見せつけ、これでも宗教は必要か、と主張する。

 本書は過激である。著者の怒りにこれほど満ちあふれた本もそうそうなかろう(そういう風に豪語している本はいくらでも見られているけれども、その多くが所詮は非論理的な愚痴をぶつけているに過ぎない)。それ故、例えば一見「科学原理主義」的な主張に嫌悪感を覚える人もいるかもしれない。しかし、というよりも、だからこそ、本書は最後まで読まれて然るべきものだ。

 というのも、本書の最大の主張は、(少なくとも、一神教や有神論における)神や宗教を信じなくとも、我々は生きていける、ということである。そして我々には自然の神秘や伝統の大切さに、主体的に想像を張り巡らせることができるが、それに対しては神、宗教など不要なのだ。そして「神」は、超自然的なところに存在するのではなく、我々の身近にこそ――大自然や天体などの法則という形で――存在すると考えられるべきである(汎神論)。そして我々は、その「神」に(数学や科学などの形で)触れることができる!著者はそれに対するあこがれを(「神」という表現は用いていないが)最後に表明している。

 我々には想像する余地があるのだ。それを推し進めるためには、もう一神教、有神論など不要である、ということこそ、本書の最も大きなメッセージである。

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紙の本

紙の本これが憲法だ!

2006/12/04 12:17

これが護憲だ!

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いやあ、朝日新書の編集部も粋なことをやってくれるもんだ。『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)や、『憲法とは何か』(岩波新書)などで、通俗的な護憲論たる9条フェティシズム的(本書では「憲法典フェティシズム」と表現されているが)護憲論ではない、論理的、戦略的な視点から現憲法の意義を問い直してきた注目の憲法学者・長谷部恭男氏に、こちらもリベラル陣営における気鋭の政治学者・杉田敦氏をぶつけてくるとは!これがおもしろくないはずがないじゃないか!そして本当に興味深い本に仕上がっている。
 本書の構成を大雑把に述べるとすれば、これまで長谷部氏が述べてきた憲法論に対して、杉田氏が通俗的な左派言説への対応も含めて政治学者として問いただしたいことを次々とぶつけていく、という形式と呼ぶべきだろうか。長谷部氏がなぜ「立憲主義」を議論の中心に添えるのか、9条護憲と立憲主義は両立するか、憲法9条は本当に自己規定のための条項なのか、「新しい人権」は本当に必要か、そして今までの憲法学のどこが問題なのか…。
 本書の底流に流れているのは、憲法に、そして憲法学に対する根本的な懐疑である。懐疑といっても、それは決して現憲法は時代にそぐわないから変えるべきだ、というものではなく、現憲法の理念は本当に政党なのか、どこに問題点があるのか、ということを真摯に見るという態度である。
 そのような視点に立脚しているわけだから、凡百の護憲論議とは一線を画した議論が為されている。まず本書においては、護憲派における従来型の憲法解釈がいきなり批判される。立憲主義を、《憲法に則って国家の統治活動が行なわれる》ことではなく、《価値観、世界観の多元性を前提にした上で、その間の公平な共存をはかる》(以上、12ページ)と捉え直すことにより、様々な議論が再構築される。例えば自衛隊に関しては、従来の解釈においては、常備軍を持たないという規定に反している、故に違憲、とされる。しかし本書においては、9条は「準則」ではなく「原理」として読まれるべきで、国民の安全を守るために規模と行動範囲を規定した最小限の常備軍(自衛隊!)は容認される、と解釈されている。また、改憲派の中には、環境権などの「新しい人権」も明記すべきだ、と主張する人がいるが、それらに関しては既に私法として確立されている。杉田氏も杉田氏で、セキュリティや民主主義の「劣化」に関することなどといった現代の政治を考える上で重要ではないかと思われる論点を次々と長谷部氏にぶつけていく。
 そして本書では挑発的ではあるが傾聴に値する議論も頻出する。例えば戦後の憲法論議は護憲派も改憲派も個人による防衛を無視してきた、あらゆる憲法は「押しつけ憲法」になりうる可能性を持っている、などというものだ。もちろんそのような結論に至るまでの議論も、ただ出任せに言っているのではなく、しっかりと論理立てて構築されている。
 憲法や憲法学を徹底的に疑うことによって、最終的には憲法に対する信頼を得る。そのような作業が行なわれているのが、まさしく本書である。改憲派が我が国がいかに堕落したかということを(ほとんど俗論でもって)嘆いた上での議論とは格が違うし、それこそ憲法典フェティシズムと俗流若者論でもって(そういえば、マガジン9条『みんなの9条』(集英社新書)なんて本も出ましたね)改憲派に対抗しようとしている自称護憲派の議論とも一線を画している。これこそが護憲の真骨頂である、と十分に薦められる本であり、改憲派が読んでも得られるものは多いはずだ。
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紙の本

戦争国家の背中は暴力を語る

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「親父の背中」とか「男は背中で語るものだ」という表現があるけれども、その表現に倣うとすれば、アメリカの背中はまさしく「権力」と「暴力」を語っている。暴力論や権力論に関しては、理論面から考察した様々な名著があるけれども、アメリカという国の成り立ちを描きつつ権力と暴力の深層まで語った本書は、まさに権力や「愛国心」を語る上で欠かせない本に仕上がっていると言えるだろう。
 私としては、本書の第2章「「暴力の特異国」への道」は、騙されたと思って読んで欲しいと思っている。私の読んだ限りでは、この部分こそが本書の根幹であり、そして米国の根幹でもある。
 米国にとっては、その独立を決めた独立戦争自体が、常備軍ではなく民兵によって担われていた。暴力は最初から一般市民のものにあった。元々米国自体が英国の集権的体制に反発して建国されたものであったため、中央政府は小規模な軍事力しか持たず、他方ではものすごい勢いで開拓が進んだため、僻地においては治安維持のために自警団が結成されるようになった。そして憲法はそれを容認するために改正された。それと中世的騎士道精神による決闘の精神の輸入と相まって、民間に武器や暴力による紛争解決が普及する運びとなる。
 また、自警団による私刑(リンチ)は、当初は裁判所に代わって犯罪者を裁く、というものであったが、次第に処刑を伴うようになる。そして犠牲者の主体が白人から黒人に変わる。これは、南北戦争に伴う奴隷解放により、黒人の社会的地位の向上に伴う白人の不安の増大が原因である。悪名高きKKKもこの流れで生まれている。また、フロンティアの時代が終了すると、黒人へのリンチは減少したが、その代わりにマフィアに代表される巨大な地下組織ができるようになった。それを取り締まるためにFBIが結成されるが、これはマフィアの組織解明に手間取ったばかりではなく、一人の人物による私物化が起こっていた。それを象徴するのが、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺である。この暗殺事件に対して、国家機関であるFBIによるリンチの疑惑が浮かんだのだ。
 軍事的超大国としての米国を見ることに関しても、この流れを無視することはできない。それは冷戦体制と共に幕を開ける。個人的に興味深いのは大学と軍隊の関係の部分で、大学から軍人を排出することでシビリアン・コントロールが保たれる、ということがインセンティヴとなっていたり、アカデミズムが軍隊に近寄ることによって軍隊の社会的地位が上がったり、という指摘は、とてもおもしろかった。
 第2章の概要を書くと、大体このような感じになる。もちろん本書において、第2章以外の部分も見逃すこともできないだろう。しかし、米国がなぜ、そしていかにして軍事的超大国と化したか、さらには国家とは、統治とは、暴力とはなにか、ということに関しては、権力や「愛国心」を語る上で絶対に避けることができないもの大のはずである。そのことを理解していない人が、特に「愛国心」の押しつけに反対している「はずの」勢力に多すぎる。私が第2章にこだわる理由はここにある。
 治安の悪化が虚構といっても差し支えないにもかかわらず(この点に関しては、浜井浩一『犯罪統計入門』日本評論社、久保大『治安はほんとうに悪化しているのか』公人社、などを参照されたし)、我が国は米国流の監視社会の道をたどっているように見える。そういう現実に対処する目的でこそ、本書は読まれるべきだ。そして、形骸化して「戦後民主原理主義」と化した左翼勢力にも言っておく。左翼よ、暴力と統治を語れ。
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紙の本

「希望」としての若年無業者問題

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 玄田有史氏や小杉礼子氏が、英国における若年層雇用問題の言葉として「ニート」(=Not in Education、 Employment or Training)という言葉を紹介したところ、すぐさまこの言葉が現代の若年層の堕落を象徴する言葉の仲間入りをしてしまい、若年犯罪でも「ニートの犯罪」という「フィギュア萌え族」並みの杜撰なプロファイリングが横行するようになってしまった。これはもちろん玄田氏や小杉氏の責任ではないけれども、我が国の青少年問題言説は、それらの問題をおしなべて彼らの「心」の問題として処理し、彼らを反面教師とした施策や言説ばかりが横行するばかりになる、という傾向には、いい加減歯止めをかけることはできないものか。
 彼らは、本当に現実の問題に対して対処しようとする気概を持っているのだろうか。彼らにとって青少年は「人間」ではなく「商品」、すなわち消費される存在である。青少年を「商品」として消費することによって、自分の欲望を満たす存在であり、彼らにとって都合の悪い言葉を使うならば、青少年は彼らの「自己実現」のための道具に過ぎないのである。このような言説の横行が、ひいては教育での、さらには社会全体での(誤った方向の)監視を生み出すということは、教育基本法の改正やメディア規制を引くまででもないだろう。
 前置きが長くなってしまったが、本書は、そのような言論状況のアンチテーゼとして書かれている。著者・二神能基氏は、塾経営で35歳で大財を成した後、50歳までニート生活(!)を過ごし、若年層の自立支援の為にNPO法人を立ち上げ、以来10年以上にわたって、そして現在もそのような活動を続けている。
 読者の皆様も周知の通り、バブル崩壊後の長期停滞期に入って、会社に入っても昨今の企業的なリストラの影響などで出世して財を成すことが困難になり、さらには採用も少なくなって特に低所得層はフリーターや若年無業者にならざるを得ない状況になってしまっている。また、二神氏は、若年無業者として生きている青少年は、「自立しなければならない」という、あるいは「好きなことをやれ」と親が言うのにそれが見つからないというプレッシャーに圧されて、不安の悪循環が起こっていることを指摘している。それなのに彼らを精神的に「劣った者」として見なし、安易な言説ばかり蔓延させている自称「識者」の無責任ぶりは一体なんなのか。
 本書が立て続けに出版される類書や雑誌などの記事に比べて抜きん出ている理由は、若年無業者問題を「希望」として捉えようとする二神氏の態度にある。少なくとも財を成すことよりも「仕事のやりがい」が優先される価値観を持った世代の登場ということは、勤労というものの本質がようやく理解される社会の到来につながる。そのような社会の到来を希望として捉えることこそ、若年無業者の問題の真の解決へとつながるのかもしれない。
 もう一つ本書を読んで思ったことがある。それは、本当の人間愛を持った人は、例えば「たましい」みたいな意味不明のロジックに依拠しなくても、肉声で人間愛を語ることができる、ということだ。これもまた、効率よりも問題の根本的な解決に重点を置く二神氏の態度が反映されているのかもしれない。あとは、二神氏のような実践者の暖かくて柔らかな手と、安易な感情論を許さない学者の冷徹な目がいかにして結合されるか、ということを期待したい。
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紙の本

「危険・不安」より「安心・希望」を

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今はもう打ち切られた「発掘!あるある大辞典」であるが、その番組における捏造を糾弾する一方で、他方では「ゲームが子供の脳を壊し、少年犯罪を急増させている!」だの「伝統食が軽視されたせいで子供の学力が崩壊した!」などという俗論を述べている番組があったら、どうするか。少なくとも私は、そんな番組など金輪際信用しない。もとより後者のみでも信用する気は失せるのだが、それに前者が加わったら、余計に信頼感を放棄してしまうだろう。

 怪しげな健康情報による被害を最も多く受けるのは、何よりその情報を信じた視聴者や読者であるのは間違いないだろう。多くの人たちは、自らの健康や、子供の教育に対する不安を常に扇動され、それを検証する暇もなくまた次の「解決策」が提示され、さらに扇動される。こうした人たちを愚民とののしり、あるいはコミュニケーションの変容を嘆くのは最も簡単なやり方である。しかしそれではいつまで経っても解決しない。真に解決の方策を考えるのであれば、多くの人が科学的な見識をベースにしたリスクコミュニケーションの必要性を自覚する必要がある。本書はまさしくそのための最適な教科書として働くはずだ。

 巷では「危険な食品」に関する扇情的な情報や、あるいはその単なる裏返しでしかない、「これを食べれば必ずいい効果が出る!」という情報が溢れている。また、特に前者に関して言えば、食をめぐるスキャンダルが大々的に報じられ、国はさもそのようなものに対して無策であるかのように論じられる。酷い話になると、食品添加物の全てがさも毒であるかのように論じられることもある。だが、少なくとも食の安全(発ガン性の物質の量、農薬の濃度、添加物の使用など)については、我が国はかなり厳格な基準を採用している。

 教育再生(笑)の「解決策」として喧伝される「食育」もまた、不安を扇動することによって利権を得るような行為の一種かもしれない。然るにそれもまたその科学的根拠が極めて怪しいことが、本書ではわかる。例えば、戦前の日本人の栄養の摂取はかなり貧しく、特に野菜は(農村部ですら!)極めて不足していた。それが戦後になって、栄養や食生活の改善指導が行なわれたことによって、我が国は世界に誇る長寿国となった。それを無視して、「食育」なるものの推進者は、「戦後の栄養学が子供を壊した」などといったことを平気で述べる(例として、幕内秀夫『勉強以前の「頭の良い子ども」をつくる基本食』講談社、など)。「科学よりも実感が大事」という思考は、まさにニセ科学の温床であり、それは本書でも指摘されている。

 根拠もなく徒に不安をあおり立てるような言説に対し、様々なデータや研究を示すことによって、その不安を少しでも小さくしようとする試みこそが、我が国においては求められている。大きなメディアのほとんど全てが、人々の不安を扇動することに血道を挙げているような状況(少し悪く言い過ぎたか?)においては、なおさらだ。

 少なくとも我々が(常識の範囲内で)日常食べるものについては、それを食べれば直ちに毒、というものはない(逆に、直ちに薬になるようなものもない)。それを自覚することこそが、食についての適切なリスクコミュニケーションの第一歩であるし、リスク社会において希望を持つための手段でもある。また、そのような認識は、悪影響論がいまだにやかましいあらゆるもの(ゲーム、インターネットなど)にも共通するものだ。

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紙の本

紙の本キメラ 満洲国の肖像 増補版

2005/01/21 19:04

建国のロマンと挫折

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 他国、あるいはその一部を侵略して新たな国家を捏造する、ということには一種のロマンが付きまとうものらしい。もちろんこういう言い方は、被侵略国にとっては迷惑千万でしかないのだが、侵略国の視点からすれば、他国を侵略することによってそこを「独立国」と装いながらも、事実上の傀儡国家として、自らの理想をその「国家」に委託して全うさせようとする、という欲望はありうることだろう。
 さて、敗戦後60年は、満洲国崩壊後60年でもある。また、再来年は、満洲国誕生75年を迎えるわけだが、1932年に中国東北部に突然生まれ、そして唐突に消えた「満洲国」は、いかなる論理で持って建国され、いかなる現実に直面し、そしていかにして消えたか。そして満洲国は、その崩壊後はわが国を含むアジア諸国にいかなる影を落としているか。本書は、それを克明に追った記録である。
 戦時日本の中心人物、なかんずく板垣征四郎や石原莞爾が満洲国の建国理念として唱えていたのが「日本の活くる唯一の途」「在満蒙各民族の楽土たらしむ」「世界政治の規範となさんとす」であった(これは本書の第1〜3章のタイトルでもある)。また、特に石原莞爾においては、世界はまもなく最終戦争を迎えるだろうという認識があり(最終戦争論)、その発端となるのが日米の衝突で、米国と戦ってわが国が生き抜くために満洲国の占領を何よりも優先すべきである、と石原は考えていた。
 建国後の満洲国は、当初は中国式の法制度を手本としていた。しかし、後に制定された満洲国の憲法(満洲帝国組織法)は、わが国の明治憲法の法制度に極めて酷似したものとなってしまった。板垣や石原などが建国理念として唱えていた「王道」国家とは極めてかけ離れた姿になってしまった、いわば「王道」が「皇道」となったのである。満洲国の皇帝として招かれた中国人も、満蒙の民族から厳しい非難にあい、さらには自らが望んだ日本における天皇と同等の地位もついには得られなかった。反満洲国運動は激化し、満洲に移住してくる日本人は反満洲運動と満洲の気候に次々と倒れていった。満洲国には「国民」が存在しなかったのである。
 こうして満洲国は崩壊した。しかし、満洲国の失敗が、アジア諸国、とりわけ中国と朝鮮半島にもたらした影響は否定できない。例えば、戦後の中国や韓国を主導した人物の中には、満洲出身のものも少ないながらも存在するし、岸信介氏や大平正芳氏、福田赳夫氏なども戦時中に中国や満洲国の体験があり、それが戦後のある時期までの対アジア外交に少なからず影響を及ぼしている。北朝鮮という、抗日パルチザン運動をその存続の正当性とする国家もあり、これも満洲国とは無関係ではないだろう。
 翻って現在。米国のジョージ・W・ブッシュが、ある「崇高な理念」(この「理念」については我々は何度も聞かされているから、今更表記するまでもないだろう)に基づいて、イラクを占領し、「民主的な」イラクをつくろうと鼻息を荒げている。本書を読んで、石原莞爾にとっての満洲国はブッシュにとってのイラクではないか、と思ってしまった。占領政策の失敗からテロや外国人の人質事件が頻発する現在、ブッシュの目にはいかなる風景が映っているのだろうか。そしてブッシュは、どのようなロマンを抱いて、イラク戦争を遂行したのか。本書を閉じて、それを考えずにはいられなくなった、敗戦後60年目の冬であった。

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紙の本

真の意味での警世の書

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 世に「警世の書」を謳う書物は多々あれど、その多くが自分の思いこみや若年層に対する愚痴を天下国家と結びつけたような本ばかりである。そのような状況下において、真に警世の書と言える書物がここにある。著者は元東京都職員、それも平成15年から17年にかけて、前田雅英や竹花豊の下で東京都の治安対策に、しかも知事本局治安対策担当部長として深く関わった。その著者が、本のタイトルにもあるとおり「治安は本当に悪化しているのか」ということを、自分が都職員として行なってきたことに対する反省と懺悔として書いている。
 治安が悪化している、と多くの人が言う。そしてそこで必ず語られるのが、少年と外国人による犯罪の「急増」である。曰く、自分が子供の頃には起こらなかったような事件が少年たちによって為されるようになってしまった、あるいは、外国人集団が日本で犯罪を起こしている、と。本書はそれに関して疑問を投げかける。確かにここ数年で犯罪の「認知件数」は急増した。なぜか。犯罪そのものが増えたからではない。警察の方針が転換したからだ。凶悪犯罪は増加したが、それは強盗の件数の増加であり、その原因は強盗に関する取り扱いの変化である。また昔も今も、我が国においては、多くの凶悪殺人は身内の間で行なわれている。
 少年による凶悪犯罪も決して急増していない。また昔ではありえなかった事件が増えたわけでもない。さらには、昭和41年に為された少年犯罪に対する法務省の解説は、現在とほとんど違うところは見られない。また、外国人における不法滞在者が特に犯罪の温床になっているというわけでもない。これらの点に関しては、既に多くの論者によって語られてきたことである(例えば、浜井浩一『犯罪統計入門』日本評論社、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』岩波書店など)。しかしながら、本書は、さらに深いところに不込み、我が国の社会に蔓延する、ある「気分」について解説している。
 それは、社会心理学で言うところの「モラル・パニック」と呼ばれる現象である。我が国において、「治安の悪化」は、直接の犯罪被害に関する体験よりも、マスコミの報道や、地域の防犯活動、噂話によって認識されることも本書で明らかにされている。そしてその現象を見事に表しているのが、治安そのものではなく「体感治安」の悪化、という物言いである。
 本書最終章においては「治安の悪化」言説が我が国に落としている陰について述べられている。しかしながらそれよりも私が重要だと思うのは、むしろ冒頭における「治安」と「防犯」の違いに隠れていると思う。基本的に「防犯」は、個人的に行なうことも含めて、犯罪が起こることを防ぐ行為であるが、「治安」とは社会秩序の維持という側面が含まれる。そして、近年においては、「防犯」から「治安」へと言葉の置き換えが起こっている。そしてその「治安」の改善のためにターゲットにされるのが、少年であり、また外国人である。特に少年に関しては、近年になって「問題のある」青少年を指すようなカテゴライズが大量発生し、それに対する「教育」への欲望が高まっている。教育基本法の「改正」もこの流れに属するかもしれない。
 我々は何におびえているのか。そして我々は誰を排除しようとしているのか。その不安を正しく見ることこそが重要なのであり、特定のカテゴリーに属する人たちに対する徒な批判言説はますます不安を増大させる。そのことを的確に衝いた、真の警世の書こそ、本書である。
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安易な共同体主義からの訣別

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 所謂「いじめ」が一つの教育問題としてカウントされるようになって久しい。実を言うと私も「いじめ」の体験者であるのだが(いじめられるほうとして)、その当時は私がいくら嫌だといっても、それは単なる「遊び」だとか言った「いいわけ」で何事もなかったかのごとく処理されていた。今思えば、私は当時「いじめてもいい対象」として扱われていたのだろう。
 本書は保守派も進歩派も見落としている「いじめ」論の欠落を埋める、社会学の立場からの論考である。従来の「いじめ」論は、保守派が青少年における規範意識の後退と捉えるのだが、進歩派もまた「あなたと私がつながっている」という実感、端的に言えば「絆」をベースにした安易な共同体主義に走っている。そのような言説空間における空白を埋める本書の議論とは、「いじめ」の問題を現状の学校という制度が生み出す中間集団全体主義的共同体(《各人の人間関係が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向》(21ページ)による共同体)が引き起こす必然的問題として捉える。
 中間集団全体主義に関して、まず想起されるべきは大東亜戦争時の所謂「隣組」であろう。「隣組」においては、住民が地域コミュニティに対する献身を強要され、少しでもそのコミュニティの暗黙のルールに外れる人は直ちに排除の事例となった。その事例が本書14ページに引用されているが、この事例は、中間集団全体主義的共同体への帰属が共同体のルールに寄り添った形での自意識の肥大化を生み出し、その共同体の中で小さな権力者として振舞うことを正当付ける。それと同じようなことが学校で起きている事態が、まさに「いじめ」である、というのである。
 現代の我が国における学校という制度は、特に小学校においては、学級という単位で輪切りにされた数十人の子供たちを一つの教室の中で常に同じ行動を強制させ、学級に対する献身を子供たちに求めることによって、「隣組」と同様の中間集団全体主義的な状況が形成されていく。子供たちにおける自意識の肥大化も、これで説明できるという。
 規範意識の後退、安易な共同体主義、子育て絶対主義、メディア悪影響論などの過度にパターン化された従来の「いじめ」論の如き言説は、「子供たちの価値観を尊重する」という大義名分の下に市民社会の良識を踏みにじったり、あるいは秩序を唯一のものとして捉えたがる傾向があるが、「いじめ」の問題を社会秩序や社会生態の問題として捉えなおすことによって、新たな「いじめ」論が構築されていく。本書は学校という制度全体、更には社会制度論にまで大胆に踏み込んでいるため、本書はかなり過激で挑発的な本である。まず第1章では国家による全体主義に対して中間集団の自治や共同がそれに対する防衛線になる、という思想が破壊される。更に「いじめ」を根本的に解消するための学校制度の構築に関しては、チケット給付による義務教育・権利教育による教育の自由度の爆発的増大や、それどころか多元的共同体主義の必要性にまで話は及ぶ。ここまで来ると、もはや著者に残されているのはアナーキズム、あるいは流動性の礼賛くらいしかないのではないか、という疑念が浮かんでくることもなくはないが、おそらく著者はそのようなことは百も承知で書いているのではないかと思われる。
 本書に対して共同体主義者はいかに反論するか。とりあえず従来の議論の安易な焼き直しでしかない安易な共同体主義は本書で完全に論破されているから、相当に高い議論を構築しなければ勝ち目はないかもしれない。
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紙の本子どもが減って何が悪いか!

2005/07/26 01:42

少子化を「イデオロギー」にするな

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 松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式』(日本経済新聞社)を書評したときにも書いたが、少子化を巡る言説の周辺には俗流若者論がはびこる。ただ、俗流若者論でなくても、根拠不明瞭な、あるいは「子供」や「家族」を過度にイデオロギー化した「理論」もまたはびこっている。
 本書の前半において俎上に上げられている、「少子化を防ぐためには女性の社会進出を進めることが必要だ」というのは、その典型であろう。我が国においては、若い女性が子供を「産みたがらない」のは、「産みたくても産めない」という経済状況(たとえば育児における経済的リスクが大きすぎること)があり、それを改善しなければならない、というのである。この「理論」の厄介なところは、展開する人がさまざまなデータや実例を引き出して、それがさも定式化された理論であるかのように振りまかれるところだ(ちなみに一昔前までは、女性の社会進出は少子化を促進する、と言われていた)。
 著者はこの「理論」に正面から挑む。例えば冒頭においては、女性の労働力率を上げると出生率は上がる、というデータに対して、それが極めて恣意的に選ばれたものであることを指摘する。それ以外にも、少子化と男女共同参画・子育て支援を強引に結びつける理論を、さまざまな反証を用いて論駁している。この点から言えば、本書は谷岡一郎『「社会調査」のウソ』(文春新書)の「実践編」
といえる。
 さて、男女共同参画の推進や、政府による子育て支援は出生率を上げることはない、と実証されたが、では男女共同参画政策や国家による子育て支援は不必要なのだろうか。著者の答えは「否」である。男女共同参画政策の、本来よって立つ理論は、選択の自由の保証であり、子育て支援を正当化する理論は、子供の人権である。本来ならそうあるべきなのだが、なまじ少子化悲観論と結び付けられることによって、それらが別の政策的意義を持ってしまう。著者は、少子化対策としての男女共同参画政策群を、「子供を産む」自由、「子育てと仕事を両立する」自由のみを優遇するものであるとして批判する。
 本書136ページに以下のような記述がある。曰く、《「産む自由」だけを支援する子育て支援や、両立ライフのみを支援する男女共同参画政策は、「産めよ殖やせよ」とさほど距離は遠くない》と。その通りである。本書でも触れているし、斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)にはもっと詳しい記述があるのだが、戦時中の「産めよ増やせよ」政策も、仕事と育児を両立する女性を賞賛した。少子化悲観論によって、「女性の解放」を謳うフェミニズムは、期せずして権力と結びついてしまったのである。
 ここ数年で急速に進行したのは、「子供」と「家族」のイデオロギー化である。「子供」をバブル崩壊後の「鬼胎」として取り扱い、その「対策」には「内面」の統制(=「心の教育」!)が必要だ、とする理論や、バブル崩壊後の歪んだ「家族」が青少年による「犯罪」「問題行動」の原因とされ、少子化がそれを加速する、というのも珍しくはなくなった。だが、著者もあとがきで述べている通り、本来子供は《親や周囲の人に愛されるために産まれてくる》ものである。少子化を巡るトンデモ言説の批判として書かれた本書は、現在の我が国における「家族論」「若者論」の歪んだあり方を映し出している。
少子化を徒に危険視しないこと。新しい時代への社会の設計は、そこから始まる。
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正統にして異端の教育社会学入門

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 教育学の専門家ではなく、単なるマニアでしかない私がこういうことを言うのもなんだが、本書はかなり優れた教育社会学の入門書だ。少なくとも著者名だけ見れば、いかにもオタク系統、あるいは「萌え」系統の本と思う方もいるかもしれないが、本書は、片足を教育学の専門知に(とはいえ、この著者たちも教育学の専門家ではないが)、もう片方を著者らの不登校及び「ひきこもり」体験に据えて、かなり骨太の教育論を語っている。

 本書で語られるのは、近代的な「学校」システムの終焉と、そのシステムから逸脱したものに対して溢れんばかりの非難を浴びせかける我が国の「世間」への挑戦である。まず、多くの人が誤解していることだが、我が国の子供たちには「教育を受ける」権利はあるが義務はない。義務として存在するのは、親が自らの子供に教育を受けさせる義務である。さらに言えば、そもそも我が国における「学校」というシステムが、我が国の経済システム(これも決して伝統的といえるほど長い歴史を持っているわけではない!)や、国家が理想とする「国民」を養成するためのものとして続いてきた歴史も、決して長くはないのだ。不登校者、さらに言えば「ひきこもり」や「ニート」の人たちに対する倒錯したバッシングは、何よりもこの点を多くの人たち(特にマスコミ)がはき違えている点にある。

 第1章においては「学校は現代の教会である」という宣言の元、学校をめぐる様々な「幻想」を、教育史や種々の教育社会学的な言説の援用によって相対化される。さらに第2章では、種々の経済統計によってもはや我が国の「学校」が子供たちに要求するものが通用しないことを暗に傍証すると共に、現代の我が国における「停滞ムード」を吹き飛ばすためによく用いられる「伝統」回帰の危うさを批判する。前半は、実に真っ当な教育社会学の立場の表明である。

 後半のあたりから著者たちの個人的な体験が前面に出てくるようになるが、その使い方は、決して議論の「ためにする」ために引用しているのではなく、議論をわかりやすくするための一つの事例として引用される。とはいえ、本書の第3章や第4章における記述(特に後者)は、読み方によっては著者の妄想の産物として敬遠されるかもしれない。また第3章での社会の流動化に対する期待が強すぎる、規制緩和の恐ろしさをわかっていない、と憤る人もいるかもしれない。然るに、著者らが指摘している、既存の学校や会社のシステムから逸脱するような人を人間として失格であるかの如く追い詰めるような制度は、別に多様性など持ち出さなくとも批判されるべきではある。

 そういう点では後半の2つの章は「異端」と言うことができるかもしれない。然るにそのような議論も、本書を単なる近代の学校の終焉を吹聴してまわる本に堕させないためには、やはり必要というべきである。本書の目的は(少なくとも帯によれば)既存のシステムの中で生きられない人たちに対して「新しい生き方」を呼びかけるものであるからだ。その試みは必ずしも成功しているとは言えないけれども、少なくともどこかのマスコミ御用達の学者や派遣会社の社長、人材コンサルあたりのご託宣などよりはよほど説得力がある。

 本書は、教育社会学的な見方を知りたい人や、あるいは既存のシステムに反抗したい人まで、多くの人の関心をカバーしうるだろう。またあなたが前者であれば前半を、後者であれば後半を重点的に読むといい。またさらに本書の議論を深めたい人には、本田由紀、平沢和司(編)『リーディングス 日本の教育と社会・2 学歴社会・受験競争』、伊藤茂樹(編)『リーディングス 日本の教育と社会・8 いじめ・不登校』(以上、日本図書センター)や、柳治男『〈学級〉の歴史学』(講談社選書メチエ)をおすすめする。

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心理学主義という妖怪が徘徊している

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 カール・マルクスは、著書『共産党宣言』の中で、「ヨーロッパを資本主義という妖怪が徘徊している」といった趣旨のことを書いていた。このマルクスの発言に倣うのであれば、現代では、心理学主義という妖怪が徘徊している、と言えるかもしれない。
 本書は、我が国における心理学主義の広がりを社会学の視点から批判的に考察した本である。最近の我が国において、心理学主義的な言説がはびこり、よく見られる人間関係論や少年犯罪に関する「解説」はもちろん、学生の就職活動、子育て、教育、自己啓発に至るまで、心理学の「知見」が「引用」され、心理学的知識を身につけることによって自らを律することが求められるようになっており、また世の中にはそれに呼応する如く(あるいはこちらが先か?)「現代人の自己コントロール能力が低下している」「現代人は「心」を失っている」といった言説が横行している。しかしこのような言説の横行を果たして楽観視していいのだろうか。
 著者は最初に「現代人の自己コントロール能力が低下している」という、主に少年犯罪や若年層の「問題行動」に関する言説によく見られる現代社会批判を、エミール・デュルケームの理論を引いて反証する。デュルケームは、道徳意識の高い「聖人」ばかりで構成される「僧院」のような社会では、反道徳的な行為は起こりえないといえばそうではなく、むしろそのような社会においては、わずかな意識からの逸脱でも社会はそれに対して極めて敏感になり、厳しく糾弾されるようになると述べたが、著者によれば現代はまさにそのような社会になってしまっている、という。
 そのような事態をもたらしたのが、冒頭で採り上げた、心理学主義的言説であり、そのような言説の横行及び人々の「内面」への強い興味関心が、人々へ高度な自己コントロールを強要し、また他者に対しても相手の「人格」を侵害しないようにせよ、ということを要求する。このような社会において、最大の権威は相手の「人格」であり、それを侵害することは最大の不敬として映る。そして自らもそのような人格崇拝の対象としての自分を意識するようになり、自分の「内面」への侵害は攻撃の対象となる(ただし、この証左として著者が出している、所謂「キレる」ことの説明は、あまり妥当性を持っていないように思える)。
 このような「自己コントロールの高度化」「人格崇拝の絶対化」にとどまらず、更に後の部分では、この本が出たときに社会学の重要なパラダイムになっていた「マクドナルド化」(端的に言えば自助マニュアルによる社会の合理化)が個人に浸透する自体や、雇用の流動化と自己コントロール要求の強化、更には「社会は存在しないのか」という命題にまで踏み込む。書き手のただならぬ力量を感じさせる。
 本書が刊行されたのは平成12年2月である。それ以降、本書の危機感が共有されるようになったかというと、同年5月に起こった所謂「17歳の犯罪」が背景なのか、本書における危機感を更に増幅させる方向に動いている。それどころか心理学主義に限らず、「片づけができない女は脳に障害がある」「「今時の若者」は脳が異常である」という擬似脳科学による言説まで出てきている。それゆえ本書の危機感は、刊行から5年以上経過した現在でも全く薄れることはない。騙されたと思って読んで欲しい。本書を読んだら、あなたの心理学主義言説を見る目は必ず変わる。
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「有害」排除の先に見えてくるもの

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20世紀の終わり、米国では、特に性的な情報に関して、「青少年に有害」という根拠から、さまざまな規制が敷かれた。学校教育の現場においては「純潔」さらには「禁欲」の名の下に性教育が一切禁じられ、少しでも性教育をしようものならすぐさま「禁欲」教育を支持する保守派に糾弾される。また、メディアは小児性愛者に異常なまでに「犯罪者」だとか「犯罪的」だとかいうレッテルを貼り付け、その実態とは異なる危険なイメージを煽った。
米国における多くの親たちが、青少年の性行為に対して尋常ならぬ危機感を抱いていたのである。青少年の性行為は危険な者であると広く認識され、少しでも子供に「性的な」兆候が見られると、それは直接に性犯罪につながる、と指摘されるようになり、児童ポルノ規制を含む、子供の「性的な」兆候を現れさせないためにさまざまな規制の網が掛けられた。さらに、本来であればちょっと性的に逸脱した行為、とみなされるものであっても重大な性犯罪と裁かれてしまうことも生じてしまった。子供が「欲望」を抱く、ということは禁忌とされ、性行為に対する危険度や罪悪感ばかりが、子供に叩き込まれる。米国の「禁欲」体制は、保守派からフェミニストまで、かなり広範の支持を受けていた。ちなみに米国においては、1970年代までは性行為に関しては比較的寛容であったし、性教育の必要性も広く理解されていた。
このような、子供に対する過激な「禁欲」体制は、青少年における「性」の問題を解決するどころか、さらに悪化させた。例えば、性的交渉に対する知識がないばかりに、10代における性病の感染率は増加し、無防備な性交渉が横行するようになった。また、「禁欲」主義者が夢想したのとは反対に、「性的な」情報に接したから、あるいは「性的な」妄想を抱いたからといって、性犯罪が激増したわけではなかった。「禁欲」体制がことごとく整合性を欠いているものであることを、本書は告発している。
本書は、「青少年に有害」という大義の下に青少年の「性」をタブー視し、そしてそれが青少年問題に対する無理解(それは短絡的な「理解」である)を加速させる米国社会の実態を描いている。しかし、このような状況は、米国に限らず、我が国にも見出すことができるのではないか。
近年、我が国においても性教育への批判が起こっており、一部の保守派はその糾弾にいそしむばかりである。その裏で10代の性に関する問題が深刻化しているにもかかわらず、だ。また、「右」から「左」まで多くの人が、児童ポルノを性犯罪や女性への人権侵害を誘発するものとして規制を求めることに賛同している。性に関わるものでなくとも、ゲーム、インターネット、携帯電話などが青少年の内面(すなわち「心」)を破壊するといった言説がまことしやかに流通している。
本書から、「有害」を徹底的に排除した先にあるものが見えてくるようだ。「有害」とタブー視し青少年から「隔離」することによって、本来なら得られるような人生経験や、本来なされるべき教育すらも受けられなくなってしまう。著者はラディカル・フェミニズムの立場を採っているため、本書の主張には一部賛同できないものあるけれども、青少年の内面を統制するための思索が張り巡らされた後に来る社会について危惧している人は必読である。本書で描かれる米国の事例は、決して他人事ではない。
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紙の本経済物理学の発見

2004/12/07 13:53

経済物理学とは何物か

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 世界経済は長期停滞の局面に入り、それと共に既存の経済学の理論が次々と否定されるという事態に至っている。例えば、新古典派経済学によれば規制を排除したり減税したりすれば経済が活性化する、とあるが、それに従って規制緩和や減税、及び情報伝達の高速化などを行っても、経済は回復するどころかむしろさらに混迷を極めるようになってしまった。
 こんな状況の中、今、一部の物理学者は、経済現象にフィールドを移しているという。世界中で、そしてわが国でそのような事態が発生して、およそ10年がたった。
 それが経済物理学である。
 とはいえ、経済物理学は、学問としてはまだ若い、むしろ生まれたてといってもいい分野である。しかし、この理論は、既存の経済学ではありえなかった手法を使い、また既存の経済学では説明できなかった現象を見事に説明できる。本書の著者・高安秀樹氏は、わが国における経済物理学のパイオニアである。
 経済物理学と普通の経済学(特に新古典派経済学)は何が違うか。まず、手法が違う。経済学は1日1個のデータを取り扱うが、経済物理学はなんと1日1万個のデータを取り扱う。また、このデータはおよそ7秒ごとに更新される。そんなデータが取り扱えるのか、と思われる向きもあるかもしれないが、物理学者は大量のデータを取り扱うのに慣れているし、コンピュータの使用によりさらにそれが容易になった、という。
 また、経済物理学は、物理学の理論を経済学に応用する。例えば、相転位現象(気体が液体に、液体が固体になるような現象)、くりこみ理論(小さなさまざまな現象をひっくるめて大きな目で見る理論)、カオス理論(小さな誤差が大きな変動を生む理論)などを応用して、目まぐるしく変わる経済状況を読み解く。
 その結果何がわかったか。例えば、1分刻みの為替レートの変動量の分布が、正規分布ではなく、べき分布になっていること。経済変動は、変動量が上位5パーセントの中に納まっている大変動だけを見ればわかること。人為的なインフレを起こせば、たちまちハイパー・インフレに陥ってしまうこと。そして、ディーラーは過去3分しか見ておらず、発表されてから10分以上経った情報はゴミに等しいこと…。
 無論、経済物理学は万能ではないことはわかっているとはいえ、本書を読んでいると経済物理学の織り成すスリリングな世界に引き込まれてしまう。それも、著者の学問に対する真摯さや、経済物理学の魅力を読者に伝えたいという情熱ゆえだろう。
 理系の学者が、自らの専門性に陶酔し、専門分野の理論を無理やりに社会現象(特に若年層の行動)に当てはめて、三種混同、なんだかわからないキメラを作ってしまうことも多いけれど(正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、なんてその典型)、例えば、金子勝、児玉龍彦『逆システム学』(岩波新書)のように、問題意識の強さと、異分野との真剣な対話が、理系と文系の横断を見事に実現させているという動きが徐々に広まっているという状況は実に華々しい。本書は、無論後者に属する。専門性の殻に閉じこもってきた学者が、異分野へのフロンティアを切り開くことによって、新世紀の科学の新しい魅力が広がっていく様を、私は応援したい。

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