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みーちゃんさんのレビュー一覧

投稿者:みーちゃん

3,506 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本731

2005/12/02 17:46

ちょっと、戦争なんて知らない、やっぱ国守るためには戦争必要でしょ、なんて自民党の老い先短いオヤジに乗せられてる君たち、これ読んでみなさい

24人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

731部隊と聞けば、二つの年代が反応するでしょうね。まず、続々と鬼籍に入り始めている戦前派の人たち、特に軍人たちです。基本的には、この人たちは自分たちに都合の悪いことは、口を噤んでいますし、自分で嘘を言っている間に自分の頭の中で真実を捏造しちゃってますから、あまり発言を信用できない人たちですね。専らこの人たちが、戦争で負けたにもかかわらず、それを自虐史観と呼んで憚らない連中です。
次が1980年代に出た森村誠一『悪魔の飽食』を読んで、この帝国軍人たちの所業に驚き呆れ、それ見たことか、と戦争を遂行した連中を白い目で見る、当時20代前後、今の団塊の世代だと思います。ただ、困ったことに団塊の世代は急速に社会での求心力を失っていて、それが731部隊のような非道な存在を知らしめるよりは、忘却に追いやっている。片や、意図的になかったことに、片や無力感から過去を忘れかけている。
それが、改憲のムーヴメントの根源にあるもの、私はそう思うんですね。だから、今の若い人は731部隊なんて知らない。日本人がアジアを部隊にCIA並みの陰謀や暗殺に手を染めていた、なんて教える人がいないものだから、ただただ最近の朝鮮や中国は生意気だ、なんて思っている。また、マスコミが軽率で、身近の殺人事件ばかり追いかけて、こういう地道な社会ネタを無視する。どんなアンケート取っているのだか、改憲賛成80%なんて、書いている本人すら信じていないことを平気で書く。
装幀は新潮社装幀室。巻頭に、ジェイ・マップ制作の満州国要図が載っていますが、他に写真や図版の掲載は一切ありません。この手の本としてはかなり異例で、それがこの本のもつ衝撃度を弱めるとともに、内容の伝わり難さ、わかりやすい文章なのに頭に入りにくい原因となっている、私はそう思いますね。
満州の地で細菌兵器の開発のみならず、生きた人間を使った実験でナチス以上の非道を平然と行なっていた関東軍第731部隊、その設立者であった石井を巡って、終戦直後の米ソが熾烈な争いを陰で繰り広げていたこと、いつか、関東軍第731部隊に対する捜査が歴史の表面から消え、関係者たちは堂々と日本の医学界にそのまま居座ってしまった、その構図が出来上がったのが1945-6であろうことは誰でも想像がつきます。その時期の石井直筆のノートがあった、まさに著者の震える姿が目に浮かぶようです。
さて、日本の防衛庁の姿勢を示す格好の一文がありますので、引用しておきましょう。
「十九人の医者による(人体実験)リポート」や八千枚の病理標本など、米国に渡ったことが確認されているものの、未だに発見されていないものが多い。しかし一九八六年、米下院復員軍人委補償問題小委員会で、米陸軍の文書管理官が、五〇年代後半から六〇年代はじめにかけて実験ノートなど詳細を記録した文書を日本へ返還した、と証言している。同年九月十九日付朝日新聞によると、国立国会図書館は確かに文書が返還され、初めは外務省復員局に渡され、その後、防衛庁に移されたはずだ、と返答した。しかし、防衛庁は現在にいたるまで「知らない」という答えを変えようとしない。
日本の暗部には触れない、それが敗戦を自虐と置き換える人間たちの視点、といいますが、要は自分たちの犯罪を国家によって正当化しようとする真の戦犯たちの企画ですね。そして自分たちの経歴をごまかし、のうのうと戦後に君臨してきた男達の名前が実名で示されます。それが内藤良一、「日本ブラッドバンク」のちの「ミドリ十字」の生みの親です。
エイズ問題で非道の限りを尽くした無責任な会社ですが、発足当時、6名の取締役のうち3名が七三一部隊に関連していたといいます。内藤はその一人で、他に宮本光一、二木秀雄がそうだそうで、社史には当然、彼らが中国で人体実験をしていた七三一部隊員とは書かれていません。

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紙の本

紙の本孤宿の人 上

2005/07/29 21:38

『ぼんくら』『日暮らし』とは全く異なる意味での傑作です。もしかすると、宮部作品だけでなく、近年の日本文学史上の金字塔かもしれません。その全てが「ほう」の造形にあります

22人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

さあ、問題のミヤベ作品です。書きたいことが次々と沸いてきて、どう纏めるか、書評家泣かせの話です。ま、違う意味で、私は泣いてしまいましたけれど。
上下巻で800頁を超えますから、『日暮らし』とほぼ等しい長さです。そして、人間の業(ごう)を感じさせる点でも似ています。
でも、二作品の印象は大きく異なります。江戸と四国という舞台の差だけではありません。それが「ほう」の存在です。この10歳になる少女には、いわゆる知恵というものがありません。人と遊ぶこともできません。遊ぶということ知らないのです。
覚えた字も、すぐに忘れてしまいます。疑うことも知りません。騙され、苛められ、脅かされ、裏切られ、自ら「ほう」は、阿呆の「ほう」ですと無邪気に、いやどこか自分に名前があることをすら恥らうかのようにいい、それでも、ひたすら働き、信じます。何を?そう、人を、です。
そして、与えられるのです。それが「方」で、「宝」です。その意味は読んでもらうしかありません。こういう喩えは全くナンセンスなのですが、小野不由美『屍鬼』のやるせなさと、ダニエル・キース『アルジャーノンに花束を』の感動を併せ持つ、とで
もいうのでしょうか。
祖父母の悪意で里子に出された「ほう」は、ただただ叱られ、肉体労働を強要され、家畜のように捨て置かれながら何とか育ちます。そして8歳の時、実家に続く不幸を払うためという一方的な都合で一旦家に戻され、すぐに金毘羅参りに出されます。そして、同行した女中に虐待され、金を奪われ、行半ばで捨てられます。
自分の名前すらろくに言えない少女が、人並みに暮らせるようになったのが、四国は讃岐国、丸海藩の「匙」である井上家です。彼女に親身に接してくれたのが井上家の長男で後継ぎの啓一郎先生と妹である琴江でした。ほうは二人から、生まれて初めて読み書き、勘定などを教わります。でも、学ぶことの意味すら分からない「ほう」は、教わる先から字も数も忘れていきます。そして、ほうが十歳の時、井上家に、丸海藩に不幸が襲い掛かります。
事件に翻弄される「ほう」のことを心配し続けるのが17歳になる宇佐です。藩士ではありませんが町役所から幾ばくかのお給金をもらって捜査にあたる引手の見習をしています。ただし、女、ということで仲間からは一段下に見られています。そして彼女が密かに想いを寄せるのが、啓一郎先生です。
ほかにも匙の井上家の当主である舷洲、同じく匙ながら新参者の砥部、町役所の同心で琴江のことを好きな渡部一馬、物頭である梶原家の娘美祢、藩医である香坂泉、引手で宇佐の仲間である花吉、鬼と呼ばれる加賀、その鬼の世話をする石野、琴江の許婚者である船奉行の保田の次男、山内家の老下男の茂三郎、塔屋のおさん、もっと出てきますが、ともかく見事なまでに描き分けられています。
ほうは、いわゆる善人ではありません。善悪を超越した無垢です。知恵によって善たらんとする人間、或はその性格が温厚であるがゆえの善良、という今までの小説に登場した主人公たちとは大きく違います。絶対的な無垢は、どのような形で世に受け容れられるのか、それを問う話といっていいでしょう。
予想もしないほど夥しい血が流されます。人が死に、街は焼け、人の心がささくれます。その果てに現れる光景、それは美しいとしかいえないものです。ただし、芸術的な美しさではありません。まったき穢れなさを前にしたときの、自分の心が陽光にさらされ、心の隅々までが洗われてしまう、そういう穏やかな美しさです。
ばななも小川洋子も、ここまでの無垢を描くことはありませんでした。そういう意味で、この小説は宮部作品の中だけでなく、日本文学のなかでも孤高のものとして屹立する、そういえるでしょう。

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紙の本

紙の本それってどうなの主義

2007/06/26 22:06

このタイトルだけで人が寄ってきます。すばらしいセンス。斎藤の主張はある世代特有のものなんですが、右傾化をしている今の日本人には、非国民と受けとられるかも

20人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本をもってお客さんのところに言っていたら、相手の方がカバーをじっと見ながら「『それってどうなの主義』ですか」と一言。そのあと、何が続くかと思っていたら、それでお終い。どうも、その人は斎藤美奈子については何もご存知ないようで、ともかくタイトルとカバーデザインに惹かれたようです。
で、日の丸を逆手に取ったのであろうインパクト溢れるブックデザインは祖父江慎一+コズフィッシュ。このカバー故に、殆ど話もしたことがない人まで私のところに惹きつけられるようで、装幀の重要さを再認識させる御仕事でした。祖父江さん、エライ!
で、『たまには、時事ネタ』に続く社会を扱った本です。ま、内容的にはこの本に収められている文章のほうが古いのですが、こと社会問題については時の流れるのが遅いのか、むしろ今のほうがしっくりくる記事が多いようです。北朝鮮による拉致問題なんて、日本人自身が強制連行にダンマリを決め込んでいるせいもあって一歩も動いていないし。それに日本右傾化の布石は、斎藤の文章が書かれる前に、国民にその内容が知らされることなく国会で打たれてしまったし・・・
当然ながら斎藤のスタンスは『たまには、時事ネタ』と変わりません。ご本人は、いわゆる世代によるくくり、について否定的ですが、やはり斎藤の視点は時代の枠を超えることはありません。そういう意味で、彼女の年代以上の人には、ある意味、驚くような内容ではありません。ただし、肯きながら「そうだよ」と呟く同世代の人は多いのではないでしょうか。
そして、若い人には新鮮だと思います。現在、マスコミ自身は意図的な迷走状態にあります。報道は一方的で、自主規制でがんじがらめ。広告主のゴキゲンばかりとっていますから、特に20代前後の人は、自民党が着実に推し進めている多方面にわたる改革の裏の、というか本当の意味をしりません。それを斎藤は分りやすく解き明かします。
まず、日の丸、君が代、です。私は国民投票で現在の日の丸、君が代が本当に日本の国旗、国歌として相応しいか、決めるべきだと思います。まず、意味も不明なら、流れるのを聞いても葬式にでているような気分にしかならない暗い曲調の「君が代」を止める。そして胸を張りたくなるようなものに変える。シンプルだけが売り物の、弁当国旗も変える。作曲やデザインは公募。
それから北朝鮮の拉致問題です。拉致被害者の会の人たちは、まず日本人が過去に行なった強制連行について一切発言をしないようですが、何故でしょう。それに、安易に制裁、制裁、といいますが、それって要するに「私たちの家族のために戦争してくれ」っていってるのと同じでしょ?
自民党が彼らを盛んに表に出すはずですよね。拉致被害者の会、を使って軍備を正当化できますもの。しかも、会の人たちは絶対に日本人が過去に行なったことには触れないから、こんなに都合のいい存在はない。台湾も中国も朝鮮も、第二次大戦前は日本の植民地だから、その人たちは日本人である、国民だから強制連行ではない、という政府の理屈に日本人は何も感じない。
そりゃそうでしょ、マスコミがそれを説明しないんだから。する時だって、一回やればお終いだし、キャンペーンを張れば、馬鹿みたいに同じことばかり言って、物事を風化させる。その不器用さは、市民運動にも共通して、結局、自民党、戦前の日本復活を狙う勢力の密かに打つ手に負ける。
繰り返しますが、私たちの世代の人が分ってはいるけれど、なんとなく言わない、それを素直に語った本です。特に、天皇制について、いずれ無くなっちゃうだろう、とスパっというあたり、今のマスコミや国会議員には絶対に出来ません。でもね、私たちは密かに思っているんですよ、どーなったって私たちには少しも影響しないって。そういう、口には言えない真実を、サラリと語った本、そういえるんじゃないでしょうか。

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紙の本

紙の本文学全集を立ちあげる

2006/11/11 22:51

知的好奇心が刺激された、という点では近年のベスト。この鼎談には大森・豊崎・島田チームも粉砕。斎藤美奈子も遠く及びませんねえ。脱帽

20人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まず造本がいいです。軽装本が軽薄に繋がらないお手本のようなもので、しかもカバーが抜群。まず色ですね。この環境に優しい!っていアイボリーが文句無し。で、これに触れた時の充実感。マットでざらざらっとしているのが、ともかく生きている、っていう感じを抱かせます。
しかも、そこには世界の文学から発想された様々のイラスト。描くのは巨匠、っていうのは変ですが、でもこの世界では有名な和田誠、装丁全体も和田の担当だそうです。で、さらに効いているのが、表紙の中央にある白抜き(実際にはアイボリー抜き)の部分、ここに線で枠どりされた書名・著者名が並ぶんですが、その線の柔らかいこと。それが背にも継承されて・・・
でも驚くべきは内容なんですね。つい先日、大森望・豊崎由美『文学賞メッタ斬り!リターンズ』を読んで、それなりに楽しみはしましたが、唸るということはありませんでした。あそこに出てきた作家の作品で読みたくなったのは、絲山秋子ただひとりだし、あとは殆ど読んだし・・・
でも、こちらは違います。避けて通ってきた古典、いわゆるその筋の方が名作と決め付け、読まない人間は愚か者、読んでなくても試験に書名が出てくるという、思い出すだけでもムカツク作品群。ただし、丸谷・鹿島・三浦のお三方は、単に権威ぶるといった愚は犯しません。
大森・豊崎のように偽悪ぶるわけでも、シモネタにはしるでもなく、常識的な傑作、古典をバサバサと斬っていきます。勿論、いいものは、いい。で、その語り口がというか、斬り方が、大胆というだけではなく論理的、かつ上品。しかも、ユーモラス。情実だって露骨に見せてしまいながら、文壇の姿、常識の愚が朧げに見えてくる姿は、もう絶品としか言いようがありません。なんていうか、『メッタ斬り「文学賞メッタ斬り!リターンズ」』ていう感じで、学識・人格的にも太刀打ちできないっていうか・・・
それを高尚、なんて遠ざけるのは大間違い。ともかく面白い。
目次を写せば
世界文学全集篇
 どんな全集を作るのか
 イギリス小説のうまさ
 フランス作家の盛衰
 ロシア、ドイツ文学と日本
 アメリカその他
 周縁の文学
世界文学全集巻立て一覧
日本文学全集篇
 この全集のいくつかの原則
 古代から近世
 江戸文学の豊穣
 二十世紀文学の幕開け
 白樺派、プロレタリア文学の問題
 戦後の文学を見直す視点
日本文学全集巻立て一覧

となっとていて、「世界文学全集篇」は、「文藝春秋」2005年11月臨時増刊「決定版・世界文学全集を編集する」を加筆再構成したもの、「日本文学全集篇」は、語りおろしなんだそうです。ちょっと司会役の人間の誘導振りが、なんていうか出版社の思惑を感じさせてウザイ部分はありますが、先生たちの態度も、柔軟で、オトナを感じさせるんです。
ま、私が読みたいな、と思ったのは世界文学全集篇に出てくる作品が殆どで、日本文学はパスしますが、読んで面白いのは後半の日本文学全集篇であることは間違いありません。とくに、近代文学へんなんかは、完全に純文学メッタ斬り!状態。しかも、地元の贔屓が(笑)の注つきで連発。
基本的には、全集は、作品集というよりは、まず作家毎に巻を編むことなので、人間臭さが溢れます。ほう、こんな作家は選に漏れるか、とか、やっぱり、あの作家は名前だけの存在だったかとか。サルトルも駄目なら、サン・テグジュペリ(「星の王子さま」)が、ただの童話作家とされたあたり、さすがだなあ、と納得します。個人的に読みたいのは、先日も『高慢と偏見』があまりにも面白かったオースティンでしょう。
ちなみに、この本を読み終えた長女は、実に楽しく読んだそうで、特に三人の話や見解が微妙にずれている様が楽しかったようです。知的刺激、というのはこういう本でなければ得ることが出来ないのでしょうね。

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紙の本

もしかすると、この本と冲方丁の『天地明察』の二冊があれば、他の本を読む必要がないかな、っていいたい、そういう作品です。色々教わりました、今までの読書は何だったんだろうって反省もしました。だから、この二冊に、みーちゃん大賞、差し上げます

19人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私の家には案外、アンソロジーというものがありません。ミステリの短篇集や年鑑類はあっても、それはあくまで傑作集であってアンソロジーではありません。無論、選ぶという行為のなかに著者なり編集者の選択眼や基準があることは確かですが、それは読者が簡単に想像がつくもの、といえるでしょう。

私が傑作集の類を読むのは、あくまでもある時代の作品で読み落としがあるのが厭だからで、そこで気に入ったものがあれば、その小説を含むオリジナル短篇集を読むことにしています。つまり、あくまで原典にたどり着くための手段のわけです。だから小説そのものを独立して読みます。前後のつながりとか、そういった視点は全く持ちません。

で、この本を手にしたとき、私の頭にあったのも「これを読めば、今まで知らなかった傑作・名作に出遭えるかもしれない」という考えだったわけです。まして、著者の北村薫はデビュー作を含め、アンソロジーや詩歌関係のものを除けば殆ど全作品を読んでいるはずの大好きな作家で、特に『北村薫の創作表現講義 あなたを読む、わたしを書く』(新潮社2008)を読んで、あらためて教育者としても優れた人だったんだと感心したばかりでしたから、その北村お薦めの本が出ている、とばかり思っていたわけです。

でも、違いました。嬉しい誤算だったと言っても過言ではありません。目からウロコがボロボロで、ああ、早稲田での講義もだけど朝日カルチャーでの話も聞いておきたかった、と思いました。勿論、大学生の長女と浪人中の次女に早速読ませることにしたのはいうまでもありません。

まずあらためて驚かされるのは北村の記憶力です。そして、その元となる資料をじつによく保存しているということ、そして幼い時から創作活動の準備みたいなことをしていたんだなあ、ということです。例えば、小学生時代のノートが登場します。え、です。私の手元には大学時代のノートはおろか教科書も、卒論のコピーも残っていないのに・・・

しかもです、そのノートには自分が気に入った『スペイン民話集』の一篇が完全に写され、しかもスペインの色塗りの地図まで描かれているわけです。私の手元には高校時代に描いた漫画の原稿だってないのにですよ。しかもです、北村の手元には昔、父親から贈られた当の本もきちんと保存されているわけです。

そういえば、私の中学時代の同級生で学年で一番成績のよかった、後に女医となった友人に久し振りにあって話したとき、彼女は中学時代の日記を持ち出し、あの時私はこう思っていた、誰々さんはそのときこんなことをして私は笑った、と事細かに当時を再現してくれました。いやはや、優秀な人というのは似ているんだ、私なんかとはエライ違いだ、なんてつくづく思いました。

でです、北村は物として過去を保存しているわけではなさそうなんです。なんでしょう、この記憶力。不思議なことに、この本にはこの講演が何時のものであったのかという記述がないのですが、でもこの一、二年のことでしょうから北村は60歳に手が届こうとしているわけです。悪いですけれど、老人ですよ。でも、その人が実によく自分が過去に読んだ作品のことを覚えている。

勿論、講義のために調べなおした、ということもあるでしょう。編集者の力を借りるということもあるでしょう(編集者の能力については、この本だけではなく『北村薫の創作表現講義』にも詳しく描かれています)、ノートもあるかもしれません。でも、少なくとも北村自身の記憶力なしには、この講義はありえない、そういうものです。ちなみに、その記憶力にここまで圧倒されたのは、この本でも言及がある都筑道夫の『推理作家のできるまで』を読んで以来のことです。

それらの全てを駆使して自分のお気に入りの、或いは与えられたテーマにあう作品を選び出す。しかもです、単に探し出して終わりではない。さらに篩にかけて、この作品の結末の文章が、この作品に繋がるとか、そういう赤い糸で結び付け、並べなおし、メッセージを込めて編む。それがアンソロジー。

だから、アンソロジーでは面白そうな作品を適当に選んで読む、なんていうのは、本当はアンソロジーの半分しか味わっていないことになります。編者の意図を読み、仕掛けを解き、赤い糸を見つけて本当にそれを味わい尽くしたことになる。いやはや、私は小説の書き手のことしか頭になくて、編者の残りの仕事はコメントを書くくらいだとしか思っていなかった・・・

さらに言えば、こんなことをしているのは北村だけではないんです。彼とコンビで何冊も傑作集を編んでいる宮部みゆきも、そうらしい。北村が持っていない本を宮部が出したり、或いは編集者がさり気無く示したり。作家の世界、出版界の世界って何なんだ? って思います。アンソロジーを編む、っていうのはそれだけで立派な創作行為なんですね、それを知っただけでも、私の世界観が変わってしまいました。

私は今年に入って、自分の人生観を変えるであろう本に二冊、出遭いました。いずれ書評を書くことになりますが、一冊が冲方 丁の『天地明察』(角川書店2009)、そしてもう一冊がこの『自分だけの一冊』、上村愛子のお母さまの言ではありませんが、私はこの二冊を読むことが出来ただけでも幸せです。ありがとう、北村薫・・・

帯の言葉は
        *
直木賞作家の授業を公開
  読むだけなんて
   もったいない
  編む愉しさもある
        *
カバー折り返しの言葉は
        *
「先生、単に読むだけではない本の愉しみ方はありま
せんか?」「実は、とっておきの方法があります。それ
は……」――高校の国語教師の経験もあり、人気作家
にしてアンソロジーの名手である著者が教えてくれる
のは、ベストセラーに振り回されるのではなく、ゆっ
たりとした気持ちで好みの作品を見つけ、自分だけの
本を編む愉しみ。好評を博した特別講義を完全再録。
あなたも「北村教室」の生徒になってみませんか。
        *
以下、各章を簡単に解説しようとしましたが長いので、タイトルだけ。

第一回 アンソロジーは選者そのもの

第二回 アンソロジーは別の本への呼び水

第三回 アンソロジーは《今という時》の記念

     終わりに

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紙の本

紙の本現代語裏辞典

2011/05/16 19:41

いいものは口コミでその良さが伝わります。こんなに面白い辞典があった、もしかして日本の言語文化を変えるかもしれません、しかも笑いの力で。さすが、筒井康隆サマ・・・

14人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は本を予約して買うことはしません。基本はあくまで現物チェック。気に入れば、そのまま書店で買うし、改めてネット書店で購入することもあります。ともかく、実物を手にして、装幀や紙質、手にしたときの重さ、そして勿論、値段を確認して総合判断で購入を決定します。無論、結婚する前まではもっと気楽に買っていたのですが、今になって思えば、当時の買い方が異常だった。

そのように悔い改めて清い消費生活を送っていた私ですが、生まれて初めて(多分・・・)本の予約をしてしまいました。それが神様・筒井康隆の手になる『現代語裏辞典』です。しかし、です。やはり予約は予約、なんと我が家に届いた時は、予約時と値段が違っていました。ま、あくまで値段は予価ですから、動いておかしくないのですが、出版前一ヶ月で値段が変わるというのは、株や古書みたい。

ま、所詮は本ですから変わったといっても数百円のオーダー、困りはしませんが、え、予定と違う、くらいの戸惑いはありました。それはともかく、以前出た『悪魔の辞典』の、あくまで翻訳書で、普通の書籍ですといったスタイルだったのに対し、今回は装幀からして完全にフツーの辞典なわけです。最近では珍しい箱入りなのですが、それも含めて辞典コーナーに相応しいもの。豪華というよりは使いやすそうな本・・・

ちなみにページ数は448頁、四六判上製函入(函派は上製じゃありません、軽微なもの)で、装丁・本文頁デザインは関口信介、飾り文字イラストは阿部伸二です。箱から本を出した時、なんで小口にこんなに色むらがあるんだろう、って疑問に思いました。実はこれが人の顔であることを知ったのは大分あとのこと、最初は「なんだかキッタナクテ、いやだな」って思ってました。出版社のHPにはこの本について
                *
執筆期間8年の記念碑的大著、ついに刊行!

今年、作家生活50周年を迎える筒井康隆さん。その記念すべき年にふさわしい大著が刊行されます。「あ」から「わ」まで、日本語のあらゆる言葉を笑いと毒たっぷりに定義しなおす前代未聞の辞典。筒井さんの連載史上最長の8年をかけて収録された項目数は、なんと1万2千! 読者は笑ったり、ゾッとしたり、うならされたりしながら、日本語の豊かさ、面白さを再発見するでしょう。唯一無二の作家の発想の源が記された「読む辞典」です。(KN)
                *
と書いています。文中の「筒井さんの連載史上最長の8年」というのは、<あ>~<ねは>が「遊歩人」2002年5月~2007年9月、<ねひ>~<わん>が「オール讀物」2008年5月~2009年11月、ということですが、どうも筒井一人の仕事というよりは朝日ネットの中の著者の会議室で様々な人からもらったアイデアやヒントをもとに、筒井が纏め上げたというのが正しいようです。

実は、この本、途中で読むのをあきらめたほどに面白いのです。うーん、なんとも誤解を招く表現ですね。こういったらいいでしょうか、この本は、タイトルに辞典とあるように、本来は自分がそのとき知りたいと思った言葉の裏の意味を知りたくなった時に、読む、ついでにその周辺の言葉についての意味も調べて楽しむ、そういう「本当の意味での」辞典なんです。

だから<あ>~<わん>まで、順番に読んでいくのはあまりに意味がない。私は、途中で次女にこの本を回しましたが、そうすると一向に戻って来ません。確認すると、毎日、ちょっとづつ読んでいる、それも五十音順じゃあなくて、毎回、えいや、って行き当たりばったりで頁を開き、その左右の頁を読むんだそうです。そして笑う、これが楽しいらしい。彼女に倣ってランダムに頁を繰って、面白そうなものを書きだしてみましょう。断っておきますが、私、根は下品ですので、そこのところよろしく。

はなくそ【鼻糞】憎い客に出すキャビアの上に丸めて乗せるウェイター
たちうお【太刀魚】魚類のダックスフント。凍らせるとチャンバラができる。
ダックスフント【dachshund】1 犬類の太刀魚。2 女性用の抱きつき枕
しきしだい【式次第】退屈目録
じき【磁気】ピップエレキバン
えんじょこうさい【援助交際】やめなさい。
かいわ【会話】原稿枚数を稼ぐ手段。
てきれいき【適齢期】妊娠した時。
なまいき【生意気】目下の者の正論。
なりきん【成金】邸宅の下品さですぐわかる。
ひがみ【僻み】清貧の腹の中。
リクルート【recruit】贈賄法を教える会社。
ルンバ【rumba】ルンルンしている婆。
さいじょ【才女】美人のみ。
さんだんじゅう【散弾銃】河馬の脱糞。
セコイヤ【sequoia】せこくない。
せっしゅう【雪舟】何。贋作? そんな雪舟な。
たねうま【種馬】婿養子のこと。
ハイジ【Heidi】あるブスの少女。
ばいめい【売名】執筆活動の全て。
いんろう【印籠】助さんが間違えて「この員嚢が目に入らぬか!」

あくまで一部ですし、たまたま開いた頁の中の、短いもので楽しいものを選んだ結果がこれで、視点を変えればもっと面白い、笑えるものが満載です。

実は、筒井翻訳の『悪魔の辞典』が予想に反して面白くなかったものですから、今度も予約こそしたものの、結果についてはあまり期待していなかったんです。予約をしたのはあくまで、私にとって神様である筒井康隆の新刊だから。ところが、これが実に面白い。あまりの楽しさに一気に読むことなんて、勿体無くでできません。ということで、書棚に置いて時たま読む。そんなことをしている間に、この本、菊池寛賞を受賞してしまいました。

とはいえ、道は決して平坦ではなかった。今、書店に行って手に入るのは四刷以降だろうと思うのですが、結構ここまでが長かった。私は予約本が届いてから、何度か近所の書店で奥付をチェックしていたのですが、すくなくとも二月くらいは初版のままだったはず。つまり、そんなに売れていなかった。なーんだ、せっかく予約までして買ったのに、全然売れてないじゃん、って思いました。でも、じわじわ売れていたんですねえ・・・

それにしても笑えます。居間にでも置いて、気が向いたときに好きな人が読む、面白いことが書いてあったら家族のみんなに読んであげる、そうやって楽しむ本じゃないか、そんな気もしてきます。ともかく、笑えるし感心する。我が家では、夫も、今年から働き始める長女も、震災で授業開始が遅れた次女も、楽しそうに読んでいます。一家に一冊あってもおかしくない、まさに記念碑的大著。

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紙の本

紙の本百年の孤独

2010/05/27 20:18

桜庭一樹は自ら『赤朽葉家の伝説』について言っていますが、阿部和重の『ピストルズ』、そして西尾維新の小説ですらこのマルケスの作品の影響下にあるんじゃないでしょうか。何度でも繰り返し読むことができ、そのたびに発見がありそうな、孤島に持っていくには最適な一冊です。

19人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』に出会っていなかったら、私はこの名作というか奇作を読むことはなかったかもしれません。それほどに『赤朽葉家』は面白かったし、桜庭が『百年の孤独』に寄せる想いは大きいものでした。多分、桜庭作品にほれ込んでしまった読者の多くが、この本の存在を知り、それならば、と挑戦したのではないでしょうか。改訳版の発行が2006.12.20で、私の手元にあるのが 2009.5.15 8刷とあります。さすがロングセラー、着実に読者を拡げています。

それにしても、好きですね、このカバー。ま、全体を見ないでいうのは何ですが、ここだけみれば完全に書の世界。しかも前衛、それでいてどこか古賀な趣がある。このガルシア=マルケス全小説のカバー画はどれも秀逸ですが、角背とややアイボリー入った質感のある紙、それにモノトーンの現代画、そして文字を白、金、銀を使って配する、新潮社装幀室っていうかShinchosha Book Design Divisionの実力を見せつけられる気がします。I think so. 

そのカバー画とデザインについては

Drawing by Silvia Bachli
91.7:without title,1991,"LIDSCHLAG How It Looks",Lars Muller Publischers,2004 through WATARI-UM
Design by Shinchosha Book Design Division 

とあります。

本文のほうですが、正直、あまりに夥しい数の人間が、殆ど同じような名前で登場するので、巻頭の家系図を見ながら読むのが正しいかもしれませんが、私としてはむしろ、同じ名前の人間はたとえ祖父と孫であっても、結局は同じなんだ、というマルケスの意図のようなものが感じられて、あえて混乱したまま読むのがベストではないか、なんて思ったりします。

たとえば、この小説では恐ろしいような大量虐殺が描かれるのですが、それすら被害者の関係者たちすら無かったこととして納得してしまう、あるいはそんな人間はいなかったことになってしまう、いや、ほんとうは虐殺なんか無かったのかもしれない、それはどっちでもいい、多分、マルケスはそう描いてもいます。だから、このお話を克明に、文学的に読み解くことは必要なんでしょうが、最初は混沌のなかに投げ込まれたつもりで読むのが正解だと思うんです。

有り難いことに、というか当然のことにこの本は再読、再々読をしても飽きることはないでしょう。その時にメモを取ったらいい。ちなみに、私は巻末の梨木香歩の解説を読みながら、そうか、そういう人間関係が描かれていたのか、とプロの読み方に感心したものの、でも本当にそう書かれていたのか、といわれると、もしかしてドーデモいいんじゃないか、マルケスは読み解かれることを望んでいないんじゃないか、なんて思ったりもするわけです。

そういう意味で、詳しい人物像をいつものように紹介することが、一回しかこの本を読んでいない私には難しい。ですから、とりあえず記憶に残っている人間について書いておきましょう。

なんといっても小町娘のレメディオスです。もちろん、レメディオスの曾祖母であるウルスラがいますし、レメディオスの父であるアウレリャノ・ブエンディア大佐もいます。もらわれっ子のレベーカや、彼女に嫉妬し結婚を妨害しまくるアラマンタも凄いです。それと嫁ぎ先に来て、自分流を押し通そうとする、レメディオスに一歩譲るものの、それでも比類なき美女のフェルナンダも立派です。そして最後の方に登場する、これまた美女のアラマンタ・ウルスラがいい。

でもやっぱり、小町娘のレメディオスです。だって彼女については最初は
                *
母親の清楚な美貌を受け継いだレメディオスは、小町娘のレメディオス、という名で知られるようになっていた。
                *
といった程度の描写でしたが、それは
                *
 そのカーニバルの女王には、小町娘のレメディオスがえらばれた。怖いような曾孫の美貌をつねづね心配していたウルスラに、それを止める力はなかった。その時まで、アマランタと連れ立ってミサに行くときはともかく、彼女をひとりで外に出したことはなかった。ミサに行くときも、黒いマンテラでかならず顔を隠させた。僧侶に変装してカタリノの店で罰当たりなミサをあげるような、およそ信心に縁遠い男たちまでが、信じがたいほどの美貌のうわさが低地じゅうに伝わり、驚くべき熱狂を呼びさましているいる小町娘のレメディオスの顔をひと目みたいという、それだけの理由で教会に足を運んだ。その願いがかなうまでにはずいぶん時間がかかったが、しかしこの機会を与えられないほうが彼らは幸せであったかもしれない。その大半がそれ以後、二度とやすらかな夢を結べなくなったからだ。それができた男――彼はよそ者だった――も心の平安を失って、汚辱と悲惨の泥沼にはまり、数年後のある晩、レールの上で寝ているところを汽車にのしかかられてバラバラになった。緑色のコールテンの服と刺繍入りのチョッキを着て教会にあらわれた姿を見たときから、彼が小町娘のレメディオスの妖しい魅力に惹かれて、遠方から、ひょっとすると外国の遠い町から来たことを疑う者はなかった。
                *
とか
                *
 実際に、小町娘のレメディオスはこの世の存在ではなかった。
                *
とか、はたまた
                *
 レメディオス・ブエンディアが祭りの女王にきまったというニュースは、数時間のうちに低地の向こうまでひろまった。彼女の美貌がうわさになっていない遠い地域にまで伝わって、その苗字を政府転覆の陰謀のシンボルだと考えている連中の不安を呼びさました。
                *
とかに変化していきます。彼女のエピソードはそれこそ枚挙にいとまがありません。彼女の体臭は男たちを発情させ、彼女の姿みたさに押し寄せた男たちは、家の屋根に登っては転落死するしまつ。女ですら彼女の美しさを否定するものはありません。その小町娘のレメディオスは、それでも並みいる男たちの求愛をあっけなく、というかそっけなく退けて全く気にするところがありません。それはただただ無垢の美しさなわけです。

桜庭一樹の小説がこの影響を受けていることは本人も明言していますが、私が思うに西尾維新ですらその影を抜け出てはいないのではないでしょうか。ついこの間、阿部和重の『ピストルズ』を読み終えましたが、これも同列に扱ってもいい気がします。日本人作家への影響はわかりましたが、『百年の孤独』が海外の作家にどのように読まれ、どのような作品を生むことになったのか、今となっては、そちらが気になって仕方がありません。一生ものの一冊です。

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紙の本

紙の本ベルカ、吠えないのか?

2005/07/07 20:26

本命とはこういう小説をいいます。何の本命かは、書きません。でも、こういうハイレベルな小説が評価されるには、読む側の資質が問われます。壮大な犬の歴史談です

13人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私はてっきり熊だと思い、長女はあっさりと「犬、可愛い!」と見抜いたカバーの話から始めましょう。装幀は関口聖司、写真はAFLOと書いてあります。でも、被写体が何であるかは別にして、これって完全にノンフィクション、動物に関連する記録向けのデザインですよね。
で、ベルカ、って何でし。彼?の第一声は「うぉん」です。祖国ソビエトが消えてしまう前の年に、老人がただ一頭殺さなかったイヌで、ベルカです。
話はスプートニク5号のときに遡ります。フルシチョフがアメリカの鼻を明かそうと、二匹のイヌを乗せて地球の周りを17周した宇宙船は、無事回収されます。そのときのイヌがベルカとストレルカ。後に番うことを国家に認められ子孫を残すことに成る二匹の名は、以降、北の連邦で受け継がれてきたのです。
巻頭言が笑えます。
「ボリス・エリツィンに捧げる。
// おれはあんたの秘密を知っている。」
ですから。
特に最後の章なんか、タイトルは『ベルカ、吠えないのか?』と男らしい感じがしますが、「ベルカ、吠えないの?」ってなると、何だか少女がしゃがみこんでイヌのまえで首を傾げてるって云うか、愛らしい感じが出てます。でも、これが違うんです。ここらの変遷は、ぜひとも作者に聞いてみたいところです。ま、確実にいえるのは50年以上の歴史が詰まってる、ってことです。
「おれは解き放ちたいのだ」は199X年のシベリアです。山奥に迷い込んだ男が見つけた老人の家、そこで若い男が村への道を尋ねています。それが銃撃戦に変わります。静から動への一瞬の変化、でもそれは、忽ちのうちに再び静けさへと変わります。そうですね、だれだってスパイ物、或はロシア・マフィア、テロリズム小説だと思い込むのですね。
でも、舞台は一気に1943年のキスカ島になります。そこには四匹のイヌがいます。日本海軍所属の北海道犬(旧称アイヌ犬)の北、陸軍所属のジャーマン・シェパードの正勇と勝、そして米軍捕虜のシェパードであるエクスプロージョンです。ともに、軍部によって選び抜かれた軍用犬ですが、日本軍の撤収によって島に取り残されています。そう、これはその四頭の血の歴史譚です。
いやいや、実はそんな生易しい話ではありません。もっと多くのイヌの血が絡みます。そしてバックグラウンドとして、人間の愚かしい歴史があります。あの日本が大敗した第二次世界大戦、その後の世界の流れを決定付けた米ソの軍拡競争、ベトナム戦争、アフガン戦争などなど。その中でイヌは大陸を彷徨います。あるときは、自分たちだけで群をなし、あるときは人間に守られながら。
登場人物です。まず、大主教がいます。極めて暴力的な老人です。そして日本ヤクザの会長がいて、その娘がいます。11歳か12歳ということになっています。その少女を人質にしている老人のもとには、少女が勝手に名づけた、ロシアばばあ、女1、女2(のちに、イチコ、ニーコとよばれるようになります)、オペラがいます。
そう、これはその暴力的な少女の成長と、全く無関係なイヌの歴史をハードに描いた巨編なのです。読みながら、なんて硬質な文章だろう、これこそがハードボイルドではないか、そう思いました。ヘミングウェーもハメットもろくに読みもしないのに、勝手なことを云うなと叱られそうですが、私にとっては、この文体こそがハードボイルドなのです。
無駄がなく骨太。単純でいながら、読み飛ばしはおろか、いい加減な息継ぎも許さないような緊張感溢れる文章。それに、先が全く見えない展開ですから、読了に時間がかかるのも当然です。イヌの話、と気軽に飛びついた長女が、途中で「これって簡単に読むの無理!」宣言したのも肯けます。
それにしても、凄い話を思いつくものです。もしかして村上龍『半島を出よ!』より上?

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紙の本

吉田秀和と同じ会場で音楽を聴いた、吉田の褒めるCDを聴いた、同じ時代を生きる喜びを実感させてくれる評論家の最新の成果。長命であれ、知性よ

13人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

吉田秀和全集の最終巻である。前の23巻『音楽の時間5』で、奥様を亡くされて文章を書く気がしなくなってしまったような一文があって、そうなると最終巻はどうなるのだろう、時間的に2004年の文章はないだろうに、と思っていたら、2001〜2003年に音楽雑誌に連載されたディスクを中心に、古くは1959年、最新では2004年の詩があるけれど、どちらかと言うと1980年代の文が多くて、安心したというか納得。
読んでいて思わず23巻のことを思い出してしまうのは1977年に書かれた『冬の朝』。夫婦二人きりの暮らし、どちらが早く目をさましても、相手のことを気遣い、床の中で本を読んだりしながら、のんびりしている。そんな或る朝、奥様がさきに目をさまし、枕もとにある眼鏡をとって・・・
わずか2頁の小文だけれど、老夫婦の優しい気遣いと、吉田の短気、そして老いたら私たちもこうありたいと思わず願いたくなるような穏やかな朝。笑い声が聞えてくる、ああ、でももう今の吉田には、思い出の中にしかこういう時間はないのか、と思うと、やはり人間の死というものの残酷さと、それが誰にとっても避けることのできないものなのだと思い、なんともいえない気持ちになる。
それは、巻末の水戸芸術館に関する文章でも、この芸術館を建設、吉田を招いていわゆる箱物行政とは一味違う、水戸を芸術のある意味発信地としようとした佐川一信の早すぎる死を偲ぶ文章を読みながら、結局、そこに行く機会もないままに、開館こそ知ってはいたものの、その後の状況も知らぬままにいた自分の不明を恥じるばかりだ。
しかし、この本を読んでいて吉田の考え方をよく理解できたのは、ピアニストの中村紘子の発言から、日本のあるべき姿を語る『時の流れのなかで』だろう。外国人演奏家や指揮者が日本の音楽会を席巻する様を憂える中村に対し、吉田は優しく彼女をかばいながら、しかし断固として、経済でも文化でも日本が自国の産物で世界を満たすことを拒否する。そして一人のショパンを生んだ、そのことだけでもポーランドを立派な音楽国と思い、日本も今のままで十分に立派な音楽国だと宣言する。
こういう吉田の世界観は、この全集を第一巻から読み通せば、殆ど変わることなく一本の線として彼の文章のどこにでも見ることができる。そして、それが彼の戦時中の情報局の仕事に携わり、少しでも音楽家の手助けをしようとすることにつながる。それは巻末の小池民男「解説にかえて」に詳しい。
もう一つ私が感心したのがリヒャルト・シュトラウスのルートヴィヒ・トゥレイ宛の書簡集を紹介する「友情の手紙」で、そこには
「それにしても、シュトラウスは、すごく耳のよい少年だったにちがいない。このころの彼の手紙には、演奏会へいったりして何か曲をきき、それについての印象をのべる際に、さかんに楽譜が書きこまれている。一度きくと、すぐ、譜面にとれるらしいのである。少なくとも自分のうけた印象は、管弦楽曲であろうと、オペラであろうと(!!)、楽譜で具体的に書きしるす力をもっているのだ。」
結婚する前、東京文化会館で何度、吉田の小柄な白髪姿を遠目に見て、それだけで十分に音楽を聞いた気になったことだろう。小池の解説に吉田の批評のあり方に触れた文がある。「音楽が生まれてくるプロセスを言葉で描く。気分ではなく、〈形をなしたもの〉になっていく過程を叙述する。読む人は音楽の手応えを感じ、音楽を聴いている気分になる。」そんな書き方をこころがけている、という一文を読んだ瞬間、自分のやっていることは一体なんなのか、思わず身がすくんだ。
小池のことば「完結した全集を眺めながら、音楽の導き手として、吉田秀和という稀有の人が同時代にいたという幸運に、あらためて感謝の念を深くする」で終えよう。

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紙の本

丸ビルが不良少女活躍の舞台だった、いえいえ、外から不良がやってきたんじゃなくて丸ビルで働いていた女性が不良だったという驚愕の事実、これは面白い庶民史です。

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いやいや、凄いですね、サブタイトル。だって「莫連女と少女ギャング団」ですよ。もう、時代の雰囲気がビンビン伝わってきます。で、その歴史を明治・大正・昭和と三つの時代にわたって追いかけた本、そう解釈して手にしました。大学生の娘二人をもつ親にしてみれば、心配のあまり思わず手を伸ばしてしまう、そういうものでしょう。じっさいは、大正、昭和がメインですが、今回は話の関係で目次を見てもらいましょう。
          *
    はじめに

第一章 明治●銀杏返しの莫連女たち
    明治という時代●不良少年少女の誕生:明治期の莫連女1・2、明治期の悪少女団

第二章 大正●洋装の不良少女団
    大正時代と不良問題●文界の不良少年団:不良化の原因1 悪いのは上流、下流?それとも中流?、不良化の原因2 映画を真似る少年、出たがる少女●不良化の原因3 浅草オペラの殿堂、金龍館と少女、不良化の原因4 文化 カフェーと自然主義文学●不良少女の更生策●ハート団事件と丸ビル、タイピストとショップガール、丸ビル美人伝●ジャンダークのおきみ●恐ろしき大正期の不良少女たち●イタリー人狙撃事件、不良外人問題と心中の流行、文学の愚連隊、ふたたび●附 草創期の新聞社と記者たち

第三章 昭和●断髪の少女ギャング団
    昭和初期と不良の傾向●女優志願がギャングの首領に、モダンガール=モガ、モガと「不良外人」、もてるフィリピン人●美人を団長に据える不良団●家出の増加と放任主義、ギャングの女、「バッド・ガールの流行●ギャング団の台頭●赤色系ギャング団の登場、満州帰りの不良たち●浅草の終焉●戦中・戦後の不良たち●

    あとがきにかえて
    主要参考文献
          *
がそれです。目次を一生懸命写していて思ったんです、●を多用しているんですが使い分けのルールが理解できない、と。●のサイズのルールが見えてこない。ということで自分なりに解釈して、ここでは●の大小を表記できないので「、」を使いました。結果、タイトル注の読点と区別がつかなくなっています。うう、知恵が湧かなかった・・・

で、それなりの数の写真が載っていますが、毎日新聞社提供のカバー写真以上の美人は載っていませんでした。私としては佐々木にこの本を書かせることになった丸ビルの不良少女「ジャンダークのおきみ」に期待していたんですが95頁、101頁、どちらの写真をみてもピンときません。むしろ91頁上の「休憩中のデパート・ガールたち。清楚でモダンなユニフォーム」の群像写真のほうに感心します。

それと、もう一つ、過去の記事を丹念に集める、それを現代かなづかいに改めるというだけで立派な読み物になるということへの驚きです。無論、そこには著者・平山のセンスと勘があるわけですが、見事だと思います。出版社の「堕落した書生を成敗せよ! 不良集団の四谷ハート団を率いたジャンダークのおきみ等、明治、大正、昭和を彩った不良少女たちの生態が今明かされる。第四回河上肇賞奨励賞受賞作。 」という宣伝文句も元気がいい。

で、読んで思ったのは、今もそうかもしれませんが、家出少女は狙われるな、っていうことです。今は、どちらかというと暴力団の餌食になるのかも知れませんが、この時代は不良少女によって仲間にされる。ま、それも今と変わらないかもしれません。となると大きな違いはどこでしょう。そうですね、舞台が丸ビル、っていうのが大きい。無論、丸ビルだけではないのですが、でも一番目立つのが丸ビルを舞台にしていた「ジャンダークのおきみ」です。

それと盛り場です。今の東京では渋谷、新宿、六本木あたりが不良のたむろする所なんでしょうが、この時代では浅草です。今の繁華街が確立したのは実は1970年以降といっていい。それまではやはり上野に近い浅草、そして日本橋、銀座でしょう。日本橋が遊び場か、といわれると違うんでしょうが、でも上野を起点にするとそうなる。浅草が不良の溜まり場。今もそういう雰囲気はあります。

しかしです、丸ビルです。町ではなくビルが不良の跳梁する世界、というのが不思議です。でも、冷静に考えると丸ビルは単なる建物ではなく、町として機能していたこと、ビル自体が開放されていたこと、データはありませんが18000坪という規模を考えれば、人工的には浅草並の立派な町であったと言えそうです。開放された町だから不良も活躍できる。むしろ今の大学あたりを連想したほうがいいかもしれません。

それと不良の多くが、上京組だったことです。上京、というよりは単純に家出です。え、それだけで家出する? ってくらいに簡単に家出をします。幸福な人間には分からないかもしれませんが、若ければ若いほど、自分の周囲に変な人間がいるだけで、外に飛び出したくなる。父親が横暴であれば、母親が無理解であれば、自分をかばってくれる人がいなければ、家を出る。

そういう意味では、丸ビルが舞台、っていうことは別にして、不良のありかたというのは基本的には変わっていないなあ、ま、大学出て就職して、そのあと不良、っていうコースがあった、っていうのは意外ではありましたけど。ともかく人がいれば不良はいるわけで、それは町だろうがビルだろうが学校だろうが職場だろうが、過去だろうが未来だろうが変わることはありません。それを改めて知らされた気がします。

最後にデータ的なことを少々。本書は第四回河上肇賞奨励賞作品「明治 大正 昭和 莫連女と少女ギャング団」を加筆・改稿したものだそうです。装丁は原条令子。ジュンク堂でトークイベントがあったそうですけど、参加者がみんな不良だったら、なんて思うだけで楽しくなってしまいます。

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紙の本

紙の本江戸の下半身事情

2009/06/02 21:58

知人が現在の地図と江戸時代の地図を重ねることができるデータブック?を楽しんでいましたが、この本を読むとその気持ちがわかります。岡場所、なんて何気に読んでますけど、あそこがそうだったんだ、なんて分かるんですから。それに性というキーワードで江戸をみる面白さ・・・

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永井義男のことを全く知りませんでした。カバー後の著者略歴を見ると

1949年生まれ。東京外国語大学卒業。作家。1997年、『算学奇人伝』で第六回開高健賞受賞。

とあります。『算学奇人伝』、読んだことはありませんがどこかで見た記憶が。でも『影の忍法』『辻斬り始末』『次現流始末』『将軍と木乃伊』『戯作者滝沢馬琴 天保謎解き帳』『図説吉原入門』のどれも記憶の網に引っ掛かってきません。時代小説にもしれなりに目を配ってきてはいますが、そこから漏れている、ていうことは北上次郎や豊崎由美などがが絶賛をしていないんじゃないか、なんて思ったりします。

で、このタイトルでしょ。普通、婦女子は手にしないわけです。私も躊躇った。だってそうでしょ、レジで「あの、お客様。あ、今、『江戸の下半身事情』っていう本をお買上げくださった、お客様。おい、そこのメタボのオバサン!忘れ物だよ」なんていわれた日にゃあ完全に東海林さだお化してしまうわけですよ、ね、これでは。

で、これが名もない出版社から出ているいかがわしげな新書だったら、私は絶対に手を出さないわけです。表紙くらいはチラ見しても、場合によっては風で頁がめくられるのを覗き見するくらいはしても、たまには手団扇で頁が自然にめくられるよう風を送るにしても、触れようともしない、んです、きっと。

でも、出版社が祥伝社でしょ。メジャーの端くれ。しかも盛川和洋の装丁が結構いいわけです。特に表の配色です。グレーの使い分けナンですが、上3/5位をちょっとメタリックな、青みが入っているかもしれない濃い目のグレーで、下2/5を明るいグレーでその境目を波型にしている。羊みたいな線描のマークもある。これなら読んでもいいじゃん、なんて思うわけですよ。一般の婦女子は。ちゃってね・・・

閑話休題。で、オバサンらしく興味深々で読みました。基本的に、意外だ!っていう発見はありません。どちらかというと、そうか、って肯く。色々な小説を読んでなんとなく知っていた気になっていたことが、はっきりとした、そういう本です。ただし、この本を読むと江戸時代の女郎は全員が梅毒だった、みたいな文章になっています。しかも治療は全くなされていない。

で、色街で遊んだ男は全て羅病し、家庭にそれを持ち込む。参勤交代で各大名が三千人近いお供を連れて江戸に来る。彼らも殆どが商売女のお世話になる。お坊さんもですよ。永井の文章を読む限り、江戸の町は梅毒患者で溢れていて、それが治療されていないっていうんです。ということは今の江戸っ子には淫蕩の血だけじゃなくて、梅毒が受け継がれてる、っていうことになる。

それと当時の人間がコンドームを使っていない、って何度も書くんですがね、じゃあ海外だったらどうだったんだ、って聞きたくなります。今と比べるのはいいんですが、やはり同じ時代のことを考えなきゃ。更に言えば、江戸江戸っていうけど薩摩の人間はどうだったんだね、戦国、室町に遊女はいなかったのかね、なんてね思うんです。この人の江戸蔑視は何だろう?って。

であわててネット検索。九州は福岡県生まれですか。半藤一利『幕末史』を読んだ人間にはわかるんですよ、江戸以外の地方にいた人間のコンプレックスが。薩長土肥の歪んだものの見方が。それが永井にない?なんて思ってしまいますよ。江戸時代がよかったんじゃないか、っていう今の風潮に対する警鐘を鳴らす、っていう意味合いは分かるんですけど、不自然にぶれるのは何ともねえ・・・

でも。それ以外はスラスラ読んでしまいます。六畳一間で家族が暮らす、そこでの性生活、なんていうのは今もあんまり変わりはないだろうな、って思いますが、長屋住まいで障子一枚で外に人がいる、っていうのは結構シンドイって思います。でも、いろいろ事が行なわれるのは夜のわけで、永井は書いていませんが、江戸時代は灯りのもとで事に及ぶわけではないでしょうから、覗かれても真っ暗闇、っていう状態ではあったろうな、って思います。

第二章、第三章も面白い。ま、考証好きの人ならだれでも知っているんでしょうが、あの千住が、浅草の裏が、男の遊び場だったんだ、当時でも板橋はダメだったんだ、なんてね。あとで添付の地図なんかみると、へえ、って思います。だって、音羽が遊里だったなんてねえ。護国寺との関係なんでしょうが、今の講談社があるあたりに、そのての店が並んでたんでしょ?知りませんでした。あんまり時代小説で音羽で遊ぶ、っていう話を聞かないもの。

その関連で言えば、深川の岡場所、っていう地図も面白いです。深川が遊び場だったことは分かりますが、こうして知らなかった地名をだされると、一気に江戸が近くなります。江戸の主な遊里、という地図と並んでいろいろ想像できて面白い。

それと第四章。当時の記録から様々な事件が紹介されます。記録自体は『耳袋』みたいに有名なものもあって、事件も耳新しいものから、どこかで聞いたようなものまでありますが、現代では考えられないような人間まで極刑が言い渡されしていて、人を殺しても10年くらいで大手を振って刑務所から出てこれる現在とはエライ違いだ、やっぱり江戸はいい、なんて思ったりもします。

性同一障害の話もですが、老人の「死ぬ前に体験してみよう」談は、切なくて笑いが固まってしまいます。


最後はデータ的なことです。カバー折り返しの言葉は

■現代日本人にも通じる江戸市民の「性愛感覚」
 江戸は、前近代的な政治システムと重苦しい世間体に支配された
街だった。当然ながら夜の生活も不自由極まりない。ゆえに過剰と
もいえる性風俗の繁栄がもたらされる結果となる。
 かのシーボルトが品川宿で目撃したのは、位の高い御仁が白昼
堂々と娼家に出入りする姿だった。「まるでコーヒーでも飲みに
いくかのように!」と驚嘆しながら、彼は記した。
 現代日本の男たちが、風俗産業に対してさほど後ろめたい感情を
持ち合わせていないのも、やはりそうした江戸の遺伝子が作用して
いるからなのだろうか。本書では、江戸の下半身にまつわる諸事情
をざっと案内したが、シーボルトのように驚くか、思わず同感する
かは、読者個々の判断に委(ゆだ)ねよう。

目次は

はじめに

第一章 江戸の性生活は楽ならず
 声は筒抜け
 こっちの小僧が待ちかねて
 鉄棒引きとのぞき
 女郎屋で羽目をはずす
 六畳間を二組で割床 ほか

第二章 性風俗こそ江戸の一大文化
 若いうちに遊んでおけ
 元遊女であることを隠さない
 シーボルトもびっくり
 品川の客は、侍と僧侶
 売春の価格差は、三百四十四倍? ほか

第三章 「フーゾク都市江戸」をのぞく
 吉原VS岡場所
 遊女大安売り
 なぜ神社仏閣の門前に岡場所があるのか
 葬式の帰りに女郎買い
 深川七場所 ほか

第四章 江戸発、「性」の事件簿
 江戸にもいた性同一性障害
 僧侶は医者に化ける
 淫欲の寺
 張形で失神老人
 大きすぎて怪我 ほか
 
引用・参考文献

装丁者は、盛川和洋です。

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紙の本

紙の本東京奇譚集

2005/12/02 17:38

マンションの階段で出会う少女との会話なんて読むとね、申し訳ないけど逆立ちしても森博嗣なんざあ、勝てないなあって。同じロリコン趣味でもレベルが違うんです

13人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ついこの間、村上春樹の本を読んだんだよなあ、一年で三冊なんて随分早いペースだなあ、なんて思いましたが、よく考えれば『象の消滅』にしても『ふしぎな図書館』にしても、過去の作品の改版みたいなものですから、新作としては『アフターダーク』から一年なんで、まあまあかな、なんて妙に納得しています。
といっても、素直に肯けないのがこの本に対する世の評価ですね。ま、ネット書店絡みののサイトでは、相も変らぬ微温的な評価が軒並みで、読んでいるこっちが辟易してしまうのですが、例えば、最も影響力があるであろう WEB版 本の雑誌 では、各書評氏の採点は軒並みC。おいおい、ほんとかよ、です。読む前から先入観もっちゃいけないんでしょうが、気になるわけです。なんたってタイトルがいいので、期待してましたから。
まず、装幀は並ですね。ヒット続きの新潮社装幀室ですが、凡打っていう感じ。むしろ、個人的にはソフトカバーのほうが似合うじゃないか、そのほうがカバーの色合いや内容の柔らかさとマッチするんじゃないか、そんな気がしています。その点、松永かのの装画・挿画は、木版画なんでしょうが、特有のあたりのよさ、暖かみがあって、お話に合っています。メタリックなカバーが東京で、雨を連想させる挿画が奇譚の雰囲気を出してます、ってのはちょっとゴーインな解釈ですが・・・
世の中には偶然では片付けられないことがある、そんな例をあげながら、ゲイの調律師と人妻との出会いが、周囲との関係を変えていく「偶然の旅人」、ハワイでサーフィンをしていた19歳の息子が鮫に襲われた。一人息子を失った母親の「ハナレイ・ベイ」、二つ下の階に住む母のところに出かけた夫は、これから戻るからパンケーキを焼いておいて、という言葉を残して失踪した。男を捜すことを依頼された探偵の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。
今、愛しているひとよりもっと素適な人に出会えるのでは、そう思い続けるうちに本気で人を愛することが出来なくなった小説化が出会った謎の女、男が語る小説の筋書きは「日々移動する腎臓のかたちをした石」、一年程前から自分の名前を忘れてしまうことが多くなった人妻が、カウンセリングをうけるうちに「品川猿」。
これらのどこが不満なんだろうなあ、 WEB版 本の雑誌 の書評氏たちは。確かに微温的ではあるんですよ。でも、それを否定したら村上春樹は読めませんよね。「偶然の旅人」でディケンズの『荒涼館』を小道具にしているところがありますけれど、私のようにディケンズ好きには、いいなあ、としかいえませんね。偶然が少しもわざとらしくないし。
たしかに「ハナレイ・ベイ」には、慟哭はありません。でも、今までだって、村上の作品にそれほど激しい心の動きがあったかどうか。むしろダメ学生たちとの会話に見られるユーモア、それも微かなものですけれど、らしくていいな、って思います。極めつけは「どこであれそれが見つかりそうな場所で」の、探偵が階段で出会った小学生の女の子との会話でしょう。これって、いいな、って思いますよ。
例えば
「急におちんちんを見せたりしないよね?」
「しない」
「小さな女の子のパンツを集めたりもしてないよね」
「してない」
という会話があります。
ここだけ取り出してもわけわかんないですよね。是非読んでください。こうね、読んでいるだけで笑みがこぼれるわけです。森博嗣ならロリータになっちゃうところが、それがならない。
それから最後になりますが、奥付を見てください。今まで、村上の本でこういうことをやっていたのか、他の本ではどうだったのか、私は知りませんが、この場でのタイポグラフィック、こういう美しさは初めてですね。新潮社装幀室の遊び心に座布団5枚!

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紙の本

紙の本蒲公英草紙

2005/07/15 21:17

長女と意見が一致したのは、これは『ドミノ』を別格にすれば、恩田の最高傑作ではないかということ。語り口も見事だけれど、ラストの歴史観が最高

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は恩田陸のファンではありますけれど、気分で読みますので、読み落としがかなりあります。例えば『光の帝国 常野物語』も未読です。にも関わらず、私は『蒲公英草子』を恩田のベスト作品と断言します。『ドミノ』はジャンル違いなので、比較できませんけど。
ああ、恩田陸は楽しんでいるな、と思うのは語り口です。主人公の、如何にも時代を感じさせる、丁寧で、どこか纏わりつくような口調は、戦前の古き良き時代の探偵小説を思わせます。ジャンル的には、思い切って「お屋敷もの」と呼びましょう。地方の名家となれば、それだけで一つのスタイルができてしまいます。古い洋館、美しい両親と子供たち、運命といった世界、恩田はそこから一歩も出ようとはしません、むしろ、その中を愉しげに散策している、というのが正しいでしょう。
そして、「お屋敷もの」には絶対にこの語りが必要なのです。そう、あれはいつのことだったでしょうか、今でこそ名家の多くが広大な敷地を切り売りし、名前こそ昔のままですが、建物はおろか街並まで変わってしまった川沿いにある高台の一角、そこに私の家はありました。
といった文章だけが、時代を遡り、昔へと通じる扉を開けることができるのです。
【装画図案】菊寿堂いせ辰、【装幀】中島かほる。ブックデザインでいうと、集英社というのは、どちらかというと安っぽい装幀をつけてしまう傾向があります。その中で、今回の本は立派です。菊寿堂いせ辰の図案の力でしょうか、カバー中央の黒い帯びと白抜きのタイトルも効いて、集英社らしからぬ装幀となっています。
話は回想録の形を取っていて、時代は20世紀を迎える前後、日清戦争後で舞台は福島の阿武隈川沿いの平野という漠としたもの。主人公は中島峰子で、彼女は隣の槙村家に出入することになりますが、その原因となったのは、槙村家の聡子です。槙村家といえば、この一帯が槙村家の集落とも呼ばれ県内では有名であったといいます。
当主である槙村は十七代目、奥様は若松の商家出身の、夫より10歳年下で、五人の子供がいます。長女は当時、女学校に通っていた貴子、近所で憧れの的である長男の清隆、峰子の兄の友だちで乱暴者の次男廣隆、おっとりした三男の光隆、最後が病弱で20歳までは生きられないだろうといわれる聡子です。その聡子の話し相手に、と選ばれたのが峰子でした。そして、姿を見せた聡子は、同性の峰子ですら胸をときめかすような美少女だったのです。まさに、「お屋敷もの」です。
中島家は槙村家の土地を代々借りているかつての藩医で、祖父の代から医院を開き、槙村家のかのかりつけ医師でもあります。峰子には、家を継ぐことになるだろう今は東京の医学校に行っている雅彦と、勉強嫌いでひそかに文学者を志す秀彦という二人の兄がいます。そして蒲公英草子とは、峰子が自身の日記につけた名前でした。
他にお屋敷には、発明狂の池端先生、洋画を学んだ椎名、若き仏師の永慶などがいます。そしてお屋敷の中にある天聴館に住むことになるのが春田葉太郎と彼の妻、それに光比古、紀代子という二人の子供の4人です。『光の帝国 常野物語』を読んだ人は、ここで肯くかもしれませんが、未読の私でも何の違和感もなく話を楽しむことが出来ます。
この本の素晴らしいのは、どちらかというと閉じられた世界で、社会の動きなどに無関係な濃密な人間関係を楽しむ「お屋敷もの」の決め事を、回想ということで見事に破る、それがラストなわけなのですが、この社会性がいいです。恩田の作品の多くは、社会性を喪失しています。耽美、までは行きませんが、閉鎖的な環境を好んで取り上げます。それは島であり、地下であり、学園であり、宿舎であり、お屋敷です。そこをすり抜ける、この作品の凄さですし、私が最高作と評する所以です。

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紙の本

紙の本海辺のカフカ 上

2002/11/18 20:53

こんなに笑ったなんて、何年ぶりだろう。それも大声を出して

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

笑った。こんなに愉快な本を読んだのは何時のことだろう。最近では泣く本には当たるけれど、声をあげて笑ったのは、中島らも『寝ずの番』以来だろうか。大分前なら井上ひさし『表裏源内蛙合戦』、小林信彦『ちはやふる奥の細道』、『O・ヘンリー傑作集』、山田風太郎『天国荘奇譚』、いやいや海渡英祐の吉田警部補シリーズかもしれない。外国ものならフロストだろうか。そんなことを友人に言ったら、彼女は小林信彦『唐獅子株式会社』と浅田次郎『巣鴨プリズン』をあげた。そんな彼女も、カフカには笑ったという。そう、極上のユーモア小説。

主人公は二人、一人は作品の中で自分のことを田村カフカと呼ぶ15歳の少年。彼が誕生日に家出するというのが、とても自然。小中学校と孤立して生きる事を選んだというのも現代的。少年が考えた末に、家出先に選んだのが暖かい四国。そこに向かうバスで知り合ったのが、さくらさん。少年のビジネスホテル暮らしが始まる。午前中は公営の体育館で汗をながす。それから私設の甲村記念図書館に出かけて、読み残していたバートン版『戦や一夜物語』や『漱石全集』などに閉館まで目を通す。館員らしからぬ大島さんや、清楚な佐伯さんとも顔見知りとなって穏やかに過ごす日々。それが8日目におきた事件で終わりを告げる。

もう一人はナカタサトル。1944年の11月、引率されて行ったきのこ狩りの野外実習で起きた、16人の子供たちが相次いで倒れ意識を失う事件。その中で9歳のナカタだけが記憶を完全に失う。現在は、知事から補助を受けながら中野区を出ることも無く暢気に暮らしている。彼の好物はうなぎ、特技は猫と話ができること。気になるのは知事からの補助が打ち切られること。いま、彼が探しているのがゴマという三毛猫。ゴマを知るカワムラさんと名付けた猫との珍問答、ミミというシャム猫登場と、彼女の恐ろしいまでに冷酷な訊問。

カフカと大島さんとの対話、哲学的な話もだが、シューベルトのピアノソナタを巡る会話は奥が深い。喫茶店でベートーヴェン/大公トリオを巡る話や、ハイドン、そしてチェリストのフルニエについての話も、クラシック・ファンの心を擽る。それから図書館で繰り広げられるフェミニズム論争の緊張感もいい。笑えるのがナカタさんとカワムラとの噛み合わない会話。そしてミミが繰り出すビンタ攻撃。

しかし、圧倒的に楽しんだのは下巻。星野さんが登場するに及んで、どちらかと言うと静的だった話が、大きく動き出す。彼とカーネル・サンダースとの深夜の会話には、思わず吹き出してしまい、そばで勉強していた娘に「そんなに面白い?」と聞かれてしまった。それからも何度も笑ったのだから、かなりのものである。ギリシア悲劇にも似た憬れの女性との関係も、幽明の世界での出来事のようで、甘美。

スキャンダラスな事件小説では味わえない貴重な体験。娘の通う女子中学で、かなりの数の生徒がこの本を読んでいるという。ここには、金にまみれてしまった日本人の心を大きく転換させるであろう何かがある。それが大江健三郎の小説でも重要な四国を舞台にしているというのも面白い。戦争や音楽が小説に影を落とすところもだが、ナカタさんの会話を読むと、どうしても大江の小説を連想してしまう。

浮遊したようなニュートラルな世界。優しい言葉遣い。性的な幻想。奇妙な人間たち。壮大な神話世界の投射。実在の都市すら仮想であるかのように描かれるのに、他のどんな小説よりも、そこにいる人々の息遣いが間近に聴こえてくる確かな世界。「海辺のカフカ」を一緒に聴いてみませんか。

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紙の本

紙の本原発の闇を暴く

2012/05/01 19:33

野田政権がやっているのは、原子力の安全性を確認するのではなく、電力会社の算定を鵜呑みにした必要性の確認。おまけに、誘致で地元を危険な場所にしてしまった町長あたりが積極的に原発再開に積極的だとか。日本をダメにしてきた人間は、いつも変わらない・・・

14人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

新聞・マスコミが絶対に取り上げようとしないのが、今までずっと広瀬隆が原発の危険性を説き、東電が原発による発電コスト算出にあたって廃炉費用をわざと抜かして他の発電コストより安価になると指摘し続けてきたことではないでしょうか。福島の事故が起きても、マスコミの広瀬無視の姿勢は変わることがありません。その広瀬に明石昇二郎という強い味方ができたとき、何が起きるのか、カバー折り返しの内容案内は、以下のように刺激に満ちています。
              *
いまだ収束への見通しがたたない福島第一原発事故。根拠な
き安全・安心神話を振り撤き、リスクと利権を天秤にかけ
て後者を選択した「原子力関係者」たちの所業が招いた「人災」は、
いまも被害を拡大し、汚染を進行させ、人々の暮らしを破壊し
ている。
 原発震災の危機をかねてから予測し、警鐘を鳴らし続けてき
た作家とルポライターが、事故を招いた構造とその責任の所在
を、徹底的に白日の下にさらす。危機にある国民が「原発」につい
て真摯に考えるための、必読の一冊!
              *
一般論はやめて、今回は目次に従って、すべての項目にコメントをつけることで評に替えようと思います。では早速開始。

第一章 今ここにある危機

    命より電気のほうが大事なのか:原発推進者はここを履き違えています。
    本当にこわいことはメディアに出ない:何故って、電力会社は顧客ですし、政治かも企業人も責任を取りたくないから。
    汚染水は東電の本社に保管させろ:そう思うだけではなく、東電本社を原発の場に移転させるべきです。
    子供たちが被爆している:相変わらず、マスコミは被爆量が少ないというニュースばかり。
    「半減期」という言葉にだまされるな:たしかに、誤解しやすいことばです。
    「原発震災」は今後も必ず起ころ:地震があるよりなにより、扱っているもの自体が危険です。

第二章 原発事故の責任者たちを糾弾する:なぜマスメディアが実名を書かないのか?

    安全デマを振りまいた御用学者たち:公害しかり、あらゆるところで安全といい続けた学者たちの職歴の変遷を追いかけろ!
    原子力マフィアによる政官産学のシンジケート構造:公害、薬害のときも同じ構図がありました。
    原子力マフィアの実権を握る東大学閥:先日も食品関係の講演会に東大出の講師が来ていましたが、チェルノブイリ周辺での奇形の発生は、原発の放射能のせいではなくて、自然界にもとからある放射能のせいだとのたまう・・・
    放射能は「お百姓の泥と同じ」:なんていうか農家の人蔑視がこんなところに・・・
    報道番組を牛耳る電事連:私もイライラします、そこまでして原発をやりたいのかと・・・
    “デタラメ”委員長の「想定外」:殆どが原子力の素人か、プロの場合はすべて東電のひも付き、もしくは原発推進を目指す経済産業省関連の人間というのが凄いです。作る側、審査する側、基準を作る側、すべてが最初から原発ありきで動く日本・・・
    「深く陳謝」するなら五四基の原発を止めよ:異議なし!
    「最終処分」という恐怖の国策:結局、日本の原発も宇宙事業も、原爆を保有するための手段だってことは誰にでも分かる。スパコン世界一だって、戦争準備以外のなにものでもないと。
    「被爆しても大丈夫」を連呼した学者たち:一族で、被災地に引越ししなさい!
    政府発表の「チェルノブイリとの比較」:最初から、いい加減だと思って聞いてました。
    「放射能安全論」の源流:しかし、基準をあっさり変更して危険を安全にすりかえるっていうのは、犯罪でなくてなんでしょう。
    耐震基準をねじ曲げた“活断層カッター”:まったく同じ手法。東大出の人が使う頭脳は、ペテンのためなんでしょうね。

第三章 私たちが知るべきこと、考えるべきこと

    監視の眼を怠るな:なぜ、小沢一郎が今回の原発事故、震災で沈黙していたか、というのは彼自身が福島や青森に各施設を建てるよう推進してきたからだと理解できました。渡辺恒三も福島に原発を担ぎ込んだ張本人だということも知りました。でも、これってあまりに片手落ちの情報ではありませんか。広瀬さん。少なくとも、全ての原発について誰が動いたか、そして誘致に積極的に動いた地元の人間と、その資産の異動まではっきりさせるべきではないでしょうか。しかもです、それに賛同した国会議員だって同罪でしょう。全てを明示すべきです。
    原発がなくても停電はしない:私も思っていました。なにより、全ての資料が電力会社からの提供というのがおかしい。
    独立系発電事業者だけでも電気は足りる:こういうことをマスコミは報道しない。
    発送電の事業を分離せよ:異議なし!
    電力自由化で確実に電気料金は安くなる:原発を稼動させたら電気料金を安くすると、電力会社。で、何か起きたら税金で?
    ガス台頭で原発はますます御用済みに:いや、原発なしでいくとなったら節電のための事業が起きるんです!
    無意味な自然エネルギー神話:この視点はなかったけれど、無批判な自然崇拝については疑問いだいてました。
    福島について、真剣に考えるべきこと:まず、〈死の街〉といってはいけない、なんていう縛りをやめることです。原発は〈死の街〉を生み出す可能性があることを認めないかぎり、結局はそこに住むことを強いられるんです。
    日本から原子炉を廃絶するために:政治家も電気事業者も、そして官僚もだめ。結局、自分たちがやるしかない!

あとがきにかえて 明石昇二郎

構成・宮内千和子
取材協力・鈴木耕
装幀 原研哉

ちなみに、原発再開論を聞きながら、まず大切なのは本当に電力が不足しているのかの検証が不十分だし、原発再開を前提にした議論が多すぎることにあきれます。それと電力料金についても、廃炉などのすべての費用を盛り込んだ試算が必要ですし、個人的にはもし、東電の試算が正しいとして、二割の電力料金アップですむなら、原発廃止に決まってるでしょ、って思います。

それと石原都知事の原発反対論を感情的といって片づける姿勢。ま、ここからは広瀬隆の投げかけた意見になりますが、もし本当に都民が必要とする電源ならやはり、お台場に作るべきじゃないでしょうか、原発。それができないで、他県に押し付けておいて反原発運動する人間を誹謗する、どっちがヒステリックやら・・・

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