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紙の本
官能的な読書体験
2003/01/19 02:33
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
二つの表層、すなわち鏡と皮膚に関係する神話(ミュトス)を選択・蒐集し、それらを組み合わせながらみずから神話を語り直すこと(ミュトス+ロゴス=ミュトロギア)。「非時間的な「根拠」としてのミュトスを「選択」「蒐集」することによって、非時間的であるがゆえにアクチュアルな「表層」の物語としての芸術論」を試みること。
序文のこの宣言を受けて著者が選択・蒐集したのは、鏡をテーマとする前半ではオルフェウスの眼、ナルキッソスの鏡、メドゥーサの首、皮膚をとりあげた後半ではアポロンが剥ぎとったマルシュアスの皮、キリストの顔をうつしとった聖ベロニカの布、真理=女性が纏うヴェールといった神話群であった。
著者によると、前半の三つのミュトスは互いに微妙な内在的関係を取り結び、後半のそれは互いに有機的に関連しつつ三位一体の議論を構成し、さらにベラスケスの『侍女たち』をめぐる「間奏」をはさんで前後半の各三章は鏡像関係の様相を帯びるように配置されているという。私はこの序文を読者への挑戦と受け止めた。内在的関係であれ有機的関連であれまた鏡像関係であれ、精妙かつ狡猾にしかけられたミュトロギア、すなわち「神話語り」の秘密を解けるものなら解いてみるがよい、と。
だが私は著者がしかけたもうひとつの罠、「表層のバロック的な遁走」と名づけられたそのディスクールに、すなわち「はじめに提示された主題が、転調を重ねながら、その内包する可能性を多声的に展開していく態のもの」に翻弄されつづけ、ついには華麗かつ縦横に繰り出される著者の「多声」の語りにただただ聴き入り、陶酔するだけであった。それはまことに快い、官能的な体験だった。
それでは、著者が本書で紡ぎだした「非時間的であるがゆえにアクチュアルな「表層」の物語としての芸術論」とは何だったのか。ここでも私は、ただ結びにおかれた次の文章を引用することしかできない。著者は、ドゥルーズ(『襞──ライプニッツとバロック』)がバロックの特権的形象であるとした襞はなによりも肉体を覆う着衣の襞であり、十七世紀の皮膚は基本的に布の襞であったという。
《マクルーハンのいうように[マクルーハンは『人間拡張の原理』のなかで、「電気時代にいたって、われわれは初めて全人類を自らの皮膚とするにいたった」と書いている:引用者註]総体的な皮膚化の様相を強めるこの電気の時代を、それゆえ新たなバロックの時代と呼ぶこともできるだろう。しかし、それは必ずしも襞という形象で語りつくせるわけではなさそうである。少なくとも、現代において語られるべきは、布の襞ではあるまい。いまこそ、端的に皮膚という概念が要請されなければならない。これを認識論的隠喩といってもいい。》
以下、エルンスト・マッハによる「皮膚的空間」の研究やニーチェの敢然たる「皮膚性」への意志の表明にはじまる絢爛たる「遁走的語り」を経て、皮膚と魂、皮膚と精神性との「のっぴきならぬ関係」に解きいたり、本質や深みや内部・内面・背後世界への帰還という「もっともらしい二元論」への安易な逃走を諫める、「皮膚論的な想像力のために」と題された結びの文章はまことに圧巻だ。
《いまこそ、決然たる意志をもって、表面に、皮膚に敢然として踏みとどまらなければならない。認識論的隠喩としての皮膚は、あらゆる意味の振幅をはらんでいる。その振幅をみずから引き受けつつ、皮膚を意志すること。もう一度繰り返すなら、そこにおいてはじめて生は美的現象として、われわれの耐えることのできるものになるはずである。》