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死が色濃くこの最終章を彩ってた。死について、そして生きるということについて、いろいろと考えさせられた。考えるという意味では、いろいろなことを考えさせられた。例えば、芸術について、愛について、恋について、愛の表現について、革命、政治、名誉、音楽、絵画、仕事、死ぬこと、生きること、友情、生きるということは喜びか、悲しみか、そういう意味では、さくっと読める作品ではないし、ある程度の時間を取って、ゆっくりじっくり読みたい作品だった。ここにもし、キリスト教やもしくは他の宗教的なスパイスが加わったら、どうなるんだろうと少し思った。それにしても、相当に質の高い本でした。
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愈々ショパンの容態が悪化。友人たちが見守る中、ただ一人パリを離れるドラクロワ。ショパンと彼を取り巻く友人たちの痛々しげな様子よりも、やはりドラクロワの苦悩の描写に惹かれました。何か奇想天外な展開がある訳でもないのに文章の巧さだけで4冊読ませる技術が凄い。
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ついに最終巻。ショパンはいかに生き、いかに死んだか・・・彼に思いを馳せるのは、ドラクロワだけではない・・・。
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物語は一気にクライマックスへと向かいます。ショパンの死。その時、ドラクロワは…
全編を通して頭の中にあった「謎」がクライマックスで一気に開けていくような感覚でした。
読み終わったときの達成感にも似たあの感覚は、多分平野さんの作品独特のものなんだろうな、と思う。
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ついにショパンが逝ってしまう。第一部の冒頭がいきなりショパンの葬儀なわけだから分かりきったことなのだけど、死のシーンの喪失感は本当にすごい。第一部から長く長く続くこの小説を読み続けた人は、きっとこの感覚が分かると思う。ショパンが死んだという実感がすごく湧いてくる。
「創作とは最も死に近づく行為」であるとしても、その行為によって芸術家自身が幸せになれるようなものであってほしい。
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ショパンさん…(泣)。張る弦を間違えた楽器のような「何か変」という感覚は、現代にも通じるものがあるなぁ、と思った。
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内容(「BOOK」データベースより)
病躯を引きずるように英国から戻ったショパンは、折からのコレラの大流行を避けてパリ郊外へ移った。起きあがることもままならぬショパンを訪なう様々な見舞客。長期にわたる病臥、激しい衰弱、喀血。死期を悟ったショパンは、集まった人々に限りなく美しく優しい言葉を遺す。「小説」という形式が完成したとされる十九世紀。その小説手法に正面から挑んだ稀代の雄編。堂々の完結。
ショパンの死からその後の処理までで物語は終わる。
この巻になってからは泣き通し。
いろんな感情が入り交じってしまって、あげくにはしゃくり上げつつページをめくる。
この「葬送」はもう一度最初から読み返してみようと思っています。
繊細で、美しい音楽を生み出した作曲家は、その曲同様
繊細で美しく、控えめでみなに愛され天に召されて行ったのだと。
死の床でも歌をせがみ、自分の葬儀の音楽を指示し、自分の作品の行く末をフランショームに託すショパン。
今までもショパンは好きな作曲家でしたが、この本をよみだしてからは絶対的な見方が、聴き方が変わりました。
この巻に入ってからはずーっとJablonskiのなにがしのショパンを流しながら読んだのですが、
自分の中での音楽が変わっていくのが手に取るようにわかって不思議な感覚に陥りました。
同じ録音なのに今までとは違う音に聞こえてくる不思議さと言ったら!
今までわたしが聞いていたのは「音」の羅列で「音楽」ではなかったのか?という驚愕すらあって。
もっともっと「音楽」を解し、演奏可能な人間になれるように、勉強したいと思うようになりました。
モーツアルトのレクイエムがまた違った意味で重要になり、
勉強してみたいと思いました。
いい作品でした。
たぶん一生手元に置いて、何かの折りにはよみかえすのだろうと。。。。
はじめ読めなかったのは嘘のようです。
重い本です、痛い本です。
でも興味のあるかたにはおすすめしたい作品となりました。
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襟を正して読んでいた長編がようやく読み終わった。
昨今主流のストーリィを追いかけ、言葉を読み飛ばしてはいけない小説。
思いの他、時間がかかったのもやむをえない。
一昨日、「ショパン伝説のラストコンサート」横浜公演で
平野氏のお話と朗読を聴く。
人間ショパンと天才ショパンを描きたかったのだそうだ。
四巻は人が死ぬこと、いなくなるということの実感について
絶えず問われ、答えを求めていたように読める。
フランショームとドラクロワ、ショパンの親友だけが
真の寂しさと戦い、そして芸術家として飛翔することを
思わせる結末に、19世紀を生きた彼らの姿が
今現代の私たちの生活と関わっていくような気がした。
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とにかく素晴しい!のひと言に尽きる作品である。
私はとにかく感動しまくりだった。感動と興奮と感激とでどうにかなってしまいそうなくらいだった。
中でもやはり、ドラクロワの絵画に対する思いと絵画についての記述、議会図書館天井画の解説ともとれる記述、ショパンの演奏会の記述は本当に感動的な素晴しさである。興奮して体が熱くなった。
私は音楽も絵画も言葉にならないものを表現するものだと思っている。
言葉ではなく心で感じるものだと思う。
だから平野氏が音楽や絵画についての感じるという形のないものを、正確に的確に言葉にしてしまうことが衝撃的だった。
まるでそこに音が流れているような、まるでそこに絵があるかのような、いや、それ以上に音楽を聴いて絵画を見て『感じた心』を心以上に言葉で具現化してしまう。
本当に、平野啓一郎氏の天才ぶりに敬服するばかりである。
私にとってドラクロワもショパンもあまりにも偉大過ぎて存在自体に同じ人間として生きていたという実感が持てない人物だった。まるで神のような存在だった。
それを、この本は、私と同じ人間として描いている。
フィクションとノンフィクションの境目がない。知っている限りの史実が正しく書かれていると、知らないこともすべて本当のことに思えてしまう。会話だって心中だって本当にそんなことを語ったり思ったりしていたのかも、と思ってしまう。
それが私を感動と感激と興奮の感情に引きずり込むのである。
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長かった・・・。
話自体が長いのももちろんだけど、この本を読み通すのにかかった時間も長かった。思えば高校2年か3年の時にちょっと手にとって挫折して以来なので、 普段の数十倍の時間をかけて消化した感。
割と昔から(メジャーな曲しか知らない割に)ショパンの曲は好きだったので、その延長のミーハーな気持ちで高校の時は読み始めて、だからドラクロワに関してほとんど頭に残っていなかったのだけど (つまり読み飛ばしていたってことがバレバレ) 今回改めて読み返してみて、むしろドラクロワの方にこそ共感できる気がした。
誰にでもあることなのかもしれないけど、学術論文を書くとき、まだカタチを為していないアイディアの萌芽が、自分の頭と語彙を借りて世に出ようとしているって感覚を覚えることがあって、ドラクロワが自分の芸術に対する姿勢を話すところで、 ああこの気分なんとなく分かるわ、あの感覚はこれか。と得心がいった。
(もちろん後の世への貢献度から言ったら比べものになるわきゃないですが!)
作者本人もそういう気分を味わいながら書いたんじゃないかなと。
一点だけ苦手だったのが、人物の考え方がしっかり書かれていた分、人物同士の議論とかささいな思い出話とかが若干長すぎた感・・段々読むのに疲れた・・・。苦笑
各部の最後は、一筋の光を見た気がした。
第一部の最後はあまり希望を持てるものではないけれど、規模はまったく比較にならないにせよ、 天井画を仕上げたドラクロワの心境が少しでも自分に引きつけて考えられたので。
第二部は、「日蝕」のクライマックスのような趣向(見開き白紙)を使ってこそいないけど、 それに匹敵する鮮烈さがあった気がする。
あと、第一部の冒頭、パリの町をさまようドラクロワの姿がとてもとても切なかった。葬送の朝はきっと彼みたいな気分になる。
ところで
自分の中では読み方も理解力も大して進歩していないと思っていたのだけど、数年経って読み返すと気付くことや思うことが全然違っていて、自分が思っていた以上に自分は変わっているもんなんだなと妙な実感が湧いた。
前よりずっとずっとこの作品が好きになってたので、またいつか読むかも。
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やっと、やっとのおもいで読み終わりました。初めて見る漢字、初めて聞く言葉、知らなかった音楽、知っていたはずの人物。歴史・政治・流行・思想・産業・地理・芸術・技術・天候・金・革命・名誉・欲・。男・女・大人・子供・家族・血・血・血。「人間」を発見した。なんというか「人間」という生きものを強く感じた。最後のページを読み終わり、上巻の上を(始めから)読みはじめたくなる。
発見の多い、充実した読書でした。
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全4巻、やっと読み終わった。去年の秋くらいから読み始め、ゆっくり併読しながら読み進めていった。
ドラクロワとショパンが邂逅するフランスを描いた重厚な大作だった。この二人を中心に様々な人が登場し、それを通して二人の天才の姿、芸術が語られる。僕の中では、トルストイの小説のような手触りに似ている。トルストイはロシア文学だが、似ていると思ったのは、狙ったと思われる古めかしさだけではなく、きっとその当時の国の姿、そこで生きる人々の姿が、主人公達の強い輝きとともに生き生きと語られていたからだろう。
最も素晴らしかったのは、ショパンの演奏会のシーン、ドラクロワの天井画のシーン。それぞれ、聴覚と視覚、別個の芸術を言葉で描き切ってくれた。
これだけの大作だからこそ、読み終わった時に強く感じるものがある。終盤にショパンが亡くなった事での不在と、現代にも残ったショパンの楽曲の不思議なコントラストで、この話はフィクションなはずなのに、実際にあった不在として感じてしまう。
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死にゆくショパンを中心に描いた巻
この本を読んでいた2週間に
iPodにショパンのプレイリストを作成して通勤の間にヘビーローテーションしたり、PCの壁紙をドラクロワの名画のスライドショーにしたりと、作品の世界にどっぷり浸かり込んでいた私には非常に辛かった、早く楽になって欲しかった。
ドラクロワはショパンの死に立ち会わない。
それは、彼の臆病さ故かもしれない。
ショパンと対照的に、彼は生きる。
自分の天才に忠実に生きて、作品を残す。
フランショームの言葉が印象に残った。
”「……いえ、固より人間の生活とはそんなものなのでしょうか?もし我々の時代の新し不幸があるとするならば、それは、嘗てはきっとそうした惨めな綻びのない幸福な人間関係があった筈だという郷愁を抱いてしまうことこそがそうなのでしょうか? 」”
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イギリスから帰ってきたショパンはさらに体調を崩し、パリ郊外へと移住する。ゆっくりと死へ向かっていくショパンと彼を慕い、取り巻く人々とのやり取りが繊細なまでに描きこまれ、読んだあとにため息が出ました。
本書で「葬送」は完結します。もちろん。主人公であるショパンの「死」という逃れることのない結末ですが、一歩。また一歩と死へと向かっていく彼と、彼の音楽を愛し、また、彼の人柄を慕う周りの人々とのやり取りが、壮麗な文体とともに描きこまれます。
渡英し、すっかりと体調を崩したショパンがその体を引きずるようにして戻ってくると、そこもまた、これらの大流行ということで、それを避けるためにパリの郊外に移ったショパン。しかし、彼の身の内に深く巣食った病はその衰えを知ることはありませんでした。
もともと頑健でない彼の体に訪れる長期にわたる病臥、激しい衰弱、 喀血。それを見舞う客たちのくだりは、本当に読んでいて悲痛な気持ちになりました。ショパン自身も何度も主治医を変え、彼らに当り散らし、ついには自分の殻に閉じこもってしまうところには、やはり「病人」としての不安が顕在化したものなんだと思いました。
自らの死期が近いと悟ったショパンは自らの「今後」のことや今までに彼がしたためた楽譜や手紙などの「始末」をするべく、遠くポーランドから家族を呼び寄せ、母親であるサンド夫人と不仲になっている娘のソランジュに彼女と仲直りをするようにいったり、その夫であるクレザンジェにも、真心を尽くした言葉をかけているのが印象的で、改めて彼の繊細な心がこちらにも伝わってくるようでした。
一方のドラクロワのほうも、その詳細が描かれているのですが、ショパンの最後があまりにも印象的過ぎて、彼がなくなった後にしばらくしてから大泣きした。ということしか覚えておりませんでした。
やがてショパンは彼を慕うものに囲まれながらその最期を遂げ、残された手紙や彼が愛用していたピアノ。そして彼の遺体は解剖にかけられ、その心臓は防腐処置を施された上で、故郷であるポーランドに帰る、という場面になると、本当に泣けてしまいました。結局のところ。経済的な都合で手放さざるを得なかったショパンの遺品の数々は彼の弟子であり、彼を慕い続けたジェイン・ズターリング嬢によって落札され、ショパンの家族に寄付されたのだそうです。その後も彼女は生涯にわたって、独身を貫き、ある意味で彼への愛に殉じた、といえると思います。
この豪華絢爛な芸術絵巻、実を言うと重厚すぎて敬遠していた節があったのですが、これを読むように僕の背中を後押ししてくれたのは、誰あろう作家の平野啓一郎氏であり、彼にツイッター上でこれを勧められなければ、おそらく永遠に手にすることはなかったでしょう。この場を借りて、平野啓一郎氏には感謝御礼申し上げます。まことに、有難うございました。
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第四巻。
最終巻は壮絶な戦いの巻だった。
ある者は病と、ある者は老いと、ある者は失われた絆を取り戻すため、ある者は名誉のため、ある者は愛する人への想いを貫くため、ある者はこの生活を守るため…。
登場人物の全てが皆、何かのために戦っていた。ある者は赤々と燃え盛る炎のような怒りを剥き出しにして、またある者は、青白く燃える焔のように、静かに、でも確かな温度を持って。
読みながらずっと頭の片隅にあったのが、この物語ははたして、何に向けての葬送曲であったのか、という問いだった。
物語の中心が夭折した音楽家の「死」であり、主たるモチーフがその「葬送」の場面であることは言うまでもない。
しかしこの長い物語の中で、著者はもう一人の主人公の言葉を借りて、全く別のあるものに向けていくつかの追悼の言葉を綴っているようにも思えた。
第一巻の冒頭で、プレリュード的にショパンの葬送の一場面が描かれていたことが思い出される。思えばショパンは、この物語では初めから、決定づけられた「死」の象徴として描かれていたのだろう。
それに対してドラクロワは、時に感情的でありながらも常に思索的で、創作に苦悩し、時に怠惰で、より人間的に、芸術家的な側面を強調して描かれているように思った。つまり彼は、少しずつ忍び寄る「老い」を恐れながらも、それでも生きていこうとする「生」の象徴なのだろう。
そのドラクロワが、友人の死を乗り越え、新しい作品へと踏み出すところで物語は終わる。
登場人物たちは皆、他の何物でもない「生きる喜び」のために戦っていたのだろう。
もしかしたらこの物語は、「死」そのものへの「葬送」の物語だったのかもしれない。
読む人の年齢や経験によって、考え方は変わってくるだろう。たとえばショパンやドラクロワと同じ、所謂「芸術家」の人が読んだとしたら? 病の淵にある人が読んだとしたら? 自分自身、作中のドラクロワと同じ年齢になってこれを読み返したとしたら感じ方は変わっているだろう。
人生のうちに一度は読んでおいた方が良い一編。生きているうちに。