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その名の通り猫の小説です。特に表題作の「猫に時間の流れる」は、最初の一段落でぎゅっと心を捕まれました。この小説は人間視点ではあるけれどあくまで中心は猫。5年の時間が流れているのにその間の人間の変化はほとんど触れられず、猫の変化が重きをしめています。変わった理屈をこねながら語られる猫の様子は、かなり冷静。つい猫を見ると可愛い!と叫んでしまう私とは違い、一つの存在として扱っている感じがします。ラストは少し悲しい、クロシロの一代記でした。
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保坂和志『猫に時間の流れる』は、この表紙だけ見て手にとったのだけど、そもそも保坂さんの文体が何だかぬるいというか、馴染みにくくてむずがゆかった。主人公の暮らすアパートの住民とその飼い猫とののんびりした時間、そこに現れた気性の荒い野良猫との出会い…みたいな内容。
主人公が自他に向けるやたら分析的なものの見方が好きになれない。こんな風に周りを傍観(という言い方がふさわしいような)している人が身近にいたら、話を聞けば聞くほど気持ちがもやもやっとしそうだ。村上春樹とかが好きな人には合うんじゃないかと思った。村上作品を読んだ時の感覚と似ていた(といっても一冊だけなのだけど…)。
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“猫は人間の話しているのを聞いている…深刻な話なのか気楽な話なのかというような話の内容の帯びている色合いあるいは気分のようなものは聞いている”“猫は「わかっているのと同じだけわかっていない」”
保坂さんさすがです。イカす。
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2作収録しているのですけど、両方とも非常に好きです。「キャットナップ」に関してはよい天気の日に日向ぼっこしながら読むのに非常に向いているというか、もう何度も読んでいるのですが、そのシチュエーションていうのは大体よい天気の昼間というだけのことです。先日、相棒さんとひょんなことから本の話になり(最近、相棒さんは漱石の「こころ」を読んだり、読書傾向が明らかに変わってきたこともあり)、「保坂さんて、苦労したことない人だと思うんだけど。本質的に。きっと「大変だ」「つらい」とか言っててもいつだって誰かが助けてくれたりして生きてきた人みたいに思う」というようなことを言っていた。確かに保坂さんの作品は物事に対する基本的な姿勢がとても楽観的であるが、それを(作者自身に対する)そういう受け止めに飛躍するというのはどうかなぁと思いながら話を聞いていた。それだけの話です。結構、そこからいろいろと考えたりもしたんだけど、それはまたいつか。(06/4/10)
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飼い猫のチイチイとパキ、野良猫のクロシロとぼくたちの関係は、
微妙な緊張と調和を保っていた…。何かがわかっているような何も
わかっていないような猫たちとの日々―。世界との独特な距離感に
支えられた文体で、猫たちとの日常‐非日常という地平を切り開い
た新しい猫小説の原点。
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家族で初詣に近所の神社に行き、海まで歩くと友人に偶然会う。快晴の気持ちのよい日で、家族連れに混じって凧揚げなどをして過ごす。そこだけ雲がかかり富士山が見れなかったのは残念であるが、富士の佇まいは田舎の風景にはすこし劇的すぎる気もして無くてもいいのかもしれない。一通りぶらぶらして友人と別れ長い坂道を歩いて家まで帰る途中、小学生の頃によく友人と遊んだ公園で、ブランコがぶらんぶらんと揺れる傍ら、この本を読む。という、どこかの小説に出てくる筋のようだった今日一日に、保坂和志の文章は相応しい。家に帰って机に向かって続きを読もうとしても、もうこの文章を楽しむ空気は再生できない。そうやって読むものでも読めるものじゃあない。
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エンターテイメントではないです。純文学に分類されるような作品です。
猫と人の日常がたんたんと語られます。
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東京下町の野良猫とそれを取り巻く色々な人々の人間模様。野良猫の理想と現実をリアリティーたっぷりに描く…のは良いのだが、私はこの作家の文章がどーもダメ。しかし…の後にあーだこーだ口語体で続いて結論が見えなくなる…ような、歯切れの悪い文章は苦手です。
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読んでて、センター試験の国語の現代文で出てきそうな文章やな―と思った
嫌いじゃないです◎
内容は題名の通り!
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特に何か大きな、劇的なことが起こるわけじゃない。
でも、それでいて何かフワッと心に空気感みたいなものが残ると思う。それはなんだか心地いい。
たら~っと文が切れずに眺めに続くので、ちょっとテンポ悪く感じられたりするかもしれないけれど、私は嫌いじゃないです。
会話の感じは、むしろ妙に納得してしまったり、クスリと笑える箇所もあって好き。
猫好きの友人へプレゼントしました。
でも自分の手元にも欲しい一冊。
あとがきがなんだかよかった。
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友人からの誕生日プレゼント。
表題作の「猫に時間の流れる」、慣れるまでにものすごく時間がかかった。思考が流れるままというか、回りくどい書き方にしばらく慣れず、慣れた頃に終わって「あれ!?」ってなった。終わり方も中途半端というかふわっとしてた。
次の「キャットナップ」の方が、自分的にはすっと入れた。けどやっぱり終わり方はふわっと。
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あたしは猫を飼っていて、だけどそんなに猫が大好き、というわけではない。人には猫を可愛がっているとかいわれなくはないけれど、いわゆる世間の猫好きとは自分は違うように思っていて、ただそう言うよりはもう無条件に好き好き大好き、と言った方が生きやすい。だからあまり人には言ったことがなかった。
自分の飼い猫の世話をするのと、その辺にいる猫をなんでもかんでも可愛がるのとは、少なくともあたしにとっては天と地ほどに違っているのだ。
だから猫好きの書いた本は読んだことないし、読む気もしなかった。この本だって多分、決して手にしなかったろう。もしあたしの本ソムリエがこういわなかったら。
「この本、あなたは読んだ方がいい気がする」
面白かったよ、でも、猫好きだったよね、でもない。放り投げるようにあたしに無造作に与えられたその言葉が気になって、つい手にしてしまったのだ。
ソムリエがあたしの猫への思想をわかっていたとは思わない。ところがこの本はことごとく、あたしの想像を超えた猫本だった。
「猫をちゃんとかわいがっている飼い主だったら多少の差はあっても猫の経験することを整然としたものにしようとしているはずで、複雑にしようとしない。叱りつけるような態度でほめたりしないし、楽しい時間は楽しい時間、静かな時間は静かな時間という風に区別する。」
そうなんだ。あたしが猫と暮らすようになって思ったことそれは、言葉が通じないこの小さいものたちには、常に一貫した態度で臨まないと何も理解されないこと、伝えるには態度、それも極めて明快でクリアでないと学んでくれないイコール苦労が自分に返ってくる、と言うことだった。
あたしはもともと、ものすごく自分ルールを持っている人で、相手も同じに理解するのだと思い込んでいたから人付き合いは下手くそだ。でもあたしが少しでも相手を斟酌できるようになったのは、猫のおかげとしかいいようがない。
あたし以上に周りを気にせず、ダメと言われたことをか理解するけれどあえてそれをするひねくれもの。気紛れであたしのことなんかこれっぽっちも気にしない、あたしの同居人。
あたしは奴らにとってはご飯の運び屋に過ぎなくて、でもあたしはそれでも仕方ないと思ってる。海を眺めるみたいに猫の仕草を楽しみ、たまに撫でる、その対価としてそのくらい、問題ない。
この本はそんなあたしに、ぴったりだ。何も押し付けずに何もあたしに求めない。猫を好きになれともいわない。
猫には哲学も、あるんだな。
そんな本。
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猫に時間の流れるとキャットナップの2作。
猫に時間の流れるは猫を中心にした話、キャットナップも猫はたくさん出てくるが、人間もよくでてくる。
全体的に登場人物が気楽というかゆるいというかそんな感じで個人的にとても好き。
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著者とノラ猫との体験談、かと思いきや小説だった
ものすごくゆっくり読みました。3週間くらい。
「恋愛の話や人が生きたり死んだりする話と同じだけ猫の話があってもかまわないんじゃないだろうか?」
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「猫に時間の流れる」と「キャットナップ」を収録。
保坂さんが、人間ではなく猫中心に描いたという、「猫に時間の」の方が、今回は読んでて心地よかったのは、猫好きでもなんでもない私にとっては不思議だった。作中に出てくるクロシロという猫の存在が大きかったんだと思う。ただ、かわいい、とか、愛らしい、とかいう猫よりも、ちょっと癖があって、悲哀があって、汚らしい匂いが届いてくるような猫っていうのは、ひっかかってくるもんなんだなあ。
p41 美里さんのつきあっていた男とちがって弘美はぼくと美里さんのことをいっさいカンぐらなかったが、それから何ヵ月もしないうちにぼくは彼女にフラれた。理由は美里さんでも猫でもない。フラれることにはっきりした理由が必要なのかどうかもよくわからないが、ぼくはとにかく女の子と長くつき合おうとしない何かがあるのかもしれないと思う。ぼくは弘美というその子と会えなくなったのがしばらく残念でフラれる直接のきっかけになった事件さえ起こっていなければまだしばらくはつづいていたはずだ、もしかしたらずっと何年もつづいたかもしれない、もう弘美を好きになったようには誰かを好きになれないかもしれない、なんて思っていたが案外短期間で新しく好きな女の子ができた。そして美里さんにも新しい恋人ができたのだけれどこれがまた妻子持ちだった。