紙の本
〝わかりやすさ〟を叱る、〝わかっていない〟かもしれない人
2007/06/15 16:26
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
はじめからいきなり顔面にストレートをぶち込んでくれるのが本書。ニューアカ以後の軽薄短小ブームが幸か不幸かデフォルトになり、外国語が身近かになる一方で邦語本の売れ行きはタバコの自販機以下という状況下、「わかりやすさ」を唯一の基準にしたようなトレンドに思想書から専門書までが流される中、その「わかりやすさ」こそ「罠」であり「大衆操作」だと断じるところから本書ははじまる。
本書は90年代に書かれた数々の〝わかりやすい〟処方を批判する一方で、「ニーチェ、フロイト、マルクス」を読むと決定的に世界が違って見えてくるという思想哲学の王道をいくキザな台詞を用意している。この3大思想家への期待はニューアカの聖典である『構造と力』(現在50刷のロングテールもの?!)でも結論として示されたセリフだ。しかしニューアカが誤解?されてしまったらしいコトは、誰もこの浅田彰の言葉を真っ当に受け取ってないことからもわかる。理性よりも時代の感性を信じるといった浅田は、まさしくそういう憂き目にあっている、ということだろう。3大思想家への期待という同じ結論を冒頭で示している本書も誤読と誤解に終わるのだろうか?
本書を東浩紀の言説と比べ照応させる人は少なくないだろう。理由は二つ。通史的なアプローチでニューアカを正面から取り上げたものは意外なほど無いし、それに真正面からニューアカと闘争?した東浩紀そのものを取り上げて俯瞰しようとしたものも無いに等しいからだ。それに80年代から90年代までの、あるいは2〜3年前の情況データさえ把握されていないケースが少なくなく、データベース論がいきわたるのに比例してデータの喪失(年金問題だけじゃない!)あるいは情報検索能力のテッテー的な劣化が一般化しているのかと思うほどの情況下で、本書のタイトルにもなっている「1983−2007」を概観するのには便利でもある。
柄谷シト、セカンドインパクト、セントラルドグマ…など編集者に恵まれたのかキャッチ!なタイトルや構成は認めるが、哲学を重んじるワリには取り上げたニューアカの系統樹は短く(ニューアカを準備した前段階が全く触れられていない)、その対象領域は小さなデーターベース(二次情報?)でしかない感がある。せっかく浅田の「スキゾ」「パラノ」の援用の仕方が『アンチ・オイディプス』と違うことを指摘し、原典では<精神病>と<神経症>が真の対立軸であることを示すなど説得力があるのに、世代間コンフリクトが巧みに隠蔽された件も(吉本に対する浅田の対応の仕方など)見逃しており、その分だけ本書を凡庸にしている。
ひと言でいえば、ニューアカを超えようと孤独に奮闘したであろう東浩紀のように中村雄二郎や時枝言語学までも射程に入れている(ニューアカの前段階として把握している)深さはココには無い。本書は軽くはないが、浅いのだ。
論理オンリーのヘーゲル的オメデタさ(つまりイデオロギーの呪縛)からの解放は中村雄二郎の『共通感覚論』や市川浩の「身体論」が突破口を用意し、それを引き受けた展開が日本のポスモダ=ニューアカだったハズだ。そして、教条的なロゴスの呪縛から時代の感性による判断にシフトしたのではなかったか? もともと京都学派のように欧米において評価された邦人哲学は〝非ロゴス的な認識〟という点で興味を引いていたワケだが。そもそもニーチェ、マルクス、ウィトゲンシュタインらは論理的な孝察の末に非インドヨーロッパ語系に全く別の哲学の可能性を見出していた。それは〝欧米思想の限界〟でもある。
だが日本には最初から非イデオロギー的な認識論があったワケで、それはハイデガーやヘーゲルも言及している。その点での孝察が本書には皆無。それが本書の限界なのだろう。本書が始まりに過ぎないことを早く示してほしいと思うのは過剰な期待だろうか。
紙の本
〈ポストモダン〉を、今思考すること
2007/06/05 09:11
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
本上まもるの『〈ポストモダン〉とは何だったのか』は、類書もみらるこのテーマにあって、しかし待望の、そして稀有な達成である。本書はまず〈ポストモダン〉期を、1983-2007と数字で明示しているが、これは日本の〈ポストモダン〉のメルクマールを成した書物を軸にしていると同時に、筆者の同時代史──思想的主体形成期とも重なる。そう、日本の〈ポストモダン〉を正しく語り得、そして継承し得るのは、おそらく1970年前後に生まれ、その10代後半から20代を〈ポストモダン〉と併走してきた本上まもるのような人々であるはずなのだ。こうした著者・読者によってこそ、本書に並べられた数々の書物は、今改めてその輝きを取り戻すのだし、あるいは読み返さなければならないという焦燥感を焚きつけられもするのだ。章構成には『エヴァンゲリオン』のタームが用いられ、重要な例示として『ブレードランナー』や『マトリックス』を初めとする映画が頻出するが、本書の照準はあくまで「哲学的思考」にこそあり、しかもそれはサブ・カルによって薄められて今日跋扈する「思想らしきもの」とは、決定的に踵を分かつ。
〈ポストモダン〉は、その名称にも刻印されてしまったように、一過性の軽佻浮薄なブームと捉えられ、そして、前後の世代に挟撃されるようにして、今なおそのような位置に甘んじざるを得ない情勢にあるようにみえる。文字通り〈ポストモダン〉思想を生きてきた本上まもるが、そうした中にあって、果敢に思想的な闘争を仕掛けたのが本書である。先にも述べたように、本書の理想的な読者は、おそらく思想体験を共有する同世代だと思われるが、射程がそこに留まっているわけではない。本上まもるは、〈ポストモダン〉と括られてしまう、個々の議論を丁寧に辿り直し、あるいは読み直しの方向性を示唆し、(「軽便さ」とはおよそ対極にある)本質的な思考としての「重い」部分を取り出し、再吟味を繰り返していく。この粘り強い思考と、シャープな読解それ自体が本書を彩る魅力の1つであることは間違いないが、それが、1983-2007という時系列に即して積み重ねられていく時、そこにはある重要な「哲学的思考」の軌跡が浮かび上がってくる。それは、徹頭徹尾「重い」もので、だから新書であるにもかかわらず、本書を読むのは大変疲れるし集中力を要する。著者自ら述べるように、「わかりやすさ」とは、1つのワナに他ならないのだし、むしろ「現代思想のチャート」を楽に読みたいのならば、他にも類書はいくらでもある。(ただし、それは貧しき知識の縮小再生産でしかないのは自明である。)そうではなく、本書は「哲学」であると同時に、「哲学的思考」への導きの書である。もちろん、ここにいう「哲学」「哲学的思考」とは、〈ポストモダン〉を指すのだが、本書を読んでわかるのはその輪郭であり、哲学的ポテンシャルであり、その今日的有効性(ただし、実用性とは別)に他ならず、その先の「哲学的思考」は、ひとえに読者自らの能動的なアプローチに賭けられている。本書には、ブックガイドも付いており、また、〈ポストモダン〉の古典と呼ばれる作品やその思考的源泉となった著書についても、実に緻密で着実な読み解きがなされている。〈ポストモダン〉をその「哲学」としての「重さ」とともに取り戻すためには、さらなる読書と「哲学的思考」が読者1人1人に要請されるのはいうまでもない。本書の記述に漲る力強い思考に読者が共振するならば、その時、そうした作業を強く動機づける装置としても本書は働き出すだろう。
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偉大な思想の面白さとは、今まで当たり前のことと信じていた自分の世界が、突如として不安定な水面のように揺らめきながら崩れ去る姿を目にする瞬間の、残酷なまでの快楽にあるかもしれないのだ。
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いい意味で難解な一冊。フランス現代思想をベースに書かれているが、その基本的な知識が大前提としてあり、門外漢に丁寧に解説しようという気が感じられないのがまたいい。
正直読むのには骨が折れるが、いろいろ調べながら、じっくり読みフランスの現代思想を学ぶにはよい。
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ポストモダンについて。ただし、ニューアカデミズムで扱われるのは、浅田彰であり柄谷行人であって中沢新一ではない。つまり、そういう立場からの解説ではないか。
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ポストモダンと言われても、感覚的にもいまいち、論理的にはほぼ全く分からなかった。
そこで手に取ってみたのだが、やはり今もその状況は変わっていない。
ただポストモダン思想の背景や、社会背景など、専門的に勉強しなければ知りえないことが沢山書かれており、私のような素人でもおもしろく、また感心しながら知識を深めることが出来た。
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日本でいうと浅田彰の『構造と力』以来のポストモダン思想の日本での受容と衰退を軸として、そこに影響を与えた海外の思想(マルクス、ハイデガー、フロイト、ニーチェからラカン、フーコー、デリダ、ジジェクといったところ)と、日本の主な登場人物(浅田彰、柄谷行人、東浩紀)についてごく簡単に解説しています。
個別事項の感想では、柄谷行人への批判として、暴力の隠蔽と美学の欠如を挙げていますが、これは著者の期待とずれであって、批判として的を射たものであれかは疑問があります。
東浩紀の初期の仕事への賞賛は少しおおげさなような気がしますが、フランス思想の専門家から見ると素晴らしい仕事なのかもしれません。ただ、浅田彰をファーストインパクトとして、それに対するセカンドインパクトと位置付けるのは肌感覚として正しくないように思います。なお東浩紀の最近のアニメやポップアートへの傾倒については批判的です。
意外なところでは福田和也の評価も高いです。何となく食わずきらいでしたが、そこまで言うのであれば代表作から読んでみましょうかね、という気にはなります。
全般的に読みやすいですが、著者自身も何度か言い訳しているように乱暴に要約しているところもあり、注意が必要かもしれません。ただ、あらためてポストモダンが現在に与える影響は少なく、「何だったのか」と思わず言ってしまう気分にはなりますね。個人の読書体験からは、フーコーや柄谷行人は今でも読む価値があると思っていますが。
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ポストモダン批判本かと思いきや、日本ポストモダン回顧本でした。
特定世代のすっごく狭い限定された嗜好へ一時期耽溺した人には、とても刺さる回顧本だとは、思います。
筆者あとがき「昔NHK・FM『サウンドストリート』で坂本龍一の新しい曲を聴いた次の日の朝は、普段の何でもないアスファルトの通学路が鮮やかに輝いて見えていた…テープのウォークマンで坂本龍一の曲を聴きながら『構造と力』を読んでいた」人の共感を得るであろう、やたらニッチなガイドブック。
まあ年寄り以外は読まなくてもいいと思います。
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[ 内容 ]
1983年、当時二〇代であった浅田彰の『構造と力』がベストセラーになり、フランス現代思想を源流にもつポストモダン思想が日本でもてはやされた。
しかし、ニューアカデミズムと呼ばれたその思想は、相対主義の烙印を押され、まもなく世間一般から忘れられてしまう。
ニューアカは一時の流行にすぎなかったのか?
じつは、成熟した日本社会の見取図を描ける唯一の思想として、まったく古びていないのでは?
浅田彰、柄谷行人、東浩紀、福田和也…日本におけるポストモダン思想の潮流を再検討する。
[ 目次 ]
第1章 回想する(一九八三年の思想;終焉をめぐって)
第2章 摘要する(フランス現代史のおさらい;ファーストインパクトとしての浅田彰;柄谷行人とシトたち;セカンドインパクトとしての東浩紀)
第3章 主体の壊乱(社会学と心理学の隆盛;ラカンはわからん?;ナショナリスト福田和也)
第4章 結論(スキゾ対動物)
現代思想をいまの視点から再チャート化する。
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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新書のカンタンさとニオイがデカめの文字からあふれ出す、ポストモダン――っつーか日本とフランスの現代思想をこき混ぜた感じでお手軽に読める。ポストモダンなるものをよく知らないのでそんな印象になるが、斜め読みするのには良い。
ブックガイドも章末にあることだし、入門書らしいと言えば入門書らしいが、少しまじめに取り組みたいならばもう少し詳しい解説のあるものが良いか。少しく冗長、少しく著者の趣味が入りすぎている印象。とりあえず傍線を引くっつーよりも冗長で趣味成分多めの部分を網掛けしてもう少し内容を圧縮できそう。情報を取ると思って読めば自然斜めになる。
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フランス現代思想と、ニューアカデミズム以降の日本のポストモダン思想について、ざっくりとした解説をおこなうとともに、「消費社会のあだ花」に尽きないポストモダン思想の意義について論じている本です。
柄谷行人の批評における「美学」の欠如の遠因を精神分析の「転移」を避けていることに求めたり、東浩紀のサブカルチャー論を批判して「悪しき意味でのポストモダン」を特徴づける「動物」を乗り越える可能性をさぐったりと、著者自身の独自の考えもある程度示されています。
著者は本書の「はじめに」で、「わかりやすさ」には本質的なものがうしなわれる危険性があることに注意を向けていますが、基本的には新書らしい「わかりやすさ」がある程度実現されているといってよいと思います。ただ、新書一冊のなかでポストモダン思想を乱暴に概観し、著者独自の考察も展開するというのは、やはり無理があったのではないかという気がしないでもありません。消費社会というぬるま湯に浸ることに安住するような「悪しき意味でのポストモダン」から脱却する道を求めようとする著者の意図には共感できますが、残念ながらその議論が十分説得的に語られているようには思えませんでした。
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ポストモダンなるものを深く理解しようとすれば、より専門的な(新書ではない)書物に当たる必要があろう。そもそも「ポストモダン」を言葉としてしか理解できていない者―すなわち自分のような者―が、まずポストモダンについて概観するには適当な内容である。
ポストモダンが気になりだした端緒は、ポストモダンを代表する一人としての東浩紀が気になったことにある。宮台真司などとネット上で繰り広げた対談などを、しばしば興奮しつつむさぼり読んでいた。そこで絶えず登場する「ポストモダン」という言葉に自然と関心を持ったのも、当然だったかもしれない。しかし、ネットなどでポストモダンという言葉を調べてみても、どうもその実体はつかめず、深い霧の向こうにある言葉だと長らく思ってきた。
この本は、その意味でタイトルに惹かれて読んだものである。いきなり専門書を読み、理解する自信などなかったからだ。結局深い理解には至っていないが、そこに到達するには新書一冊分の内容では到底無理であることは理解できた。そして、東浩紀が使った「動物的」や「郵便的」といった言葉の意味も、その概要は理解できたと思う。
フランス現代思想を牽引してきた著名な哲学者を源流とし、ポストモダニズムを標榜してきた思想の流れをとりあえずつかんでおくには、手ごろな新書である。しばしば著者自身の考え方が入るので、ニュートラルな視点でポストモダンを概観するのはやや難しい印象があるが、入門書としての新書の役割を考えれば所与の目的は達していると考えられる。
「人間は、言葉を受け入れる代わりに、存在を一部放棄し」ている、というのが人間の条件とあった。つまり言葉を媒介することが条件づけられた人間は、直接的にむき出しの現実と向き合えない。オタク社会が跳梁跋扈している現代を見ると、その主張にも頷ける。
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主に日本におけるポストモダンの思想史について解説している。
終盤は話題があちこちに飛んでやや散漫な印象があり、また心理学や統計に対する認識はそれほど単純なものではないと思う(もちろん著者は分かった上であえてそういう認識を示していると思うが)。
ただ浅田彰をはじめ、主要な思想家は網羅されており、ポストモダンの思想史を知る上では参考になる。
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PHP新書って新書の中ではいまいち信用がおけないような気がしてあまり手に取ることがないのですが、これはタイトルが気に入って読みました。
しかし著者紹介欄に書いてある経歴らしきものが学歴のみ、著者名で検索してもこの本しかヒットしないという、覆面作家なのか、PHP新書らしい(?)胡散臭さは担保されています。
内容はマルクス、ニーチェ、フロイトを軸にラカンやハイデガーなどを中心に語るオーソドックスな解説で入門書らしい構成でした。