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紙の本
戦時下の富士山麓の精神病院を舞台に問う、「狂気」と「理性」の差異。泰淳という底なしの不思議な大盃からあふれ出す文学のエネルギー。
2004/05/27 11:30
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
たとえば夷齊先生の『狂風記』『六道遊行』なら、「破天荒で荒唐無稽に行くよ、無手勝流で小説の愉しさっていうものを教えてあげよう」という調子で、勢いよく口火が切られる。読む方も、そういうものだという構えでついていけばいい。
この『富士』は、面白さということではとびっきりである。「戦後文学傑作のベスト10」みたいなリストが挙げられれば必ず選ばれる傑作であり、確かに評判にたがわぬ堂々たるダイナミックな語り口と展開。こうるさい読者にも有無を言わせぬ風格がある。
だから、以下に書くことは私のひとりよがりの大胆な感想なのかもしれない。しかし、読んでいて「この小説というのは、もしかすると大ポカ、底ぬけなんじゃないだろうか」とも思えてきた。
それはドストエフスキーやトーマス・マンなどを読んでいたときも、ちらと頭をよぎったことだ。狂気と理性の境界、信仰に対する無神論、罪と審判のあり方、虚無と熱情の元になるもの…などといった哲学的な内容に文豪たちは挑む。物怖じすることなく…。特異な人物を何人か描き出し、諸テーマにメスを入れるにふさわしい極限状況を作り出すのに腐心する。
泰淳は『風媒花』や『審判』を書いた動機として、「人間のわかりにくさがひどくなってきているがために、加害者と被害者が1対1でもはや向き合っていない、告訴されない罪、宙に迷った罪で地球は充満している」という、現実社会における一種の極限を意識していたようだ。その種の極限はドストエフスキーやマンのいた社会にもあり、強い執筆動機を形成していたことと思う。
私もまたある種の極限社会にいながらも、彼らの書いた人物があまりにグロテスクであり、設定が奇異であるためか、テーマに素直に向かって行こうとする途中で「これってシャレっぽいよな」と、ふっと別の角度から眺める余裕がある。そこが泰淳が真面目に取り組んでいたのか、大ポカ、底ぬけのつもりで小説に大きな風穴を開けていたのかが分からない面白さではないかと取れたのである。
ただ、勇気をもって書いてしまうなら、そのような大ポカや底ぬけを内包するものこそが真にダイナミックな傑作たり得るのではないかという気もするのだ。もちろんトルストイのような丹念で美しい傑作も一方にはあろうが…。
そのように考えると、序章「神の餌」はいかにも「今から純文学、はじめるよ」と合図しておいて、庭に集うリスたちの様子にさまざまな思索を投影させた、オーソドックスな純文学ダミーのように取れなくもない。ここを読んでいて、「この調子でつづくなら退屈かもしれない」と思った。
だが、もったいぶったようなその章をあるいは飛ばして本章に入っていけば、興味深い人物たちが次々に立ち現れる。語り手である精神医学の演習学生が、自分では気づかぬうち徐々に患者たちの放つ不思議な魅力にとらわれていくように、私たちもまた、彼らの挙動や会話を追うことができる。そして、泰淳が仕掛けた事件の数々を体験しながら、語り手と病院の行く末を知りたい一心となる。
泰淳という大盃からあふれる美酒を飲み干し、それをひっくり返すと盃の底にはなぜか大きな穴があいている。では、あの酒はどこから溢れていたのか。盃を頭にでもかぶって考えてみたくなる。『富士』は、そのような娯楽性をもって狂気や犯罪の動機という深淵を覗かせてくれる。
紙の本
戦後文学の傑作
2002/05/11 18:14
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ウロボロス - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品は序章「神の餌」から十八章を間にはさみ終章「神の指」で終わる一五〇〇枚の長編小説である。
物語は、昭和十九年、富士山麓の国立精神病院が舞台となっている。この小説の幕開きは、主人公の「人類の滅亡」を黙示させる呟きによって語られる。
主人公は精神科の研修医としてこの病院に勤め、尊敬し敬愛する甘野院長とともに、患者たちの治療にあたる。
患者として登場するキャラクターがきわだっている。黙狂の哲学少年、元精神科医研修生で自分のことを「宮様」と思い込む躁鬱青年、食欲求で常に脳内が満たされている患者、伝書鳩のことしか考えない患者、処女懐胎によって主人公の子を身ごもったと訴える女性患者などなど。
まるでドストエフスキーの作中の登場人物たちを彷彿とさせ、物語は終章へと大団円をむかえる。
終章ちかくで独白する主人公の内面のモノローグは圧倒的なヴィジョンをもって読むものに迫ってくる。
この作品は、極限状況のなかで生きる人間を、その存在ごと描きつづけてきた作家・武田泰淳のもっとも好きだったという「諸行無常」の思想のうちによく表現された作品であり、自身の傑作であるとともに戦後文学を代表する作品でもあると思う。
紙の本
「一等」の文学
2003/06/17 23:15
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:バナール - この投稿者のレビュー一覧を見る
これまでに読んだ小説のなかでどれが一番良かった(印象に残った)と聞かれるたびに、私は決まって泰淳の『富士』を挙げていた。
よくよく考えてみると十数年以上もそれを凌駕する書物に出遭っていない勘定になってしまうが、もちろんそんなことはない。
ものぐさや記憶力の悪さとは別に、なぜかそう答えてしまうのである。
ところで、これと同様の質問である、“小説”を“映画”と取り換えた問いには、ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と答えていた。
先日、止めておけばよかったと後悔したのだが、ビデオを借りて『ストレンジャー』を観たのである。
それが、まあ案外で、なにか損をしたような心持になった。おそらく、この映画が「懐かしい時代」とあまりに結びつきすぎていたためであろう。
ならば『富士』はどうなんだろうと思ったりもしたが、やはり怖くて読み返せないでいる。
とはいうものの、ひょっとすると「素晴らしき日々」なんかにちっとも関わっていそうにもないから今まで通り“一等”のままかもしれないという想像もふくらむ。
東大で支那文学を、そして終戦を上海でむかえた、もと赤(左翼運動家)で、坊主。日本人離れという言辞が、世界水準からみてどのようなポテンシャルであるのかそんなことはこの際どうでもいいが、次から次に発表するその小説、『快楽』が、『蝮のすえ』が、『風媒花』が、『森と湖のまつり』が、『ひかりごけ』が、『貴族の階段』が、『わが子キリスト』が、度し難く島国離れしている。
戦後の日本(昭和)文学は“ラディカル(根底的)”であり、誰にも似ていなかったと、そう言わしめてしまう圧倒的な豊穣さのそのどてっぱらに常時君臨していたのが、この特異で掴みどころのない知性である。
泰淳を知らない? 読んだことがない??
それは本当にご愁傷様としか謂いようがない。
教えてくれ。あなた方は一体全体なにを読んできたんだ。
眠っていたのか。目を覚ませ。顔を上げろ。顎を引け。そして見ろ。
生きているのがはずかしいという苦しみは、もう致命的で自分も他人も
どうする事も出来ない。このどうする事も出来ない苦しみにとりつかれ
ると、人は時たま徹底的に大きな事を考えたくなるらしい。 『司馬遷』
言葉とは鈍器である。
昏倒し野晒しのまま人は朽ち果て、歴史に踏み躙られるしかない。
『富士』。
それは、
精神病院を舞台にした自意識から世界全体へと反転せんとする物語の大塊である。