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投稿者:みーやん - この投稿者のレビュー一覧を見る
SNS全盛期のいまだからこそ、読みたい本だと感じました。こころをひらく対話術 精神療法のプロが明かした気持ちを通わせる30の秘訣(2010年)を改題、修正したものです。言いっ放しではない、相手を理解して、お互いのステージを上げる「対話」術が学べます。
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軽い読み物化と思ったらとんでもない。
「対話」に関して深く鋭く書かれています。
「無色透明な分身」の話や「『理解する』と『同意する』は別のこと」という話は眼からうろこでした。
読みながら心の中で「参った」と言ってしまうような深い本です。
とてもおすすめです。
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カウンセリングの方法な内容で、じゃ我々に不要というわけではなく、むしろコミュニケーションにおいて重要な考え方だね。ここで紹介される、自分の論理のみから助言しようとする人も害悪なんですが、それ以上にそもそも人の話を聞けない人というのも案外多くいて、こういう世の中でつまづく人ってのがいるんだろうし、そうした人たちに、その感覚が間違っていないということを知ってもらううえでもいい本ですね。最後、スマートにまとめられていて、一読したらあとはここを繰り返しでもOKです。相手が他者である前提、これが意外と気付かれない。
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「自分と同じ考えを他人も持っている」という前提でいたために人とぶつかってしまった自分に、まず、その前提を捨てるべきだと気づかせてくれた本。
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「他者」といかに生きるか。
そこで大切になってくる「対話」とはどんなものか。
実に深い内容です。
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> 「ムラ人」の集まりにいかに近代的な見かけを取った会議や話し合いの場を設定しても 、そこで有意義な意見交換は行われずに 、あとでグチグチと個人攻撃や 「談合」が行われることになってしまうのです 。いわば格闘技の試合で負けて 、終わってから場外で相手を後ろから殴っているような卑劣な行為であることに 、 「ムラ人」は気づいていないのです 。
→最近、ユーザーとの会議の後に、同席していた上司から会議後に、あれもこれもダメと言われたことを思い出し、ああこの人は「ムラ人」だったんだなと思い至りました。素晴らしいこの一文に出会えただけでも、この本を読んだ価値があったと言えるでしょう。まあ、私の人生が変わる対話術とは対極にありますが、、、
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『普通がいいという病』が良かったので、次に手に取った泉谷閑示さんの著書。
「対話の最も重要な部分は、話すことよりも、むしろ聴くところにあります。話し手が語る場を提供し、聴いた話を処理しようと急ぐのではなく、まずはそれを共有することに意味があるのです。」
養老孟司さんの『考えるヒト』に「われわれの意識は主観である」と書いてありましたが、対話を成立させるためには、われわれが各々違う主観に基づいて世界を認識していることを意識し、先ず相手が認識している世界を知った上で対話することが大切なのだということだと思います。
>「理解する」というのは「同意する」ということではない…という話は、多くの人の気持ちを楽にしてくれるのではないでしょうか?相手の気持ちに寄り添い(自分は違うけれども、そういう気持ちになることは)理解できますよ、という応対は、対話を円滑にするコツでしょうね。
>「頭」が用いる言葉は「~すべき」「~してはならない」と分析を行った上で打算的な行動をする。「心」が用いる言葉は「~したい」「~したくない」と即興的に物事を判断する。「心」は「頭」には解析不能な高度な判断を行っている。
相手の話は、相手と自分のコンテキストの違いを意識しながら聴く必要があります。そのギャップを埋める姿勢がないと、中立的な立場で判断できないからです。平たく言うと、相手の立場になって考えるということです。
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面談という機会を作った時に、どんなことを考えながら挑むのが良いのかということがわかった。
他者を愛するには自分を愛しなさいという言葉はたくさん聞くけれど、その愛するということがどいうことなのかわからなかった。
自分の中にもう1人の自分(他者)がいることを認めて、その他者を愛すること。2人称の世界から救ってあげることだと思う。その個人が本当はどんなことを考えているのか、対話を通して理解していく。丁寧に聴いていくことが愛することにつながる。借り物の考え、他人の価値観に囚われていることは何か、その考えは自分の考えなのかを問うことで、今は自分の考えがわからないこともあるかもしれないけど少しずつ、2人称の世界から抜け出し、自身の考えで動き生きていくことを身につけることができる。
発達障害の人は、苦手な部分が空気を読むことであるかもしれないけれど、その分他人の価値観に左右されず自分を愛して生きていける素養があるとも言えると思う。
それでも、理解できない価値観を強要されてきた辛い経験に寄り添っていかないといけない。
良いところをつぶしてはいけない。
石田ゆりこさんのインスタグラム投稿
自分の頭で考えて自分の言葉で喋ること。
個としてしっかり自分の足で立つ。
これを続けることで、人を大切にすることができる。
対話とは人を尊重し、大切にすることからはじまる。
この感想の中にも、「〜しないといけない」という言葉がたくさん出てるけど、私はこうしたいという1人称で話せるようになりたい。
自分を愛していきたい。
とってもいい本だった。
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会話と対話の違いを知ることができた。
自分が日々接する親しい友人も「他人」であること、「他人」と聞くと少し冷たい言葉のように聞こえるかもしれないけれど、
どんなに親しい人だとしても 親はもちろん、住んでいる場所も違えば考え方も違う。
自分と相手には共通点もあるだろうけれど、間違いなく違うところの方が多いはず。
相手を「他人」と意識する事が対話をする上で重要であることを知った。
そこから、
お互いが自分とは違う相手の考え方などを知る、理解する→お互いに成長する
結果、固定観念を手放すことができる
ということがこの本の主題かなと私は思った。
小手先の技術では補えない、コミュニケーションの考え方を学んだ。
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すごく勉強になりました。
今更こんなものを読んでも付け焼き刃のコミュ力しかつかないのかなと思っていましたが、対話について考える前提を良い意味で覆してくれた気がする。
相手と対話をするということは自分の知らないことを経験すること。経験は体験とは違い、自分がそれまでの自分と何かが変わったということ。対話はそれを目的にしている。大事なのは、たかをくくらないこと。わかったふりをしないこと。それを借り物の考えにしないために自己対話を通してじっくり考えること。自分の考えにしておくことの重要性はノートに書いてみた!
この本で自分が新鮮に感じた考え方は、無知の知ということの有用性と、常識を常識と考えてしまうことの危うさ!どちらもノートに自分の考えも含めて書きました!
少し自分のコミュニケーションに対する態度や考え方が変わった気がする。
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心に深く染み入るように言葉が入ってくる本でした。淡々としながらも土台のところではどこか温かいもの感じさせる文章です。コミュニケーションに悩んでいた自分は、この本に救われた気分です。
ー相手を「他者」としてみることから「対話」は始まる。
これほどのシンプルなことを自分はどれだけ気付けていなかったのか。そのためにこれまでどれほどコミュニケーションエラーを起こして前に進めないという苦い経験を積み重ねただろうかとショックを受けた。
自分は人と分かりあえたと感じると嬉しく感じる。反面、人と分かり合えないと感じると意見の違いを受け止めながらも限界を感じ、途方もない気持ちになっていた。そこで腑に落ちないけれど謝ってみたり、もう気にしていないというふりをしてきた。
この本を読み、自分がこれまでしてきたのは「会話」であり、「対話」ではなかったのだと腑に落ちた。
自分の場合、夫婦間のコミュニケーションである。ずっと興味の対象であった「他者」であるパートナーが家族になり、子供も生まれ、より親密な関係になるはずなのに一緒に暮らせば暮らすほどささやかな違いを積み重ね、分かり合えないことが増えていく。それに伴いざらざらした感情で過ごす時間がどんどん増えていった。
この本を読んで、この不可解な問題の根底は「他者」という視点の欠落だったのだと気付かされました。
家族として共に過ごす時間が増えるだけでなく子育てというタスクも増え、お互いがなくてはならない存在になればなるほど、どんどん視野が狭まり「うちの世界」や「ムラ的共同体」の思考が強くなり自他の区別が溶けてなくなりつつあったようです。
自分も「他者」も尊重されるべき独立した存在であること。その独立した「他者」同士がともに考え合うことができる関係を保つには「対話」を重ねること以外にないこと。それが引いては愛に生きることを選ぶ生き方に他ならないということ。
文章の冒頭から締めくくりまで、読みながら痺れるような体験をさせていただきました。
経験と考察をもとにひとつの物事を深く掘り下げて表現されていくことの美しさ、面白さを体感させていただきました。
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一言でいうと
【今日までの会話は、無駄なものと気づく本】
ただの会話(モノローグ)
対話(ダイアローグ)
この2つに分けた時、世間の会話はほぼ前者であると私は思う。
それは非常につまらない。意味がない。時間の無駄遣い。
では、対話はどうすればできるのか。
では、対話をする上での問題はないか。
では、対話の具体的な方法はどんなものか。
精神科医である泉谷閑示先生は、丁寧に深く掘り下げる。私は信じられないくらい良書だと感じました。
いつも思うのは、タイトルのミスマッチ感(笑)
新幹線の駅前の本屋にならんでいそうなタイトル。
編集者の「いい本過ぎて、難しいタイトルは逆に取ってもらえない可能性があるから、どこにでもありそうで手を差し伸べやすいタイトルにしよう!!」という必死さと迷いが伝わります。
そこが、なんだか良い(笑)
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愛は孤独と孤独の万有引力かぁ
2人称的関係ではなく、他者を他者と理解する3人称的関係が故に人は孤独になり、孤独が故に愛が芽生える。
なるほどなぁ。
当初は精神科医がメンタルヘルスの入門書として書く予定だったということもあり内容は堅め。
普段の会話に使える考え方は「会って、話すということ」の方がしっくりきたよ。
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858
泉谷 閑示
精神科医。東北大学医学部卒。東京医科歯科大学医学部附属病院、(財)神経研究所附属晴和病院、新宿サザンスクエアクリニック院長等を経て、1999年に渡仏し、パリ・エコールノルマル音楽院に留学。パリ日本人学校教育相談員もつとめた。現在、精神療法を専門とする泉谷クリニック(東京・広尾)院長。大学や短大、専門学校等での講義も行ってきたほか、現在は一般向けの啓蒙活動として、さまざまなセミナーや講座を開催している。また、作曲家や演出家としての活動も行っている。著書に『「普通がいい」という病』『反教育論』(ともに講談社現代新書)、『「私」を生きるための言葉』(研究社)など。最新刊に『仕事なんか生きがいにするな』(幻冬舎新書)。
つまり、誰かと話し合ったとしても、それがかならずしも「対話」と呼べるものになっているとはかぎらないのである。
人は「家」に属し「ムラ」に属し、「職能別団体」に属し、「社会的階層」に属していることに疑問を持たず、そういうものだと思って一生を送り、その分をわきまえて役割をはたすことが良いことだとされていました。この「タテ社会」の秩序に従ってさえいれば、安全が守られ、居場所も保障されました。そんな社会では、皆と「同じ」であることがとりわけ重要なことであり、皆と「違う」ことは 忌み嫌われましたし、排除されるおそれのあることだったのだ。
たとえば、親が自分の子どもに対して「これは絶対この子のためになるはずだ」と、親の価値観にもとづいて選んだものを与えたりしますが、それがその子の感覚や感性に 合致 していないことも案外少なくないのです。もっと成長すればその良さが理解できるものだったとしても、与えるタイミングが早すぎればその子には良さがわからないでしょうし、「押しつけられた」と感じてしまって、かえって嫌なイメージを植えつける結果に終わるかもしれません。さらに言えば、「あなたのためよ」と言って押しつけられたものほど、人を 歪めるものはないのです。人は、悪意のこもったものを拒絶することは容易ですが、善意にもとづいて提供されたものが自分に合わないものであった場合、これを断るのはなかなか難しいのである。
相手を「他者」と思うことは、親しいか親しくないかには、そもそも関係ありませんし、「心が通じ合う」ことに反するものではありません。相手を「他者」と思うということは、相手の独自性や独立性を認めることであって、ほかの誰とも同じではない唯一の存在として、その人の個別性を尊重し、 畏敬 の念( 畏れ敬う気持ち)を抱くということでもあります。その「他者」が、自分と同じことを感じたり気持ちを理解してくれたりしたときに「心が通じた」のであって、だからと言って、何から何まで「同じ」わけではないのだ。
相手と「同じ」であったり一体であったりすることは、ありもしない幻想です。これまでそのような認識があまり持たれなかったのは、皆が「違う」をひた隠しにして、「同じ」だけを表明していたからにすぎません。しかし、曇りのない目で見れば一目瞭然、互いが、まぎれもなく「他者」同士なのだ。
「異人」扱いされないために、「同じ」と思われる話題を仕入れることに必死になる大変さは、きっと経験された方も多いのではないかと思います。話題についていくために、本当の自分の興味よりも 流行りのドラマや映画を 観 たり、ヒットしている音楽を追いかけてみたり、いつも流行を気にかけなければならず、なかなか大変なことです。しかも、そこで話題として取り上げられないようなものについては、うっかり話題にだしてケチでもつけられようものなら大変だというわけで、隠すクセがついていたりした。
なかでも、その場にいない人をやり玉に挙げた悪口や 噂話は、皮肉にももっとも連帯感を強めるので、井戸端会議の主要テーマになっています。いじめを行う側の人間が多数派を形成する基本原理は、ここにあると言えるでしょう。つまり、構成員の一人ひとりはターゲットにされた人に対してさほど反感を持っていなかったとしても、声の大きい 首謀 者 の意見に合わせないと、自分までもが「異人」として血祭りに上げられてしまう危険があるので、あたかも自分も反感を持っているかのように同調してしまうのだ。
このように集団に同調していく生き方をしていると、いつの間にか、自分の本当の興味や関心がわからなくなってしまうものです。これはなかなか深刻な問題で、のちのち「自分がわからない」「自分を見失った」といった精神的な行き詰まりを引き起こす原因にもなるのです。実際、最近ではこういった「自分がわからない」という悩みから、不登校や出社不能になってしまう人も少なくありません。
「他者」を知ろうとすることは、自分とは異質な感覚や感性に触れ、異なる価値観や考え方を理解しようとすることです。そして、その異質なものとの遭遇によって、自分が変化することを歓迎することでもあります。私はこの姿勢のことを、「経験に身を開く」ことと名づけておきたいと思います。
ここでは「経験」という言葉を、「体験」とは明確に区別して用いたいと思います。「~したことがある」「~に行ったことがある」というようなものは、「体験」ではあっても「経験」と呼べるとはかぎらない。それが「経験」と呼べるものかどうかは、それによってその人が内的に変化したかどうかによって決まると考えるのです。変化といっても、「行ったことのないところに行った」「したことのないことをした」といったレベルの変化ではなく、多少なりとも感性や価値観が変わり、その人の 在り方がそれまでとは違ったものになるような変化のことです。
「対話」とは、その「経験」の場を提供してくれる貴重な機会です。「他者」の話を「 聴く」ことによって、私たちは知らなかったことを疑似的に「経験」したり、考えも及ばなかったことについて考えさせられたりするようになるのです。
ですから、自分自身がそれなりの 咀嚼 力を持っていない場合には、「他者」との「対話」によって混乱することもあるかもしれません。自分の持っている価値観や考え方が、自分の土壌に根差して積み上げられ、 吟味 されてきたオリジナルなものでなく、よそからの借り物の考えや知識を 鵜 吞 みにし、それらを組み合わせたにすぎないような場合には、深いところで自信が持てていないために、どうしても「他者」に自分を開くことに勇気を必要とするでしょう(第 20 講参照)。つまり、異質なものと遭遇し、自分がとりあえず信じてきたものが 崩壊 してしまう怖さがあるので、「他者」を避けようとしてしまうのです。 しかし、借り物はしょせん借り物ですから、それはいずれ崩れてしまう運命にあります。 借り物の不確かな足場の上に立ち、おびえながらもそれを死守して生きるのではなく、「経験に身を開いて」確かな基礎を築いていくことが、真の自信を得るための唯一の道なのです。
「対話」とは、自分を変えていきたいという動機づけさえあれば、誰でもいつでも始めることができるものです。「他者」と遭遇することによって、人は自分を知り、自分を再検証せざるをえなくなります。それによって、自分の中の借り物の部分は次第に崩れていきますが、しかしそれと同時に、真に自分のものと言えるような「経験」が、着実に育っていきます。
ことにディベートは競技にもなっているくらいで、やり取りによって決して自分の考えや感じ方を変化させてはならないし、変化したら負けになってしまいます。つまり、それはモノローグ(独り言)とモノローグの戦いなのです。
人間同士がそもそも「同じ」ということはありえないのですが、そこで無理に「同じ」仲間であることを確認するためには、「違う」と見なされるターゲットを持ちだしてきて、それについての反応が「同じ」であることを見るという消去法的なやり方しかないのでしょう。
モノローグとは、このようにやり取りを行っても変化が起こらないものを言いますが、一方「対話(ダイアローグ)」というものは、やり取りすることで双方に変化が起こるものであり、そこが決定的に違います。
つまり「対話」とは、「討論」のようにどちらかの一人勝ちという結末があるのではなく、また井戸端会議のように両者とも変化しないわけでもないもので、双方が新たなステージにたどり着くことができるものです。
もちろん、「量」的にたくさん経験を積んでいる人間の方が、物事を熟知している側面があることは否定できません。しかしながら、案外、その事柄について無知の素人であるがゆえに感じ取れる大切なことがあるのもまた事実です。
漱石もこのように、その道の専門家や経験者というものが、ともすれば細部にばかりとらわれてしまいやすく、むしろ先入観のない素人の方が、第一印象で直観的に本質的なものを感じ取ることができるのではないかと指摘したのです。 このように、どんな相手であっても、そこに 傾聴 すべき新鮮な感想や指摘があるかもしれないと考えることが、「対話」を行う大切な基本姿勢なのです。
人間は「未知なるもの」を恐れる性質があり、ついついそれを「既知なるもの」に落とし込みたくなるものです。分類したり、名前をつけたり、似ているものになぞらえたりという行為がそれです。ですから、人の話を聴く際にも、「それって○○でしょ」と名づけてみたり、「それは○○と同じだ」と近似させてみたりしたくなるものです(この点については、第9講でも「たかをくくること」として取り上げます)。しかし、「わからない」をそんなふうに「わかる��にすり替えてしまうと、深い理解にたどり着くことができなくなってしまいます。相手は「他者」なのですから、むしろ、そう簡単に「わかる」はずはないと思っているくらいで、ちょうど良いのです。 「わからない」を「わからない」のままに、ていねいに「わかる」まで聴いていこうとする姿勢が、「対話」には欠かせない誠実さなのです。
人は、「向き合う準備のできていないテーマ」に遭遇したときに、それを聴くことを無意識的に避けようとするものです。 「向き合う準備のできていないテーマ」とは、本人が真の意味で 自分で 考えてみたことのないテーマのことです。つまり、外部からていねいな吟味を行わないで採り入れた借り物の価値観や、できあいの常識、道徳、宗教観などで片づけてしまって、その人が自身では考えたことがなかったようなテーマのことです。 そのようなテーマに直面すると、自分の中に「答えられない」「どう返してよいのかわからない」といった不安が頭をもたげてくるので、人はそれに耐えかねて、瞬間的にその話題を遮断したくなってしまうのです。
それを考えるために、卵とひよこの 喩えを見てみましょう。 卵は硬い 殻 で 覆われていますが、これは、中が形を保てないドロドロした黄身と白身であるため、それを外部からしっかり保護するために必要なものです。 一方、卵が無事にふ化してひよこになったときには、外側はフワフワの毛で覆われ、内部にしっかりとした硬い骨格が形成された状態になります。 このように、 外側が硬ければ内側はやわらかく、 外側がやわらかければ内側に硬いものがある という逆転があるわけですが、これが人の「考え」というものについても、あてはまるのです。
生い茂る雑草の緑をぼんやり眺めているとたかをくくりそうになる どこまでも我を張るあの婆さんもいつかは死ぬだろう ぼくのしてやれることはたかが知れてる 業が深いのは生まれつきで誰にもどうにもなりゃしません。
「たかをくくる」とは、対象を固定的に捉えることです。この捉え方は、対象が変化しない性質のものである場合には問題ありませんが、刻々と変化する生き物としての人間を対象にする場合には、微細な変化を見落としてしまうことになり、不適切です。
また同じ話か」とうんざりするようなときにこそ、「なぜ、またこの話が語られるのだろうか」と考えてみる態度が必要です。その時点では無意味な反復にしか見えなくても、遮断せずに聴き続けてみることで、あるときふと、その本当の意味がしみじみとわかってくることもあるのです。
私は仕事柄、クライアントから「死にたい」という話を聴くことがよくあります。このような内容は、もっとも「聴く」ことの難しいテーマの一つだろうと思います。 私自身、以前を振り返ってみると、「死にたい」という話をされても、じっくりとその気持ちを「聴く」ことができずに、つい話をそらしてしまったり、「それは~のせいだから気にしない方がいい」とか、「それではクスリを調整しておきましょう」「でも、きっと良くなりますよ」といった発言で、つい話を遮断してしまったりしたこともありました。
このように「同意」を切り離して「理解」を目指して聴くことに徹��ていると、自然にその気持ちにまつわるさまざまな話が 吐露 されてくるものです。くわしく言えば、「死にたい」と思うに至った背景や気持ちや考えの推移、そして、「死にたい」という言葉の陰に省略されている部分が徐々に語られ始めるのです。「死にたいくらいにつらい気持ち」「死にたいという気持ちが消えないことがつらい」「死にたいと考えてしまう自分が恐ろしい」「死にたいなんて言ってしまって申し訳ない」「死にたい気持ちをどうにか消し去りたいけれど、どうしてよいかわからない」「死にたい気持ちもあるけれど、同じくらい死にたくない気持ちもある」等々、そこに省略されている思いにはさまざまなヴァリエーションがあるもので、ひたすらに耳を傾けて聴かないかぎり、それはわからないものです。
対象をコントロールしないということが、「待つ」ことの本質です。「待つ」とは、対象が主体的に在ることを尊重し、こちらが決してそれを操作しようとしないことです。ですから、話し手が何をいつ語るのかということについて、聴き手が選択したり意図的な方向づけを行ったりせずに、ひたすらに受け取ることが「待つ」聴き方です。
残念ながら哲学という言葉は、いつの間にか 厳 めしいイメージをまとってしまって、私たちの日常生活とは無縁なものと捉えられてしまっています。しかし、そもそも人間が生きる上で直面するさまざまな問いや悩みに対して、「借り物の考え」で処理するのではなく、ていねいに「自分の考え」を見つけていく作業こそが哲学なのです。 ただし「自分の考え」というと、何か自分一人だけでウンウン 唸って考えることのように想像されるかもしれませんが、かならずしもそういうことではありません。一人だけの考えというものには自ずと限界があるもので、むしろソクラテスが行ったように、「対話」によってともに考える方が、はるかに先の地点まで進むことを可能にしてくれるものであり、個人の限界を超えた豊かな収穫を与えてくれる可能性を秘めているのです。