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  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2004.9
  • 出版社: 平凡社
  • サイズ:21cm/334p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-256-80157-4
  • 国内送料無料

紙の本

入唐求法巡礼行記 オンデマンド 1 (ワイド版東洋文庫)

著者 円仁 (著),足立 喜六 (訳注),塩入 良道 (補注)

入唐求法巡礼行記 オンデマンド 1 (ワイド版東洋文庫)

税込 3,960 36pt

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評価内訳

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紙の本

最後の遣唐使僧@真理を求める天台僧の凄まじい求法活動

2005/08/01 23:36

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:良書普及人 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 最後の使節となった承和の遣唐使の一行に参加した円仁の難行苦行の自筆日記であり、昔の高僧の真実を求める知的探求心の凄まじさを思い知らされる本です。
 円仁は、「平安初期の天台宗の僧で、慈覚大師とも呼ばれる。15歳で比叡山延暦寺にのぼり、最澄に師事。838年(承和5)入唐、847年(承和14)に560巻あまりの経典をもって帰国。その後は第3代の天台座主となり、天台密教の基礎を築いた」という高僧。
 円仁は当初、藤原常嗣率いる遣唐史使節に参加したものの、唐に滞在して「求法」の動機から単独行動をとりました。日記の中には、唐の役所の公文書を記録し、宿泊施設、交通地理、経済、官庁の機構、行事、唐の寺院生活、仏教儀礼、仏教界、廃仏の実態などを細かく観察し、9世紀の中国に関する第一級史料となっています。因みに元駐日大使ライシャワー氏は本書の英訳と研究によって博士号を取得したとのこと。
 以下、この巡礼行記の非常に簡単な要約です。
・838年6月、博多で遣唐使船に乗船。7月、殆ど難破しかけ、命からがら長江の北岸の東梁豊村に上陸。この地方の大都市揚州に赴き、天台山行きとを願い出るものの勅許が得られず、開元寺に逗留。翌839年2月、一名のみ台州行きが許され、円仁らは帰国命令。しかし円仁は希望を捨てず、大使が出発した後も弟子4名で山東半島に移り、新羅僧と身分を偽わり、天台山行きの機会をうかがう。
・この間、天台山ではなく五台山であれば可能性があるという示唆を受け、840年2月に至り、登州文登県の役人が通行手形を発行。
・5月、五台山の中心地、竹林寺に到着。五台山に2ケ月ほど滞在のあと、長安に出立。8月長安入り。この後の2年余りが円仁にとっては求法に最も専念できた時期。
・842年に至り、時の皇帝「武宗」が、道教に執心、仏教、マニ教の徹底的な排斥に乗り出した。僧尼条流(処置)の詔勅が発出され、僧侶の還俗命令、寺院の廃棄が大規模に行わた。寺院の財産は没収、都の僧だけで3000人以上が還俗させられた。もはや「求法」できる環境ではなくなった。外国留学僧までもが拘禁状態となるに至った。
・845年、円仁も日本への帰国を命ぜられ、5月、長安を出立。揚州を経由で登州文登県に至った。日本行き船は滅多になく、2年経った847年に至り、漸く日本行きの船を見つけ、9月、赤山浦を発し、博多に上陸、10年弱ぶりの帰国。
 9世紀の当時、海を渡る航海術は未熟で、まさに命がけの渡航であった上に、唐の時代の混乱期に遭遇し、「求法」の環境は、実に厳しいものでした。気力、体力、能力、胆力が兼ね備わっていないと実現できない偉業だと、ただただ感心の一言に尽きます。
 苦難の末に手に入れた天台宗教典は、その後の日本仏教の発展に寄与したことは間違いありませんが、それ以上に、この円仁の「巡礼」の事実は、日本の歴史に燦然と残っています。結果よりもそれを獲得しようとする努力の有り様が貴重だということなのかも知れません。

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