紙の本
悟道を巡る求道者どもの格闘の痕跡
2023/04/01 02:21
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
一読して脳裏に浮かんできたのヮ、
日本史上最古の兵法者達に纏わる
逸話の数々です。
本書もまた、闘いの記録に他ならないな、と。
かつての大陸の仏僧たちの中にヮ、
命を削るような修行の日々のうちに
藻掻き、足掻き、呻吟しつつ大悟して
いった者達がいた、ということでしょう。
通夜と本葬で合計2時間弱読経して
ウン十万円とる時代の話でヮありませんね。
紙の本
独特なスタイル
2019/11/17 18:09
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
破天荒というか独特というか、何とも複雑な気持ちです。至る所で『喝』や棒で『打つ』シーンが出てきます。師匠だって、ぶたれます!(打つシーンでは時折、手で止めるシーンもあります。止めてもええんかい!?)
問答は難解です。というか、意味不明な事が殆どで、理解出来ませんでした。
かつて日本史で臨済宗という宗派の名前を知りましたが、内容を知らなかったので、本書を購入しました。色々な意味で衝撃的な内容でした。
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禅宗である臨済宗の宗祖臨済の言葉。
求道者が臨済を訪れ、求道者が臨済を仏と見るなら臨済は仏として語り、菩薩と見るなら菩薩として語り、修羅として見たなら修羅として語る。
列子や荘子に登場する列子の師匠のように、相手に様々の境を見せては対機受法を行う。
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臨済宗の宗祖・臨済義玄の語録。その宗風が伝わると言われるも内容はけっこう難解です。
臨済師はその宗風から「臨済将軍」とも言われます。
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(2011.04.16初読)
自分にはこの2行だけで十分だ。
(2021.08.05再読)
日本にも伝わる禅宗の一派、臨済宗の祖として知られる臨済禅師の言行録。9世紀の中国の人、というと果てしなく遠い世界だけど、空海よりは未来の人なんだな、と思うと少し近く感じる。
分類としては聖者と言っていい存在なのだと思うが、いわるゆ優しく穏やかな悟りの中にいる人、というイメージとは大分違う。その言葉を聞きにくる後進の者達には、自分自身、激しい自己との格闘の末に辿り着いた「無依」ということを説く。師や、教義や、何らかの認識や概念の助けを外に求めて頼ろうとする限り、一生どこにも辿り着けず彷徨うことになる。今、この話を聞いている君達こそがそのまま祖仏と同じなのだ、それをなぜ信じ切れないか、と。井上雄彦作「バガボンド」に例えたら怒られるかも知れないが、柳生石舟斎よりは伊藤一刀斎に近い感じだ。
だが、その厳しいけれどシンプルな、からりと乾いた一陣の風のようなあり方は清々しく、確かに禅の雰囲気そのものだ。
この本のレビューは、何を書いても「喝」を入れられそうな気がする。
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深すぎてまだ星☆をつけれません。。敬愛する野口晴哉先生の愛読の書。弟子が「悟りとは何ですか」みたいなふざけた質問するとたいてい「喝」と師匠は殴ります。たいてい殴る。弟子も殴り返して師匠は「わかったのか」と言ったり(笑)でも内実教えは深いです。9種の晴哉先生が愛したのもわかる即断即決、即理解にして惑わずの世界!
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入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫、1989)
唐末の臨済禅師の言行を弟子の慧然がまとめたもの。
最後に伝記が付されており、これによると禅師は当初戒律の研究を志すも教外別伝の本義はここではないと気づき、黄檗禅師に弟子入り、のち師匠である黄檗の薦めで大愚禅師の元に参じています。
教派意識よりも師を超えることに重きが置かれ、師と同等の見識では師の徳を減じることになる、とされた禅家の家風において、臨済は自己の主体化を説きつづけます。
禅といえば、訳の分からんことを言って怒鳴ったり殴ったりしている印象がありますが、問題の枠組み自体を壊すアプローチ、論理のフレームを捉え直すプロセスと思えばそれなりにわかったようなわからんような気になります。
【本文より】
◯もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。(p.35)
◯みんな古人のつまらぬ仕掛けに乗っかってくる。わしのところには、人に与えるような法はなにもない。ただ修行者の病を治し、束縛を解いてやるだけだ。[中略]改めてお前たちに言おう。本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすら脇みちの方へ一体なにを求めようとするのだ。盲ども!頭の上にもう一つ頭を載っけようとは。一体お前は何が不足しているというのだ。(p.101)
◯諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、[略](p.97)
◯諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、ちょうど便壺のようなもの。菩薩や羅漢も手枷足枷のような人を縛る代物だ。さればこそ文殊は剣に手をかけてゴータマ仏陀を殺そうとしたし、アングリマーラは刀を手にして釈尊を殺めようとしたのだ。諸君、求めて得られる仏などありはしない。(p.140)
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中国唐の禅僧で臨済宗の開祖臨済義玄の言行を弟子慧然が記したものです。“語録”の中でも一定の評価を受けているものということで手に取ってみました。
“語録”といっても「仏の教え」をベースにしたものですから、私のように最低限の仏教・禅宗の基礎的な素養すらない人間が読んでもやはり全く理解できませんでした。ただ、ときに無謀にも、この手の書物を手に取ってみたくなるのが不思議ですね。
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喝を入れるということが、
どれだけエネルギッシュなことか!
本気度が半端ない師と弟子のやりとり。
想像を越えたエキサイティングな展開に
のけぞりながらも、
「ふむふむ」
「なるほど」感満載。
Over the rainbow 的な一冊。
繰り返して読み込んだら、きっと何か景色が変わるような気がしてならない。
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”まず一周読んだ。まさに禅問答。
問う→喝→打つ→去る・・・
<キーフレーズ>
・無依の道人
・無位の真人
・自信不及
<きっかけ>
2015年11月の人間塾課題本”
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答えはオレのなかにある
という教え
(大乗涅槃経・禅 私の中に仏がいる?)
“諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこがわかる。古人も「自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である」と言っている。