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普通の人向けなのだろう
2016/06/10 01:30
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投稿者:たろたろたろんちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
己の怠惰、マナー違反を容認する者(自覚がない者も含む)が、哲学という名を借りて己の行為を正当化し、無闇に他人(中島氏)を批判すべきではないと訴えている。普通に生きたいけれど、生きられない、けれども、あくまで一般常識に則ったうえで苦しむ者に向けられた内容。この本の事例は、発達障害にも関わることだと推察できるが、中島氏はあくまで哲学の師としての視点から述べているので、人と折り合いをつけ生きていくか、または辛くとも我が道を行くという生き方を選べない者には無用の長物だと思われる。
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この本は中島義道ファンでないひとにはおすすめしません。後半はひたすらコミュ障の若者と中島義道とバトル話が続きますが、そういう人が増えたのか、哲学を志向するひとにそういう人が多いのか、わかりかねますが… 生きづらい方達であることは確か。嫌にならず受け入れている中島義道はある意味やはり
すごい。
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<Key Learnings>
・社交性
万人ウケする社交性→ミニマムでよし。が、自分を相容れない人を全部排除するのではなく、上手くそれなりには付き合う様に。
そのかわり、自分のワガママが通る場所を確保せよ
・他人の目、評価が気になる→仕事か、
他人を恐れる人
=他人による自分の評価を恐れる人
=他人によく思われたいという欲求が強い人
これを希薄化して気にならなくする方法は、2種類
1)カントみたいに仕事で評価されれば、どんな変人でも、仕事によって多くの人と結びついていられ、しかもかなりのワガママが通る
が、誰にでも出来る事ではない
2)1人でいいから、本当の理解者、本当に信頼出来る人、自分が行きていることそのものが励みになる人(普通は、親、恋人、友人など)
=私を本当に必要としている人、私のワガママを聞いてくれる人
が居れば、生きていける
・日本の変な教育
教室に入る時「失礼します」と言わねばならにと命じられて「何故ですか?」と尋ねた息子はしかられた。「ボランティア活動したい人?」と聞かれ手をあげなかった理由を問われ「したい人がすればいいと思って」と言って咎められた。息子が学校からもらったパンフには、「電車やバスに乗る時、むやみにたったり、大声を出したりしない。まわりの人が嫌な気持ちになるようなことはしない。スクールバスに乗る時は、運転手さんや知っている人にあったら、さわやかに気持ちよく挨拶する。車内のものを大切に扱う。」等々の注意書きが。定型的言葉が飛び交い、個人の言葉を圧殺する、調教現場の風景が広がっている。
インターナショナルスクールでは、
食道で1人でご飯を食べ、サッカーの練習を1人でしていても、先生に「それのどこが問題なんですか?」ときょとんとした顔で言われる。遠足も学芸会もスポーツ大会も、参加したい人だけ参加すればよい。昼に食べなくても、ひとりで食べても、誰も何も言わない。林間学校の注意書き通りに靴やグッズをそろえて行っても、他の子達は、革靴で来ることも、お菓子だけ持って来た子もいたが、先生は放っておく、のだそうだ。
文字通り放っておいたわけではない。
人種差別的発言をされて、その子を息子が殴った、と校長室に呼び出された。校長先生は、その場にいた子全ての証言を元に、3日間の掃除の罰を与えた。そして「相手も反省しています。それにしてもヨシは強いなぁ。」と笑った。「同級生を殴ったのですから、罰を受けるのは当たり前です。ありがとうございます。」と言った。
→こういうのを聞くと、インター、特に海外の学校っていいなぁと思う。自主性が本当にきちんと育つのだ。自主性の芽を摘む事にしか興味のない日本教育で育った私には皆目検討もつかなかったのだが、こういうことである。
・帰国子女@日本
祖国日本では、教育機関のみならず、個人が集団から離れて行動しようとするや否や、四方八方からワガママだ!という石つぶてが飛んでくる。
欧米の個人主義的教育が必ずしも正しいわけではなく、我が国の集団主義的���育が必ずしも間違っているわけでもないだろう。が、みんな一緒主義が強すぎる。過度の協調性信仰から身を離してもいいのではないか?
・ウイーンに家を持つ事
日本人にはあまりオススメできない
→ヨーロッパに家を持つのはどこもこんなもんだよね…
1)言語の壁
家主と渡り合うだけのドイツ語ができねばならない。(ほとんどのウイーンの家主は英語ができない)暖房費がかさむ、排水溝が詰まった、などをみんなドイツ語でこなさねばならない
2)文化の壁
恐ろしく頭の固いウイーン人と日々戦わねばならない
3)距離の壁
9千キロの彼方。体力と気力とマメさが必要。
4)気候の壁
10月末から3末まで真冬という気候に耐えなければならない
5)インフラの壁
駅前商店街もコンビニも出前も赤提灯もなく、自動販売機もない
日本にくらべた格段に不便である
というわけで、誰かウイーンに家を持ちたい人いますか?
・日本でまかり通っている名前と違う物、イメージ
ウイーンのカフェでウインナーコーヒーを注文してもウエイターは首を傾げるであろう。そんなものはないからである。日本でウインナーコーヒーと称しているものは、アインシュペンナー、もしくはメランジュにあたる。ついでにウインナーソーセージもない。
音楽の都ウイーン、というイメージから、ウイーン人はみんなクラシック音楽ファンに違いない、という思い込み。
国立歌劇場に入った事のあるウイーン人は数%。モーツァルトやベートーベンに全く興味がない生粋のウイーン人はうじゃ2いる。
クリムトもシーレもウイーンの芸術アカデミーでは拒否された。ウイーン人は時代の新調をおいそれと認めようとしない頭の固さがあるらしい。
・言葉を文字通り受け取る欧米、言葉の中身や意味がわからなくても気にしない、わかろうとも思っていない日本人
日本人は、言葉とそれが指すものの間にズレがあっても、橋渡しがなくともなんともない。
書いてある文字が全くわからない掛け軸を堂々とかけ、客人もそれをしつこく聞こうとはしない。法事で全く意味の分からないお経をありがたく聞いている。
だが、ヨーロッパ人は、あれは何だ、これは何だ、と五月蝿い程聞いてくる。茶席では、何故茶碗をまわすのか、何故粉なのか、と質問攻めにする。彼らにとって、書いてある事の意味がわからないのは不安だからだ。
日本人にとっては、「駐車禁止」と書いてある場所に自転車を置き、「駆け込み乗車はおやめください!」というアナウンスの響く構内を電車に駆け込む。とくに反抗的態度であるわけでもない。
言葉の文字通りの意味と、本当の意味が分離しているから、問題とも思わない。
だから、日本にはヨーロッパの何百倍もの放送や指示看板がある。
・お節介文化
ヨーロッパ的には意味のない言葉が、公共空間にだら2と垂れ流されている。
防災行政無線から「子ども達の下校時間になりました!子ども達を犯罪から守りましょう!」
電車には「閉まるドアにご注意ください」「携帯電話はご遠慮ください」「お忘れ物のない��うに…」
ATMも「いらっしゃいませ」「毎度ありがとうございます」
機会がよくしゃべる。
こういったものはヨーロッパにはほとんどない。
講義をしたが、少数派なので、改善されなかった。なぜなら、日本国民はそういう放送を望んでいるから。
劇場で階段を上がると「こちらが劇場1階でございます!」と叫ぶ女性。誰が見たって1階なんだからやめれと頼んでも、「間違える方もいる」とやめない。交替時間になり、次の人はそこにつったってるだけだったが、それで何の問題もない。
「間違える人は間抜けなんだから、彼らに合わせる必要はない」というヨーロッパ風の考えが、日本には絶対根付かない。
★誠実、あるいは誠意の意味の違い
ヨーロッパでは、自分の心に素直になること、神は全て見ているから、というのが誠実。
でも日本では、誠意は行為と結びついているので、誠意は行為に表れなければならない。しかも何か誠意かは、社会的文脈で決まっているので、社長の葬式に出ない社員、生徒の悩みを真剣に受け止めない教師は(本人の意思に関わりなく)誠意はない。
西洋では、共同体に反しても自分の精神に誠実である、ことがありえるのに対して、日本ではその可能性は閉ざされている。西洋の伝統では悪を誠実に意欲するのが可能だが、日本ではあり得ないのだ。
・理論だけを押し通せばいいのではない。なぁなぁ社会への順応。権力に従う事。
いかに正しいと信じている事でも、それが社会の大勢と異なっている場合は、それを貫こうとすると、大変くたびれる人生が待っている。
・30年以上前はチカンもセクハラも合法だった
痴漢なんて当たり前、セクハラという言葉すらなかった。被害者が訴えても、誰も真剣に聞いてくれなかった。これらに対して魔女裁判の様に過敏に対応するという思想はついこの30年くらいのもの。今や痴漢は平凡な殺人事件より痴漢を大きく取り上げる。これは成果を上げていて、それはいいが、「女とは」とちょっと言っただけでセクハラと言われ身の危険があるという社会は逆差別だ。
→まぁね。でもそれがまかり通っていた時代は許せないわ。
・リア充になれない若者たち 状況が全く読めない根本的欠陥
WHO?
彼らは人生の調教の時期である高校生までは、成績優秀ないい子であり、家庭でも学校でもどうにか生き延びられる。が、大学以降は自由度が増え、総合的な人間力で生きていかなければならず、その要素に人間関係というものがあると知り、怖じ気づく。その訓練を今まで怠り、ある時期に飛び越えるべきハードルを全く越えずにハタチになってしまったから。
彼らは、拒否されることを通じて、自分に欠陥があることは知っているが、その実感がない。自分のロジカルで合理的な態度の何処が悪いのか、と不満げ。
学歴が高く、勉強熱心で、努力を惜しまなくても、人間関係を築く事が
絶望的に下手で、それを自覚して人間恐怖症になっている。ひとりで行きて行くのは難しい。働く事は出来るが、そこには人間がいるので、そこでつまづいてしまう。
とても傷つきやすく、すぐ「不当な仕打ち」を受けたと言って��げ出してしまう。極めてプライドが高く、たとえ自分に責任があるとわかっていても、みんなの前でそれを指摘されると、特に差別と思われる言葉を言われると、それをどうしても許せない。大変な屈辱を感じ、自分を棚に上げて、相手を責める。
WHY?
これはまさに現代のヒステリックな差別禁止・差別語禁止教育の賜物で、その教育自体は悪くないが、言葉の総体を捉えずに、「もちろん」や「無能」の様に、相手の一言に敏感に反応し、相手を切り捨ててしまう態度は、生きる力をますます削ぎ落とす。
彼らには、フロネーシス(それぞれの状況ごとに適切に判断し、行動するという実践知)が決定的に欠けている。現在、ありとあらゆる知識はネットで手に入るが、フロネーシスは、実践を通して生身の他人との関係を通して獲得する他ない。
すなわち、
努力が報われなかったり、他人に誤解されたり、だまされたり、あるいは時折思いがけず救われたり、要は「痛い目」に合わねば、身体の芯に染み入る様にはわからないのだ。
ハタチくらいまでにこれを習得しないと、その後身につけるのは至難の業で、痛い目を避けて来たので、社会に出ると、まともに降り掛かってくる他人の威力に怖じ気づく。それを避けているうちに、もはや生きられないと、途方に暮れる。(あ)
HOW?
人生のある時期に、他人の振る舞いの「意味」がわかるための、実地教育を受けずにきたものには、それぞれに状況に応じてこうこうと具体的に教えなければならないが、それが次の具体的場面にまったく適用できず、いつまでたっても「正しい振る舞い方」を学習しない。
彼らは自分が「正しい」と思い込みたいので、常識と縁を切り、自分のプライドが保たれる道を模索する。だがそんなものないし、今更普通にも戻れないので、先が見えなくなる。
現代社会は一方で、物事を深刻に捉えず、全てに対してそつなく、軽くすべるように生きる若者達で充満してもいる。(い)
その対比がますます真摯で不器用な若者達の居場所を失くし、思い切って治そうと思っても、プライドが許さない。
(い)は味方ではないが、敵でもないのだから、異質な人だからと言ってむやみに恐れたり、軽蔑することもないのだ。
多様な人々がもみ合う集団の中でもまれ、恥をかき、攻撃され、不当な仕打ちを受けながら、学ぶしかないのである。
<哲学info.>
・カント
嘘も方便を否定
・ニーチェ
あらゆる真面目な仕事なんて無意味だ
人生に意味、価値、目的を探すことなんて錯覚
・アリストテレス
フロネーシス=それぞれの状況ごとに適切に判断し、行動するという実践知
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第Ⅰ部 非社交的社交性
第Ⅱ部 こころ優しく凶暴な若者たち
の2本立て。第Ⅰ部は中島義道の著作を何冊か読んだ経験があれば、そう目新しい話でもないかも。大人しい。文章自体が丸くなった?第Ⅱ部の、著者とかかわりのあった若者たちのエピソードの方はなかなか面白かった。ここで書かれている人たちは実在するのか疑問に思えるくらい、強烈だ。「空気を読まない」ことと「空気が読めない」ことは全然違うなぁ、と。
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よくも悪くも哲学者なので、書いてあることが難解。2度、三度と読まないとなかなか理解できないと思う。他にも読みたい本や聞きたいCDもあるので、そうそう付き合っていられない。科学は突き詰めれば哲学に到達し、哲学は突き詰めれば信仰(宗教とは限らない)に行き着くのだ。ここ最近買った本はすべて不満足だ。
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久しぶりに、ストンと腑に落ちた本である。特に第Ⅰ部。精神衛生上の秘訣と言ってよい、人間関係上のヒントを紹介してくれている。特に軽症?の人間関係ノイローゼの人には、病院の受診などより効果的ではないだろうか。また、翻って著者には「働くことの喜び、達成感」という事もあるのではないかと、お節介ながら忠告をしたくなってくる。
第Ⅱ部では、著者が主宰する哲学塾での様々なエピソード、トラブル集が披露されている。マネジメント職の方には一読をお薦めしたい。しかし、ここに出てくる人は逆に、臨床医学の世話になった方が良いのではと思われる。この先生も「罵倒」というガス抜きをしつつ、意外と根気よくつきあっているなと感心させられた。
いずれにせよ、深刻になって読む必要なし。「いろんなヤツが居るなあ」程度の気持ちでの一読をお薦めしたい。
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うーん…ひねくれてるけど、分かる気もする(笑)哲学を極める人間にはなれなそうだけど。後半は、どちらかといえば著者の偏見も大いにあるのでは…と思ってしまったけど、偏屈な若者論みたいで読みやすいです。ただ、もうすこし帯にあったような人間嫌いのための哲学書、って感じを示して欲しかった。
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中島義道さんの著書が読みたくて、ってひとが読むもんではないかなあ。
半分くらいは私塾で起きたことの愚痴、としか言いようがなかった。
けっこういろんなひとがおってええやんって思える人間のつもりやけど、さすがにこれは共感できへんかったなあ。
授業を受けにくる生徒の行動も行動やけど、もうちょっと、それこそ「大人な」対応をしてほしいと思った。
ただ、前半部分の哲学について書かれているところはなかなかおもしろかった。
「非社交的社交性」って、嫌いなひとともなんとか楽しく距離を取りつつも接するという認識でよいのかな。とりあえず、他の著書を読んでみたい。
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(耳の痛い話だと思ったり、確かにそれ思ったことあるなぁと共感したりしながら読み進めている。)
だいたい、誰かを批判する時、自分も人の事言えないとか、結局のところこれって同族嫌悪だよなとか思いながら、それでも我慢できなくて自己批判ではなく他者批判の形で吐き出してしまう。情けない話。
こういうのも「反対の一致」に含まれるんだろうか。
哲学は実用的でないと言うイメージがあったのだけれど、なんだかんだで他人の行動を分析したり、自分を振り返ったりするときに使えるんじゃないか、と漠然と思った。本来それが目的の学問ではないのだろうけれど、使おうと思えば使える、くらいの感じ
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前半はタイトル通り、「非社交的社交性」に関する筆者のエッセイであるが、後半はただの面白人間紹介になってる。それがいい。
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第Ⅱ部に出てくる若者たち.協調性がない!との一言で片付けられるのが一般的だが、中島先生は「哲学塾」を通して彼らを指導してきた.素晴らしいことだ.程度はあるにしても、現代人の誰もが空気を読まない行動を取ってみたいと願望している.それをある意味で癒してくれる著作だと感じた.
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哲学者って真面目な変人だと感じられた。
「哲学塾 カント」を主宰する著者の主張する非社交的社交性は、カントの言葉。
生きる意味や人生についてなどの本質的な思考を避けて社会におもねる、あるいは社会に有益なことを追及することを優先するマジョリティの生き方ではなく、そこに生きにくさを感じ悩んでいる人々に哲学を薦める書。
13-89
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13/07/15
哲学塾の生徒さんの言動にはあきれを通り越して仰天の域。でも私もそういう非常識な部分があるなと。でもどう振る舞えばいいのか、その状況においてベストな選択ができない。考えられない。
あー生きにくい。と思う。
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筆者が思いのままに自説を展開していく。中心テーマの1つに現代の若者の社交があり、彼らが抱える生きづらさをエピソード付きで描写する。
筆者は生きづらさを抱え、苦しむことで、人生について考えるようになることが出来るんだと言っている。苦しむ若者をそっと後押ししてくれてるように感じられ、また筆者自身が風変わりであることもあり面白かった。
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他人を畏れる人は、決まって他人による自分の評価を畏れる人、他人によく思われたいという要素が強い人。仕事によって認められることであり、それにより力を付けること。
哲学的センスとは世界に対する態度とも、人生の重点の置き方とも言い表せるが、単刀直入にこれまでの哲学者たちがこだわってきた問いに前進でこだわっていること。
心が弱い人は哲学者には不向き。
哲学を遊びとみなすことを完成させた哲学者は二ーチェ。彼は人生には人間には、そして世界には何の意味もないことをずばりと言ってのけた。人生に何らかの意味、価値、目的を認めること、それは大いなる錯覚。