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商品説明
バスジャック、通り魔、てるくはのる、ニュータウン…。ぼくたちの夢と狂気を追った異色のルポルタージュ。月刊総合誌『現代』に掲載された「世紀末の十二人の隣人」に大幅加筆したもの。【「TRC MARC」の商品解説】
直木賞受賞後第1作
バスジャック、通り魔、てるくはのる、ニュータウン……ぼくたちの夢と狂気を追った異色のルポルタージュ作品、誕生!
貴様らに楽しい連休などさせるものか
ルポライターやノンフィクション作家の真似事をするつもりはない。できるとも思わない。ただ、読み物作家として、事件や状況に遅ればせながらの〈蛇足〉を付けてみたかった。そのための〈寄り道〉を、ときには〈無駄足〉の道行きを、読み物としか名付けようのないかたちで書き綴りたかった。――「まえがき」より【商品解説】
著者紹介
重松 清
- 略歴
- 〈重松清〉1963年岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒。出版社勤務を経て著作活動に入る。99年「ナイフ」で坪田譲治文学賞、「エイジ」で山本周五郎賞受賞。2001年「ビタミンF」で直木賞受賞。
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紙の本
隣人ていうのはね、ある意味、隣人にとっての自分でもあるんだよね。だから、それがいつ我が身であってもおかしくないと思うとね、何か優しくなっちゃうよね
2003/07/07 20:23
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルだけから勝手に、隣人を扱った小説だと思い込んでしまった。読み始めて直ぐ、自分の勘違いに気付いたけれど、小説家としての重松清しか思い浮かばないので何となく不安な印象は拭えない。最近、ほかのエッセイで、重松が過去に、小説以外の作品を、様々なところに発表してきたことを知ったばかりだけれど、その視点はフィクションとはどこか違っていた。この本もそうだったら嫌だな、と思って読み始めた。
近年、世間を騒がせた12の事件といっても、余りに数が多すぎて、重松が取り上げたものは、誰もが肯くものばかりではない。「え、これが?」と思うものも入っているのは、それが一般的な意味とは違って、どこかで重松の心の琴線に触れるからだろう。事件の選び方もだけれど、そこへのアプローチも、単なる真相の追及という姿勢とは違っている。それは、どちらかと言うと、私の危惧に反して、いつもの重松の小説に近いものだった。
17歳の少年達の狂気とその背景、今も続く消費の冷え込みの中で何かを見失ってしまった百貨店そごうの没落、血の通うペットではなく最新の技術から生まれたAIBOに寄せる人々の思い、ある意味で病んだ日本の象徴ともいえる新潟の監禁事件などを、興味本位や個人攻撃といった通俗的なものからではなく、ごく自然で身近な視点で見ていく。
ブームの出家を成し遂げた人々の心の平安、憬れのカントリーライフの日と陰、経済の転換期などを手短に、それでいて決して物足りない感じを抱かせずに報告する。個人的には、あまり文学者の触れない百貨店の没落に、静かな寂しさ、それこそ斜陽という言葉を思い浮かべたのが、面白い経験だった。AIBOについての考察も、似た報告がアメリカの方でもあった気がするけれど、新しい心象の形成という意味でも、興味深い。
この視点があって『ビタミンF』、『日曜日の夕刊』、『半パンデイズ』などの、大げさではないけれど、思わず一人肯いてしまうような傑作が生まれる。あの茶髪や、椎名誠を太くしたような外見に惑わされてはいけない。矢張りこの人は、現代小説の希望の星の一つに違いない。
紙の本
見つめ直そう、自分と家族とお隣も…
2004/06/30 15:18
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:luke - この投稿者のレビュー一覧を見る
実際に起こった事件を実際に犯行現場等に出向いて、重松清の眼で新しい角度から見直してみたノンフィクションです。和歌山のカレー事件、音羽の幼稚園児殺人事件など良く知られている12件の事件を検証しています。
一番最初の事件が東急ハンズ前の通り魔殺人事件なのですが、偶然にも読み始めた翌日にこの事件の2審の判決が出ました。1審の死刑判決を支持し、被告控訴を棄却するというものです。争点は例のごとくというか犯行時の心神喪失問題です。裁判所は責任能力ありと判断しました。8名に殺傷、内2名が死亡した事件です。偶然にも判決と同じくして読み始めたものですから、4年前の事件ながら最近の事のように真実味も深まりました。
被告の生い立ちを検証して行くにつれ、記憶も少しですが蘇り、確かに同情すべき痛ましい過去を背負っているのです。ですが、それらを酌量しても余りある卑劣な犯行に間違いないわけで、妥当すぎるくらい妥当な判決と云えましょう。全ての事件に共通しているわけじゃないのですが、怒りや恨みや妬みや様々な心の要因の向けている所がどうも違うような気がします。毎日のように起こる殺人事件(言い過ぎじゃないくらい多い)で恨みなど、復讐のような動機で起こしたものは、あまり聞かないような。勿論、それを肯定するわけじゃないのですが、殺人を犯すにはそれ相当の怒りが必要だと思うわけです。殺人という境界線を越える原動力となると生半可なものじゃ越せないきがするのです。ところが、実際はお金(それも決して高額とは限らない)や、性的な動機、ストレスのはけ口やら、まるで遊びのようにそれ自体を楽しむため…、などなど、境界線を越えるには乏しいのではと思うような動機で事件が起きています。これって、どういう事なのでしょうね。
…と、云うような事を考えさせてくれる本書です。他の重松作品と同様に回答はありません。しかし、これだけ数多くの事件が現実にはあるわけで、そこからいずれ加害者になりうる人も傍観者もそして被害者になるかも知れない人も何かを学ばなければいけない筈です。道路を歩くだけで、この国の人々のモラルの低さに唖然とさせられ光景を沢山眼にするはずです。こんな間近に簡単に境界線を越えてしまう原点があるのです。
紙の本
あなたの隣に
2002/07/29 22:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:壱子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
とても読みやすく、親切で、個人的であり、優しいルポタージュだ。
著者の、まるで事件の当事者に宛てた私信のようなルポ。
自らの立ち位置を「読み物作家」としつこいくらいに繰り返すことで(まるで戒めを与えつづけるかのようにほんとに何度も繰り返されるのです)これが世間一般のルポとは一線を画しているのですよ、と予防線を張っている。それは逃げ道としての予防線ではなく、推測によって綴られたルポだからこその気遣いなのだと私は思う。
テレビを見て、噂を聞いて、好き勝手なことをいえる場所にいるからこそ、その人の(いつかは名前も忘れられていく、しかし当事者には忘れられ得ない名前を持つその人の)ことを、もうちょっと考えてみようよ。そういう文章だと思う。
表紙の写真を見て思う。ありふれた街角に、通勤電車で隣り合う見ず知らずの人々に、顔は知っているけれど名前も知らない店の店員さんに。トイレの落書きに、間違い電話に、同じ本を読んだことのある大勢の知らない人に、同じ時間別の場所でくしゃみをしている誰かに。
すべての人に物語があり、全ての物語は等しく重い。
そんなことを思わせてくれる一冊です。続編も読みたい。
紙の本
かつてこれほどこころ優しいルポルタージュがあっただろうか?
2001/03/14 18:37
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木俊尚 - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつてこれほどこころ優しいルポルタージュがあっただろうか? この本を読み終えて、僕は少し泣いてしまった。ノンフィクションを読んで泣いたのは、とても久しぶりだったような気がした。
この本の「優しさ」は、重松清という作家のこころの優しさであり、そしてこの希有な作家がものごとを見つめるときの、視点の確かさでもある。
重松清は『ビタミンF』で今年度の直木賞を受賞した新進気鋭の38歳。授賞式の様子をテレビで見て驚いた人もいるかもしれないが、茶髪でガタイの良い肉体労働者的な風貌を持った人だ。しかし2001年の今、郊外のニュータウンで暮らすごく普通の人々を書かせたら、この人の右に出る書き手はいない。
まるで暗い闇の深淵に飲み込まれそうな、動機の理解できない凶悪な事件が相次いだ1990年代。89年の宮崎勤事件から始まった濁流はオウム真理教事件を経て、神戸の児童連続殺傷事件、バスジャック事件、新潟の長期監禁事件へと連なっている。
振り返ってみれば、こうした事件に対して私たちはただひたすら、「自己懺悔」をもって決着をつけようとしてきたのだった。「戦後民主教育のなれの果て」「豊かさの代償」「バブルに踊り、大事なものを忘れてきた私たち」
でも本当に、本当にそれがただひとつの原因なのだろうか?
重松清は誰もが知っている事件を数多く取り上げたこの本で、昔の小説を繰り返し、繰り返し引用している。新聞配達のアルバイト青年が起こした池袋の通り魔殺人では、中上賢次の『十九歳の地図』。新潟の監禁事件では坂口安吾の『桜の森の満開の下』。愛知県豊川市の主婦殺人やバスジャックなど17歳の少年が起こした一連の事件では、大江健三郎の『セブンティーン』と村上龍の『69』、そしてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。
執ようともいえる昔の小説の引用で重松清が言おうとしたのは、「十七歳の事件」を取り上げた章に書かれた言葉が端的に表わしている。それは、こんなふうに書かれている。
「過熱する“十七歳警報”にうんざりしているはずの十七歳クン、そんなに嘆かなくてもいい、きみが生まれたときから(そしてそのずっと以前から)十七歳という年齢は危険なものだと相場が決まっていたんだから…」
とても確かな説得力をもって、こんな言葉をすらりと書けてしまう重松清という希有な作家。この人の心のゆるやかさに、読んでいた僕はとても癒やされ、そして勇気づけられる。ぼくたちが生きている時代は、決して「モンスターが跳梁跋扈する時代」でもなければ、「人のこころが無くなってしまった時代」でもない。いまも昔も同じように人々の生があり、こころの闇があり、そして最後の一歩を踏み出してしまう若者がいる。
だってこの作家は、豊川事件とバスジャック事件の容疑者の少年二人に、こんなメッセージを投げかけてしまうのだ。
「彼らには、片思いでもいい、好きな女の子がいたのだろうか。ぼくは、それがいま気になってしかたないのだ」
泣けてくるではないですか。
(佐々木俊尚/月刊アスキー編集部デスク・元毎日新聞社会部記者 2001.03.14)