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紙の本
国民が知らない上皇の日本史 (祥伝社新書)
著者 倉山満 (著)
史上60名以上いた上皇。それはどういう存在なのか。約200年ぶりの譲位を控え、上皇の歴史を振り返ることで、国民に広く「あるべき皇室と日本の在り方とは何か」を問い直す。【「...
国民が知らない上皇の日本史 (祥伝社新書)
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商品説明
史上60名以上いた上皇。それはどういう存在なのか。約200年ぶりの譲位を控え、上皇の歴史を振り返ることで、国民に広く「あるべき皇室と日本の在り方とは何か」を問い直す。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
倉山満
- 略歴
- 〈倉山満〉1973年香川県生まれ。中央大学大学院博士前期課程修了。憲政史研究者。著書に「学校では教えられない歴史講義満洲事変」「検証検察庁の近現代史」「世界の歴史はウソばかり」など。
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上皇とはなんだ?
2021/12/12 05:26
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:donden - この投稿者のレビュー一覧を見る
上皇のイメージは、院政の白河上皇、源平摂関家を手玉に取った後白河上皇、承久の乱の後鳥羽上皇などトラブルメーカーが強いイメージがあるが、本書ではそれ以外の上皇がどのような役割を果たしたのかにも言及している。
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平成最後の夏に
2018/08/16 13:32
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:451 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「日本一やさしい天皇の講座」と対をなす。知らないことが多く、不勉強を恥じるばかり。平成の御代がおわろうとする今、改めて皇室の歴史を学びたい。敬意をもって。
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これこそが歴史修正主義ではないだろうか。
2021/07/17 22:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:FA - この投稿者のレビュー一覧を見る
院政を始めた白河上皇、源平合戦の真っただ中の後白河上皇、江戸時代末期の光格天皇など、著者ならでは視点で解説していく。後白河上皇のところは最高です。これまで、大河ドラマなどでも小説でも、素晴らしい天皇・上皇として描かれることが多かった。でも、最近では、歴史が修正されてきているのか、結構な人物として描かれるようになったように思う。
1192年に鎌倉幕府、1338年に室町幕府、1603年に江戸幕府が成立した。鎌倉幕府のみ1185年というのはおかしい。確かにおかしい。
著者はいう『歴史学界は天皇の権威を否定したい学者が多く、頼朝が天皇の権威によって認められたのを否定したいがために屁理屈をこねるから、こうした不整合が発生しただけです。』
これこそが歴史修正主義ではないだろうか。
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上皇史
2018/10/14 06:24
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:七無齋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
上皇に焦点を当てた視点は良い。しかし私見が混じり自著の宣伝も激しく不快感も覚える。歴史の常識が必ずしも正しくはないことがわかりこれは収穫である。
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四親王家が存在しない?
2018/08/01 21:53
8人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ちなみに、この『五代の孫』の唯一の例外が伏見宮家です」、「後花園天皇により『御所名を与えられ、五世を越えても親王宣下がされる『世襲親王家』となりました」(105頁)、後花園天皇が「そして、自身の実弟である貞常親王が継いでいた伏見宮家を、『世襲親王家』として『五代の孫』の例外としました。『伏見宮家の子孫は、何世になっても親王宣下を受ける』という例外です」(278頁)。つまり、この著者は桂宮、有栖川宮、閑院宮の三宮家を含めて四親王家という概念が存在しない事になっているようだ。閑院宮家出身の光格天皇を書いているのに、気がつかないのだろうか?
「そして、皇籍剥奪された十一宮家は、男系でたどれば、すべて伏見宮家にたどり着きます」(278~279頁)と書いているが、確かに当時の閑院宮家の当主の春仁王は「伏見宮家にたどり着きます」が、父宮の載仁親王が伏見宮家から閑院宮家の養子に入っている事を見落としているわけだ。
131頁で藤原仲麻呂の乱を書く際に「今帝」として擁立された氷上塩焼を皇族時代の「塩焼王」と書いている。
247頁で承久の乱の後に土御門院が「自ら島流しを申し出る」のは「深謀遠慮の行動で」、248頁では四条天皇の崩御で後嵯峨天皇が践祚出来たのは「二十一年前に父・土御門が配流を申し出てくれたおかげで、子の後嵯峨に皇統が回ってきたのです」、「皇室は何十年、何百年という長いスパンでものを考えます」。実際は皇子のいない四条天皇の崩御という変事に際して、京では順徳院の皇子の忠成王を擁立するはずが、承久の乱に関わった順徳院を嫌った鎌倉幕府が拒否したので、後嵯峨天皇に御鉢が回ってきた。
光厳院の院宣による光明天皇の践祚が「すでに源平合戦以来、神器なき践祚は何度も経験しています。仮に三種の神器が欠けた場合、治天の君の力によって補うという知恵が皇室には根付いています」(262頁)後白河院の院宣による後鳥羽天皇の践祚と後伏見院の院宣による光厳天皇の践祚の2例しか例がないのに、「何度も」とは言わないだろう。この本はやたらに「新儀」を嫌っているが、後白河院が後鳥羽天皇を践祚させたという「先例」をつくったからこそ、後伏見院が皇太子量仁親王を践祚出来て、後醍醐天皇も「皇太子」として光厳院に太上天皇の尊号を宣下したから、光厳院が建武2年の後醍醐天皇弑逆未遂事件の際や建武3年に尊氏の挙兵の正当化に院宣を下した。正平の一統の際にも南朝は光明院と崇光天皇に太上天皇の尊号を宣下しているのは、「皇室は何十年、何百年という長いスパンでものを考えます」だから、寛容な南朝はわざわざ北朝を再建させる為に行ったわけはあるまいに。
266頁の後光厳天皇の践祚について「今回は治天の君となる上皇を全員拉致されたのです」。つまり正平の一統までの北朝の治天の君は光厳院で、先帝は崇光天皇だが、「一代主」の光明院も「治天の君」なのだろうか?
この本は「新儀」を否定しているが、どの時代の嘉礼を用いればいいのだろうか?戦前の皇室の儀式も明治以降に制定されたものであり、昭和22年に廃止されたはずの旧皇室令を準用しているが、今更、江戸時代以前の例を用いるわけにはいくまい。
やたらに著者は、どこそこの本で書いたので読んで下さいと御自身の本の宣伝に熱心だ。それでいて使っていたであろう本(具体的には今谷明、藤田覚、呉座勇一の3氏の著書)が透けて見えてくる。