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復讐するは我にあり(下)
著者 佐木 隆三
厖大な調書や公判記録の調査、事件関係者への執拗な聞き込みという徹底した追跡。稀代の犯罪者の行動を関係者に語らせる話法の巧みさから浮び上がる事件の全貌。犯罪は立体的に再現さ...
復讐するは我にあり(下)
復讐するは我にあり 下 (講談社文庫)
商品説明
厖大な調書や公判記録の調査、事件関係者への執拗な聞き込みという徹底した追跡。稀代の犯罪者の行動を関係者に語らせる話法の巧みさから浮び上がる事件の全貌。犯罪は立体的に再現される。小説家の想像を排除し、事実をして語らせた迫真のドラマ。新しいジャンルの文学を創出した直木賞受賞の傑作である。今村昌平監督・緒形拳主演で映画化された不朽の名作! <上下巻>
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紙の本
神による復讐
2003/12/07 14:17
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:吉田照彦 - この投稿者のレビュー一覧を見る
もう3、4年前になろうか、野村沙知代(サッチー)と浅香光代(ミッチー)とのいわゆる“熟女バトル”が世間を騒がせたころ、サッチーが本書のタイトルにもなっている“復讐するは〜”というフレーズを吐いたことで、一時、物議を醸した。当時の一連の報道において、このフレーズはサッチー自らがミッチーらに復讐を果たすという意味合いで解釈され非難の的となっていたが、実際にこの言葉が意味するところは全く違う。本書の冒頭にも掲げられているように、これは新約聖書のローマ人への手紙12章19節にある「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」がその出典で、要するに、復讐は神のすることであるから人間が勝手にそれをすることは許されないというような意味である。
本書は、昭和30年代末に日本社会を戦慄させた実際の連続殺人事件をモデルとする作品で、昭和51年下期の直木賞を受賞している。運送会社運転手・榎津巌は、福岡における二人の強盗殺人を皮切りにして、警察の大々的な指名手配網を巧みにかいくぐりながら詐欺、窃盗、強盗殺人を繰り返し、78日の間、全国各地をまたにかけて逃亡した後、熊本県のある教誨師の家で10歳の少女にその正体を見破られてついに逮捕され、一審・二審で死刑判決を受けて昭和44年12月に絞首刑となる。その過程が膨大な資料を基にしたルポルタージュ風の小説に仕上げられている。
この作品は今村晶平監督・緒方拳主演で映画化されているが、そこで描かれているのは専ら、犯人・榎津が次々に犯罪に手を染めていく過程であり、内容としてはより扇情的で、“復讐するは〜”というタイトルの意味が不鮮明になっている。
これに対して、小説では、前半こそ警察の捜査の進展に合わせる形でひたすら犯人の犯跡を追う形になってはいるものの、その主眼はむしろ、逮捕後の犯人の心理状態の移り変わりを捉えることに置かれている。当初は警察での取調べに対しても挑発的な態度に終始していた犯人が次第に態度を変化させ、死刑判決確定後、かつて祖母に教えられたという隠れキリシタンの“歌オラショ”を心の支えとして自らの「死」を従容と受け入れていくまでの過程を”神による復讐”という形で見事に描いている。
それにつけても、人間の精神のなんと複雑怪奇なことか。一時はカトリックの神父になることを志したこともあった少年が、何ゆえ、5人もの人間を金品目的で次々に殺害するような極悪人になってしまったのか。
この種の犯罪が起きたとき、現代の専門家たちは様々な方法論をもって、したり顔にその犯罪心理を分析する。だが、僕にはいつもそれが的外れのような気がしてならない。ある者は親の放任が原因だと言い、ある者は親の虐待が原因だと言ったりするが、たとえ同じ状況下に育てられたとしても、犯罪者となるものとならないものとがある。結局、人間が人間の心理を解明することは永久に不可能なのではないだろうか。