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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2001.7
- 出版社: PHPエディターズ・グループ
- サイズ:20cm/238p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-569-61718-2
紙の本
若者のすべて ひきこもり系VSじぶん探し系
著者 斎藤 環 (著)
あなたは、じぶん探し系? それともひきこもり系? 精神科医である著者が様々な若者へのインタビューを通して、現代の若者論を印象論や価値判断から自由な形で展開する。【「TRC...
若者のすべて ひきこもり系VSじぶん探し系
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商品説明
あなたは、じぶん探し系? それともひきこもり系? 精神科医である著者が様々な若者へのインタビューを通して、現代の若者論を印象論や価値判断から自由な形で展開する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
斎藤 環
- 略歴
- 〈斎藤環〉1961年生まれ。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院勤務。専門は思春期・青年期の精神病理学。著書に「社会的ひきこもり」など。
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紙の本
自分はどっちなんだろうと考えながら読むことの面白さと危うさ
2003/03/19 17:33
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ミホ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ひきこもり系とじぶん探し系。
2つの分類が静的なものではなく、共存していたり、移行したりするものだと著者が指摘するとおり、そういうものだと置いた上で読まないと、新たな「自分探し」の枠組み、道具となりかねない。
構成自体にそのような危うさを内包しながらも、数々の指摘はすぐれて刺激的だ。
「ひきこもりの人はほんとうに宗教にはいかない」
じぶん探し系はじぶんを探しているようで、結果としてその行動からはじぶんを空虚にできるものを探している。だから空しさの同一体験みたいなものにはまりやすい。方や、引きこもりの人はじぶんが空しいことをよく分かっている。
ひきこもりの人は、じぶんが空虚だという思いに苦しめられているものの、ある意味でそれに満足し、じぶんという空虚さのイメージをひきこもることで埋められると錯覚する。
じぶん探しの人がなぜじぶんを空虚にしたいと思うのか。それは本書から私が読み取るところによれば、彼らが、過去の体験や、あふれる現代的な情報、他者とのコミュニケーション力といった自らをとりまく「じぶん的なもの」の取り込みで一杯になっているからだろう。
「じぶんの価値基準をいちばんはっきりさせてくれるものは「敵」の存在である」
でも今は敵が見えない時代。じゃあなにが敵かというと、「同一性」そのものが敵ではないか、と著者。教師がいかにも教師然と、医者がいかにも医者らしくふるまう等々。同一性を、じぶんを守る保護膜として利用しているうちは、いまの若者と対話することなど不可能、という言葉は、大企業人、親、学校、などなど制度の枠組みに同一性を求めて疑わない人全てに聞かせて差し上げたい。
「キャラとペルソナの違い」
私にとってはこの本の真骨頂はこの指摘にあった。
ペルソナとは欧米型の主体のイメージ。主体は欠如を抱えている空虚なものだ。だから人は、対人関係に応じて仮面(ペルソナ)を使い分ける。だから単一の主体とペルソナは一対多の関係にある。かたや「キャラ」とは、主体がいつでもそれに「なる」ことができる記号だ。キャラは対人関係の文脈において、その都度生成されるから、総合的な人格というより、場の雰囲気の中の位置のようなものとなる。だからある場で「いけてないキャラ」「キャラがかぶる」状態に陥ることを、日本人はおそれる。主体とキャラは多対多なのである。
単一な主体からうまれるペルソナは、取り替えがきくけれど、キャラは場の文脈からライブ的に生まれるのだから、じぶんでコントロールできない。
じぶん探し系の人は、じぶんのキャラ化に成功し(だからじぶんをとりまく状況についてはいくらでもはなせるが、じぶんについては話せない)、ひきこもりは失敗した人なのではと、著者は指摘している。
読めば読むほど、ひきこもりは「人間存在」を曖昧ながらも理解しようとした上で、現状には適応できずに苦しむ、人として正しい生き方を貫いているように思えてくる。「ひきこもれ」といった吉本隆明氏の最近の語りおろしのような言説が、だから出てくるわけだが、それは本書でマトリクス化されている、ひきこもり「系」、じぶん探し「系」の成功者(作家、芸能人)には届く言葉かもしれないが、今、部屋からでていけない若い人に届く言葉とは思えない。「新しい、若者の潮流」であるのはいいとして、そこから先は自ら、世界と折り合いを付けるしかないのか。「潮流」である、という認識をこの本から与えられたなら、折り合いを付けるための小さなステップとなるのかもしれない。
紙の本
身近な人との関係を見直させる本
2001/08/05 15:43
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投稿者:きのした - この投稿者のレビュー一覧を見る
難しいことを知っていても、身近なことにはうとい。そういうのはかっこわるいと思う。会社では偉そうにしているけど家では嫌われている「オヤジ」と同じ。「世界」がわかるためには、身近な人間関係における「当たり前」を反省的に捉えなおすことが、絶対に必要なのだと思う。
筆者は精神科医だが、よくある議論のように、悩める若者に対して「こうしなさい」なんてことは言わない。ただ分類して、分析する。最終的な結論や提言があるわけではなく、「それで、結局どうなのよ」と聞きたくなるかもしれないが、その必要はない。読んでみて、ところどころで「ああ、わかるわかる」とか「そうだったのか」とか思うところがあり、その時々で、自分と、自分のまわりのひとたちのことを考えてみればいい。
「結局どうすればいいか」なんて答えはでてこないけれども、それでも本を読む前と読んだ後では、本の少しだけ、自分と周囲の関係が、変わってみえるかもしれない。そうならば、この本を読む価値があったといえるのだ。
紙の本
現代の若者論
2004/03/04 02:07
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投稿者:レノン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は精神科医で「社会的ひきこもり」治療の専門家。臨床の現場でしか若者と接してこなかったという反省から、渋谷、原宿、池袋で遊ぶ少年少女を取材し、分析を加えた上で現代の若者論を説く。
80年代以降、自分探しに癒しを求める人が急増した。著者は、その背景を「場所によって自分の顔を使い分け、本当の自分がどこにあるのか分からなくなってしまった」と説明。「過度にコミュニケーションを志向し自己像が曖昧」な若者を『じぶん探し系』、「自己=他者」という認識を受け入れはじめた新しいタイプの若者を「ひきこもり系」と指摘する。
「キャラクター」「携帯空間」「身体性」の概念を通じ、若者のコミュニケーションの変化を追った。
紙の本
若者のすべてそれ以外
2003/04/18 23:22
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投稿者:通貨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書で提示されているのはつまり、世の中にはこういう若者がいますよ、と、なんにも知らないオヤジ連中、あるいは脳みそ腐りかけ連に、若者のインタビューを通して教えてあげようというものではないでしょうか。
でも果たしてそれ以外のものがあるのでしょうか。つーか著者はこういう事をして迷惑千万な人々がいることを知らないのでしょうか。たぶん知らないのでしょう。これは困ったものです。
それでもいいところはあります。それは、つまり本書を通して著者が好きそうな(かどうかは知りませんが)言葉でいえば、こういう「若者は存在しない」ということがわかることです。著者のような40歳代以上の(それ以下でもいくらでいますが)「オヤジ」どもが、理想を立て、そして夢想する。それは現実にはないのですが、そのような理想は、オヤジどもには現前する。
もちろんいるでしょう。手首切ったり、少女誘拐したりする人は(こんなのは出てきませんが)。少女誘拐に対する最悪の論調、「僕たちはそんなことはしない!」。この連続性を全く顧みない論調、腐っていますね。あるいはこういった本書に出てくる若者たちに向かって発せられる論調、「よく分かる!」。何がわかるんでしょうか。いずれにせよ、こういった安心したい人達はなんにもわかっていない証左なので、どうでもいい。
ステレオタイプですらない、陳腐きわまりない若者たち、二項対立的に整理されて満足がいく若者たち。そのどれもが著者は好きなのでしょう。几帳面なのですね。
いやむしろ、この本を読んで反動せよ、とでも逆説的に読み解くべきなのかもしれません。でも私はいやです。正直いって腐っていると思います。
紙の本
宇多田ヒカル、黒沢清は「ひきこもり系」、浜崎あゆみ、麻原彰晃は「じぶん探し系」…!?
2001/10/30 22:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:藤崎康 - この投稿者のレビュー一覧を見る
思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」の治療などの専門家・斎藤環が、若者インタビューに解題を加えるというフォーマットでじつにユニークな若者論を書き上げた。ヴィスコンティの映画からタイトルを借りた本書、『若者のすべて』である。
斎藤氏はまず、現代日本の若者を「じぶん探し系」と「ひきこもり系」に、あえて大きく分けることから始める。氏自身いうように、この線引きはあくまで便宜的なもので、この二つの系の境界はあいまいな場合もあるが、ともかく、この分類によって見えてくる若者像はかなりリアルである。そして、適宜ラカンなどを援用する斎藤氏の分析は、いささかも図式的ではなく、むしろ曲芸的かつスリリングである。
たとえば、「じぶん探し」について氏はこう言う。…じぶん探しの答えである自己イメージは、実は探して見つかるものではなく、他者によって、しばしば事故のようにして、はじめて与えられるものだ。不随意な他者とのトラウマ的な出会い、それだけがじぶん探しの答えをもたらし得る。また、じぶんがわからないけど満足しているというのが、ひきこもり系。じぶん探し系は、じぶんについてのかりそめのイメージを持っているが、もっと本当の、別のじぶんがあるのでは、という、かりそめゆえの不満につきまとわれている…。
また、減少しつつある「じぶん探し系」の極端なタイプである「境界例」の人は、対象を常に善─悪、敵─味方などに明確に分け、そのどちらかに過剰に同一化することで自己イメージを獲得しようと焦り、あがく、という指摘も興味ぶかい。また「じぶん探し─適応系」の典型は三島由紀夫で、みずから演出した症状=イメージの陰に「本来の自己」を完璧に待避させうると信じている点で、その言動は真にヒステリー的であるという。「じぶん探し─不適応系」の典型は太宰治、麻原彰晃、スガ秀実、柳美里、椎名桜子(!)、「ひきこもり系」の典型は村上春樹、阿部和重、宇多田ヒカル、また、コミュニカティブ=パフォーマティブ(社交的で気さくな)な村上龍、田中康夫、浜崎あゆみ、爆笑・田中は「じぶん探し─適応系」…というふうに、氏の診断は説得力がある。
さらに、「ひきこもり─適応系」の例として、石原慎太郎、黒沢清、キムタク、大江健三郎、北野武、爆笑・太田などが挙げられ、「ひきこもり─不適応系」として、森喜朗、宮崎勤、草間弥生、町田康などが挙げられているのも、うなずける。また、携帯電話はパソコンほど万能感がなく、制約が多い不自由なツールだからこそ流行る、という指摘にも不意をつかれた。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.10.31)