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『とらえどころがない』と巻末の『訳者あとがき』にあった。
確かにとらえどころがないというか、『よく解らないが、何かじわじわと怖い』というのがロバート・エイクマンの作風のようで、本書に収録された短編もそういう不思議な『怖さ』を持っている。対して、表題作にもなっている『奥の部屋』は、因果関係がはっきりしている分、『解りやすい怪奇小説』で、本書のなかでは異色なのでは? とも感じる。こういう本はなかなか無い。
また、同じく『訳者あとがき』には、『よく比較される』作家としてデ・ラ・メアの名前が挙げられているが、これも不思議。比較するならデ・ラ・メアよりアンナ・カヴァンじゃない? 特に『学友』や『恍惚』の、足下が崩壊しそうな危うさはカヴァンと共通していると思うのだが……。
個人的にはお気に入りの短篇集だが、どちらかというと読者を選ぶタイプだなぁ……。
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異常な事態を感じ取りながらも何が起こっているかわからず不安に駆り立てられていく登場人物たち。そして読み手も同じように不安な気持ちに包まれていく。オチが明確には説明されず受け手に想像させる余地が多く、また、怪奇譚ではあるが明確な怪奇現象とも示さない絶妙なバランスを常に保っており、物語の結末に奇妙で不気味な余韻を与える。ただし、作品によってはもやもやした感覚の方が大きいものもある。
「何と冷たい小さな君の手よ」と「スタア来臨」の二つが好み。
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英国の作家ロバート・エイクマンの怪奇短編集。
Sキングに代表される、良くも悪くも、わかりやすいアメリカ的エンタテイメント志向のホラーと違い、どちらかというと、英国文学の系譜に乗っかってる印象。象徴や暗喩がちりばめられ、読み解きの楽しみを否応なしに喚起される。逆に言うと、ストーリーだけを追う斜め読みには全く不向き。というわけで、久しぶりに、かなり注意深く読んだ短編集です。色んな人に考察聞いてみたい! 総じて、語られることよりも、語られないことによりじわっと来る恐怖、輪郭のはっきりしない「得体の知れなさ」が味わい深い。
感想というか、覚書。
☆学友... サリーの父親テトラー博士(本編中ではすでに死亡、生前の姿が掴めない謎の人物)はどんな秘密を持っていたのか、サリーが身籠り産んだ子ども(いわゆる「ローズマリーの赤ちゃん」か?)、サリー自身(人間?ホモンクルス?)の秘密の細部は語られないまま、謎が残る。
冒頭のエピグラフ「誘惑されてみたい、どんな女性もひそかにそうのぞんでいる」が、この短編の基調。なぜ誘惑されてみたいのか、それは「好奇心」があるから。一人称の主人公メルは、父親の忠告通り「他人の生活にいちいち首を突っ込む権利などない」ことをわきまえて、サリーとは距離を置き、得体の知れない恐怖の館には(この時点で、メルは幽霊?を見ているのだから)かかわらないでいることを選択できるはずなのに、むしろますます深入りして更なる恐怖体験をする。そればかりか結末で「いつの日か、私もでかけることになるのでしょう」とサリーの誘い(闇の世界への誘惑?)を自ら受け入れている。メルの言葉を借りるなら「幼少時に好奇心を不当に抑圧されることに起因」しているのかもしれない(性的なものへの好奇心が根っこにあることが、エピグラフや、学生時代の会話、サリーの妊娠などで暗示される)。メルにしてもサリーにしても、父親は居るのに母親が不在なのも気にかかる。色んな読み解きができそうな掌編。
☆髪を束ねて....“異界に通じる迷い道@田舎の森”系の話。クラリンダが、婚約者ダドリーの家族が住む田舎で出会うパガーニ夫人は、原文だとPaganiだろうか、pagan=キリスト教に対する「異教」の意味を匂わせる名前を持ち、黒魔術的「祭儀」を司る魔女っぽい人物(教会に住んでいるのもミソ、立て札の「通過儀礼」の文字に注意)。途中で豚の群れが出てくるが、聖書で、イエスによって人から追い出された無数の悪霊(レギオン)が、豚の群れに入ったエピソードを思い出す。豚の群れは、迷路の森で毛皮を脱ぎ捨て横たわる男女たちの昼間の姿だろうか。彼らは獣の衣をまとった人間なのか、逆に、パガーニ夫人とルーフォは人間の衣をまとった獣=悪魔なのか?
クラリンダに好意的な案内役の女の子と、最後クラリンダを傷つけるフードの少年(小人)の存在は謎(パガーニ夫人とルーフォの子ども?)。パガーニ夫人はゆくゆくはクラリンダを仲間に引き入れたがっているようなので、少女にクラリンダの道案内をするよう、あらかじめ命じていたと思われる。「髪を束ねる」のは結婚した女性の象徴=祭儀の参加資格とすれば、少女はもちろん、クラリンダも婚約中では���るものの未婚だから、この時点では参加資格が無い(ルーフォやフードの小人が好意的でなかったのは、だからかもしれない)。時間に遅れないのも祭儀の鉄則だけれど、最後のパガーニ夫人の「遅れないようにね」の一言は、二人が結婚後にまた村に帰ってきて、ゆくゆくはパガーニ夫人の魔の祭儀にかかわるようになる (結婚したら祭儀に参加できるので) 、ということが暗示されている気がする。一見ダークサイドとは無関係に見えるダドリーの家族や村人も、実はパガーニ夫人が取り仕切る黒祭儀にかかわっているのかもしれないと思うと、恐ろしさ倍増。
☆待合室... この作品集の中では「わかりやすい」部類の、極めてオーソドックスな心霊現象談。しかも幽霊というか、心霊現象自体は怖くない...むしろマッチ売りの少女の幻のように、明るく暖かい(笑)。怖いのは、むしろ自分と同じ体験をするように、俺は責任とれないとか何とか言いつつ、ペンドルベリをいわく付き「待合室」に手引きするポーターだったりする。ペンドルベリも、ポーターと同じように、この先、心霊体験の「後遺症」を抱えて生きざるを得ないことがほのめかされてジ・エンド。
☆なんと冷たい小さな君の手よ.... これもオーソドックスな怪談物。気味の悪い無言電話や混線、受話器の向こうの見知らぬ相手が実は死者、等々、演出は今となっては散々使い古されていて新鮮味は無いし、結末は何となく読めてしまう。でも、人との繋がりが希薄で寂しさを抱えた主人公が、見えない電話の相手に恋し、徐々に生活と精神に支障をきたして「電話中毒」になっていく様は現代にも通じるリアルさで、社会風刺とも読めるかも...電話は、発表された当時は最先端ツールだったと思うが、今ならさしずめ、ネット/スマホ依存? タイトルが詩的で良いけど、本編との繋がりはイマイチわからない。受話器を握る死者の手を暗示?
☆スタア来臨... 途中までバンパイアものかと思っていたが(だって女優は年齢不肖だし、スパーバスは食事してるとこ見せないし!)良い意味で期待を裏切られた。演じることとペルソナの問題、ミュラ、ディオニュソス劇場など、ギリシャ神話/ギリシャ劇のモチーフが物語の随所に見え隠れしてる。考察しがいのある秀作。
思い出したのは北欧の昔話。心臓が体の中ではなく、別の場所=鳥の卵の中に隠されているために不死身の巨人がいて、卵を潰したら巨人も死んでしまう、という...。こういう、魔力や命が本人とは分離した別の場所にあるっていう話は神話や民話によくあるけど、この短編の中では、女優アラベラの「個性(=ペルソナ)」が分離していて、ミュラという存在になっている。ペルソナが分離しているので、アラベラは不死身(もしくは年をとらない)で、逆に言うと、どんなペルソナでも演じることができる(仮面をつけた女優であり続けられる)。
問題はアラベラをこういう存在にしたと思われる老人スパーバスだが、彼の正体ははっきりとはわからない(Superbusという名前はサキュバスとかインキュバスなどの悪魔的名前を彷彿とさせる)。ただ、いかにも怪しい、気味の悪いパトロンとして描かれる。アラベラは女優としての成功を求めて悪魔=スパーバスと契約を交わしてしまったのかもしれないが、物語の中では細部は語られない。スパーバスはアラベ��の支援者というよりは残酷な支配者(アラベラが彼をひどく恐れていることからもわかる)。
最大の謎は、ミュラが火事で飛び降りたのは、スパーバスが操ったせいなのか、それともミュラ自身(=アラベラ自身)の意志なのか。スパーバスが秘密を漏らしたアラベラを見限ったのか、それとも最高の演技を見せたアラベラ自身が自ら「幕引き」をしたのか? スパーバスが投げたと思われる月桂樹のリースは、栄誉と称賛の印であると同時に、まるで舞台上のアラベラを弔うように紫のリボンがついている...。
☆恍惚... 前半は「私」がとある人物の奇妙な体験を記した手記を手に入れるまでの経緯、後半はその手記自体の紹介という入れ子構造になっている。つまり、前半は奇妙な体験をする当人の人物像が第三者を通して客観的に語られることに意味があって、続く後半の主観的な手記の布石となっている。
前半、手記中の「私」が、黒髪で青い服を着て「部屋の中の薄暗い隅」に立っている描写があるが、これは後半のマダムAの館で「私」が目にする、部屋の暗がりからどこからともなく現れた犬のような黒い生き物(結末で目が青いことがわかる)の描写と一致する(生き物は「私」自身が投影された象徴的な幻?)。マダムAの館には、他にも「よく動物が来る」こと、「色んなお土産」が入った箪笥の記述(マダムAは「私」から「髪」をお土産として切ろうとする)からすると、「私」以外にもマダムAの館で同じような幻影?を見、マダムのグロテスクでエロティックな倒錯の世界に「魅了」された男たちがいたらしいことがほのめかされる。マダムAの娘だというクリソムテームは、マダムAの想像上の産物、自己投影か? 一連の、ドレスの手触りと匂いを愛でる描写にはフェティシズムを感じる。「私」の描いた絵がクリソムテームの部屋にあった(あるいはそのように感じた)のは、どういう意味か?物語全体が芸術談義とからんでいることの意味は考察しがいがありそう。いずれにしても、奇妙な読後感が残る作品。
☆奥の部屋...表題作。開かずのドールハウス、中に住む人形たち、奇妙な間取り、外からは見えない「奥の部屋」...と、並べただけで怖い設定なんですが(笑)、大人になった主人公レーネが、道に迷った挙げ句、このドールハウスにそっくりの家と住人に出くわして、怒濤の恐怖体験になだれ込むかと思いきや、意外にもあっさりとした結末。
ドールハウスの住人の女性たちの会話から、少女時代のレーネが彼らの家主であること、彼らがレーネに対して恨みを持っていることが遠回しに語られる。彼らはレーネの写真を持っていて、しかも呪いの藁人形よろしく、写真の心臓部には針が刺さっている。大人になったレーネは生きる希望を失っているが、それは成長過程で父親が事故死、夫は戦後行方知れず、母親も失踪、弟は聖職を選ぶ(レーネとは別世界の住人、間接的に死んだも同然)という事件が続いたため。彼女にダメージをもたらしたのは、ドールハウスの住人たちが原因であることが暗示される。「生きていく上で最低限の手助けもしてくれなかった」という住人たちのレーネへの非難は、恐らく、ドールハウスの手入れをしなかったこと(部屋は古びて、家具も手入れされていない)に対するものだろうが、レーネは自身は「私は(恨みを買うようなことは)何も���ていない」と言う。これは、幼少時の自分の行い(できなかった事も含め)に対する自己弁護に他ならない。ドールハウスは子ども時代の記憶(自分の誕生日、家族への感情、悪夢)と結びついた象徴的アイコンに思える。その記憶の核心は「奥の部屋」のはずなんだけど、この部屋は最後までレーネの目に触れることも、立ち入ることもされない。この、あえて核心に触れない所が、いかにもこの作者らしい。
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・ロバート・エイクマン「奥の部屋 ロバート・エイクマン短編集」(ちくま文庫)の巻頭の「学友」を読み始めた時、かういふ雰囲気は好きだと思つた。訳のせゐかもしれないが、原作にかういふ雰囲気があればこその訳文であらう。そんな英国文学の伝統の中で育つた人なのかとも思つた。エイクマンは1914年生まれである。母親がユダヤ系ドイツ人ではあつても「エイクマン家は典型的な『アッパーミドル』階級に属していた」(「訳者あとがき」330頁)し、「名門ハイゲイト・スクールに入学」(同前331頁)した。学校嫌ひであつたので「入学資格試験ではよい成績を収めたものの大学には進学しなかった。」(同前331~332頁)といふが、この頃から作家志望であつたらしい。たぶんそれなりに英国文学の伝統を身につけてゐたといふことなのであらう。本格的な作家活動は第二次大戦後である。そんなに古い時代の作家ではない。それでもやはり英国の作家である。この雰囲気もそれと無関係ではあるまい。私には何よりこれが印象的であつた。いささか古風な雰囲気を持つ、そんな作家なのかもしれない。
・その「学友」である。幼友達のサリーの父が死んでしばらくしてから、突然、サリーが尋ねてきたところから物語は始まる。最初は「彼女には、まだ娘自分の 面影が変に残ってい」(19頁)たのに、後日、彼女の家を訪ねるとどこかその時と様子が違ふ。家の中も雑然としてをり、帰る時に彼女から「どことなく憔悴しきった感じを受け(中略)決して笑わなかった」(26頁)ことに気がつく。そして、彼女が事故で入院した時、家の様子を見てくれと頼まれ、その途中に彼女の妊娠を知らされたりして、例の如く、主人公の恐怖(?)が高まつていく……かう書いていくと型通りの恐怖小説のやうだが、実際にはそれほどでもない。 恐怖の質が違ふ。サリーの父らしき「彼」を見たりもするけれど、それ以上にはならない。失踪直前のサリーが主人公を自分の子供に会はせようとする時の恐怖から逃れるのは、物理的にも、易しい。「エイクマンはそもそも『人を怖がらせる』ことに主眼を置いていないようにすら思える。」(「訳者あとがき」328 頁)といふのが、これにも当たるのかと思ふ。それでもおもしろい。最後の表題作「奥の部屋」もおもしろい。これは所謂恐怖小説と言へよう。人形の家をめぐる綺譚、恐怖譚である。主人公が子供の頃に手に入れた古ぼけた人形の家は屋根を外せないから中を隅から隅まで見ることができない。弟が「軸測投影図法」 (300頁)で間取りを調べたところ「部屋が合わない」(302頁)ことが分かる。ところが、そこで人形の家がなくなつてしまつた。さうして長ずるに及んで、とまたこれまた型通りの進み具合である。主人公は雨の日、とある田舎でこの家に遭遇する。「夢が現実のものとなるなんて、そうあることではない。」 (315頁)それは人形の家ではなかつた。かくして主人公の恐怖は高まつていく。最悪の事態は主人公がその家に囚はれてしまふことだが、さうはならないまでも、十分に恐怖を感じさせつつ物語は終はる。「部屋が合わない」のも解決される。構成もよくある形であらうし、物語自体もどこか��ありさうである。姉妹は変化の者かもしれないが、それを出すことなく終はる。幽霊の出ない幽霊譚といふ類であらうか。これがエイクマンの作風らしい。「学友」とも相通じるところである。古風ではあつても、中身は決して古風ではないといふことである。それゆゑに某ムックの「海外ホラー小説編で本書は第一位の栄誉に浴した。」 (「訳者あとがき」327頁)といふ。なるほどである。
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怖いかと訊かれれば、然程怖くはないような。それともあとからじわじわくるのかもしれない奇妙な読後感。無難な現実がいかに心許ないものなのかとふとおもう。
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ホラーに近いけど怖がらせるために書かれているのではなく、幻想小説というには登場人物たちが理性的な、でもどこか読んでいて気持ちの据わりが良くない、後を引く短編集。
こういう雰囲気を文章で出せるのはすごいし、逆に文章だからこそ出せるのかもしれない。
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面白い。怖いんだけど、そういう怖いんじゃない。
幽霊っぽいのもでてくるんだけど、そこはさらっと書いてあって、
「学友」の家の雰囲気とか、メルの心のザワザワ感とかが、すごく体験できる、文章。怖いのは苦手だけれど、これは全然、好きだ、私は。
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むぅ〜。まったく予想できない奇妙なお話でした。明快なオチはなくスッキリ感は無い話が多いけど、こういう独特の読後感が著者のテイストなのだろうか。比較的オチ、スッキリな「何と冷たい小さな君の手よ」は主人公の追い詰められ感に息苦しくなりました。
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忘れられた英国文学の巨匠エイクマンの傑作短編集。「学友」学生時代の親友サリーが20年ぶりにこの街に戻って一人暮らしすると言う。しかし家に籠ったままのサリーの言動がおかしくなってきた。私は距離を置くがサリーが倒れて救急車で運ばれると彼女は妊娠してると医師に告げられる。そして私は…。何が起きてるのかわからないままどこかに罠が仕掛けられてるという不安感と不気味な謎だけが残る。ストレイジテール、妖しげな話とでも言いましょうか。奇妙な体験をする。その謎を論理的に常識的に解明すると推理小説になりその謎の解決が異次元的非現実的に落ちるとホラーになる。ストレイジは結論を提示せず仄めかしもしない。このざわざわ感が堪らない