紙の本
ポリフォニックな形式
2017/04/30 01:38
4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:844 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は作家の1月1日から4月15日までの日記である。この期間とは「ある言語作業に集中的に取り組んだ」期間、「自作翻訳」をしていた期間である。この間、作家は幾度も旅をする。言葉とともに。自分を観察する日記という容器に数々の声がまぎれこむ。日記とはポリフォニックな形式であると再認識させてくれる書物。
紙の本
宿題のリード現代文解いていた
2023/05/26 08:42
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投稿者:くらげ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「美人だと言われた」と娘が喜んでいるところに、「たとえブスでも、顔が美しけば同じことでしょう」というのは、矛盾してると思うんだが。
矛盾している匂いがプンプンします。
「祝辞を伝えられる人も(いる)」の(いる)は名詞だから違うんだが。と国語教師に教わったのですが。
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日本語とドイツ語が著者の中でどのように混じり合っているのか、読んでいて不思議な感覚に陥るエッセイ集。
岩波現代文庫の『エクソフォニー』でもそうだったが、シンポジウムの話題も多い。
多和田葉子のエッセイを読んだのは2冊目で、どちらも共通して気になるのが、小説に比べてエッセイの文体が微妙に荒く感じられること。小説の文体は研ぎ澄まされているように感じるのだが……。
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多和田葉子による多和田葉子の<自分観察日記>。ストイックに、だけど遊び心のある言葉への実験的精神。真摯で、ときに柔く毒舌。日本とドイツ、文化と言葉の峡谷を両面ナイフの右の刃左の刃を順繰りに見せながら、ゆっくりと渡っていく。そんな姿が見えた気がした。付箋をぺたぺた貼りながらの読書。
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ドイツ語と日本語の両方で作品を発表している作家ということで、もっと彼女に関心を持ってもいいはずなのに、長らく苦手意識を持っていたのが、「雪の練習生」から、彼女の「言葉」との真剣な向き合い方に関心を持つようになった。この本は、その「雪の練習生」を著者が自分でドイツ語に訳すという作業をしている過程で書かれたものとのこと。「自作の独訳もやるのか」と思ったが、実は初めてのことなのだそうだ。
意外に、エクソフォニー作家である彼女の目の付け所はシンプル。それだけに、普通の人なら見過ごしてしまうか、単に「へ〜」で終わってしまうようなポイント。そういう細々とした要素を丹念に集め、一語一語を吟味しながら紡いでいくという、彼女の創作活動の一端を垣間みることができるような内容だった。
ドイツ語でのコミュニケーションにただ必死だった時にはあまり気にならなかったが、ドイツ語の多様性にさらされるよう環境におかれている(気づくようになっただけか?)現在、そしてときとして英語とか日本語とかをいったりきたりせざるをえない状況に追い込まれることもある現在、自分のなかでのそれぞれの言語のあり方が変化してきた。だから彼女の作品をおもしろく読めるようになってきたのかも。
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こーれは、面白かった。考えること=言葉。生活すること=言葉。
映画「ハンナ・アーレント」を観た日に読んでいたら、「〜ゆうべは友達と近所の映画館で『ハンナ・アーレント』を観た。〜」という文章が出てきてビックリ。なんたる共時性!
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いゃーこれは面白かった。枕草子には「神経にさわるもの」がなく、「にくし」で表現されていることなど、興味深い考察がいっぱい。推敲について「深い眠りが良い推敲の条件」と記しだところも共感できる。
ドイツにいて日本を、日本語を考える。文章を物質として見る。単語一つ一つを物として観察すること、などなど、言葉について考え、言葉が好きな人なら、きっと面白く読めると思う。
ドイツの暮らしや空気感も、文章から感じられるのもまた楽しけり。
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ついレビューを書きたくなるほど、多くの人に支持されるのでしょう。
言葉にこだわることは特別に非凡なことではないのですが、著者の魅力は性向だけではないのでしょう。
こだわるから、おもしろいのではなく、文才がおもしろくさせているのでしょうね。
いつも通いなれている道に、こんな花が咲いていた、こんな虫が生息していた・・・と、語りかけてくれてるようだ。
見逃していた、見過ごしていた情景をひとつひとつ開示してくれているのが楽しい。
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「雪の練習生」という日本語で書いた自著をドイツ語に翻訳するまでの間に、言葉について起こったことや考えたことを中心として綴られている日記。
多和田さんの小説はいくつか読んだけれど、なんてすごい言葉を持っている人なんだと、どの作品を読んでも思う。鋭いけれど、刃物の鋭さではなく紙の鋭さのような、温かみのある鋭さ。
いろいろな国に行って朗読イベントや自著の解説をする講習会や討論を行っている(よばれている)んだけど、そのなかでメガポリスを描く文体を模索しなければならないという話題が出てきたというくだり。とある海外の作家がメガポリスの例として東京を上げたことに多和田さんは驚く。あの「トーキョー村」かと。ヨーロッパにお住いの多和田さんにとって、特殊な場所以外では聞こえてくる言葉のほとんどが日本語である東京という都市は「村」であるという感覚だそう。
東京をメガポリスの例として出したこの方は日本語はあまりできず、東京に行ったときは意味の分からないことだらけで驚いたらしい。
「あんなに大きな看板を点滅させてどんな商品を売ろうとしているのか」「自動販売機の点滅の意味もわからない」とか。ただその中で世界的な企業のロゴマークだけははっきりとわかる。
日本語をわからないまま歩いたら、見えてくる東京という街は随分違うものなのではないかというこのエピソードが印象に残った。
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22年前(執筆当時)からドイツに住み、日本語とドイツ語でそれぞれ小説を書き、その双方で(それ以外の国でも)評価の高い著者の「ことば」に関する随想。エッセイと呼ぶには(この語の本来の意味はそうではないのだろうが、日本語で言うエッセイには軽すぎるような響きがあるので)、ずっと思索的な内容を持っている。それには、あるいはドイツ語の持つ構造も関係があるのかもしれない。しかも、ここには日本とドイツだけではなく、言語をめぐる著者の様々な体験が注意深く、著者のことばに置き換えられて語られる。言葉の熟成を思わせる如くに。
なお、未見の映画だが、本書に2回『ハンナ・アーレント』のことが出てくる。ナチスの高官だったルドルフ・ヘスは、けっしてカリスマ軍人だったのではなく、ごく普通の、しいて言えば任務に忠実な人に過ぎなかったらしい。自分の言葉で思考しないことの恐ろしさが語られる。
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ドイツ語は大昔 大学の1年で習っただけなので完全に忘れているが、著者のように自由自在にドイツ語を駆使して小説を書けることが羨ましい.外国語を学ぶ利点の一つに母国語を再認識できる というのがあったと記憶しているが、まさに本書はそれを書き表したものと言えよう.ニヤリとできるエピソードが満載だが、寿司屋のメニューに関連して「本番」について述べている件が面白かった.
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この人のエッセイが好きだ。感覚的に肌に合うというのかな、書き述べられていることに一々感心し納得する。ドイツ語と日本語と自由に行き来し新しい言葉やユニークな視点を提示してくれる。日記の側面からみると、毎日色々やることがあって、忙しそうだと思った。
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私はドイツ語の「denken(考える)」という動詞が必ずしも目的語を必要としていないことを不思議に思った。日本語なら、「何してるの?」「考えてるの」「何を?」ということになるだろう。「考え事をしている」なら「考え事」が目的語になっていて落ち着くが、目的語なしの「考える」は日本語では落ちつかない。そのへんに敢えて挑戦して、こんな会話を書いてみた。「わたしは今、考えているんです。」「何について?」「何について考えているかは問題ではないんです。考えることそのものに意味があるんです。」
「我思う、故に我あり」は名訳だが、目的語なしの「思う」が日本語の中に定着したわけではない。
ハイデッガーがトラークル論の中で、この詩人が「Im Dunkel(闇の中で)」という詩のの中で「schweigen(黙る)」を他動詞として使っていることに注目していることを思い出した。「青い春を魂が黙る」。「黙る」は普通、目的語をとらない。それは日本語も同じである。黙るとき対象がないと決めつけてもいいものだろうか。文法に思考を譲り渡してはいけない。「黙る」時、そして「死ぬ」時こそ、直接目的語を探した方がいいような気がする。
--多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、2013年、59-60頁。
多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、読了。「外国語を勉強しながら外国語の文法書を不思議がり、面白がり、笑う、という遊びを意識的に実行している人はあまりいない」--。日独二カ国語で書くエクソフォニー作家による観察日記。各地を旅しながら、旅の如く、言葉と生活の「常識」をずらしていく。
著者が移動しながら、立ち止まりながらつづる日常はまさに「言葉と歩く日記」といえば間違っていない。しかしそれが中身ではないという「紹介」することの「もどかしさ」を抱えさせられた一冊w 非常に面白い。彼女の言葉に向き合うことものすげえ、おすすめ、☆5
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なかなかの良書である。外国で外国語を使って生活していなければわからない、日本語に対する意識や、気づき。海外生活がなければ、そんなことに気づくこともないだろう。楽しめた。
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日本語とドイツ語の二か国語で書く作家の「言葉」についての日記。
意識していれば日々これほど「言葉」に発見があり、疑問が浮かぶものなのか。
母語以外の言語が理解できることによって、
違う角度で日本語が見られる多和田さんがうらやましい。
日本語に対してのフレッシュな気持ちと外国語習得したい欲が高まる。