紙の本
どうやら高村は福澤榮を戦後の本来的保守政治家を総合して割ったような抽象的政治人間として登場させたようだ。
2005/11/22 16:53
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
一つの個性が政治へ志向する動機はなにか。政治の舞台を経験し、力を獲ていく過程で彼が感得した政治というものがわれわれ一般の期待する政治とは異質ななにかであること。それなりの見識と国家観をそなえた良識の政治人間がいっぽうで出身地の繁栄の為に利益誘導をすすめる打算の政治人間である二重人格性。さらに一家の繁栄とその次世代への継承といういわば個体としての生存本能もまた政治家のエネルギーでもあるのだ。
「対立と調和と妥協の構図」が重畳的に組み立てられている。
日本国家に対して福澤栄という個体としての政治人間。国家と福澤一家(福澤王国)さらに国家と福澤の基盤である青森県という地方社会の構図がある。加えて福澤一家と榮、地方社会と榮とにある「対立と調和と妥協の構図」が思索的に哲学的に粘っこく描写されている。
個人個人の総和としての家族であり、地域社会であり、国家である。19世紀に絶対的価値観=神の支配から解放された人類は利害がいたるところで衝突する世界にいたったのだがこの総和としての文明の時間的経過を、国家の進歩をだれの手にゆだねるのか。
もうひとつには時間軸を加えた世代間にこの構図をとらえている。私には福澤榮の国家観、政治方法論であれば理解できる。しかし次に控える新世代の新たなニヒリトたちは国家には進むべき目的などはすでにない、政治があるとすれば現状の生産と消費の循環を数値化された効率の尺度でテクニカルに維持するところであるとする。榮と同様にこのエイリアンに異様と不快を感じる私は時代にとりのこされる側にたっているのだろうか。
そして政治とは対極にある仏家・彰之もまたおのれ個体の救済もままならぬまま総体の救済、衆生済度の道はやみにつつまれ、現世地獄の宿怨に悶えつつある。
能動的にこの不条理とかかわろうとするエネルギーの化身、生身の人間・福澤榮をここに放り込んで、高村薫の冷静は榮の口を通して55年体制の現実を、そして民主主義という観念宇宙の実相を語らせる。あふれるばかりの言葉を紡ぎに紡いで織りなした厚手のタペストリーをまえに私は圧倒された。これは紛れもない極上の文学である。
『マークスの山』で警察組織の内側から苦労人・合田はなにをみたか。『レディ・ジョーカー』で大企業の内側から誠実な経営陣にはなにがみえたか。そして良識の政治家・福澤榮がみたものは?
はじめに謎は提起されている。なぜ榮は最果ての津軽にきているのか。金庫番・英世の死はなんであったのか。読者は、はなからこの作品は非ミステリーだと思いこんでいるし、途中では政治ドラマに夢中になっているものだから、忘れかけていた謎がそれこそ怒濤の勢いで下巻の後半にいたり明らかにされる。
そうなのだ。この作品はたしかに『晴子情歌』の続編なのだが、そのまえに高村が生んだ傑作の間違いなくその延長線上にある極上のミステリーといっても差し支えあるまい。「知のラビリンス」と、ある種のミステリーを絶賛することがあるが、この作品にこそふさわしい。大型エンターテイナー、高村薫の復活である。
まだ言い残したことがある。
個人主義が台頭しつつある時代に取り残され、娘たちの裏切りから滅びゆくシェークスピア『リア王』のモチーフは見事に昇華されている。これを含めニーチェありドストエフスキーあり、禅宗があるように、いくつものテーマを重層的にあやどりつつラストには大きな流れを主張する。まさに「全体小説」としての完成品でもあるのだ。
小慈小悲もなき身の凡夫にして衆生利益を追い求めた二人の男のラスト。
「その水のような寄る辺なさに一瞬の寂寞を覚えたに過ぎなかった」
榮は彰之の影に語りかける。
「そして、ああ君が言おうとして言えなかったのはこれか。君もさびしいか」
これは日本人の心にして理解しうる無常観なのだろうか。
私もこの寂しさに胸がつぶれる思いを禁じ得なかった。
紙の本
長い一族の血の物語が終わった
2020/07/19 12:36
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
長い小説が終わった。榮と彰之の対話だけで進んでいたが、下巻の後半、第四章で初めて他の登場人物が出てくる。これで福澤の血の物語は終わるのだろうか。最後の方で合田が出てくる。次の「太陽を曳く馬」に続くのだろうが、それは、福澤の血の物語とはまた別の物語になるような気がするのだが。
投稿元:
レビューを見る
話の展開は何よりもおもしろいし、続きが気になって仕方がなかったんだけれど…読後感の悪さがなぁ…。最後の章で、自分の身内たちを説破していく部分がとても印象的。栄華を極めた王の手元に残ったのは、ソレだけだったのだろうなぁ…。
投稿元:
レビューを見る
仏教やお寺さんの話しも政治の話しも分かんないんだよ〜だから何なんだよ〜なんて思いながら読んでいたけれど、最後になってスコーンと目の前が晴れた。ああ、だから「新リア王」なのか、と。
投稿元:
レビューを見る
購入者:矢北(2007.5.14)返却:(2007.7.10) 購入から、はや2ヶ月
。やっと読めました!「生きること」への執念を捨てない主人公の姿は、考えさせられるものがありました。
が、長い上、「上」と比べてさらに読み難くなっているので、読むのはホント大変です。
返却;滝口(2007.10.27)
投稿元:
レビューを見る
なぜ彰之が今、破れ寺とも思えるような寂れた寺で在家をしているのか、栄がなぜ彰之を訪ねてきたのか、秘書の英世の身に何が起きたのか、物語が一気に加速する下巻。
投稿元:
レビューを見る
図書館で借りてよみました。
やはり未消化でした。リベンジ希望。
私にはとある登場人物がいじらしくてなりません。
表紙は上巻と同じくレンブラント、作品名は「瞑想する哲学者」
投稿元:
レビューを見る
ようやく読み終わった、というのが正直な感想。
1980年6月の王・福澤榮の絶頂期と子・彰之の静かな闘いがひたひた綴られた上巻は、長い前奏だったのか。
下巻は、1983年、1986年と続く。
下巻の白眉は、この1983年11月19日、榮の地元青森での政治資金パーティーである。
むつ小川原の原燃開発をめぐり錯綜する様々な欲望を引き合いに出して、榮は滔々と政治を語る。通産省と科学技術庁という二頭立ての馬車の上に原子力委員会という空虚な御者を乗せて、原子力という巨大な国策が動いて、地元を巻き込む。
あてのないエネルギー政策の行き着く先は、地元に暗い未来と開発途中で投げ出された不毛の地しか無いにも関わらず、政治家は日々湧出する「チンジョウ」の対処に明け暮れる。
入れ替わり立ち替わり榮の目の前を現れ、握手をし、立ち去っていく顔たちを通して、1980年代という時代を形作った空気が語られていく。もう少し正確に言えば、1980年代に行き着いた昭和という時代の雰囲気がその一節に凝縮されている。
そして、3年後の1986年11月に長男の裏切りと懐刀であった娘婿の自殺という事態を迎えて、狂乱した王によって王国は一気に瓦解する。1986年は政局であり、一気に加速するフィナーレである。
「これはいったい何の物語だ?」と問われれば、「リア王だ」としか答えようがない。
高邁な目標を持ち、確固たる信念を抱きつつも、己の眼前に広がる現実問題に対しては、地道な手段によって前に進むしかない政治家たる父王・榮と仏家たる子・彰之の対話だと括っても釈然としない。
あるいは、昭和のとりわけ戦後という空前の国土開発の時代を通してできあがってきた「政治」、そしてそれは利権という縁を方々に結んで成立する。その対極として、己一人で禅を組み、俗世との縁という縁を断ち切ってなお諸仏と結ばれる保証のない「宗教」が配置される。
そして、縁という縁を結びきれなかった政治家と縁という縁を絶ちきれなかった仏家、その父子の物語とも言えるだろうか。
いずれにせよ、この作品はおよそ巷間に平積みされる「小説」とは次元の異なる傑作である。これほどまでの気迫と堂々たる筆致で、「政治」を語り尽くした文学が他にあるのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
高村薫の新作、「太陽を曳く馬」の前作に当たる作品です。
買ってから長らく中断してましたが、
年末年始に読み終わりました。
年老いた自民党代議士の栄枯盛衰を、劇画のように仰々しく脚色した話です。
代議士である老齢の父と、禅寺に出家した息子の対話形式で
ストーリーが進んでいきます。
父は話す言葉全てが政治、息子は話す言葉全てが仏教でして、
正直ついていけないところがたくさんありました。
加えてかなりのボリュームです。
なので、かなり端折って読んでた部分もありますが、
読み終えた後は、まるで代議士としての人生を終えたかのような
達成感でした。
因みに「新リア王」の前作として、「晴子情歌」という作品があります。
「新リア王」に登場する代議士一族の原点となる話です。
これまた相当ボリュームのある話でして、
なかなか気楽に読める感じではありません。
私としては、世代交代しかかってるじいさんを描いた「新リア王」より、
女性の強さを描いた「晴子情歌」の方が個人的には好きな感じです。
「太陽を曳く馬」はまだ読んでないのですが、
古本で安くなるのを待ちつつ、
また英語の本にチャレンジしていこうかなーと思います。
投稿元:
レビューを見る
-2006.08.28記
高橋源一郎は、朝日新聞の書評で「終結部にたどり着いた時、突然感動がやって来る」と書くが、たしかに父.栄の狂えるリアのごとき集約の一点に、すべては流れ込むがごとき構成ではあるが、その劇的な仮構は、栄が語る戦後政治の膨大で生臭いエピソードの数々も、心の闇を抱え座禅弁道に励む凡夫の彷徨える心を言葉に紡いでいく彰之も、互いの長大なモノローグが観念の空中戦としか読めないかぎり、寒々として虚しい。
作者は「晴子情歌」「新リア王」につづく第三部となるべき世界を、すでに本書に胚胎させ、読者に予感させている。
これまた彰之のなさぬ子.秋道は「新リア王」の昭和62年時点ですでに18歳だが、父母という家族の愛に誕生のはじめからはぐれてしまった孤独な反抗者は、おのれの生そのものを呪いつつ世間に牙を剥きつづけるだろう。
その子.秋道と、昭和の60年余を、ひいては日本の近.現代の暗部をひたすら見つめ、おのれの生を生たらしめんと希求する父.彰之との相剋が、どんな世界を切り裂いて見せてくれるのか。
あまり期待を膨らませずに待ってみよう。
投稿元:
レビューを見る
晴子情歌から長く長くずっと読み続けてきて、たどり着いたところは「孤独」。
ラスト数ページで大号泣でした。
投稿元:
レビューを見る
新作の「太陽を曳く馬」がどうしても読みたくて下巻にチャレンジ。上巻は仏教用語についていけず、ずいぶん苦労しましたが、下巻のほうが読みやすいです。青森の核関連施設建設に絡むこと、陳情、補償、そして選挙、本当にこういうことがあるんだろうなあと思わずにいられない。そして王の金庫番の自殺。上巻の葬儀のシーンはこれだったのか、とつながる。あの時は人間関係すらよくわからずひたすら先にすすむのみでしたが。大きなどす黒い力と流れには個人の死などなんと小さいことか。いつもそんな恐怖を感じます。最後も非常に気になる終わり方で、やはりこの余韻が残っているうちに太陽を〜を読まなければ!
投稿元:
レビューを見る
最初の出だしから進まない。こんなに大変だとは思わなかった。結局政治の話や宗教の部分は飛ばし、内容だけを追ってしまった。しかし、何かすごく損をしたような気もする。もっと丁寧に読んだらもっと感動したように思うから。上下の厚さと前作の「晴子情歌」を読みまず思うこと、この長さは必要なのだろうか。飛ばしに飛ばして読んだくせに何を言うかだが、実際ぐじぐじとした文章に感じる。砂防会館の事務所の人間模様についても丁寧と言えばそうだが、もっと簡潔に微妙な雰囲気が書けるのではないか。そうでなければ話を誰か一人に絞ってその物語として独立させたほうがよかったのではと思う。と読み始めてすぐには思ったのだが、読み終えるとちょっと違う。この前段が合って最後の章の「死の周辺で」に繋がるのだろう。だがそれならせめて彰之の話とは分けてもよかったのではと思う。それはそれで一つの話として読んだほうが混乱もしないだろうに。構成の複雑さが読みづらさだと思う。「晴子情歌」のときは欲張りすぎ。政治に関する部分はほとんど読んでいないのでなんとも言えないが、「福澤」と言う地方の政治家一族がどんなにあがこうと時代は地方を切り捨て中央の下達で結局踊らされているだけなのだと言う感じがした。昭和の自民党史と誰かが書いていたが、三角大福から、竹下中曽根と言った実名が生々しい。榮にしたところで勝一郎が引退したときのような潔さも無く、周囲の空気を読み取れぬほど年をとってしまったのに世代交代の時期を見誤っていたのだからこの孤独に繋がるのだろう。彰之の禅寺の修行部分もほとんど読んでいないのだが、もっくんの映画「ファシーダンス」それを思い出し想像する。映画は明るくコミカルだったがこの彰之はひたすら真摯で重い。彰之の唱える「ぎゃーていぎゃーてい」は実家の宗教と同じなので耳に聞こえてくるようだ。でも最近はどんなときでも「般若心経」で済ませているように感じるが。そんな章之と初子や秋道と対決する章之が繋がらない。別人のように感じるのだ。「晴子情歌」で複雑な家族構成、「福澤」と言う一族の視線、そんなものから南洋や北洋そして出家へと道を求めて行く章之は繋がる。それに対しここで榮と対峙する章之は二人居るようなのだ。初子と言う女は登場こそ少ないがそれなりに人間像が想像できる。と言うか自分なりにこんな女というイメージを持っている。ねっとりとした女。たいした才能も美貌も教養も夢も無く、自分で自分の道を切り開く意志も努力もしないのに現状から引き上げてくれる誰かを待っていたところに章之と会う。東大生で将来も有望で地方の名家の出でしかもイケメン。すべて相手が何かしてくれるものとしがみ付いている女。生活を世話することでと言うより肉欲にしがみ付いている女。愛情なんか持っていない。どうにもならなくなったときふと昔の男の弱さを思い出す。こんな自分に手を出してしまった男の弱さ、捨てるときの曖昧さの中の弱さ。そして再会した男は相変わらずの弱さを持っていた。でも若いときにもてあましていた煩悩を捨てて生きようとしていた。もう肉欲と言うしがみ付くものが無くなった男に重い荷物を引き渡し新たな男にしがみ付こうとする女。そんな女と会うために服装まで女に合わせようとする彰之はどうしても繋がらない。女の聞く演歌に女の安っぽさを感じながら、そこに自分が性欲の捌け口として抱いたお金だけの女たちを重ねながら何故女の喜ぶような行動をしようとしたのか。自分の子供を生んだことも知らず、その子が悪魔が服を着て歩いているような息子に育っていたことに対する責任感、罪の意識としてもそんな風には繋がらないのだ。榮が何故初枝の事を聞きたがったか、そこには血のつながった父親など最初から自分には居ないような顔をした章之が「血」だけが繋がっている見たこともない息子の存在に対処できない様に榮自身が息子たち、特に彰之に対して持っていた感情を見るからではないか。と突然飛躍して考えてしまったりする。「晴子情歌」で筒井坂の口紅をさした晴子が座っていた貧農の暗い土間、雪の日の夜無口にただ仕事をし昨日と今日と明日の違いの無い土間、福澤に始めていった日の活気にあふれた台所、勝一郎が引退したあと人のいなくなった台所、それはふっと目に浮かんでくる。大体晴子を「生涯で唯一惚れた女」と言う榮、その榮に彰之の事を手紙で知らせていた晴子が良くわからない。なぜか。淳三に対し何も無いことにも疑問。淳三は榮や晴子にとってどんな存在だったのか。この「新リア王」の中では誰も淳三について語らない。第四章ぐらいしかしっかり読んでいないが、この後彰之と秋道の物語があるらしい。出来ればもう少し読みやすければと思うが私の考える初子像と彰之の本当の姿がわかるかもしれない。2006・6・12
投稿元:
レビューを見る
今の生活に、今以上の新しい技術や新しいなにかが必要かと問われれば、私は「これで十分です。」と答えるだろう。一体、どれくらいの日本人が、今、現在以上の生活の便利さ、快適さを求めているのだろうか?結局、政治というものは、国民から徴集した税金をどう国民に公平に分配するかに尽きるような気がする。地域に利益誘導された多額の税金は、各家庭に分配されるのではなく、一体どこに消えて行ってしまうのだろうか。一度日本も、経済を成長させるのではなく、経済の現状維持のみを目標にして、税金分配を考えてみてはどうだろうかと、ふと思ってしまう。「言ったもん勝ち」と言われる、勝ち負けをいかに少なくできるかが、政治の力だと思うのです。金銭では測れないものに、投資する方が大切ではないでしょうか。こんなことを書いてしまう、私も年をとりました。
投稿元:
レビューを見る
道化は誰だったのかなと、そんなことを思った。
優や息子たちとの関係、選挙の行方、榮の忠実な秘書についてなどが語られる。
とくに保田と竹岡について発言するシーンが好きだ。
最後の説破の場面に涙が溢れた。
抽象的になってしまうが、ゆっくりと染み入るような、それでいて切り裂かれるような寂しさがある。
私にとって、とても好きな系統の本だった。