紙の本
腐敗した時代の堕落した英雄たちに楯突く若い外交官の戦いの顛末
2015/01/04 10:40
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
風采も人柄も問題はないが、思いやり溢れる優しい妻と、冷静沈着で親思いの娘のほかに、これといった能力、職歴は持ち合わせていないキットは外務省退職を目前に控えていた。人妻との火遊びがやめられない外交官トビーは三十代。持ち前の器量と上司の推挽もあって順調に出世街道を上っていた。本来出会うべくもない二人の男が、功を焦る閣外大臣の計画を機に、互いの人生を交差することになる。それは平凡な男二人にとって運命を狂わせる一大転機となるものだった。
イラク戦争が世間を騒がしていた頃。キットは、閣外大臣のクインに秘密任務を命じられる。ポールという変名でジブラルタルに赴き、アルカイダの中心人物を逮捕した後海上で待機する船に移送する、その現場に立会えというのだ。何が何やらよく分からないままに作戦は実行され、大成功だったとだけ知らされ帰途についた。
その少し前のロンドン。クインは悪評高い軍需産業関係ロビイストと組んで、秘密裡に「囚人特例引渡し」を計画していた。疑問を感じたトビーが控室に仕込んだテープには、大臣と作戦に参加するポールとジェブの会話がはっきり録音されていた。信頼する元上司に打ち明け、忘れろと言われたのも意外だった。五日後トビーはベイルートに飛ばされる。
三年後、退職しコーンウォルに住むキットの前にジェブが現われる。手渡されたメモには、作戦の陰でムスリムの母子が死んだ事実が記されていた。爵位まで得、悠々自適の引退生活を送っていたキットは真実を知ろうと動き出す。一度会いたい由の手紙がキットから届いたのはトビーの帰国後間もない頃だった。
東西冷戦下におけるスパイ合戦は、それなりにすっきりしていた。戦いの目的は国家のためであり、倒すべき相手は常に敵側だった。スパイ同士に暗黙のルールがあり、事は知的なゲームのように粛々と行われていた。ところが、冷戦が終了しても戦争はなくならなかった。軍需産業は営利を目的とし、国家の枠を超え、各国の官僚機構内部に巣食い、情報を売買することにまで手を伸ばした。外交や情報収集に携わる組織内部でも、私利私欲のために動く人間が頭を擡げ、そうでない一部の者は、自らの倫理観を頼りに内部の敵と戦わねばならなくなった。これはそういう腐敗した時代の堕落した英雄たちに楯突いた若い外交官の戦いの顛末である。
ごく普通の人間が、国家的大事件に巻き込まれた時、あなたならどうする、という問題提起。事は国家機密に関わるため、公にすれば自分が法に問われることになる。特定秘密保護法が施行されたばかりのこの国ならなおさら他人事とは思えない。ただ、そこはル・カレ。露骨な問題意識を表面に出すことなく、二人の人物の視点を切り換え、語りの順序を操作することで、シンプルなストーリーを興味深く語ってゆく。読者ははじめ戸惑うが、人物と共に関係者の証言を見聞きすることで、次第に事の真相に迫っていく。それと分からないように引かれた伏線が、後からそうだったのかと飲み込める。この展開はさすがだ。
新聞広告には「寒い国から帰ってきたスパイ」、「スマイリー三部作」と並ぶ傑作、とあったが、ル・カレの作にとどまらず、スパイ小説の代表作と呼ばれる四作に並ぶ小説を、いくらル・カレでも、そうそう書けるものではない。巧みなプロットと、語り口調のうまさは他の追随を許さないとしても、ル・カレの作品として特に傑出しているわけではない。それよりも、東西冷戦が終結して、これでもうスパイ小説も終わったと言われながら、次々と新しい対象や切り口を見つけ出しては、相変わらず健筆を揮う、その若々しさに敬意を表したい。
投稿元:
レビューを見る
風采も人柄も問題はないが、思いやり溢れる優しい妻と、冷静沈着で親思いの娘のほかに、これといった能力、職歴は持ち合わせていない外務省職員キットは退職を目前に控えていた。人妻との火遊びがやめられない外交官トビーは三十代。持ち前の器量と上司の推挽もあって順調に出世街道を上っていた。本来出会うべくもない二人の男が、功を焦る閣外大臣の計画を機に、互いの人生を交差することになる。それは平凡な男二人にとって運命を狂わせる一大転機となるものだった。
イラク戦争が世間を騒がしていた頃。外務省職員のキットは、閣外大臣のファーガスン・クインに秘密任務を命じられる。ポールという変名でジブラルタルに赴き、アルカイダの中心人物を逮捕した後海上で待機する船に移送する、その現場に立会えというのだ。何が何やらよく分からないままに作戦は実行され、大成功だったとだけ知らされ帰途についた。
その少し前のロンドン。外交官でクインの秘書官を務めるトビーは迷っていた。クインは悪評高い軍需産業関係ロビイストのクリスピンと組んで、秘密裡に「岩」と呼ばれる場所で「囚人特例引渡し」を実行しようとしていた。クインの行動に疑問を感じたトビーが控室に仕込んだテープには、大臣と作戦に参加するポールとジェブの会話がはっきり録音されていたのだ。イラク戦争反対派の急先鋒、私淑するジャイルズが忘れてしまえと忠告するのも意外だった。五日後トビーはベイルートに飛ばされる。
三年後、退職し妻の相続したコーンウォルに住むキットの前にジェブが現われ、奇妙なメモを渡す。そこには、成功裡に終わったはずの作戦の陰で、ムスリムの母子が死んだ事実が記されていた。作戦成功の功で爵位まで得、悠々自適の引退生活を送っていたキットは混乱し、真実を知ろうと動き出す。当時の秘書官に一度会って話が聞きたい、との手紙がキットから届いたのはトビーがベイルートから帰って間もない頃だった。
東西冷戦下におけるスパイ合戦は、それなりにすっきりしていた。戦いの目的は国家のためであり、倒すべき相手は常に敵側だった。スパイ同士に暗黙のルールがあり、事は知的なゲームのように粛々と行われていた。ところが、冷戦が終了しても戦争はなくならなかった。軍需産業は営利を目的とし、国家の枠を超え、各国の官僚機構内部に巣食い、情報を売買することにまで手を伸ばした。外交や情報収集に携わる組織内部でも、私利私欲のために動く人間が頭を擡げ、そうでない一部の者は、自らの倫理観を頼りに内部の敵と戦わねばならなくなった。これはそういう腐敗した時代の堕落した英雄たちに楯突いた若い外交官の戦いの顛末である。
ごく普通の人間が、国家的大事件に巻き込まれた時、あなたならどうする、という問題提起。事は国家機密に関わるため、公にすれば自分が法に問われることになる。特定秘密保護法が施行されたばかりのこの国ならなおさら他人事とは思えない。ただ、そこはル・カレ。露骨な問題意識を表面に出すことなく、二人の人物の視点を切り換え、語りの順序を操作することで、シンプルなストーリーを興味深く語ってゆく。読者ははじめ戸惑うが、人物と共に関係者の証言を見聞きすることで、次第に事の真相に迫っていく。それと分からないように引かれた伏線が、後からそうだったのかと飲み込める。この展開はさすがだ。
トビーとキットの娘エミリーの二人が互いに魅かれてゆく様子も微笑ましい。いつも思うことだが、ル・カレ作品に登場する女性は、外見の美貌に頼ることなく、知的で意思がはっきり出せて、実に気持ちがいい。男の方はどうだろう。自分に対するジャイルズの感情に同性愛的なものがあったことを知ったトビーが見せる強い動揺といい、キットがコーンウォルの「無礼講の王」に紛する際、縦縞のブレザーにカンカン帽をかぶり、「完璧な『回想のブライズヘッド』ふうの装い」と自評するくだりといい、オックスブリッジ出身者が大半を占める英国の官僚世界に対する作家の目配せだろうか。
「トニー・ブレア」、「ニュー・レイバー」、「ガーディアン」といった実在の政治家や新聞誌名が当然のように使われることで、人物の政治的指向が手にとるように分かる。日本では小説でも映画でも「民自党」や「毎朝新聞」に変えられることで、いちいち説明が必要になる。実名を出すことに何か法的な縛りでもあるのだろうか。それとも、ただ臆病なだけなのだろうか。表現の自由という点から見て、彼我の差に目がいくのだが。
新聞広告には「寒い国から帰ってきたスパイ」、「スマイリー三部作」と並ぶ傑作、とあったが、ル・カレの作にとどまらず、スパイ小説の代表作と呼ばれる四作に並ぶ小説を、いくらル・カレでも、そうそう書けるものではない。巧みなプロットと、語り口調のうまさは他の追随を許さないとしても、ル・カレの作品として特に傑出しているわけではない。それよりも、東西冷戦が終結して、これでもうスパイ小説も終わったと言われながら、次々と新しい対象や切り口を見つけ出しては、相変わらず健筆を揮う、その若々しさに敬意を表したい。
投稿元:
レビューを見る
繊細な真実 ジョン・ル・カレ著 国家の秘密に狂わされた運命
2015/1/4付日本経済新聞 朝刊
「特定秘密保護法」の施行と相前後して、日本で本書が出版されたのは、まことにタイムリーな出来事と言うほかない。長篇(へん)二十三作目に当たるこのル・カレの新作の主題はまさに、国の安全保障に関わる事柄の「真実」はどこまで「秘密」にされるべきか、されてよいのかという問題だからである。
英国外務省の初老の職員が、新任の大臣からじきじきに奇妙な命令を受ける。英領ジブラルタルで遂行されるテロリスト捕獲作戦に参加せよというのだ。篤実な官僚として生きてきた彼はこれまでそんな血なまぐさい任務についたことはなく、途惑うが、ともかく作戦は一応終了し、彼には大成功だったと伝えられる。実際、その功が報われてか、退職後の彼には爵位が授けられる。
しかし、三年後、彼はあるきっかけから、その〈ワイルドライフ作戦〉の陰で、実は非人道的な惨事が起こっており、国益への配慮という美名のもとにそれが隠蔽されていたことを知る。良心の疚(やま)しさから彼はその一部始終を公表しようとするが、元外交官の彼は公職守秘法で雁字搦(がんじがら)めに縛られており、機密情報を洩(も)らせばただちに重い刑事罰を受けざるをえない。では、どうしたらいい。
迂闊(うかつ)に扱うと火傷(やけど)することになるこの「繊細な真実」の帰趨(きすう)、そしてそれによって運命を狂わされた複数の人々の劇的相克を、ル・カレは例によって重厚な筆致で描き上げてゆく。国家の大義と政治家の保身の欲望が結びつくとき、どれほど禍々(まがまが)しいことが起こりうるのか。廉潔というモラル、正義という倫理が現実と衝突して危うくなるとき、人はいったいどう行動すべきか。この問題をル・カレは、終始サスペンスの緊張が弛(ゆる)むことのない物語の中に溶かしこみ、くっきりした輪郭で造形された個性的な人物たちを動かしながら、小説という思考実験の装置によってぎりぎりのところまで追求してゆく。
いっこうに衰えることのないル・カレの筆力には、それにしても驚嘆のかぎりだ。『誰よりも狙われた男』が七十七歳、『われらが背きし者』が七十九歳、そして二〇一三年に発表された本書は八十二歳のときの作だが、これら近作群はそのどれもがきわめて高度な文学的達成を示しており、往時の「スマイリー三部作」と比べてもまったく遜色がない。「スパイ小説の巨匠」などというせせこましいトレードマークにル・カレを閉じこめるのがこの大作家に非礼をはたらく振る舞いであることは、今や誰の目にも明らかであろう。
《評》作家・詩人
松浦 寿輝
原題=A DELICATE TRUTH
(加賀山卓朗訳、早川書房・2200円)
▼著者は31年英国生まれの作家。
投稿元:
レビューを見る
ル・カレってジャンルでいうとスパイ小説、エスピオナージュなんだけど必ず主人公の恋愛の要素が含まれていて(で、それがダメダメだったりして)少し切なくなるよね。
投稿元:
レビューを見る
スマイリーものしか読んだことなかったのですが、最近のものも面白いとは!驚きです。
ただ、こういった状況は迷宮すぎてもやもやしてしまうのです。
2度目に行きあった言葉・アノラック。あ、英語だったんだ…と。
投稿元:
レビューを見る
もし日本で高名な人気作家が日本を舞台にこんなシチュエーションの小説を発表したら、現政権下では、出版社に圧力がかけられるかも。ル・カレの小説はもうスパイエンタメの範疇を脱している。日本にトビーやキットのような良心と勇気を併せ持つ外交官が存在するだろうか。
投稿元:
レビューを見る
最後はまた、読者にぽーんと投げて「さあどうぞ」
どう取るかはその人次第。今回はそれほど「もうちょっと書いてほしかった」感はなかった。
視点登場人物それぞれがしっかり別の人格でかき分けられていて、視点を持たない人物たちも魅力的な部分とすっごくやなぶぶんとあって、さすがだなあ。
投稿元:
レビューを見る
タイトルが内容を全て表現している。ある秘密作戦に関わった人たちの緊迫したやりとりが描かれる。これはスパイ小説・・か。ハリウッドアクション的な内容を期待すると完全に裏切られるが、それなりに緊迫感が合って面白かった。
投稿元:
レビューを見る
やや翻訳調が気になったが展開の面白さでカバー。一般人が巻き込まれて活躍する、というような無理な設定はなく、リアリティの延長線上でのストーリー展開。シリアスの中にもどこかユーモラスなテイストもありつつラストシーンは不思議な読後感だった。