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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2004.7
- 出版社: 柏書房
- サイズ:19cm/270p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-7601-2572-8
紙の本
脳の中の小さな神々
なぜ、自分は自分であると思えるのか? なぜ、あなたは、他人と会話ができるのか? ソニーQUALIAプロジェクト・コンセプターが贈る、脳研究最前線へザクリザクリと斬り進む快...
脳の中の小さな神々
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商品説明
なぜ、自分は自分であると思えるのか? なぜ、あなたは、他人と会話ができるのか? ソニーQUALIAプロジェクト・コンセプターが贈る、脳研究最前線へザクリザクリと斬り進む快刀乱麻の脳内講義。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
茂木 健一郎
- 略歴
- 〈茂木〉1962年生まれ。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチャー、東京工業大学大学院客員助教授。
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紙の本
クオリア学序説。
2005/01/25 05:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近、脳ブームらしい。脳関連の本やTVの特番でも取り上げられることが多くて、脳研究もかなり進んでいるのかと思ったら、この本を読んでみると、そうではなかった。「表層の脳の反応」あたりのほんの入口がわかってきたが、「脳の深部」はいまだ未知の「暗黒大陸」だと知り、正直、驚く。
テクノロジーも科学もおんなじで、蓄積されたものを改良、ブラッシュアップ、ヴァージョンアップさせながら進んでいく方向のものと、予期せぬまったく新しいもの−それこそ突然変異のごとく−のものとに大別される。
たぶん脳科学をワープさせるキーワードが茂木のいう「クオリア」である。
手短におさらい。「クオリアとは、もともとは『質』を意味するラテン語」で「チョコレートを舌にのせたときのまろやかな甘さ」「もう何年も会っていない友人のことを思い出すときにこみあげるなつかしさがクオリアである」。ただクオリア自体は「物質の長さ、重さ、速さといった性質のように数で表わすことができない」。
「クオリア」と「ニューエイジ」だのいわゆる精神世界との類似性や影響を指摘されて、茂木は否定している。そうだったんだ。
換言すれば、「クオリア」という答はある。しかし、その答にいたるまでの解析法、万人が納得する科学的見地からの解き方を作者は模索している。ようやく、そのことがわかった。
「あるドリルをやって脳のある部位を鍛えたってだめで、肝心なのは有機的なシステムのなかでその人の知性がどうなのかということなのですね。いまの日本の脳研究にはそういう視点が欠けちゃっていてすごく残念です」
「人間の感情というのはひと言でいえば不確定に対処するためにできているんですね。感情という不確定なものを通すことによって、人の反応を分散化させている」
などのように随所に刺激的な考えが聞けるのも、聞き手の歌田の丁寧な質問ぶりがなせることなのだろう。のべ13日間にもおよぶインタビュー、要所をおさえたまとめ方が茂木の「クオリア」の概念の理解を促進させる。
作者の本を何冊か読んで漠としていた「クオリア」及び「脳の中の1000億の神経細胞の活動から、クオリアに満ちた私たちの意識がどう生まれるか」など彼が解明しようとしているものの果てなく長い道(ロングアンドワインディングロード)をうかがい知ることができる。
ブログ「うたかたの日々」
紙の本
小さな神の視点
2005/09/17 14:42
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
巻末の「特別講義」に「対象─脳内過程─意識」の三項関係が出てくる。これは脳科学が「見る」という体験を「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパターンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そのような「表現」が集まって「見る」という体験ができあがる」と説明するときに準拠している枠組みで、いわく、この方法では「見る」という体験(視覚的アウェアネス)を説明することはできない。
脳科学は外界(対象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応関係を説明するだけで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとってクオリアとして成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。「むずかしい言葉を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」。
これに対して提示されるのが「メタ認知的ホムンクルス」のモデルで、それは「「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのように観察する「メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーンに映った映像を見ているかのような意識体験が生じる」というものだ。
このモデルにあっては先の三項関係はいったん「物自体─脳内過程」の二項関係に置き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉=認識の客体」と「前頭葉=認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自体─脳内過程─小さな神の視点」の三項関係へと修整される。ここに出てくる「小さな神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される」。
《「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。/私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるのである。/これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していったときの、論理的な帰結である。》
脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。それは脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えられたイマージュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである(何のために? 不確定=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つまり行動のために。ベルクソン『物質と記憶』)。そう考えることができるならば、そこにはいささかの困難(神秘)もない。
「メタ認知的ホムンクルス」のモデルが優れているのは、そこに「神」が出てくることだろう(それは保坂和志の『小説の自由』最終章に出てくるKつまり樫村晴香の言葉──「神」や「リアリティ・宗教性」──と響き合っている)。心脳問題はすぐれて神学の問題である。そんなことは実はとうの昔から分かっていたことなのである。