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アメリカ合衆国経済史。経済史だけれども、通史的な構成を取っておらず、各ジャンルごとに分けられた章のテーマに沿った叙述が進んでいる。植民地時代から1990年代までの通史的なアメリカ合衆国経済史を読みたいのならば、まず秋元英一『アメリカ経済の歴史――1492-1993』(東京大学出版会、1995年)を読むべきだと私は思う。
その上で各ジャンルについて詳細を知ろうとするならば本書は有意義だと思うものの、秋元氏の本には記述があったアメリカ合衆国の初期綿工業に奴隷貿易によってニューイングランド商人が蓄積した資本についての記述が本書にはなかったり(本書85-88頁)、ラテンアメリカ諸国に対して進出したユナイテッド・フルーツ社などのアメリカ合衆国企業のネガティヴな影響について甘すぎるのではないかと思う面があったり(本書275-276頁。グアテマラのアルベンス政権が、ユナイテッド・フルーツ社の社有農地を接収したことが、CIAによるクーデターの契機となったことについての記述が本書には存在しない)、全体的に甘めの記述になっている感は否めない。
その上で以下に本書の良かった点、印象に残った点を列挙する。
・ホームステッド法(1862年制定)について、制定に際してトマス・ジェファソンの小農民を合衆国の民主主義の基盤とする思想があったことについて論じられている(45-48頁)。同時期にアルゼンチンが「荒野の征服作戦」等で南部の先住民の土地を軍事征服して併合した際に、ホームステッド法はなく、広大な土地が一握りの大土地所有者によって専有されたことを思えば、西部のインディアンの土地を征服した後に小農民に分与するという発想がジェファソンに存在したことこそが、北アメリカと南アメリカの資本主義の発展のあり方に大きな影響を与えたということであろう。
・南北戦争以前に於いて、北部では南部と違って黒人奴隷の使用が一般的にならなかったことについて、本書では産業構造の違いによるものであることを強く論じている。
“ 奴隷制というと南部独特の制度であるかのように思われるが,植民地時代には北部にも存在した。1780年,黒人人口,そのほとんどは奴隷であるが,その15%が北部に住んでいたことからもこれがわかる。後にアメリカにおける工場制度の誕生の地となるロードアイランドでも奴隷が使用されていた。しかし,奴隷の使用が普及したのは南部植民地であって,北部ではなかった。南部のプランテーションで,黒人奴隷は穀物生産や手工業にも従事していたから,彼らを北部で使用することも可能であった。しかし,なぜ北部では奴隷制は普及しなかったのか。ピューリタンの伝統をつぐ宗教的良心などという説明はあまりあてにならない。奴隷解放運動に尽くしたギャリスンの『リベレイター』紙の創刊号(1831年)にも,奴隷解放運動に対して,南部よりもニューイングランドの方が,敵意や偏見が著しいと書かれている。
北部において奴隷制が普及しなかったのは,明らかに経済的理由による。穀作を中心とする家族農場では,せいぜい農繁期に労働者を雇う程度で,一年中奴隷を使用する必要はなかったし,また,寒冷な気候であったから衣服その他にかかる費用も南部より高かった。奴隷購入にあたっては,南部の��ランターのように高い価格は出せなかったから,一部の富裕な農民以外は,実際問題として購入は困難だった。北部では小農民が多数をしめていたから,一部の大農民が多数の奴隷を所有して経済的格差が拡大することへの恐れもあったに違いない。独立後,北部で奴隷制が廃止されたのは,こうした状況を反映していた。逆に南部においてはタバコにせよ綿花にせよ,年間を通じて労働力が必要であり,しかも利益は大きかったので,奴隷を使用することが可能であった。プランターは政治的にも有力であったから,奴隷制廃止の動きがなかったのも無理はない。なお,植民地時代の最初のうちは,白人の年季奉公人が使用されていたことも記しておく必要があろう。彼らはとりあえず必要な労働力を提供したが,年季が明ければ解放せねばならず,逃亡や反抗の危険も多かった。黒人奴隷は永続的に使用できたし,銃や武器は与えられなかったので危険は少なかった。こうして黒人奴隷が一般化していったのである。”(本書74-75頁より引用)
・フォードの第1号車が自転車用のタイヤを使用しており、自転車愛好家から道路整備の要求が出たりしていたように、自転車産業は合衆国の自動車産業の地ならしをしていた(102-103頁)。
・航空機でT型フォード匹敵する技術上、経済上の重要な機種は1935年に導入されたDC-3型(103頁)。
・米ドルの由来はスペイン・ドル(ペソ)から(109頁)。
・アメリカ合衆国の正式な金本位制導入は1900年だが、既に1879年には実質的な金本位制が導入されていた(112頁)。
・本書で最大の読みどころは、良く知られるようなアメリカ合衆国に於ける労働運動がヨーロッパや日本のようには社会主義的・共産主義的にならなかった理由について述べた箇所であった。前史としての労働者の移民反対については、このように述べられている。
“……また移民は新しい仕事につくことを嫌がらなかったのみでなく,危険な仕事にもついた。大陸横断鉄道の建設にあたって,最も危険な部分を担当したのは,中国からの移民労働者であった。
移民の流入が賃金を押し下げる方向に働き,アメリカ生まれの労働者に対する競争的圧力として作用したことは確かであろう。言葉や習慣を知らない移民が,ストライキ破りとして利用されたこともあった。一般的にいえば移民制限を主張したのは労働組合側であり,経営者が移民制限に反対であったことが,これを物語っている。しかし,アメリカ生まれの労働者の賃金と,移民労働者の賃金はほぼ同じであり,移民がとくに低賃金で働いたわけではない。もっとも,移民には不熟練労働者の割合が高かったのは事実であるが,そのおかげで,アメリカ生まれの労働者が彼らを監督する,より賃金の高い職種につけたという点も見逃すべきではない。”(本書140頁より引用)。
要するに、アメリカ合衆国では経営者は移民を導入したかったのに対し、労働者は移民と競争するのを嫌がって移民導入に反対したが、実際には合衆国の労働者は移民を監督する立場になれたので損はしていないということである。
さて、その上で、もう一度アメリカ合衆国の労働運動の主力がちっとも共産主義的ではない点を確認しよう。1880年代にサミュエル・ゴンパーズが労働者政党を持たないビジネス・ユニオ���ズムの下に結成したAFLは1890年に10万人、1914年に200万人、1920年に400万人を組織しており、1955年にAFL-CIOとなって現在に至っている(155頁)。
“……ソ連消滅前の日本などから見ると,アメリカの労働組合は「意識が低い」のであって,AFLもCIOも冷戦の中で共産主義に反対し,朝鮮戦争やヴェトナム戦争を支持した。さらには保守的な共和党大統領候補ロナルド・レーガンを応援したりもした。いったい,こうした特徴はなぜ生まれたのか。”(本書155頁より引用)
著者は合衆国の労働組合が革命的ではない理由として、政府や資本家による弾圧説(155-156頁)と、フロンティアの存在が安全弁となったという説(156-157頁)、合衆国ではカーネギーのように労働者から億万長者への立身出世が容易だったからとの説(157頁)を検討した後、アメリカ合衆国の工場労働者の多くが外国からの移民であったことを強い理由として挙げている。先ほど引用した部分と関連する説である。
“ さらに,工場労働者の多くが外国からの移民であった点に問題がある。彼らは同じ工場で働いていたとしても,ギリシャ正教徒とカトリック教徒は別々の祝日を持っていたし,アイルランド移民と東ヨーロッパからの移民とは必ずしもとけ合わない。言葉も習慣も異なる以上,労働者としての連帯感を持つとは限らなかった。そして前からいるアメリカ人の労働者は,移民を仲間と見るよりは,低賃金で働く競争相手とみなし,敵視することもあった。事実,移民の労働者は,ストライキ破りに導入されたりしたので,資本家の手先としてみなされることもあった。また移民は,とりあえず同じ国や地域からの出身者がまとまって住む傾向が強く,何よりも先に移民としてまとまり,労働者としてのまとまりは二の次だった。すなわち労働者といっても,まずイタリア移民,ギリシャ移民,ポーランド移民であり,カトリック教徒であり,ユダヤ教徒なのである。こうした傾向は,西海岸ではアジア系移民の存在によっていっそう強まったし,その後,移民制限により黒人が工場労働者に加わるようになっても,同じことがくり返された。女性やヒスパニック系の人々の参入も同様である。
日常生活において,人びとはアングロ・サクソンであり,あるいはユダヤ人,黒人,メキシコ人,日本人であって,そのことが労働者という意識に先立って存在する。しかも職場の中には,労働者間の対立をもたらすような要素があるし,勤め先をひんぱんに変える者や,何年間か出稼ぎのつもりで来ている者も多い。一口でいえば,アメリカの労働者は異質な人びとの集まりだったのであって,こうした労働者をまとめるためには,階級意識や政治問題をとりあげても無意味であった。質の悪い労働者への経営者の対応が機械化の進展であったように,意識の低い労働者をまとめるには「厚い給料袋」のみを目的とするスタイルの運動しかありえなかった。高賃金と労働条件改善のような,誰もが関心を持つ経済的要求のみが,バラバラな労働者をまとめ,資本家に対抗する方策だったのであり,こうしてアメリカ労働運動の特徴が生じた。”(本書157-158頁より引用)
・19世紀の合衆国経済が、運河や鉄道建設などに対する多くの政府介入によって成立していたのに、19世紀が自由放任の時代だと思われたのは、企業家の多くがハーバート・スペンサー流の社会ダー��ィニズム(合衆国に広めたのはヘンリー・ビーチャーやウィリアム・サムナー)を信奉していたからであった(240-241頁)。
・ニューディール期にF.D.ルーズヴェルト政権が知識人から支持された理由の一つとして、失業者救済のために設立された雇用促進局(WPA)がその対象に作家や画家を含んでいたことが挙げられている(252頁)。