投稿元:
レビューを見る
-----
書評
『アジア主義 その先の近代へ』
中島岳志著
潮出版社 定価1900円+税
「思想としてのアジア主義」の可能性
アジア主義とは国家を超えたアジアの連帯を模索する戦前日本の思想的営みと実践のことだが、日本思想史においては、これほど罵倒にみまれた対象は他にはない。なぜなら、連帯と解放というスローガンが、大東亜戦争という最悪の結果を招いたからだ。しかし、日本の未来はアジアとの友好的な連帯なくしてあり得ない以上、その思索の軌跡を尋ねることは必要不可欠だ。どのようにアジアを眼差し、何に躓いたのか。その精査によってミラへの前進は可能になる。アジア主義の限界と挫折を腑分けし、可能性を掬い上げる本書は、その最良の導きになろう。
出発点は西欧列強の帝国主義の「覇道」を打破し、アジアの連帯という「王道」の確立だ。しかし王道を掲げる連帯には、常に日本の帝国主義という「覇道」が深く影を落とす。支援は介入というパターナリズムへと転化し、植民地支配を文明化と錯覚してしまうが、それは、暴力には暴力で応じるが如き陥穽でしかない。近代西洋という磁場に絡め取られた名誉白人の如き思い上がりは、アジア主義を必然的に変貌させてしまう。近代西洋という重力から自由になることが、まず必要なのだ。
著者は、「不二一元」論を説く岡倉天心や「東洋的不二」論の柳宗悦らに「思想としてのアジア主義」の可能性を見出す。彼らは、近代西洋のものの見方・考え方を根源的に変革することで、その筋道を素描している。
「社会進化という幻想、世俗主義の反宗教性、相対主義の限界。これらを乗り越えるためには、思想としてのアジア主義が必要です」、
同化か衝突を迫る二項対立から差異の相互薫発へパラダイムチェンジを促すところにアジア主義のアクチュアリティが存在する。
歪んだアジア蔑視ばかりが横行する現在、“わたしたちの課題”としてアジア主義に息吹を吹き込む本書を手に取ることで、情熱的に「その先の近代」へ進みたい。
(東洋哲学研究所委嘱研究員・氏家法雄)
--拙文「書評 『アジア主義 その先の近代へ』 中島岳志著 潮出版社」、『第三文明』9月、第三文明社、2014年、98頁。
-----
http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20140802/p1
投稿元:
レビューを見る
戦後70年を迎えた2015年。フランスで風刺週刊誌の編集部がイスラム過激派に襲われた。
本書を読み終えた後に、フランスの事件があって、やはり戦前から延々と続く西洋が世界の基準である「西洋の覇道」は、破綻していると感じる。
70年以上前に日本は、西洋に植民地化されたアジアを解放して、アジアの連帯を目指そうとした。だが、結果的に侵略の一途をたどった。中島岳志氏が指摘するように、アジアは仏教徒、神道、儒教、ヒンドゥー、イスラムが「一つの世界」として構成されてきたのである。「この観念に回帰して、ここからアジア連帯の背骨を構築し、近代西洋世界に対する価値の巻き返しを進めるべき」という意見には同意である。
その上で、日本は自分たちが侵略の歴史を修正して解釈するのでなく、なぜそうなったのかを反省しなくてはいけないという。まさにそうだろう。
過去の過ちを直視するのは、気持ちの良いものではない。だが、アジア主義を掲げた志士たちの当初は、侵略ではなく、連帯を目指した熱い想いがあった。そこをしっかり理解すれば、なぜ過ちが起きたのかは、むしろ知りたくなる。
つまり、イスラム過激派のテロが生まれたのは、アメリカを中心とした西洋に虐げられた戦後の話。欧米が過ちを認めることができれば、まだ世界はやり直せる。そう思わせてくれるのが、本書である。
と書いた後に、安倍首相がイスラエルで声明を発表し、イスラム国によって日本人2人が殺害された。日本は西洋との有志連合で生きるのが正論とは思えない。中東を含めたアジアとの連帯をもう一度考える平和的なスタンスを考えなくてはいけない。
投稿元:
レビューを見る
西郷隆盛から石原莞爾まで幅広く論じているが、大川周明のアジア主義者としての要件とイスラームの宗教的可能性についてが最も考えさせられる部分だった。
全体的にはまとまりがないのだが、情報量は豊富で読む価値はあり。ただし、著者が恣意的に文献引用している点や、著者のリベラル保守という思想的スタンスを留意して読む必要はあるだろう。
投稿元:
レビューを見る
アジアを明確な地理的条件で規定することはできない。
政治的・経済的な立場の違いによっても定義が変わる。よって、アジア主義という言葉も明確な定義をすることはできない。
それはかなりの部分日本による帝国主義的思想と重なるが、完全に一致はしない。
アジアの定義が変容するように、アジア主義という言葉の意味も様々な定義が可能である。
竹内好ーアジア主義3類型
1. 政略としてのアジア主義
明治政府の視点から見たパワーポリティクスの論理。日本が国際競争力を高めるための資源獲得、他国からの脅威に備えるための安全保障としてアジアを地理的に支配しようという見方。
2. 抵抗としてのアジア主義
アジアとして考えられる範囲の内、大部分は歴史的に白人(西洋社会)によって植民地とされ支配されてきた。この西洋社会による帝国主義に対する抵抗としてアジア主義は生まれた。後の玄洋社や八紘一宇、大東亜共栄圏に繋がる「弾圧された民から生まれた抵抗意識」と考えられる。
3. 思想としてのアジア主義
西洋の主客を分離する認識論や存在論に対し、「もののまだ二分しないところから考え始める」主客一致を通して世界を認識する東洋哲学から見たアジア主義。
アジア主義に内在する共通性
アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると否とを問わず)
西洋社会がアジア人を支配するようになったのは科学の力によるところが大きい。
科学は対象を客体化し感情や主観を一切とりはらって分析するところから始まる。
主体と客体を分離するところから始まる西洋哲学が科学に繋がった。
西洋は科学の力を使って(彼らから見て)未開発の地を支配した。
「もののまだ二分しないところから考え始める主客一致」が東洋哲学だとしたら、どれだけ時間をかけても東洋から科学が生まれるはずはなかった。
2000年越しで人類史を見ると、西洋がアジアを弾圧しアジア主義が生まれるに至るまでの流れは、人類が通るべくして通った道とも考えられる。
大東亜共栄圏は大東亜戦争の戦争目的を「大東亜を米英の桎梏より解放してその自存自衛を全うする」と規定した。
米英が自国の経済発展のために東亜を抑圧し、侵略しようとするのに対する抵抗としての思想。
戦争目的を規定するのは、目的がない戦争は際限がないから。
アジア主義とは心的ムードのことであり、大東亜共栄圏とはその心的ムードが日本全体を包括する形で一体化したもの。