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二種類の一葉全集、それぞれの存在価値
2010/12/04 15:14
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
樋口一葉はその日記のなかで、たびたび図書館に通っていることに筆を染めている。本書校訂者の注によれば、それは上野にある「東京図書館」であり、《閲覧は有料で一回二銭。和本は七種十冊、洋書は三種三冊まで借りることができた》という。館外に借り出すことはできない。
いま5000円札にその肖像が印刷されている樋口一葉が生きた時代にあって、おおよそ当時の1円は5000円から1万円に相当すると思われるが、図書閲覧料の「二銭」は現在に直すと100円から200円ということになる。
貧しさのうちに母と妹とともに暮らしていた一葉が書きつけた日記を読んでいると、そこにはたび重なる借金の額、何度かの引っ越しで住むところの変わった家賃、いよいよ生活に行き詰まって吉原の近くに小さな店を出したときの仕入れと売り上げ、やっと貰えるようになった小説の原稿料など、金銭についての記述にぶつかる。
とりわけ読むものの胸をしめつけるのは、彼女たちが出した雑貨屋とも駄菓子屋ともいえる店の一日の売り上げにふれたところだろう。《此頃の売高、多き時は六十銭にあまり、少なしとても四十銭を下る事はまれ也》という記述から、一日の純利益はさらに僅かなものであったことが想像できる。だから図書館の本を閲覧するだけで「二銭」もとられることに、現在の完備された公共施設との比較から、ある理不尽な気持ちにとらわれるのである。
それにしても一葉の小説はなんと素晴らしいのだろう。たとえば「たけくらべ」を読みついだはての、あの最後の文章。それを読みながら私が思うことは複雑だ。一葉の小説(と日記)には現代語訳があるが、それはこのように深々と言葉が言葉として胸にしみこむ、ある完全さをこわすものではないかという思いである。同時に私は、日々読んでいるさまざまな国の小説の翻訳自体が、同じように完全な何かをこわしたもののではないかと、ふと感じる。
どれほど巧みに「たけくらべ」の言葉を現代語化しようと、元のものに敵わないと思うのは、私がその言葉のなかにいて、その言葉の調子や空気を生きているからだろう。ちょうど素晴らしい曲、演奏を聴いているときも同じだ。私はそのなかに包み込まれて「いる」という感じなのである。
もちろんすべての小説、すべての言葉にそう感じるわけではない。だからすべての翻訳に対して、そのような感じをもつ必要はないことになる。
あるときスティーヴン・キングの『デッド・ゾーン』を読み終わろうとするころ(二度目だったかもしれない)、私は元の言葉、それが著者によって直に書かれた言葉で、少なくともその最後のあたりを読みたいと思った。それはまだ実行していないが、ここに思い出したことをきっかけに近日中に読んでみようかと思っている(読みたいことと味わえることとは別問題だが)。
ともあれ一葉の20篇少しの小説を時代順に読んでいくと、わずか数年のあいだにその小説が飛躍的によくなっていくのが手にとるように分かる。私が現代語訳の意味に疑問を感じるのは、つまり一葉が書いたとおりの言葉の美しさに打ち震えるのは、後半期のすぐれた作品群に対してであり、現代語訳はそうした後半期のものを中心になされている。
ところで樋口一葉をまとめて読もうとする場合、二種類の全集があるが、完全なのは本書を含む筑摩書房版6冊である。最初の刊行から最終巻刊行の1994年まで20年かかっただけあって、その内容は徹底している。
それに対して小学館版3冊は、小説の未定稿、日記的なもののうち傍系の雑記類、書簡、和歌などが省かれている。だが小学館版は小説も日記も段落、句読点をほどこし、会話や心中思惟をかっこでくくり、場面性の会話部分では思い切って改行をしている。そのため言葉は元のままだが筑摩版にくらべ遥かに読みやすい。実は引用した日記は小学館版からのもので、筑摩版には原稿通り句読点などはない。
私はフランツ・カフカの池内紀訳を読んだとき、全体的な言葉の省略による読みやすさはいいとしても、会話部分の機械的な改行に疑問をもったのだが、たとえば小学館版の一葉初期の「別れ霜」を読むと、会話の改行が機械的でないことに校訂者の注意深さを感じた。
小説自体はやがて数年後に書きつがれる圧倒的な作品群にくらべれば古臭い内容だと思うが、独自の校訂に感心したのは、たとえば主人公の青年が見る夢のなかの会話部分は改行にしないことで、現実の場面とあざやかに対比されていることだった。原稿原文を、読みやすさに向けて、このように処理するのは面白い。完璧な校訂作業のほどこされた筑摩版とともに小学館版の存在価値があると思うゆえんである。
今回初めて筑摩書房版の日記を手にした。正系のこの巻と傍系の巻(二分冊にした第三巻下として雑記、感想類を収録)を読み比べ、読みあさった。所持していた小学館版の日記の巻も参照したのは言うまでもない(さらにすべての小説も読んだ)。日記を燃やしてという一葉の言葉を裏切り、それこそ一枚の紙切れ(それが「第三巻(下)」に結実している)をも丁寧にとっておいた妹邦子は、カフカにおけるマックス・ブロートに近いところにいる。