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商品説明
デイム・スクールと呼ばれる「おばさん学校」から公教育へ。民衆の手から国家の枠組みに取り込まれてゆく初等教育の姿をとおして、変貌するイギリス近代を考える。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
松塚 俊三
- 略歴
- 〈松塚俊三〉1946年愛知県生まれ。名古屋大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、福岡大学人文学部教授。
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紙の本
近代イギリス国家に根づいていた教育観を、民衆の文化からみる
2001/09/17 22:15
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投稿者:挾本佳代 - この投稿者のレビュー一覧を見る
18世紀後半から19世紀半ばにかけて、イギリスは実に大きな社会変化を遂げる。一番の理由は、産業革命の成功を受けて、ロンドンを中心に工業化の波が怒濤のごとく一般市民にも押し寄せてきたことである。それまで農民だった市民が農地を離れて、工場労働者として工場に吸収されるようになり、農地も農業を中心としたコミュニティも徐々に破壊されてしまった。自然とともに生きるコミュニティの中で、人間と人間とを結びつけていた精神も破壊され、今度は工場経営者すなわち資本主義経済が、そのシステムと労働者という個々の人間をつなぎ合わせる役目をするようになった。当然、国を上げて、イギリスの綿製品がインドを初めとする諸外国へ輸出されていたことを考え合わせれば、個々の人間は資本主義経済システムをもつ国家によってつなぎ合わされていたことになる。人間と人間の間には、法律とか資本主義とか国家といった、人工的に作られたシステムばかりが存在するようになってしまった。
こうした時代の教育はどのようなものであったのであろうか。何よりも興味があったのは、ロンドンなど大都市の周辺に位置する片田舎や町にある小さな学校が、どんな変化を受けていったのか、ということである。著者が注目した、イギリスの近世から近代にかけてあった、読み書き算術を教える「おばさん学校」とも呼ばれる学校が興味深い。高齢の未婚女性や寡婦が教えていたことから、そのように呼ばれた学校は、本格的に国家が公の初等教育に公庫助成を投じていくまで、パブリック・スクールとしてではなく、プライベート・スクールとして大きな役割を果たしていた。著者は「おばさん学校」とではなく、「デイム」を原語のまま使用する、「デイム・スクール」と呼んでいる。
この「デイム・スクール」では、まともに教育が行われることは少なかった。というのも、教師である女性が、ある時は店をきりもりしながら、ある時は酒を飲みながら、子供たちの相手をしていたからだ。もちろん、そんなにいい加減な女性教師ばかりではなく、パブリック・スクールにも引けを取らないような授業をする女性たちもいた。しかし、大半はいい加減な気持ちで、生活費を稼ぐために授業を引き受けた女性が、教師だったのである。しかし、このデイム・スクールをわざわざ選ぶ子供たちの親もいた。というのも、この学校の教師は授業料を滞納しても待ってくれていたり、親の仕事が忙しい時には授業が終わっても預かってくれることもあったからだ。農民をする親にしてみれば、体のいい保育所代わりの学校が「デイム・スクール」だったのだ。つまり、著者がいうように、この「デイム・スクール」は、農村共同体の相互扶助や社交性が強く根づいた世界があったからこそ、存続しえたのだ。この点は非常に興味深い。というのも、イギリスの農村社会が受けた産業革命の打撃はこうした「デイム・スクール」をなくし、システム化された初等公教育を浸透させていったからだ。
著者が注目した「モニトリアル・システム」は、少ない資金で大人数の子供たちに読み書きを教えるために、年長の生徒を教師の代役にし、教師とその年長の生徒で徹底した分業システムを採用した。先も述べた通り、多くの農民が吸収されることになった工場でも分業システムが採用されていた。同じように教育現場においても、同じシステムが採られていたのである。本来、個性を豊かにしなければならない教育現場でも、やがて個性を喪失するような分業システムが採られるようになったのは、意外に早かったのである。綿密な資料を駆使した本書を読むと、今日の教育現場の悩みが髣髴とする。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.09.18)