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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2003.2
- 出版社: PHPエディターズ・グループ
- サイズ:20cm/206p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-569-62581-9
紙の本
怒る技術
著者 中島 義道 (著)
「たとえ間違っていようと、あなたは怒るべきである。」 20年にわたる壮絶な対人闘争から摑んだ「怒りの哲学」。怒りを感ずる技術、怒りを育てる技術、怒りを表現する技術、怒りを...
怒る技術
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商品説明
「たとえ間違っていようと、あなたは怒るべきである。」 20年にわたる壮絶な対人闘争から摑んだ「怒りの哲学」。怒りを感ずる技術、怒りを育てる技術、怒りを表現する技術、怒りを相手に伝える技術などを紹介する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
中島 義道
- 略歴
- 〈中島義道〉1946年福岡県生まれ。ウィーン大学哲学科修了。哲学博士。現在、電気通信大学教授。誰もが好きなだけ哲学を学べる「無用塾」を主宰。著書に「働くことがイヤな人のための本」「不幸論」等。
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紙の本
怒りは方便。
2003/04/25 11:11
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
さて、怒れる哲学者の著作を読むのは『ウィーン愛憎』以来か。ただ呉智英との対談や書評などで周辺情報は些少ながらインプットしていたが。怒れるだけではなく、実際に行動に起こすところがエライわけで。その怒れる哲学者が説く怒りの哲学。おもしろくないわけがない。
「怒る」と「キレる」は別物だと作者はいう。しかし、ビギナーはそれでもよろしいと。ともかく我慢できなくなったら、対象者(物)に、怒鳴ってみよう。キレてみよう。怒りのビギナーは、ただ罵倒したり、ゆえに論旨が明確でなかったりするのだが、ともかく、なんでだか知らないがこいつは怒っている。これはボディランゲージなので、相手が外国人でも、伝わる。英語で相手の非を指摘する文章を組み立てている暇があったら、日本語で思いつくまま悪口を言ってしまえ。こういうことだ。
でも、新橋あたりの居酒屋でサラリーマンたちが寄ってたかって、上司の悪口をいったり、政策を非難したりしているのは、怒りではないらしい。タイマンはっていくのが怒りの基本的スタンスである。
怒ることを知らないから、もうどうにもならない状態になって、いきなり刺したりする。当然、刺したこともないから、うっかり殺してしまう。「ふだんは、自分から挨拶するいい若者でしたよ」とか「信じられない」とか、ワイドショーおなじみのご近所おしゃべりオバサンのせりふがここで発せられる。
作者のような怒り道免許皆伝になると、もう余裕しゃくしゃくで「怒れる自分」を演技する。そのパフォーマンスを楽しんでいるという感じさえする。作者の実録怒りのエピソードは小気味よく、また、主導権を握って、先読みしながら怒る多種多才なテクニックは、かなり底意地が悪い。ここだけでも、怒れない人は発散できるはず。
こう見えても(見えないが)ぼくは短気で、融点という沸点をこえると、生来隠している(作者いうところの)下品さが露出する。
この本にも出てくるマンションの階上の住人の騒音問題。同じ体験をしたことがある。夜中に突然掃除機をかけだす輩が住んでおり、我慢できなくなって、モップの柄で天井をつついたことがある。あ、まだあった。ボロアパートに住んでいる頃、下の部屋で夜中どんちゃん騒ぎをしている部屋に怒鳴り込みに行ったことがある。
「哲学」の語源が「知恵を愛する」という意味なのだからして、怒ること、これはもうかなりの知恵の上等テクニックではあ〜りませんか。「さあ、みんな怒りましょう」。
紙の本
半端ではないコミュニケーション論
2003/03/30 13:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
表紙や帯には赤い色が目立つが、扉絵やカバーを取った背表紙には青が基調のデザインが施されている。赤が怒りを、青が冷静を示すなら、これは著者の意図を正確に反映した装丁であると言える。なぜなら、怒る技術とは闇雲に怒るための技術ではなく、自身の怒りの「表出」を冷静に分析・制御し、他者に対して効果的な方法で演出しつつ「表現」する技術であるからだ。
一般的に、日本では怒りの表出はネガティブな行為と考えられている。しかし著者は怒りの感情を無理に殺すことを善しとせず、怒りを伝えることもコミュニケーションの重要な手段の一つと捉えている。これは日本よりも人が容易に怒るヨーロッパ生活に根ざした著者の経験則に過ぎないと考えることも可能であろう。しかし、それを指摘すれば直接的な怒りがこのクニにおいてタブーとされ、封殺されることが、正常な感情表現としての怒りの表現ができずにを暴発させてしまう人が少なくないという事実につながっているという仮説を覆せるわけでもない。
怒りを闇雲に表出し、それでこと足れりとし、相手からの言葉を遮断するのはコミュニケーションではなく、単なる押しつけにすぎない。しかし感じた怒りを注意深く正確に表現し、相手に伝えたい、相手に何とかわかってほしいと欲求するなら、それはコミュニケーションの正しき萌芽である。
そもそも好きでも嫌いでもない相手と何かをコミュニケーションし合いたいとは考えないだろう。多くの人間は、無関心な対象に積極的にはたらきかけたいとは考えないのだ。とすれば、それが怒りの感情であっても、その感情を闇雲に抑圧することは、お互いにとってコミュニケーションの可能性を消すことにつながっているのである。
ここで自身の怒りを相手はどう受け取るのかを考えて行動しなければならない。つまり、コミュニケーションの口火を切る人間は、相手にも自分と同じように表現する権利を保障し、相手の言葉を受け取らなければならない。
そう、怒りはコミュニケーションを成立させるための一つのきっかけであり、一つの手段でもある。手段であるからには用いるための訓練が必要である。たとえば、怒りを感じられない人には怒りを感じる訓練が必要であり、怒りを制御できない人には制御するための訓練が必要である。
そのように、怒りをブラックボックスの中に囲い込まず、自分の怒りと冷静に付き合い、他者とコミュニケーションしていくための提言と、半端ではない実践法が紹介されている本である。
戦う哲学者・中島氏の舌鋒がますます冴えわたる。