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収録作:侏儒の言葉・侏儒の言葉(遺稿)・文芸的な、余りに文芸的な・続文芸的な、余りに文芸的な
芥川龍之介の持つ小説観、その叙情的イメージがいかなる意味合いを持つかは谷崎潤一郎との小説論争においてある程度明らかになっている訳だが、谷崎と芥川の小説そのものを見て感ずるところの相違が、そのまま互いの思想の相違であるとは言えまい。本書において芥川は谷崎氏に対峙する論客として何章かを裂いているが、一度ならず主張しているのは「ストーリーなき小説」の正当性についてであり、それは多く古典からヒントを得、寓話的な要素を多く持つ芥川の小説(勿論そればかりでないのは言わずもがな)を顧みるにおいて殆ど彼の創作物に重なるものでは無い。またこの論争においての主旨である「ストーリーなき小説」との接し方、理解、分析方法において、芥川の良しとする小説、叙情的芸術としての小説領域に、彼の師であり日本最大の文豪と言っても過言ではない夏目漱石の影がある事は明らかであろう。しかしこの論争については、並行して読んでいる前田愛の「文学テクスト入門」においても触れられている為、ナイスタイミングというかラッキーというか、これからそちらを読むのが二倍楽しみである。
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「侏儒の言葉」はアフォリズムと言って、簡潔な表現で人生や社会の機微を言い表すという形式をとっています。はっとされられるような鋭い見方がしてあり面白いです。
「文芸的な、余りに文芸的な」は文芸に対する著者の考えが述べてあります。
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重たい。でも、軽んじてはいけない。
そんな言葉がいっぱい詰まった本。
現代に生きても、芥川龍之介の時代でも、
苦痛を覚えることは一緒だったのかもしれない。
心に残っているのは、
『人生の悲劇の第一幕は親子になつたことからはじまつている』
少しうろ覚えだが、この言葉は呼んだ当時悩んでいた私に
深く突き刺さった。
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収録:「侏儒の言葉」「侏儒の言葉(遺稿)」「文芸的な、余りに文芸的な」「続文芸的な、余りに文芸的な」
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「侏儒の言葉」の序
侏儒の言葉
侏儒の言葉(遺稿)
文芸的な、余りに文芸的な
続文芸的な、余りに文芸的な
注
解説(平出隆)
人名索引
(目次より)
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芥川龍之介の金言集。
この本を読むと、芥川龍之介の感性の鋭さに驚くと共に、彼だからこそ『河童』や『蜘蛛の糸』などの作品を書くことができたということが分かる。
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芥川最晩年の箴言・文芸論集。率直に言って、アフォリズムとしては余りにも陳腐でつまらない。芥川は飽くまで物語を虚構する技巧上の名手ではあっても、それ以外は特に抜きん出ているとは思えなかった。「筋」の無い小説を構想していたらしいが、彼の作品中で面白いのは、如何にも物語然とした小説らしい小説の方ではないだろうか。
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ほとんど小説しか読んだことがなかったので、かたい印象しかなかったのだけれど、まあ、やはり真面目なんだなあと。あと、皮肉っぽいなあとも。そして、「小説とは」ということについてみんなちゃんと考えていたのだなあと。漱石や谷崎、佐藤春夫、正宗白鳥なんかに関する言及もあって、そうかそういう感じかと思ったりした。あとはやはり、フランス文学に通暁しているなあと、メリメとかアナトール・フランスとか。しかし、発音そのままというか、ベル・アミ(ベラミ)とか、ダスタエフスキ(ドストエフスキー)とかいう表記で出てくるのがおもしろい。
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「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」
真珠にような結晶としての言葉。
芥川は現代の皮肉者として代表者であろう。
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芥川が晩年に記したアフォリズム。読んでいると、彼は神経むき出しで生きていたのではないかと思うほど、鋭く繊細な文章。こんな感覚をもって生きていくには、いったいどれだけの苦痛が伴うのだろう。
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「大きな物語」とは、もっとも根源的な世界観の上に成り立つものである
すなわち、「弱肉強食」の世界観である
しかしそれを人間の立場から見た場合
あまりに動物的・非人間的と言わざるをえない
「筋のおもしろさ」とは
ようするに「大きな物語」の縮小コピーを楽しむものである
しかし小説が人間を題材にするものならば、
逆の観点から考えるべきこともあるのではないか
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文芸論争はどうも神学論じみている。
きっと痛切なことだったのだろうが、申し訳ないことにあまり興味を持てない。
その一方でアフォリズムに惹かれるのは、
それが日々の何気ない思考の断章だと感じるからだ。
体系化される前に著者の生活の端々から自然と沸き出でる肉声のような気がする。
そして、いくつかのアフォリズムが長い時間を耐えて小説を構成する血肉となり、
また最終的には著者の人生を左右させるという予感がするからだ。
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読み始めました。
『侏儒の言葉』は、以前に単体の岩波文庫を読んだことがあります。
大阪に向かう列車で読んでいます。前に読んだとき(30代)より、痛切に感じます。
ちょうど京都駅に停車中に「侏儒の言葉」の部分を読み終えました。
(2013年11月22日)
「文芸的な」は、初めて読みました。
(2013年11月23日)
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文芸的な余りに文芸的な のみの感想。接続詞の妙な使い方や、思わせぶりな書き方を除けば、かなり正確に同時代の事実・真実を簡潔な文体で論評していると思います。強い思索と何度も推敲をした上で、書かれている文章だと思います。
芸術の核心について、素材を変えて何度も論評していると思います。冒頭の「話」らしい話のない小説のくだりは、芸術の核心と・その周辺の現象について書かれていると思います。素材を変えて何度も芸術の核心について書かれていますが、それに関しての論評はどれも正確に書かれていません。「芸術の核心」は証明が不可能だから、定義はせず・あいまいに書かれているのだと思います。
作者の同時代・少し過去の人物批評が正確だと思います。この部分がこの作品中の作者の最も優れた所だと思います。作中、作者(芥川さん)は自身をジャーナリスト兼詩人、と書いていました。推測ですが、ジャーナリストの優れた側面が、同時代の事実・真実・人物論評を正確にするのではないでしょうか。
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「文芸的な、余りに文芸的な」を取り急ぎ。といって「侏儒の言葉」は前に読んだことがある。
谷崎との論争も気になっていたところだったけど、最近読んだ佐藤春夫の「芥川竜之介を哭す」にあった「しゃべるように書く」話が気になっていたので、それが主な動機w佐藤春夫の文章でも、ヒステリー治療としての側面は取り上げられていたし、その効用はある程度認めるところもあったようだけど、ジャーナリスト的な側面を考えてしまったり、芥川自身の性格もあってか、皮肉に見ている様だった。
総括すると、文学とは何かを芥川なりに考えて出した答え・考えといったところ。だから、読むのにも時間がかかった。正宗白鳥をかなり評価しているのが意外。「死者生者」は読んだことがないので、気になる……(「芋粥」は既読)。
それから、以前芥川の「プロレタリア文学論」を読んだ時、なかなかに深い考察をしているなあと思ったけど、これからの文学としてその発生?動き出し?を認めていたんだなあ。中野重治が出てきてびっくりした。
「侏儒の言葉」もだいぶ前に読んだ切なので、また機会をみて。