紙の本
人それぞれの欲、人それぞれの満足。
2016/04/23 20:31
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投稿者:更夜 - この投稿者のレビュー一覧を見る
満たされているはずなのに「足りない」「数が足りない」「もっと何かあるはず」
そういった持てる者の憂鬱をよく描いています。
ベースとなっているのは番町皿屋敷の怪談ですが、実は詳しい前後を知らない・・・
奉公した先の大事な皿を割ってしまって、手打ちにされる女中が井戸から現れ
皿を数える、一枚、二枚・・・くらいしか知らなかったところを京極夏彦は丁寧に描いていく。
京極夏彦は「数が足りない」「いつまでも数える」といった事を何度も繰り返しながら、
満たされない者の欲求を描き出しています。
金はいくら稼いでも満足は人それぞれ。
そのように、きりのない慾を抱えて生きる武家社会と蔑まれても、そこにあるもので
満足な町人たちの世界の分離がなんとも切ない。
京極夏彦氏は私と同じ年。
32歳でデビューしたとき、同じ32歳がここまで書くとは・・・と驚愕。
歌人の穂村弘氏も同年代ですが、私達が10代終わりから20代にかけて
それはバブル期と重なります。
穂村さんは、エッセイでバブル期に目覚めた「自己実現」という欲求を書いていますが、
衣食住だけではなくプラスα・・・それが「自己実現」というもの。
この小説の武家の者たちは、「自己実現」に固執している。
衣食住は心配ない。では、さらにプラスαを求める気持が高まって、故に不満です。
満足しない。何か足りないと思う。欠けていると思う。それにいらいらする。
青山播磨は、何をやっても物足りない。何かが欠けていると憂鬱。
その家臣、柴田十太夫は、「褒められたい」という欲求が高い。新しい主人、播磨は叱りは
しないけれど、喜ばない、だから、褒めない。褒められたい・・・その一心です。
播磨の朋友、遠山は、次男で部屋住。生き殺しのような武家社会に呪の思いを持っている。
播磨に嫁する話が持ち上がった大久保吉羅は、強慾。といっても手に届かないものは求めない。
しかし、手に入るものは全て欲しい。だから手に入れる。青山播磨を「手に入れたい」と望む。
しかし、町人である菊や幼なじみの三平は、衣食住で精一杯。
だから他に何をのぞむのだ?日々、食べていけるだけで、十分ではないのか?
比べられても、莫迦としか蔑まれない身分の違い。それがこの悲劇のもとのような気がします。
菊はひょんな事から青山播磨の家の女中となる。
しかし、そこに吉羅がのりこんできて、菊を目の敵にする。
なぜ、欲しいものがない、と言えるのか。慾が人を生かすのではないか。
食べたい。贅沢したい。褒められたい。認められたい。そんな慾のない菊は吉羅にとっては
めざわりなだけ。
そこに青山家家宝と言われる十枚ひと組のめずらしい皿の存在とその行方。
十枚一組だからこそ、価値のあるもので、一枚でも欠けたらそれは意味がない。価値を失う。
さて、本当の価値とは何か。
満たされるというのはどういう事か。
何を基準にしたら満たされるのか。
怪談話としての怖さより、人それぞれの慾の違いが生み出す悲劇。
そこに自分の慾を底の見えない井戸の底をのぞきこむような恐怖を感じます。
紙の本
江戸怪談シリーズの中でも一番いいのではないか
2023/06/12 17:42
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
「江戸怪談シリーズ」の三作目。有名な「番町皿屋敷」を下敷きにしたものです。それぞれの章で、語りのメインの人物が入れ替わる。構成の妙が、読者を物語の世界に引き込んでいく。有名な怪談話なので、ラストはどういう風になるのかは大体わかっている。それでも面白さは何ら損なわれない。シリーズの中でも一番いいのではないか。
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欠けている、か。
2016/02/27 00:26
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投稿者:Zero - この投稿者のレビュー一覧を見る
テーマも深いし、構成も凝っているし、さすが京極と思わせる作品。別の作品では「隙間が我慢できない」というテーマのものがあったが、隙間につめてもつめても足りない、欠けているという点では根っこは同じなのかな。
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様々な皿屋敷の怪談を元にしたものなので、仕方ないのかもしれないが、結末に何故なのかと謎(菊と吉羅は誰に何故切られたのか)が残る。京極版に仕立て直したものであるならば、(個人的な希望としては又市一味が仕掛ける等して、)もう少しすっきりとした落とし所をつけて欲しかった。
だが、先二作もそうであるように、この物悲しさが怪談シリーズの良さであり、又市が絡み過ぎて巷説シリーズの延長線にならないようにしているのかもとも思う。
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一枚、二枚…決して十には届かない。子どもの頃に母から聞いた皿屋敷の怪談は、播州の女中が皿を割った失態のために殺されて井戸に棄てられる、ただただ募る怨みの物語。怪談はおそろしく冷たくて仄暗い。
それが京極先生の手にかかると(先の作品もそうですが)、もの哀しくも人間味に溢れどこかあたたかい物語に…まぁ大号泣でしたけど。
当事者たちの心の動きも、残されたもののやりきれない思いも、細かに描かれていて絶妙。
個人的に今年拝読した小説のなかでは今のところ一番の作品です。
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皿屋敷の京極版。
もともとぼんやりとしか話を知らないから、伝わり方が違ってるってだけでもなるほどと面白く思った。ほんでこの流れ。京極はしんだ後にも救われるからなあ
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私もいつも足りない気がする。
褒められたりない気がするし、確認したりない気がする。
衣替えの季節に、こんなにたくさん服を持っているのに、服が足りない気がする。
世の中はつまらない。
そして私は、愚図で鈍間だ。
章ごとに主人公が変わる形式のこの小説で、
全員が自分に当てはまる気がした。
足りない足りない、あてはめ足りない。
菊さんのように、
あぁ空がきれいだなと思って空を見上げられたらいいなと思った。
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長い。くどい。登場人物全員がなぜああもくどくどと考える?いっこうに話が進まない。
道を歩くだけでなぜにああも考えることがある?初登場人物がでるたびに、場面が変わるたびに、くどくど考える人たち。人物の性格の設定や説明でその文がいるのでしょうが、くどすぎる。
物語は、嗤う伊右衛門とあまり大差ない登場人物たちが同じような配置で同じようなことを思い、同じようなことが起こったような気がする。
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京極の怪談リメイク3作目
今回は番町皿屋敷のお菊さん
相変わらず、登場人物の独白が長い長い(笑)
それぞれの登場人物が何か欠けてるって寸法ですかい
伊右衛門と小平次よりも、もっと救いのないお話しだなぁ
前作の2つはなんだかんだ言って、ちょっとはいい部分もある終わり方だったのにね
又市さんの仕掛けの意味もよくわからない
冒頭で長々と「何で皿を数えるのか?」の疑問が書かれてあったけど、なんでそんな仕掛けにしたのか?って事はよくわからん
ま、僕の読解力のなさが原因かな
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久々の京極夏彦さん。彼の作品はたくさよ読んできましたが、やっぱり今回のも気持ち悪いし、読後はさっぱりしません(笑)登場人物が多いのですが誰1人感情移入できるような人がおらず、自分のなかでこの物語を読み進めるに当たっての軸がしっかりせず混乱しながら読み終わりました!他のこの本読んだ方の感想が気になります(^^)
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・ 私が知つてゐる皿屋敷は、落語の「お菊の皿」は論外として、黙阿弥の「新皿屋敷月雨暈」、通称魚屋宗五郎も殿様の手打ちはあるものの、例の皿数へがないといふもので、要するにまともなのは岡本綺堂「播州皿屋敷」だけと言つて良い。これには小説もあるが、私には歌舞伎で、今でもよく上演される綺堂の人気作と してある。この作品には手打ちも皿数へもあり、皿屋敷伝説の粋の詰まつた作品と言へる。ポイントは青山播磨の「潔白な男のまことを疑うた、女の罪は重いと 知れ。」(青空文庫本戯曲「播州皿屋敷」による。)、あるいは「もし偽りの恋であつたら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつはりならぬ恋を疑はれ、重代の宝を 打割つてまで試されては、どうでも赦すことは相成らぬ。」(同前)といふ台詞にある。お菊への播磨の愛に対する疑念が生んだ悲劇である。お菊が播磨を信じてゐれば起きることのなかつた悲劇である。これは綺堂の皿屋敷解釈である。怪談ではなく悲恋物語であらう。これに対して京極夏彦「数えずの井戸」(角川文庫)は 例の如き京極の物語である。怪談、あるいは怪談もどきである。京極のいつもの登場人物も出てきたりで、見事な大作に仕上がつてゐる。
・中心はいつもの青山播磨とお菊である。ただし、お菊は腰元ではない。播磨の屋敷にたどり着くには深いわけがあつた。そして、これが京極の皿屋敷の悲劇の原因であつた。柴田十太夫もこれに深く関はつてをり、その一方で、真弓やお仙は家宝の皿に深く関はつてゐた。ところが、ここに遠山主膳なる白鞘組の武士が登場する。播磨の同輩である。ただし、こちらは嫡男ではなく部屋住みである。これらが絡んで一大悲劇を生む。私にはその人物設定がいかにも京極らしいと思へる。他の作品にも出てきてゐさうである。「昔数え」はかう始まる、「幼い頃から、そうだった。(原文改行)播磨はいつも、何かが欠けているような焦燥感に追いかけられている。いつも背中が空寒い。(原文改行)揃っていない。足りない。十全でない。」(15頁)「数えずの娘」はかう始まる、「幼い頃から、そうだった。(原文改行)何をやらせても、遅い。見落としやらやり損じが多い。(原文改行)粗忽というのではない。」 (47頁)これはお菊である。「数えずの刀」の初めのあたりにはかうある、「親も兄も嫌いだ。(原文改行)と、 いうより、好きなものがない。何もかも嫌いだ。大嫌いである。(原文改行)自分のことも、 まあ嫌いだ。」(112~113頁)これは主膳である。こんな登場人物の皿屋敷である。無事ですむはずがない。しかもお菊は「特に数はいけない。(原文改行)数えても数えても、数えられない。」(52~53頁)といふ娘である。皿数へには適任ではないか。こんな登場人物に、いつもの登場人物が京極風に変身させられて絡む。すると綺堂とはまるで違ふ世界が現出する。もちろん所謂皿屋敷伝説とも違ふ世界である。ここに更に又市も絡む。といつても又市、ここではほんの端役だから、出番は少なく仕事もほとんどしない。京極の悲劇を語る締めの役である。さうか、これでは憑き物落としもできぬかと思ふ。あの3人の性格からすれば必然の結末なのである。あの小さな皿屋敷からこんな物語が出てくる。これが想像力といふもの、人物造形の妙である。お菊は腰元ではない。が、播磨に近づいてしまへるのである。そして、そこで起きるのは怪談ではない。悲恋物語でもない。運命の為せる業といふべきであらう。京極の物語にはそんなものがいつもある。これもその一つ、どこかで読んだやうなとも思ふ。しかし、新しい皿屋敷を楽しむことはできた。これを嘉しよう。
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江戸怪談シリーズの中で、一番好きです。登場人物の、「数」「数える」ことについての捉え方の違い、異常なまでの固執、漠然とした感覚をよくぞ言葉にしてくれたって感じです。
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実は番町皿屋敷の本筋はよく知らないのだけれど。
さすが京極さん。
この方の再構築の巧さには舌を巻いてしまう。
菊は本当はこんなに純情な娘だったのかも知れないね。
ラストシーンもよかった!
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番町皿屋敷、本当はこんなストーリーだった!?
と本気で信じてしまいそう
京極ワールドで切なく悲しい物語が紡がれます
又市シリーズです
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久しぶりに読むのに随分かかった。
でも、このくどさがこの湿度の高い全体の世界観には必要だったということにしよう、そうしよう。
もう少し、人物が絡んでややこしーい関係性があればよかったなぁ、などとも思う。