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ねじの回転 デイジー・ミラー みんなのレビュー
- ヘンリー・ジェイムズ (作), 行方 昭夫 (訳)
- 税込価格:1,012円(9pt)
- 出版社:岩波書店
- 発売日:2003/06/13
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文庫
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高い評価の役に立ったレビュー
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2005/10/27 19:41
ジェイムズの新しさ
投稿者:la_reprise - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、アメリカ出身の大作家ヘンリー・ジェイムズによる代表的な二つの中編「デイジー・ミラー」「ねじの回転」を収めたものである。「デイジー・ミラー」(1878)はジェイムズが35歳のときの作品、「ねじの回転」(1898)は55歳のときの作品であり、時期的に20年ほど離れたものである。
「デイジー・ミラー」はスイスのヴェヴェーとイタリアのローマが舞台となっている。長年ジュネーブに住んでいるアメリカ人青年ウィンターボーンがヴェヴェーの豪奢なホテルでアメリカから来た若い女性デイジー・ミラーと出会う。デイジーはとても美しく魅力的な女性であるが男性に対して奔放な性格であり、ウィンターボーンは彼女に魅力と反発を感じながら翻弄されていく。
「ねじの回転」はその大部分をイギリスの女家庭教師の手記が占めている。住み込み家庭教師の広告に応募した彼女は、ハンサムな独身の紳士である広告主に魅かれたこともあってその仕事を引き受ける。住み込み先の家にはえも言われぬほど美しい兄妹がいて彼女は自分の仕事に満足していた。しかし、その家で彼女は昔そこにいた女家庭教師と下男の幽霊をしばしば目撃し、その幽霊が兄妹に悪影響を与えていると信じるようになる。
20年もの期間をおいて書かれた両作ではあるが、その根幹において共通点を見出すことができる。「デイジー・ミラー」ではデイジーが、「ねじの回転」ではフローラとマイルズの兄妹が、当初無邪気さや無垢を体現しているように見える。デイジーは周りの保守的な眼も気にすることなく独身の男性と一緒に大通りを歩くなど、自由奔放に振舞う。フローラとマイルズははっとするほど美しく、素直で純粋無垢な姿を見せる。しかし、どちらの作品でも主人公(ウィンターボーンと女家庭教師)は次第にその無邪気さに不信感を持ち、もしかするとその純真無垢は装われたものなのではないかと疑問に思い始める。悪意をもった表面的な無邪気さなのか、ただ無邪気さに悪意を読み込んでしまっているだけなのか、両作の主人公も我々読者もどちらか分からなくなってくる。
このような共通点をもつ二つの作品ではあるが、「ねじの回転」のほうが20年後に書かれたせいもあってかさらに複雑さを増している。その大きな特徴のひとつは『ねじの回転』の大部分が女家庭教師の視点から彼女の手記という形で書かれているということだ。つまり、読者はこの幽霊事件という不思議な出来事を女家庭教師の意識を通してのみ発見していくので、彼女が語っていることは本当なのか嘘なのか、彼女は正気を保っているのか狂気に陥っているのか、我々は判断することができない。その点においてジェイムズも巧妙で、どちらが正しいのかはっきりとした言質を与えることは決してない。
一世紀以上前の作品ということもあり、物語の舞台や風俗においてどちらの作品も古さを感じさせる部分はあるかもしれない。しかし、そのような物語設定の古臭い部分は作品にとって重要ではないだろう。むしろ着目すべきは作品の持つ複雑さであり曖昧さである。その点においてこそ「デイジー・ミラー」も「ねじの回転」も決定的に新しいのであり、現代文学につながる面を持っている。過去の作品に新しさを見出すこと。いま現代において古典を読む意義とはまさにそこにあるのではないだろうか?
低い評価の役に立ったレビュー
13人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2005/03/29 19:58
古典は、遠くにありて思うもの。聞いておくだけで止めておけばよかったのに、つい手を出したらこの始末。古典に対して失礼だろうって?では、お読みください
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本、もし私が恩田陸の同名の小説『ねじの回転』を読んでいなかったら、果たしてこの本に手を出したか、大いに疑問である。ヘンリー・ジェイムズならぬヘンリー・ミラーくらいならば、一応ピンとは来るものの、文学史という所で読書をしようとは思ったこともない私は、文学界の大御所と聞いたところで、それがナンボノモンジャイ、で切り捨てたくなる。
で、このほんのカバーには、アメリカ的なものとヨーロッパ的なものの対立「デイジー・ミラー」。解釈をめぐって議論百出の、謎に満ちた幽霊談「ねじの回転」と書いてある。さぞかし、凄い話なのだろうなあ、やっぱり名作という以上は、ジェーン・オースチン『高慢と偏見』くらいの面白さはあるんだろうなあ、と期待して読み始めた。
スイスの小さな町ヴェヴェーで、休養中のウィンターボーン青年が小説の主人公である。アメリカ人で裕福な家庭に生まれた彼は、27歳、ジュネーヴで勉強中である。彼がこの町にやってきたのは、「トロワ・クワンヌ」ホテルに滞在する伯母を訪ねてのことである。そこで青年は、同じくアメリカ人であるランドルフ少年と、その姉のデイジー・ミラーことアニー・P・ミラーだった。絶世の美女であり、ホテルでも評判の女性に彼は惹かれていくが、デイジーは奔放に男たちの間を舞っていく「デイジー・ミラー」。
これって、ヨーロッパとアメリカ的なものとの対立ではなくて、規律と自由、上流と中流といった二項対立のほうが適切で、欧米といった比較はあまり適切だとは思えない。
ダグラスが語るのは、二人の子供の前に現れる話で、「子供がからむので、ねじをよけいに一回転させるというなら、子供が二人の場合は」ということばが表題に繋がる。今から二十年前、妹の家庭教師で彼よりも10歳も年上だった女性が書き残した物語である。ロンドンで住み込みの家庭教師の仕事に就いた彼女が出会ったのは、美しい少女フローラと、大人たちを夢中にさせてしまう天使のように愛らしい少年のマイルズだった。そして、何か隠しごとをしているような家政婦のミセス・グロウス。ブライの邸で、家庭教師が見たものは「ねじの回転」。
こわくない。訳文のせいもあるのだろうけれど、まだるっこしいだけで、少しも面白くない。対象をぼかして書く、時間をずらして描写する。しかし、そのどこまでが現代作家に見ることができる意図的なものであるか。正直、そこまで論理的な作家ではなかったのではないだろうか。幽霊談=ホラーではないのだろうけれど、キングを読みなれた私には、所詮、古色蒼然、内容すかすかの小説である。
何度も書くけれど、文学史上の重要な作品は、必ずしも文学的な名作であるとは限らない。エポックメイキング、スキャンダラスであればそれで役を果たすものだってある。むろん、ジェイムズのこの本がそうだとは言わないけれど、少なくとも収められた二篇には全く魅力を感じない。むしろ、このレベルの作品をありがたがることが、かえって読書離れを促す気がしてならない。時代を超える傑作ではない、それが正直な感想だ。
紙の本
ジェイムズの新しさ
2005/10/27 19:41
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:la_reprise - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、アメリカ出身の大作家ヘンリー・ジェイムズによる代表的な二つの中編「デイジー・ミラー」「ねじの回転」を収めたものである。「デイジー・ミラー」(1878)はジェイムズが35歳のときの作品、「ねじの回転」(1898)は55歳のときの作品であり、時期的に20年ほど離れたものである。
「デイジー・ミラー」はスイスのヴェヴェーとイタリアのローマが舞台となっている。長年ジュネーブに住んでいるアメリカ人青年ウィンターボーンがヴェヴェーの豪奢なホテルでアメリカから来た若い女性デイジー・ミラーと出会う。デイジーはとても美しく魅力的な女性であるが男性に対して奔放な性格であり、ウィンターボーンは彼女に魅力と反発を感じながら翻弄されていく。
「ねじの回転」はその大部分をイギリスの女家庭教師の手記が占めている。住み込み家庭教師の広告に応募した彼女は、ハンサムな独身の紳士である広告主に魅かれたこともあってその仕事を引き受ける。住み込み先の家にはえも言われぬほど美しい兄妹がいて彼女は自分の仕事に満足していた。しかし、その家で彼女は昔そこにいた女家庭教師と下男の幽霊をしばしば目撃し、その幽霊が兄妹に悪影響を与えていると信じるようになる。
20年もの期間をおいて書かれた両作ではあるが、その根幹において共通点を見出すことができる。「デイジー・ミラー」ではデイジーが、「ねじの回転」ではフローラとマイルズの兄妹が、当初無邪気さや無垢を体現しているように見える。デイジーは周りの保守的な眼も気にすることなく独身の男性と一緒に大通りを歩くなど、自由奔放に振舞う。フローラとマイルズははっとするほど美しく、素直で純粋無垢な姿を見せる。しかし、どちらの作品でも主人公(ウィンターボーンと女家庭教師)は次第にその無邪気さに不信感を持ち、もしかするとその純真無垢は装われたものなのではないかと疑問に思い始める。悪意をもった表面的な無邪気さなのか、ただ無邪気さに悪意を読み込んでしまっているだけなのか、両作の主人公も我々読者もどちらか分からなくなってくる。
このような共通点をもつ二つの作品ではあるが、「ねじの回転」のほうが20年後に書かれたせいもあってかさらに複雑さを増している。その大きな特徴のひとつは『ねじの回転』の大部分が女家庭教師の視点から彼女の手記という形で書かれているということだ。つまり、読者はこの幽霊事件という不思議な出来事を女家庭教師の意識を通してのみ発見していくので、彼女が語っていることは本当なのか嘘なのか、彼女は正気を保っているのか狂気に陥っているのか、我々は判断することができない。その点においてジェイムズも巧妙で、どちらが正しいのかはっきりとした言質を与えることは決してない。
一世紀以上前の作品ということもあり、物語の舞台や風俗においてどちらの作品も古さを感じさせる部分はあるかもしれない。しかし、そのような物語設定の古臭い部分は作品にとって重要ではないだろう。むしろ着目すべきは作品の持つ複雑さであり曖昧さである。その点においてこそ「デイジー・ミラー」も「ねじの回転」も決定的に新しいのであり、現代文学につながる面を持っている。過去の作品に新しさを見出すこと。いま現代において古典を読む意義とはまさにそこにあるのではないだろうか?
紙の本
古典は、遠くにありて思うもの。聞いておくだけで止めておけばよかったのに、つい手を出したらこの始末。古典に対して失礼だろうって?では、お読みください
2005/03/29 19:58
13人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本、もし私が恩田陸の同名の小説『ねじの回転』を読んでいなかったら、果たしてこの本に手を出したか、大いに疑問である。ヘンリー・ジェイムズならぬヘンリー・ミラーくらいならば、一応ピンとは来るものの、文学史という所で読書をしようとは思ったこともない私は、文学界の大御所と聞いたところで、それがナンボノモンジャイ、で切り捨てたくなる。
で、このほんのカバーには、アメリカ的なものとヨーロッパ的なものの対立「デイジー・ミラー」。解釈をめぐって議論百出の、謎に満ちた幽霊談「ねじの回転」と書いてある。さぞかし、凄い話なのだろうなあ、やっぱり名作という以上は、ジェーン・オースチン『高慢と偏見』くらいの面白さはあるんだろうなあ、と期待して読み始めた。
スイスの小さな町ヴェヴェーで、休養中のウィンターボーン青年が小説の主人公である。アメリカ人で裕福な家庭に生まれた彼は、27歳、ジュネーヴで勉強中である。彼がこの町にやってきたのは、「トロワ・クワンヌ」ホテルに滞在する伯母を訪ねてのことである。そこで青年は、同じくアメリカ人であるランドルフ少年と、その姉のデイジー・ミラーことアニー・P・ミラーだった。絶世の美女であり、ホテルでも評判の女性に彼は惹かれていくが、デイジーは奔放に男たちの間を舞っていく「デイジー・ミラー」。
これって、ヨーロッパとアメリカ的なものとの対立ではなくて、規律と自由、上流と中流といった二項対立のほうが適切で、欧米といった比較はあまり適切だとは思えない。
ダグラスが語るのは、二人の子供の前に現れる話で、「子供がからむので、ねじをよけいに一回転させるというなら、子供が二人の場合は」ということばが表題に繋がる。今から二十年前、妹の家庭教師で彼よりも10歳も年上だった女性が書き残した物語である。ロンドンで住み込みの家庭教師の仕事に就いた彼女が出会ったのは、美しい少女フローラと、大人たちを夢中にさせてしまう天使のように愛らしい少年のマイルズだった。そして、何か隠しごとをしているような家政婦のミセス・グロウス。ブライの邸で、家庭教師が見たものは「ねじの回転」。
こわくない。訳文のせいもあるのだろうけれど、まだるっこしいだけで、少しも面白くない。対象をぼかして書く、時間をずらして描写する。しかし、そのどこまでが現代作家に見ることができる意図的なものであるか。正直、そこまで論理的な作家ではなかったのではないだろうか。幽霊談=ホラーではないのだろうけれど、キングを読みなれた私には、所詮、古色蒼然、内容すかすかの小説である。
何度も書くけれど、文学史上の重要な作品は、必ずしも文学的な名作であるとは限らない。エポックメイキング、スキャンダラスであればそれで役を果たすものだってある。むろん、ジェイムズのこの本がそうだとは言わないけれど、少なくとも収められた二篇には全く魅力を感じない。むしろ、このレベルの作品をありがたがることが、かえって読書離れを促す気がしてならない。時代を超える傑作ではない、それが正直な感想だ。