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紙の本歴史を学ぶということ
2006/02/18 10:55
優秀だったんですね、入江先生
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は全体として三部構成となっていて、第一部が「軍国少年」だった同盟通信記者入江啓四郎の息子入江昭がひょんなことから東大受験からそれてグルー基金の奨学生となって米国に渡りハーバード大学院に入学するまで。第二部がハーバードからシカゴ大学へと続く学究生活の思い出。そして第三部が筆者の国際政治雑感のようなエッセーとなっている。それにしても入江先生って、やっぱり優秀だったんだなあと思わざるをえない。だってグルー基金奨学生に選ばれるのは日本からたった四人!まず、その試験にパスしてしまう。そして留学先のハーバード大学ならぬハヴァフォード大学ではいきなり学年5番になりファイベータカッパクラブ(全学の上位数パーセントしか入れない超優秀生の排他的クラブ)に入会を許され、卒業は文字通り「最優秀」。そして楽々とハーバード大学院へと進んでいくんだから。第二部では学究生活の模様が比較的淡々と綴られる。発見は、入江先生の長女が出産時の事故で脳をやられ障害児となったこと。エリートのかなりが子女に不幸を抱えている人が多いといわれているが入江先生もご多分に漏れず不幸。第三部は最近の国際政治の模様を先生が筆の向くままに書き流しような内容となっている。それにしても感慨深いのは、かつて高坂正尭先生、永井陽之助先生らと並んで左翼全盛の日本の論壇に殴り込みをかけた現実主義者・入江昭先生がいつの間にかリベラル、サヨク、朝日的言論人としてグルーピングされてしまっているということ。現実の政治とはどんなにオブラートに包み美辞麗句を並び立てても結局は剥き出しのエゴとエゴの衝突であり醜いもの汚いものなのである。日本の政治にアドバイザーとして深くコミットされた高坂先生でさえ「あんまり政治ばかりやっていると気が変になりそうになるので、時々歴史研究に逃避して心の平安を保っている」と漏らされていた。まして日本政府にもアメリカ政府にも関与されなかった入江先生は現実政治の汚さ、ずるさを正視することに堪えられないのではないか。それが先生をして「理想主義=オープンな国際システムの構築による恒久平和の構築」の主張へと駆り立てているのではないかと想像される。現実政治と常に距離を保ち徹頭徹尾歴史学者としての人生を貫いた入江昭先生の生き方は、それはそれで立派だが、かつてイデオロギーに染まりきった日本のマルクス主義歴史学者を一刀両断して粉砕した手並みが鮮やか過ぎたが故に、ちょっと残念と言うか淋しい仕上がりという印象もある。
紙の本歴史を学ぶということ
2005/12/31 12:20
米国学界人の姿勢に見られる特徴と盲点が興味深い。
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
長年米国のシカゴ大学とハーヴァード大学で教鞭を執った日本人歴史学者が、自分の歩んできた道を回顧し歴史学のあり方について語った本である。
前半は自分の半生を振り返っての回想録で、戦後、まだ日本が貧しかった頃にふとしたきっかけて渡米して歴史学を学び、やがて大学で教えるようになるまでが綴られている。何しろ渡米そのものが容易ではなかった時代のことで、あちらの大学に入るのにも比較的簡単な書類審査だけで済むところなどは隔世の感がある。親身になって指導してくれた恩師についての記述も興味深い。現在、米国の大学では教員の定年制が廃止されているが、後進に道を譲るために70歳で退職したというあたりにも、いわば米国と日本の狭間で生きた著者の信念が反映されているようである。
しかし、長年米国の学界で生きてきた著者の認識には、日本での常識とは多少のずれがあって、それは一方では日本国内で通用している見方に是正を迫るものではあるのだが、他方では米国の学者がどういう観念のもとに生きているのかを、もう少し突っ込んで言うと米国の学者ならではの盲点をうかがわせるものでもあって、良くも悪くも考えさせられるところが多かった。
例えば米国の大学人の持つ政治的姿勢である(第3部)。1960年以前は、国内的にはリベラルでも、対外的には反共・反ソの人が多かった。ところが60年代に入ると公民権運動やヴェトナム戦争の影響で、そうしたスタンスが分裂していく。民族解放運動に大きく加担する人もいれば、逆にソ連や中国に利するような姿勢は問題だとする人も出てくる。入江氏の筆はあくまで中立的で、実際の政治とは次元が異なる学問的立場を守ろうという姿勢で一貫しており、その点では共感が持てるのだが、米国国内的には黒人などへの差別を打破するのに寄与した公民権運動が、対外的には共産主義の拡張運動を利したという皮肉な側面に、必ずしも十分な洞察が行き届いていないように思われる。
この点を私が強調するのは、次の時代の趨勢と密接に関わってくるからだ。80年代以降、米国では新保守主義色が濃厚になる一方で、学界ではリベラル色が強いままであり、実社会と学問の世界の分裂がはなはだしくなっていく。著者は基本的にリベラル支持であり新保守主義には批判的だが、ヴェトナム戦争時におけるリベラルの姿勢が結果的に共産主義擁護となり、しかもそれがヴェトナムで大量のボートピープル発生という悲惨さを招いたことへの反省が見られない。私に言わせるなら、そうした反省がない限り、実社会から学界が信用されないのは当たり前なのであって、単に新保守主義を嘆くだけでは足りないはずなのだが、思考の盲点と言うべきか、著者にはそうした側面が見えていないようだ。
同様の盲点は、最近の日中韓の歴史認識にからむごたごたを記述した部分にも見られる。入江氏は、その原因は日本の一部に過去の朝鮮支配や中国侵略の事実を否定ないし変更しようとする動きがあるからだ、と書いている(168ページ)。しかし、一部のトンデモ本はともかく、一定レベルの市販書や教科書で事実関係までデタラメというものはないはずだ。入江氏自身、同じ箇所で1937年の日本軍南京侵攻で中国側にどの程度犠牲者が出たかは完全な結論が出ていない、と書いている。確定された事実はあるが、解釈は様々だ、というのが入江氏自身の歴史学観なのだ。とするなら、現在日中韓間で起こっているのが、まさにその解釈の問題なのだということがなぜ分からないのだろうか。この点はもう少し勉強してください、と言うしかない。日本の韓国併合と韓国資本主義発展の関係については、入江氏の同僚による『日本帝国の申し子』も出ている昨今なのだから。