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投稿者:かい - この投稿者のレビュー一覧を見る
本物とは何か?偽物とは何か?それが実体のないものならもっとなんなのか?たくさんの問いをくれる作品です。
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終戦、復員兵、画家、探偵のような記者、夫の顔もよく知らない妻、坂道、外国の紙幣…
何が本物で何が偽物なのか。
終戦後の日本ではよくあった話何かもしれない。本人に成りすました復員兵詐欺。
けれど、顔もよく知らないまま結婚した妻タエにとって、終戦とともに復員してきたその人こそが、夫であり、共に暮らす義父母の息子であり、子どもの父親1なのだから、ある意味、本物以外のの何物でもないわけで。
なにもかもがあいまいで、本当のことなんてわからないままでいることの平和さ。
再びいなくなった夫を見知らぬ土地で待つ妻の、よるべなさとおおらかさ。
ラストの場面。風に舞う紙幣。タエと同調していく記者にとってもいまここにある時間だけが本物なのだろう。
少し、足元がふわふわする。私が私であるという証明ってどうやってすればいいのだろう。
もしかすると私は私ではない私にいつかどこかで入れ替わっているかもしれない。同時に身近にいる人がいつかどこかで入れ替わっているかもしれない。それでも私はいまのこの瞬間を受け入れるのだろうか。
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長めの表題作と短めの「ラピード・レチェ」の2編が収録されている。長めといっても、148頁しかない本だからたいしたことはない。どちらも平易な文章だが、内容はわかりにくい。「如何様」は、太平洋戦争後復員してきた画家の姿がまるで別人だったことから調査を依頼された記者の一人称で進む。結局、本物とも偽物ともつかぬまま、調査は打ち切られてしまう。この「本物とも偽物ともつかぬ」というのが肝なのか? もう1編は外国で駅伝を指導しようとする元選手の話。なにを読み取ればいいのか、さらにわからん……。
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文章はしっかりしていたが、時代感があやふやでついていけなかった。戦後の話なのに、社会情勢の描写があまりなかったので惜しいと思った。
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中短編2編
始めは本人かどうかを調べる探偵物のような物語だったが,そのうち本物と偽物のせめぎ合いというような人間の本質に関わる物語になっていた.どちらが本当でももう今はどちらでもいいとタエが語るところがしみじみ良かった.
もう1編はどこかの国へ駅伝を指導しに行く話だったけど,なんの話か何を言いたいのかかよく分からなかった.
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正直つまらない。ただ、賢い人は深いメッセージを受け取ることができるのかもしれない。一種の推理小説かと思って読んでいたら、そうではなかった。この小説そのものがイカサマなのである、ということなのか。与えられた物語の中から真実を見出すことは難しい。というか、推測することに意味があるとは思えない。なんなんだろう。というのが感想。なんなんだろう、と思いつつ気がつけば世界の見方が変わっていたというのなら素晴らしいが、なんなんだろうと思っただけだった。
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これで高山羽根子の現在出ている本はアンソロジー以外読んでしまった。
個人的には、オブジェクタムほどではないが、この本は悪くなかった。
高山羽根子はファンタジーあるいはSF的な要素を取り入れて書くことが多いが、この本に入っている2作品とも、状況も時代も比較的リアルに描かれている。
味わい的にはカムギャザーに近いような。
表題作は本物と偽物について書かれた物語。
復員してきた男が本当にその人物なのか?という話だとスケキヨさんを思い出してしまうが、そういうスケキヨさん的なおどろおどろしい話ではなく、本物と偽物ってホントに違いがあるの?ということを考えさせる話。妻のタエさんと語り手、タエさんと復員してきた夫の交流をもっと書いていたら、より大衆に訴える物語になっただろうが、それをしないのが高山羽根子というか。
もうひとつの「ラピード・レチェ」は外国(ロシア?)に「前にいるプレーヤーの首に、できるだけ速やかにスカーフを巻く、東洋で開発された競走」を教えに行った日本人女性と現地人男性との交流を描いて、なかなかあたたかい作品なのだが、その競技が何かとか、ちゃんと書いてないところが高山羽根子。読めばわかってくるところが面白い。
これは結構良かった。
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「如何様(イカサマ)」(高山羽根子)を読んだ。表題作と「ラピード・レチェ」の二編収録。
「如何様」は、タエの飾らない明るさと芯の強さに救われる。
「ラピード・レチェ」はやっぱりアレクセイの押し付け感のない存在感につきる。
今回はどちらも高山さんの優しい目線がものすごく好き。
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インチキ、八百長。「真実は一つ」なんて言いますが、真実は幾通りもあって、『如何様』では、贋作つくりの復員兵の真偽を廻って、『ラピード・レチェ』では、駅伝らしき競技(最後まで駅伝という言葉は出てこない)の指導者として北欧に近い国で、思考は揺蕩う。
文章は饒舌で不思議な読後感。
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『人の顔というものは、人間がいちばん違和感に気がつきやすいものなんですって』―『如何様』
どこへ流れていくのか。手探りで読み進める内に主人公の輪郭が急にぼやけ、ミステリーの展開に終末の気配が漂ったところで物語は閉じる。人は何を他人に見て、他者を独立した存在として認識するのか。ひょっとして永遠に認識することなどないのではないか。訳もなくそんな疑問がわいてくる。
朝起きて、自分を自分と認識することの不思議さ。もしかすると人間は自己という認識を余りにも当たり前のこととして捉え過ぎていて、その確かさを無意識の内に他者の存在にも期待し過ぎるのではないか。他者が他者であることの証明を求めるのと同じ真剣さで、自分が自分であることの証明をしようと試みれば、自己というものの危うさに急に躓いてしまうだろう。
その時頼りになるものは記憶なのだろうか。その論理の展開の背景には記憶のデジタル化という考えが潜んでいるだろう。記憶はデジタル化された事実の塊に置き換えられ、照合されて真偽を問うことができる、という暗黙の考えが。しかし記憶はもっとずっとアナログなものであり、複合する入力情報を単に保存するというよりは、別の記憶の文脈の中で読み解いているだけに過ぎないとも言えるのではないか。よく言われるように記憶は容易に書き換えられる。しかし書き換えられても自己が自己であることに大した支障があるわけではない。そうであるならば他者が他者であることに何の証明が必要だというのか。
不思議な手触りのする短編を読みながら、空想科学小説にありがちな記憶の移植や書き換えということの裏に潜む、自己認識の傲慢さを沸々と考える。
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先日、芥川賞を受賞した高山羽根子の前作。高山羽根子の作品には、どこか不安にさせるような足元がぐらぐらした感じと、ぱっと広がる美しい情景、とこの二つが特徴。
たとえば、「オブジェクタム」の最後のでは不安ばかりが目立ち、
復員した画家の男が本物かどうか、というと、どうしても「犬神家の一族」のスケキヨを思い出してしまう。スケキヨも顔がアイデンティティを証明しえない場合、どうやって証明するか、という問題だったが、今回もまったく違った顔の人物をどうやって同一人物と証明するか、というのが、問題。
作風がまったく一緒だからということで同じである、と美術評論家は確信するが、そもそもその男が贋作を得意とし、どんな作品でも模写してしまう、のである。そうなると、そもそもその男は誰かを模写していたのではないか、本物ってなに?となり、ほら気持ち悪くなってくる……。このぐらぐら感は、PKディックと同じぐらぐら。
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タイトルは、如何にもな、ダブルミーニング。
更に、この表紙のデザインで、明らかなメッセージ性を感じる。
「如何様」は、本物と偽物についての問いを絶えず、投げかけられる。最初は、私自身が戦争を体験していないし、想像すら出来ないものであるだろう故の、それなのかと思ったのだが、読んでいくうちに、そうでは無い気もしてきた。
水彩画家の「平泉貫一」は物語の中で、所謂、贋作を姿形から志向まで、その本物の人そっくりに成りきって作るのだが、それに対する真剣さがどれだけあろうとも、贋作は贋作だと思う。
しかし、それを欲しいと心の底から思う人の視点に立てば、贋作ではなくなる可能性もあるのだろうか?戦後という時代設定も含めると、価値観も変わりそうだし。ただ、こう書くと、結局は人それぞれの受け取り方の違いだけであるようにも思える。
物語は、貫一が本物なのか偽物なのかを探ることを主体にしているのだが、妻の「タエ」の言動を読んで、これは主人公の「私」が、貫一の謎探しを通して、実は、本物の私自身を探しているのではないかと、思えました。
そこには、他人同士なのに、同じ心地よさ、雰囲気を感じられることで、本物であるような感覚をもって、そこに安心感を得る。それが私なのだと実感している様子は、見た目や外見はあまり関係が無いようにも思えてきて、それもちょっと違うような不思議で怖い感じがしました。ただ、個人的にはやや信じがたいが、スピリチュアルな感じも含めると、そういった繋がりもありそうで、興味深い。読む人それぞれに異なる考え方が出てくるような、自分の周りの世界観を覆される作品です。
それから、もう一つの作品「ラピード・レチェ」について。こちらも自分探しというテーマが似ているようにも感じる、異国を通しての視点が、また興味深いです。ただ、駅伝の情緒はなかなか伝わりづらいのかな・・
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『如何様』
戦争の過酷さが貫一を変貌させてしまったのか。
または、本当にすり替えられてしまったのか。
取材を進めるうちに、様々な可能性が浮かび上がってくる。
そして、貫一の一回り年下の妻・タエは、
お互いに復員前は殆ど面識がなかったとし、
私が知っている夫は現在の姿なのだと言う。
年齢も近く、距離が縮まった
主人公とタエが、貫一のつけ髭を付けて
音楽に乗せて踊り出すところが何とも艶やか。
ふたりの貫一は同一人物なのか、
もしくは偽物…なのか。
結局、真実は解明されぬまま物語は幕を閉じる。
霧に覆われたように
心残りのある終わり方だけど、
タエが放した各国の紙幣が風に吹かれる度に
心が軽くなっていくような気がした。
.
『ラピード・レチェ』
現地の学生を指導するという目的で、
ひとり海外へ渡った駅伝選手のお話。
“強制労働”や“マオイスト”だとか
中々 取り扱われる機会のない題材が多く、
目新しいお話だった。
.
二篇読み終わって、
どちらかというと 2作目のほうが好きでした。
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最近私自身、物事に対して本物か、偽物か。と
考える事が多く。
ものすごく情報量が多いこの時代に読むのは意味があると思った。
このような結末に、持っていった事は中盤からは予想しなかったけど、あーなるほど、著者がずっと胸の片隅にいつも思っていて、強い願いがこもっているのかなと。そんな勝手なことを想像しながら...
展開を楽しむというか、だから大丈夫。と全体を通して伝えたい想いを感じました。
明らかに偽物だとわかるモノコトヒトは置いといて 笑
なにか個人的に琴線にふれて、それを理解しているのであるば、自分の価値観をもっと信じようか。
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具を殆ど乗せずにスープと麺で勝負しに来てる支那そばみたいな一冊。
イカサマが抜群に面白かった。平泉何者よ?!っていうストーリー性の高さも去ることながら、とにかく文章に無駄がない。冷淡にすら感じる。ただ、展開や感情を客観的に説明してばかりいるわけでもなく…うまく言えないけどその匙加減がとても好み。賛否あるかもしれないけど、理系の男性好みの小説じゃないかな。