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片岡義男と鴻巣友希子というちょっと癖のある翻訳者ふたりがすでに複数の訳本が出ている「名著」7冊の冒頭部分を競訳。その後、対談形式で、あの部分はこういう意味合いを持たせたかった、とか、文法的にみると…などを論じ合う翻訳好き、英語好きにはたまらない一冊。
翻訳に関する二人の丁々発止もさることながら、何かと独断的、上から目線で言いたいことを中途半端にしか言わない片岡氏の言葉をうまーく鴻巣さんがすくいあげ、「それはこういう意味ですね」と”翻訳”しているフォローぶりがすごい。鴻巣さん、とてつもなく知識が深いだけでなく、お人柄の良さがにじみ出てました。
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タイトルが、落語の『蒟蒻問答』のもじりであることがわかれば、この本の遊び心の割合がだいたい知れよう。禅についての知識など全くない蒟蒻屋が托鉢僧の禅問答に、自分の売っている蒟蒻の大きさや値段を手まねで見せたところ、相手は勝手に解釈し、たいした名僧知識と退散するというお話。大方の日本人にとって英語の翻訳などは、禅問答のようなもの、所詮は勝手な解釈によって成り立っているのさ、というのがその心か。
今は作家として知られる片岡義男は英語が堪能、というよりむしろ、英語で考え、日本語で書く作家と言ったほうが分かりよい。英語と日本語の間にある果てしもない距離について考えさせる評論は、この人の独壇場である。若い頃、その英語力を買われ、翻訳を仕事にしていたことはエッセイその他で読んだことがある。鴻巣友季子は、言わずと知れた今をときめく翻訳家。
この二人が翻訳のあり方について語り合い、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』ほか五篇の人気小説の冒頭を、既にある訳を参照することなく、あらためて翻訳し、互いの翻訳について批評しあうという、翻訳小説好き、翻訳に関心のある人には、興味の尽きない対談本となっている。残り五人の顔ぶれは、サリンジャー、モンゴメリー、カポーティー、E・ブロンテ、そしてE・A・ポー。対象になった作品はその代表作。
序論にあたる「はじめに」に、二人の翻訳観が示されている。片岡の考えは、この人の読者ならおおよそ見当が付いていると思うが、初めての読者には、何という独りよがりな人だろうというふうに受け止められるかもしれない。片岡にとって英語はツールではない。書くことはもちろん、人との接し方に始まる生き方の基礎にあるもので、本人もいささか窮屈に感じていることが語られている。しかし、その規範から彼は一歩でも出ることをよしとしない。だから、何を訳しても、何を書いても、そこには片岡義男というスタイルがはっきり出ているのだ。
それに比べれば、鴻巣の方は、より自在である。原作者や時代に配慮しながら、いかにも名訳とうならされるような職人技を見せる。言葉の使い方も自由だし、一作ごとに変化も見られる。さすがにチャンドラーの“The Long Goodbye” の訳は奔放すぎて、ついてゆけなかったが。片岡が、あてはめ式に、ぴったり収まる言葉をできるだけフラットに使おうとするのに比べ、鴻巣は訳が降りて来るという言い方をしている。いうならば、なりきり型の訳者だろうか。
チャンドラーの“The Long Goodbye”については、定評のある清水俊二訳の『長いお別れ』に対し、村上春樹が『ロング・グッドバイ』という新訳をぶつけてみせたことで、新旧訳の比較論が喧しかったことを覚えている人も多いかもしれない。非力を知りながらも、二人の訳を比較しつつ、全篇を原書で読み通して、翻訳の面白さとともに、原文の持つ魅力に気づかされもした。そのチャンドラーの文章も、片岡にかかると、「陳腐」の一言で切り捨てられる。鴻巣のフォローなしには、この章は成り立たないのでは、という独断専行の片岡流が冴え渡るいちばん読み応えのある章になっている。
問題になるのは、テリー・レノックスがロールス・ロイスの中で酔いつぶれている冒頭のシーンで、駐車場係がレノックスの車に同乗している女性の視線を気にしない理由について書かれた次の部分。“At the Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.” 村上訳では「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいということ人に教え、幻滅を与えるために、<ダンサーズ>は、この手の連中を雇い入れているのだ」となっている。片岡訳だとこうなる。「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」。
主語“they” の取り扱いがちがっているため、全然別の訳という感がある。何故そうなるのかといえば、「英文の構造を理解しないままに意味を取ろうとしているから」(片岡)なのだそうだが、天下の村上春樹もかたなしである。くわしくは本文を読んでもらうしかないが、鴻巣は、この差を視点のちがいで説明しようとしている。村上は同乗女性の視点で訳し、片岡は駐車場係の視点で訳しているからだ、と。
知っての通り、“The Long Goodbye”に限らず、ハードボイルド探偵小説は、探偵の一人称の語りを採用するのが通例である。だから、基本的に視点はマーロウの側にある。同乗女性や駐車場係に移ったりはしない。片岡は、チャンドラーを視点の扱いが粗雑な日本の時代小説と同レベルの扱いをするが、鴻巣が一生懸命内面視点や描出話法といった用語を使ってフォローしているのがおかしい。ここは、もちろん、マーロウの視点で語られているし、そのように書かれている。
梃子でも動かない片岡の頑固老人めく一徹さが見ものになっている、というと皮肉が過ぎるだろうか。全般的には、英語の翻訳のコツや秘訣、基本的な約束ごとといったマニュアル的な内容も多く、鴻巣が拾い上げる「片岡語録」は、必見といえる。二人が訳した七編の作品タイトルが、よく出来ていて、これだけ読んでみても楽しい。『思い上がって決めつけて』というのは、何のことで、『逢えないままに』は何か、作品名を答えられるだろうか。二つとも片岡の訳だが、本文はフラットな訳を心がけるだけに、題名は思いっ切り遊んでいるようだ。
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同じテキストでも訳文が全然違うとか、翻訳専門家と作家とは翻訳の際の自由度が異なるとか、興味深い話が色々書かれているが、鴻巣友季子が片岡義男に気を使いすぎているのが惜しい。
分量にしては誤字、脱字も目立った。
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2015.2.8市立図書館
創作も翻訳も手がけるバイリンガルと翻訳専業の対話。
「透明な翻訳」にも実は二種類ある(日本でいう場合と欧米でいう場合とで違う)なんて、いままで考えてもみなかった。翻訳・通訳者だけでなく、わたしのような語学教師が二つの言語をどう対応させて教えたらいいかという現場にもつきものの興味深いトピックス。
ここまでは前置きで、メインは一つのテキストをおたがいに訳して持ち寄ったうえであれこれ話し合う。7番勝負。素材はオースティン、チャンドラー、サリンジャー、モンゴメリー、カポーティ、ブロンテ、ポー。原文があるから、自分で訳して参戦することもできるし、お二人の訳文を読み比べる楽しみのほかに、既存の翻訳との異同などをつきあわせたりもできる。
「おわりに」の対話も興味深い。母語がわかるとは、外国語を学習してわかるとは、どういうことなのか、という問題から、語学教育・学習法にまで話が及んでおもしろい。教える立場として、抽象的普遍的に本質をつかませ、「使えるようにさせる」にはどうすべきなのか、考えを巡らせないわけにいかない。
それにしても、片岡義男がバイリンガル(英語も母語)だったとははじめて知った。そうおもって彼の小説や翻訳を読んでみるといろいろな発見がありそう。
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『高慢と偏見』、『長いお別れ』など名作の冒頭部分を作家と翻訳家が翻訳し、互いの訳について(時には既存訳について)語り合います。
原文も掲載されていますから、どのような日本語に置き換えどのような構成で翻訳するのか
ということも解説されていてとても興味深いです。
原文をあくまで外からみる、翻訳はなかに入っていくことではないという作家片岡さんと、
作品全体を深く読み解いて一語一語を選択する職人鴻巣さんという組み合わせ。
片岡さんの容赦ない自由な発言(と、それをやわらかく包んでフォローする気遣いのひと鴻巣さん)も見所です。
チャンドラーの原文は迷走してて翻訳者泣かせのようですが、既存訳でも翻訳者によって意味が異なる文章がありました。
鴻巣 しかし、どうしてこんなに意味のちがいが出るのでしょう。
片岡 英語の構文を理解しないままに意味を取ろうとしているからです。構文こそが意味なのですが。
サリンジャーの「バナナフィッシュ...」についても
片岡 爪を塗っている記述は、言葉数の多さでなかば失敗していると思います
鴻巣 作家が失敗しているというところまでわかる(笑)。作家が失敗していると思ったらどうしますか。
片岡 自業自得ですから、そのまんま訳せばいいのです。
同業者の立場から作品をできるだけそのまま「フラット」に伝えたいという作家と
外国語で書かれた作品世界を日本の読者にできるだけわかりやすく伝えたいという使命感を持つ翻訳家の
刺激に満ちたやり取り、楽しみました。
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読みたい(知りたい、聞いてみたい)ポイントとふたりの会話が微妙にずれていて、もどかしい。最後の詩の翻訳が面白かったので、アーサー・ビナード『日本語ぽこりぽこり』購入。
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翻訳家もタイポグラファーもデザイナーも料理人もだけど、本当に小さな、微妙な差異を感知してコントロールして整えていくお仕事なのだ。ケーキを作るときに小麦粉をふるいにかける、という行為が頭に浮かんだ。翻訳家はそんなかんじがする。とーってもおもしろい。
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おすすめ資料 第272回 (2015.2.20)
「翻訳作業は奥深い!」という気分を味わうことができる本です。
「嵐が丘」など英文学作品の一部を翻訳者二人が訳しあって内容を検討するのですが、同じテキストから訳されたものの印象が違うのに驚きます。
自分ならどう訳す?と考えながら読めば、対談に参加している気分になれるかも。
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作家の片岡義男と翻訳家の鴻巣友季子が、課題として与えられたチャンドラー、サリンジャー、カポーティなどの小説の一部を競訳し、お互いの訳について語り合う。作家と翻訳家による正に副題通り“英語と日本語行ったり来たり”の目眩く翻訳談義である。
本書をより楽しむために、自分が翻訳家になったつもりで、7つの課題を訳してみて、片岡訳、鴻巣訳と照らし合わせつつ読み進むのもよいだろう。
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http://walking-diary.cocolog-nifty.com/honyomi_nikki/2016/05/post-8905.html
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さいごに日本の英語教育の批判をはじめたのはまったく余計。
「苦労しない(訳しやすい)」かどうか、どこにひっかかるか、で原文の効果や各作品の感触が伝わってくるのがおもしろい。
片岡氏=作家と鴻巣氏=翻訳家("職人")の省略するしないの差異など。
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翻訳者、片岡義男氏と鴻巣友季子氏が7つの作品の書き出しの数段落をお題にし、それぞれが訳した文章や表現について語り合うという趣向の本。選ばれている作品はジェイン・オースティン『Pride and Prejudice』、レイモンド・チャンドラー『The Long Good-bye』、J・D・サリンジャー『A Perfect Day for Bananafish』、L・M・モンゴメリー『Anne of Green Gables』、トルーマン・カポーティ『In Cold Blood』、エミリー・ブロンテ『Wuthering Heights』、エドガー・アラン・ポー『The Fall of the House of Usher』。
半分ぐらいは邦訳版を読んだことがあったけど、このお二人が訳すと既刊の邦訳書とは全く違った趣になり、翻訳次第で作品の雰囲気も受け止め方も大きく異なるんだな、ということに気づかされます。片岡氏は言葉に忠実に、でも削るべきは大胆に削る印象があり、鴻巣氏は原作から逸脱しない程度に自分なりの解釈を少しだけ滑り込ませる、という感じ。一方、タイトルも各自が訳してますが、片岡氏は本文の訳で遊ぶことが少ない分、タイトルで独自性を出していて、それもまた面白い。
また、冒頭に「透明な翻訳」とは何か、というテーマの議論があり、それも面白かった。曰く、日本の「透明な翻訳」とは「訳者が隠れ、原著が透けて見えるもの」であり、欧米では逆に「原著が消え、最初からその言語で書いてあったように読めるもの」らしい。日本では訳者ならではの味付けや言葉の選び方は不要だということ。ただ、この考え方も村上春樹のような熱狂的ファンを持つ作家兼翻訳家には当てはまらないのでしょう。実際、村上春樹版のチャンドラーやフィッツジェラルドはちょっと独特な表現が多く、クセの強さが目立ちます。それが良いという人もいるのでしょう。
お題として選ばれている作品には、それぞれに特徴的な表現が入っていて、英語を読んで自分なりに翻訳してみるのも楽しいです。各自の英語力、それまでに読み慣れてきた文章の種類、各作品のテーマにもよると思いますが、個人的にはチャンドラーやモンゴメリーは非常に読みにくかったです。
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ジェイン・オースティン『高慢と偏見』
レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』
J・D・サリンジャー『バナナフィッシュ日和』
L・M・モンゴメリー『赤毛のアン』
トルーマン・カポーティ『冷血』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
エドガー・アラン・ポー『アッシャー家の崩壊』
片岡義男さんと鴻巣友季子さんによる翻訳読み比べ。
同じ題材からの翻訳がこんなに印象が違うなんて驚き!「おわりに」で紹介されたアーサー・ビーナードさんが訳したらまた、全然違うのでしょうね!