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おそらく国際関係論、あるいは国際関係思想における批判理論という方法論的アプローチにおいては、日本では小林先生と同等あるいはより思想的アプローチを多用し、批判への重点化を議論が出来る範囲で先鋭化させているという点では、土佐教授はリーディング・パーソンでしょう(小林先生は、なんだかんだいって思想よりも理論だし、リアリズムを含めた国際政治という大きな、批判理論諸氏に言わせれば旧来的な学問的基盤に土台を置いているんじゃないかな)。本書は読み物としては面白かった。
第1に、批判理論の視点から、既存の見方や概念に潜む盲点や問題点を次々に明らかにして行くという明快な構成。第2に、批判理論の若手研究者にありがちな思想レヴェルへの傾斜や現実の無視、ありうる反論への目配りのなさ、といった問題点が本書ではさほど見られず、ある程度リアリスト、リベラリスト(いずれもネオを想定しているが)、そしてコンストラクティヴィストの視点や批判を想定し、議論を進めている。
問題点としては、第1に、批判、批評、そして現実や理論の問題点の暴露という点で評価は出来るかもしれないが、批判理論に投げかけられる一番大きな疑問、即ち「何かを壊す事が出来ても、生み出す事は出来ない」、「脱構築の『脱』、それも『破壊』という意味での『脱』でしかなく、構築されるものはない」等々というような批判に対して、本書が有効な回答を持っているとは思えない点。第2に、批判理論は、著者自身が指摘するように、現実の肯定というよりも否定や批判という研究姿勢や取り組みを持って用いられる事が多いが(著者はこの追求も問題があると指摘している)、そうした取り組みが突き詰めて行けば自己否定や自分たちの方法論や見方にも当然疑問は投げかけられる、という所にまで議論は当然及びうるし、そう考えると批判理論の内ゲバ的な、非生産的な将来に若干危惧感を持ってしまったという点。ただ、批判を批判にとどめず、創造性を伴った真の意味での脱構築に向かおうとする筆者の研究姿勢は、その方法論的枠組みを異とする論者からも一定の評価を得るだろうし、本書自体は現実に潜む問題点を異なった視点から明らかに、議論を喚起するという役割は果たしている。
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国際関係論におけるポストモダニズム思想の受容は社会状況の流動化に伴う、知としての国際関係論の再編成と解することができる。1990年代に入ってから英米製国際関係論研究においてもポストモダニズムやポスト構造主義の視覚からの研究が目立つようになってきている。
具体的な外交政策の背後にあるメタ外交の特質が国家アイデンティティの形成、そのための境界設定にあるとすれば、境界を作り、維持する外交が境界を超える普遍的ヒューマニズムを推進するというのは明らかに矛盾である。
冷戦時代は長い平和の時代。
正常化とはデモクラティックピース論でいうと、民主化。
国際政治の領域における情報操作、コントロールに関連してクリントン政権において国際安全保障問題担当・国防次官補を務めたこともあるジョセフ・ナイは情報の傘が実質的なヘゲモニーの確率を左右する重要問題だと指摘している。
正戦論がそもそも平和主義と軍事的リアリズムの両義性を持っているとすれば、現実の状況が軍事的リアリズムの方へ流れているということが示しているのは、正戦のための条件が緩和ないし無視されるようになっている。
戦争の原因は世界政府が存在しないという国際政治の構造に起因しており、国際政治における戦争は不可避であるといったネオ・リアリズム的な仮説をひっくり返したものの、世界政府を確立することで世界平和が実現できるといった仮説に立脚している。
ヘゲモニーが国際公共財を供給するといったような善意のヘゲモニーの仮定を前提にした覇権安定論の妥当性はその後の国際政治の現実に照らし合わせてみると、あまりないといってよい。
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この本の概要を述べるならば、筆者が64ページで述べているように、ソーカル事件に象徴されるように、フランスの現代思想には素朴な科学主義、実存主義からわけのわからないレトリックや数式を使った知的ファッションであるといった批判もあることを紹介しながら、それでもそうしたポストモダン(構造主義、ポストコロニアル、サバルタン・スタディーズ)の思考様式が現代の国際政治を語る際に存在するさまざまな欺瞞や矛盾を暴くうえで必要であり、具体的には人間の安全保障という一見、世界大のヒューマニズムの拡大の実践と思われるような思想にも死刑のパラドックスや人権思想や国民国家のズレという人権のアポリアというものが隠されていると主張したり、フーコーのまなざしの非対称性という考えを援用して、現代の戦争とは一種のスペクタクルであり、もはや戦争ではなく権力(暴力)の一方的な行使であると主張したり、国際政治学者におけるリアリストが準拠する現実の自明性とリスクの排除、国民国家のアイデンティティの再構築のための外交様式自体がグローバリゼーションや相互浸透化によって変容を迫られているとしたうえでまたそのグローバリゼーションに伴う人の移動を阻害し、囲い込むような現象さえ起きていると指摘する。さらには最近、流行りというデモクラティック・ピース論をシステム・レベルでの視座が欠けているという分析レベルの問題点とそうした考え自体がデモクラティック・エンラージメント政策を推し進め、「永遠平和のための永遠戦争」という究極のアポリアに陥る危険性を指摘している。第二部ではイマニュエル・カントの『永遠平和のために』の第三確定条項を持ち出し、カントの言う普遍的・無条件の歓待が現代においていかに厳しい挑戦に曝されている現状を紹介し、それでも筆者はデリダを引き合いに無条件の歓待という倫理的契機を取り戻そうとしている。