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紙の本
好きな詩人がいるということ、忘れられない詩があるということ、それはたぶん、好きな詩人がいないということ、そもそも詩というものの片鱗さえ思い浮かばないということよりは、ほんの少しだけ、幸せなことなのかも知れない。
2011/06/25 22:18
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぶにゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この詩人の名を知ったのは二十歳を過ぎてまもなくだったということはかろうじて憶えているが、この詩人をどんな経由を辿って知ったのかということは、脳味噌を絞り込むように圧迫しても記憶の座に現れてこない。例えば僕に(古本ではあるが)全集を買わせるまでの衝撃的なインパクトを与えた中原中也との出会いは、高校1年の時、「現代国語」の教科書に載っていた一編の詩であったのだけれど、こんなふうなはっきりとした大手拓次との出会いの場所を僕はまったく思い出すことができない。あるいは、そもそもそんなものはなかったのだろうか。ただ詩人のことばだけが、どこか、電信柱から引き剥がされたチラシのように、路上に放り出されていただけのことなのかも知れない。たまたま、それを目にして、たぶんいつものように酩酊していた僕が、気まぐれに自分のふところに仕舞い込んだのではないか。おそらくはそんなところなのだろう。詩との出会いは、その詩人云々より以前に、きっとまず、眼前に現れた言葉の世界に立ち尽くすことから始まるのである。名も知れぬ若者たちの路上ライブに、ふと、立ち止まって耳を澄ましてしまうように。
大手拓次は1887年群馬県に生まれた。前の年には同じ群馬に萩原朔太郎が生まれている。2年遅れて室生犀星が石川県金沢で生まれた。後年、いずれも北原白秋に師事し、「白秋門下の三羽烏」といわれたようだ。もっとも、師匠である白秋は拓次より二歳年長なだけの若者であり早稲田の先輩でもある。ついでにいえば、早稲田で白秋の同級生に若山牧水がおり、遠く岩手県では、牧水誕生の翌年に石川啄木が産声を上げている。この明治20年前後はたぶん文学好きにはなかなか興味深い年代であるにちがいない。
ともあれ、大手拓次は、同期の朔太郎や犀星にくらべるとさほど人口に膾炙した詩人ではない。46歳で生涯を終えるまで家庭を持たず、勤務先から戻ると下宿の一室にこもってただひたすら詩を書きつづけ、しかも生きている間に一冊の詩集も残さなかったという事実が、この詩人への評価を過小なものにしているのかも知れない。もっとも、拓次の詩を愛好する僕のような偏屈者からしてみれば、マイナーであればあるほど、なんとなく、安心するのである。だから、拓次を紹介する文章など、本当は書いてはならないと思うのだけれど。
もじゃもじゃあたまでまん丸いめがねをかけ、腕を組んで瞑想にふける拓次の写真が残されている。37歳。世間的にはすでに青年期を過ぎたこの頃、詩人は同じ会社の事務の女の子に恋をする。19歳年下の娘さんに対するこの恋は、拓次の胸を焦がし続けたが、それはついに肉欲の塊となることはなく、コツコツと言の葉を綴るだけの孤独な夢想を紡ぐだけに終わった。報われぬ恋の行方は如何ともしがたい。カリカリと、部屋の片隅でただ恋する人のために恋愛詩を書き綴る40間近のオッさんに、まだ20代の僕は不思議と親近感を憶えたのであった。
この詩集の解説で、神保光太郎は拓次の死後2年経って刊行された詩集『藍色の蟇(ひき)』を読んだときの印象を次のように書いている。
「絵のような詩でもあるが、むしろ、音楽にも近く、純粋にファンタジーの所産のように見えながら、そのイメージはあまりにもなまなましくリアルでもあった。私はその詩集を読み終えたとき、どうともならないようなせっぱつまった気持ちにさせられ、薄気味悪い魔性の生きものと対しているような感じになり、視線をそっとその書物からそむけた。そうだ、まさしく、この詩集は、題名そのまま藍色のひきがえるであった。らんらんと不気味な眼光で私を見つめている魔物。はあはあと吹きかける黄色い息。陰気な表情。この世にこんな詩を書く男もいたのかと、私は呆然とした。」
詩を書くという行為は孤独な作業である。であるなら、詩を読むという行為もまた、孤独なこころが織りなす孤独な営為ではあるまいか。
最初に記したように、僕は、この詩人を知る前に、この詩人の書いた詩を読んでいる。その場所もその理由もすでに記憶の彼方に追いやられてしまっているが、その詩だけは今でも忘れることはない。その詩を読むためだけに、かつて僕は、この大手拓次詩集を買い求めたのだ。
秋
ひとつのつらなりとなつて、
ふけてゆくうす月の夜をなつかしむ。
この みづにぬれたたわわのこころ、
そらにながれる木の葉によりかかり、
さびしげに この憂鬱をひらく。
この詩と出会って、もう30年が過ぎた。
僕は今でも、そらにながれる木の葉によりかかり、さびしげに憂鬱をひらく自分の姿を夢想している。拓次が愛したボードレールが、煙草を吹かしながら、断頭台の夢を見ていたように。