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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2006.6
- 出版社: 同時代社
- サイズ:22cm/569,14p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-88683-568-6
- 国内送料無料
紙の本
裏切られた台湾
著者 ジョージ・H.カー (著),蕭 成美 (訳),川平 朝清 (監修)
1945年の日本敗戦直後、大陸からやってきた軍隊によって台湾人の希望は無残に踏みにじられた。歴史の闇に消えた無念の抵抗者たちの群像を鮮やかに描く、「2.28事件」の悲劇の...
裏切られた台湾
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商品説明
1945年の日本敗戦直後、大陸からやってきた軍隊によって台湾人の希望は無残に踏みにじられた。歴史の闇に消えた無念の抵抗者たちの群像を鮮やかに描く、「2.28事件」の悲劇の全貌の記録。台湾問題の原点はここにある!【「TRC MARC」の商品解説】
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2024/02/10 19:34
投稿元:
台湾人であれば必読の書。戦後、日本が台湾から撤退し、以下にしてそこにあった社会が大陸から来た中国人に、たった数年で破壊されていったかが描かれている。社会の公正さというものが如何に重要であるかがわかる。また228事件に至るまでの流れ、大小さまざまな台湾人の怒りを買うような出来事がこれでもかと描かれている。さらにそのような状況下においても、忍耐強い台湾人達が蒋介石が台湾に来てくれたら、米国が統治してくれたらと自身達が暴発しないように耐え忍びながらまともなリーダーの到来を待っているのが痛々しい。
228事件に関し、大まかに理解はしていたが、ここまで詳細に書かれていたものは読んでいなかったのと、台湾人があまりに忍耐強く秩序を保ちながら状況の打破を願っていた話を読むと痛々しくて仕方がない。とくに事件に至る経緯が書かれている章は緊張感が半端なく、また戦後のサポートとして入った国際機関や著者の居た米国領事館は、あくまで相手政府を交渉相手としているため、台湾人が暴力的に統治されていく様を助けられなかったことへの苦悩も見受けられる。
米国人筆者ほど外国人として台湾への強い想いを持っていた人はいないかもしれないと思わせる一方、アメリカがどう動いたかで場合によっては沖縄のような運命を辿る可能性もあったことが窺える。
訳者の後書きの最後にある言葉が著者の想いを代弁しているようにおもう:”本書は「良心の人」カール先生の台湾への愛情を顕影する意味だけではなく、李登輝元総統(台北高校卒業生)がようやく実現した民主台湾の礎となった人々ー「二•二八事件」とその後の弾圧によって犠牲になった人々への《鎮魂の書》でもある。”
2019年に香港で起きた混乱と非常に類似した流れが見られ、当時より大きな混乱をより大きな暴力で押さえつけたという見方もできそうである。
P.34
日本の軍首脳部はそれまでよく台湾のことを「南方への飛び石」とか、「動かぬ航空母艦」と呼んでいた。五十年の開発・発展の結果、台湾は期待されていた役割を演じる時が来ていたのである。日本のこのような遠大な計画にたいして、マッカーサー大賞は台湾に面したルソン島の北端のアパリというところにレーデーステーションを一つ設置しただけであった。その上あの運命の日、皮肉にもこのレーダーを動いていなかった。
P.37
中継駐在のアメリカG・2代表は台湾に関する情報提供を中国政府に要請した。間も無く我々の要請に応えて、中国政府から、危機を冒して台湾に潜入脱出した中国情報員の観察による最近の台湾島内情勢報告が、然るべき筋を通して我々に送られてきた。もちろんこの報告に何らいかがわしいものはなく、国民党軍の何千という将軍の中の何人かが認可して差し出されたものであった。
しかし、この報告は直ちに大陸の中国人が台湾のことを全く知らないということ、彼等が台湾に何らの関心も持っていないということを暴露した。同時に、同盟国の中国高級将校はいわゆる「無知な」アメリカ人にいい加減な敵情報告をすることを少しも躊躇しないということを我々は知らされた。我々が何も知らないと思って、彼等は我々が知りたそうなことを自分で勝手に想像してでっち上げ、それを教えてくれたわけだ。それに「面子」の手前、彼等は台湾の近況に関する情報が皆無であることを認めることが出来なかった。
P.40
一九四三年末の中国側報告には「台湾から中国に帰ったばかりの人」の観察によれば、基隆港は空っぽで停泊の船舶も全くなかったとのことであったが、我が方の情報分析では基隆港には毎週平均四十八隻の船舶が停泊していた。これらの船は危険を冒して南方に広がった前線の派遣軍への軍需物資を運び、日本内地に食料品を輸送していた。(中略)我々は重慶から台湾の指導者や中国に亡命している台湾人に関する長い報告を受け取った。この報告は謝南光という亡命台湾人が作成したものであった。(中略)謝は一九二〇年代台湾で警察の圧迫がひどくなり、特に若いインテリに対して風当たりが強くなった頃台湾を出た。戦時中、謝は重慶で何とかしてアメリカの後押しで占領後の台湾に帰り重要な地位につけるよう、画策していた。
故に彼は将来ライバルとなる可能性のある、台湾で尊敬を受けている台湾自治運動の指導者達には「親日派」だとか「共産主義者」だというレッテルを張った報告をしてきた。(中略)アメリカの研究によって明らかになり発表された台湾の富の総計と、二千人以上のアメリカ官員を以てする占領後の台湾の司政計画は、重慶にいた蒋介石一族及び少数の高官、特に外交部の宋子文(宋美玲の弟)や行政部長の孫科(宋美玲の姉の継子)等の関心を強く喚起したらしく、台湾の新しい支配者は自分であると名乗りだし、台湾の支配を中国に変更するよう、要求が激しくなってきた。同時に琉球諸島も彼等のものであると主張しだしてきていた。
中国側情報は前述のようになかなか面白かったが少しも役に立たなかった。それに、我々が騙されやすく出来ているということを、我々の同盟国がよく知っていたということを知らされことは決して愉快なことではなかった。事実、我々はよく騙された。何にしても我々が重慶に照会したことと我々がワシントンで準備した報告は、戦後も長く尾を引くことになる。
P.44
一九四二年の初期、私は台湾の戦後の処分についていくつかの可能性を列挙した覚書を書いた。その可能性の一つとして、私は台湾が何らかの形式で国際管理になることを提唱した。そして台湾南部に治安監視の基地を作り、台湾の豊富な資源を戦後の復興に使用する案を出した。さらに、中国が二つの明白な理由により、台湾を独占管理することが不可能であることを指摘した。第一に中国はこの複雑な経済社会を管理出来る行政官や技術者を持ち合わせていなかったこと、第二に「中国の呪い」といわれている宋子文一族、孔祥熙一族、蒋介石一族を始め中国軍部と国民党幹部によって、台湾は思う存分利用され搾取される危険が非常に大きかったからである。
P.49
国務省の上層部はアジアにおける種々の米中問題は中国が如何なる政治形態にせよ強力な中央政府を作り、その下で全中国が統一されるまで解決できないものと考えていた。(中略)国務省内の主な中国専門家の中国問題の扱い方や考え方は、救いようのない「宣教師的な」ものであることが判明した。中国人は決して過ちを犯すことがないとこの人達は信じていた。(中略)���本統治下の台湾の近代化やその結果による発展を、中国人に破壊されないように防がなければならないと、私が強調すればするほど、それを「帝国主義」として非難する彼等の執念深さが強まるだけであった。(中略)決定的な議論は人口統計を人種問題に集中された。台湾人の中国人の子孫である。しかも台湾人はたったの五百万ではないか。(中略)台湾人の悲劇は彼等が大陸からあまり遠くに離れていないために、大陸からの干渉を逃れ永久に大陸から分離することが出来なかった所にあった。この島は当時独立するには小さすぎると考えられ、かといって無視するには大きすぎた、あまりに富んでいた。
P.60(一九四四年)
蒋介石はアメリカがアジアに対して関心が足りないといって文句を言っていたのでルーズベルト大統領はその非難を否定するため、太平洋方面の前線を視察することに決めた。蒋介石はさらに軍需物資と金がもっとほしいと催促していたが、連合国軍が困難を重ねてヒマラヤ山脈を超えて送り届けた補給物資を全然戦争の目的に使っていないということがあまりにもはっきりしていた。我が国は蒋介石に「連合国中国方面軍最高司令官」というもったいぶった肩書きを与えておだてあげ、世界四大強国の一国の元首に祭り上げてやったが、彼には中国大陸を占領していた日本軍と戦う意志が全くないということがだんだん我々に判ってきていた。彼の目的はアメリカが太平洋方面から日本を攻略し日本を降伏させる時が来るまでぐずぐず時を稼ぐことであった。それにもかかわらず軍事援助や経済援助だけはいくら呉れてやっても未だ足らないといって要求を繰り返し、全く見えすいた脅迫をしてくるのであった。
P.62
我が方と蒋介石の関係は悪化した。蒋介石の逃げ口上となっていた「奥地抗戦」は、全く意味のないことであったことを暴露した。彼の熱烈な支持者でさえも、蒋の武将としての器ではないということを弁護するのに頗る困却していた位だった。「奥地抗戦とは、ただ逃げて逃げまくって敵の方でも追いかけるのも嫌になるほど逃げるということである」と皮肉った人もいた。
P.65
一九四五年七月二六日、ポスダム宣言の最後通牒が発せられた。八月六日には広島に原子爆弾がおとされた。ここでスターリンは日本に宣戦布告することは極めて安全であるだけでなく相当な儲けになると考えたに違いなく、八月九日ソ連軍はソ満国境を超えて満州になだれ込んだ。日本の無条件降伏に先立つこと五日間の、この皮肉にして悪質な「宣戦布告」は日本人に新たなソ連憎悪とソ連恐怖をうえつけ、日本人は未だかつてないほどソ連に強い不信を抱くに至ったが、ソ連はこの五日間の参戦でルーズベルトが彼等にくれてやると約束した北方領土を得る権利を得ただけでなく、その後の日本帝国の運命を決定する色々な会議や評議会に列席する資格を取ったのであった。
P.66
アメリカ合衆国は神の名に誓って領土的野心を全然持っていないと宣言していたが、北部太平洋のすべての島々、特に小笠原諸島や琉球諸島の信託統治することを考えていた。中国は満州国(ソ連に持っていかれた財産だけでも二十億ドルの値うちがあった)と近代化された外国租界を取り戻したが、中国の景品の中でも台湾という景品がもっと���素晴らしかった。
P.69
台湾問題は、今日現存しているように一九四四年にちゃんと存在していたのである。結局、彼等の過ちによって辿らなければならなかった道は当時予想されていた筋書き通りとなった。台湾は何百年もの間中国大陸から非難して来た中国人が定住していたが、何世紀もの間この島は大陸から隔離され、辺境として独立していた。一八九五年には中国から簡単に日本に割譲された。五十年もの間、日本は社会の発展、経済開発に力を注いだ。台湾は繁栄し、台湾人の生活水準は中国大陸のどの省の人々よりもはるかに高くなった。台湾人指導者は中国に頼ることなく西欧に依存していた。分離主義者は伝統的にはウッドロー・ウィルソンの十四項目と少数民族自決の原則を基礎にした形態と指導を与えられていた。教育の高い青年達は厳しい日本の植民地政策に耐えられず外国に飛び出していったが、保守派穏健主義派指導者達―主として新しく出現した中産地主階級の人達―は台湾に残って台湾の自治運動に精を出し、この運動を通じて彼等は、日本帝国の枠内で地方自治が許されるように耐えず日本政府に強く要求して来た。この運動の成果は遅々として進まなかったが、それでも日本の敗戦が近づいてきた頃には相当に進展していた。
P.70
蒋介石はどの面から見ても如何なる標準で測っても、ひとかどの武将といえる柄ではなかったが、彼は国民党の指導者であり、少なくとも外観だけでも組織を持っていた。(中略)一九四四年の駐華アメリカ大使(クラーレンス・ガウス氏)は、中国問題や中国人のやり口を熟知してした中国通の生え抜きの外交官であった。その上大使の周りには優秀な若い職業外交官が沢山いた。これ等の外交官は自由自在に中国語を操り、中国諸省の色々な問題に精通していた。中国の政治変動を欲する点に関して彼等の意見は一致していたわけではなかったが、アメリカの政策や権益を托すのに蒋介石は全く頼りにならない男だという点では彼等の意見は一致していた。
P.79
一九四五年の夏当時、国民党にとって台湾は全く清浄な場所であった。三民主義や新生活運動が、国民党独裁全体主義の無能、腐敗、汚職と残忍性をごまかすための空っぽなスローガンばかりでないということを証明する、またとない機会が到来したのである。台湾は豊かで秩序治安が保たれ近代化していた。そこには共産主義もなく国民党に対抗する反対党もなかった。五十年間の勤勉と努力によって日本は、秩序正しく比較的正直な政府をもって臨めば、中国のどの省でも近代化を実現できるということをここで証明した。日本の業績はキリスト教宣教師の指導もなしに達成された。その過程で個人に対する考慮が払われなかったという事実はあったとしても、経済的発展や社会的な進歩という事実は、宣教師達と彼等のアメリカ合衆国にいる支持者達が一世紀もの間中国大陸において実現しようと夢みた事柄に外ならなかった。
P.86(陳儀による「必然的国家社会主義」について)
国家社会主義というものは、中央の官吏を満足させる最小額を国庫に支払うだけで、後は地方の行政者のポケットの中に流し込むように設計された複雑な省専売組織であった。陳儀が後に台湾で施行したやり口は福建で既に実証済みで完成して���た。そしてこのやり口が台湾人を憤激させ暴動に駆り立てたのであった。陳儀は在任中福建省を組織的に略奪した。怒った学生達は示威し暴動は繰り返し繰り返し起こった。これ等の学生に対処するのに、陳儀はいささかの躊躇も慈悲もなかった。陳儀が福建省で学生達を殺害したり拷問にかけた方法の残忍さは、残忍を以って知られる中国でもレコード破りだったといわれている。
P.90
一九四五年八月十五日、日本の天皇はラジオ放送で日本臣民に「忍び難きを忍んで」、敗北を受け入れ、連合国進駐軍の命に従い協力することを求めた。
台湾人は興奮と期待をもってこの放送を聞いた。日本の市民は畏敬と後悔をもって聞いたが、その中にはやはりある種の解放感が混じっていた。
P.114
台湾人はうす汚れた規律のない中国国民軍に対する嫌悪を隠そうとしなかった。台湾に上陸したアメリカのGI達は極めて対照的な存在であった。中国から来た連中はアメリカのGIが米軍士官同様、台湾人達の間に人気があるのを毎日目のあたりに見せつけられた。台湾人は自分達の好き嫌いを少しも隠そうとせず素直に示した。一方アメリカ軍の軍人は自分達が船や飛行機で運んで来た屑のような中国兵を明らかに侮蔑し、兵器で略奪するこの屑のような兵隊どもに対処せねばならなかった台湾人や日本人に同情した。
当然国民党側は怒った。面子をつぶされることは彼等にとって耐えられないことであった。(中略)不幸にして米軍顧問団の高級将校は中国人の「面子」に対する執着を理解することができなかったし、またしようともしなかった。
P.119
何人かの日本夫人が路上で待ち伏せされて殺害された。しかし殺人の目的は窃盗でも強姦でもなかった。台湾人達は日本人が戦争に負けて敗者になったことに対しては喜んだが、このような殺人事件のあまりにもひどい残忍性に皆衝撃を受けた。台湾人の一般社会のあいだには日本人に対する悪質な反感がなかったことは私はよく知っていた。
P.131
台湾人の「光復」に対する熱狂と喜びが続いたのは六週間に過ぎなかった。国民党の兵隊や陳儀を肥えた豚にたとえて風刺したポスターがあちこちに現れた。事実、陳儀という男は背が低く丸々と肥え、三百眼と大きな顎を持ち漫画にされるのに格好な風体をしていた。「犬去りて豚来る」という有名な言葉が台北市のあちこちの壁に貼られ、人々の日常会話の口にのぼったのもこの頃のことであった。「犬と陰口を言われた日本人は少なくとも生命財産を守ってくれた」。
P.131
当時国民党軍の兵士に対する死球は年額米ドルにして三十三ドルに相当した。(中略)ところが中国人が来たおかげで起こったすさまじいインフレのために、一ヶ月の給金で一日分の食糧も買えなくなるほど貨幣の価値が下落してしまった。初めから軍紀が全くなかった上に十分な食糧を与えられれず、そして十分な手当をもらっていなかった兵士が戦争で崩れた建物の中に入ってめぼしい物をかすめ取ったり、番人のいない私人の財産を盗んだりした原因は充分にあり、別にそんなに驚くことはなかったかもしれない。中国大陸で彼等は自活することを要求されていたので、台湾へ来ても同じように略奪窃盗をしながら自分を養うことを期待されていた。��して台湾ではそれを極めて当然のようにやったに過ぎない。
彼等の収穫ははなはだ良かったが、この不潔で無恥な中国兵に比べてずっときちんとして、生活程度が高く、近代化されていた台湾人は彼等を嘲笑し軽蔑した。兵隊の大部分は中国大陸の奥地から狩り出されて来た者で舗装された道路を見たこともなく、進歩した交通や通信等は彼等の想像を超えるものであったし、台湾人の日常生活に長い間染み込んでしまっていたごく簡単な機械的装置でさえ彼等にとっては大変な驚きであった。盗んだ自転車を肩に担いで買い手や物々交換の相手を探していた兵隊がよく眼についた。彼等は自転車の乗り方も使い方も知らなかったわけであった。
P.140
公衆の前で面子を失ったのである。こういう種類の事件が台湾の何処でも頻繁に起こった。長い間、中国人は「時代に遅れた異教徒」を近代的にしてくれようとする西洋人の尊大な優越感に耐えていた。しかし台湾では彼等は自分達と同じ皮膚の色をした同種族の人間、しかも自分達よりも下等な化外の民に侮辱されていたのだ。私はこの問題がその後に起こった台湾の状態を証明するのに重要な鍵の一つであると思っている。
P.145
台湾の製糖業は中でも最も進んでいた。一九三九年台湾は百四十万トンの砂糖を生産した。一九四七年中国政府の手に渡ってから始めて生産された砂糖はたったの三万トンであった。この生産量は一八九五年以降の日本政府の近代工業化導入以前の生産量とほとんど等しく、この一事をもってしも中国人の手にわたった後、台湾の経済が如何なる運命をたどるか歴然としていた。
P.156
一九四五年の晩秋には党の威信は既に地に落ち党は新聞の社説の鋭い批判に晒され始めていた。
これは当然彼等の面子を潰すこととなり、党のスポークスマンと政府の御用新聞は怒りを込めて、台湾人が長い間の日本統治のために堕落して「真の愛国心」を欠き、他省から来た同胞を故意に差別していると反撃した。
P.179
一九三七年の物価指数を一〇〇としてそれを基準にアンラやアメリカ領事館で作成された商品価格指数を見るとよく判る。一九四五年十一月には食糧指数は三,三二三に騰がり、一九四七年の一月にはさらに二一,〇五八となった。建築材料は森林の伐採が再開され、セメント製造、煉瓦製造が再び盛んになり、日本人の帰国によって沢山の住宅が空き、建築の除妖精があまり高くなかったにも関わらず物価指数は九四九から一三,六一二に跳ね上がった。
台湾島内の生産が再開されていた上に中国の友好国がアンラを通じて何万トンという肥料を提供していたにも関わらず、化学肥料を渇望していた百姓は肥料の物価指数が終戦当時の一三九から一九四七年一月には三七,五六〇に高騰したのを見た。
失業問題も厳重な問題であった。生産事業に関わっていた工場は戦前には四万から五万の従業員を使っていた。終戦十四ヶ月後その従業員は五千人以下になっていた。(中略)従業員は都市の生活費の冒頭に対処していくことができなかった。一九四六年の末頃には多くの台湾人失業者が故郷の農村に帰って農業の手助けをし始めていた。(中略)上海から来た男女が前例のないような贅沢をしていた反面で、台湾に未だかつてなかった新しい現���として、ボロをまとった乞食が珍しくなくなってしまった。
P.182(一九四六年)
陸海軍部にいた以前の私の同僚は、皆熱心に台湾の実情について討論したがっていたが、国務省のいわゆる「中国優先専門家」の中にはその反対の者がいた。(中略)台湾で起こっていた問題は、たとえ事実であってもなくても取り上げないで放っておけばそのうちに消えてなくなるだろうという、口には出さない考えと希望が国務省に充満していた。仮に問題が起こってもそれは、単に現地の二つの中国人のグループの関係の悪化にすぎず、ワシントンのアメリカ政府が深刻に取り上げるような問題ではなかった。
P.183
私は長々と次のような自分の意見を述べた。
a 日本は連合国に台湾の引き渡したのであって中国にだけ引き渡したのではない。
b 将来連合国が監視基地として必要とするかもしれない台湾に関する法的権利を初めから放棄しているのは間違いである。
c アメリカ政府は解放された台湾人が正当な取り扱いを受け、基本的人権を保障されているかどうか確かめる道義的な責任があるにもかかわらずそれを怠っている。
私の手から書類が取り上げられ、「外送」の篭の中にほうりこまれ、件の役人は「まあ、それはそうだが、どうにもならんことだ・・・」と答えた。
P189
公式にはアメリカ領事館は、台湾に在住していた多国籍の人々の問題は、アメリカ合衆国の関知しないことであるという立場をとった。一九四〇年にはそれで良かったかもしれなかった。しかし一九四六年、マッカーサー将軍は在台日本人の大量の送還を指令していた。その中に一万四千九百六人の沖縄人が含まれていた。(中略)全体の約三分の一が沖縄に送還された後、マッカーサーから残りの沖縄人は台湾に残留させるようにという新しい命令が来た。ひどく戦禍を受けた沖縄は、これ以上彼等を収容することが出来ないのであった。
P.205
実情は必ずしも「良い外国人と台湾人」対「悪い中国人」という具合にはっきり黒白がついていたわけではなかった。シンラの中にも人格的に立派な中国人がいた。しかしその数は少なく、彼等の存在は大勢に影響を与えることが出来なかった。台湾での仕事が本当に建設的に見えたので台湾にやってきた人達もいた。アンラ-シンラ事業が集結した時にこの人達は自分達が完全に敗北したことを認めざるを得なかった。
台湾人にしても皆がみな狼の中の無邪気な羊であったわけではなかった。陳儀の一味と結託して不正を働けば物凄く儲かるということを知ってそれを実行した連中も大勢いた(批判するよりも強力した方が安全であった)。
P.210
アンラのチームは、復興プログラム行政のあらゆる面で不正、ペテンが行われているのを目撃した。台湾が戦争による疲弊から復興する基本的な機会が無駄にされ、台湾人の生活水準が中国大陸並みに下落していくのを外国人達は腹立だしく見守るより他なかった。
P.231
日本が台湾に残した最も大きな貢献の一つは社会の安寧であった。警察の支配は時に過酷に過ぎ、台湾人と支配者である日本人の利権が衝突した場合、法律の適用はしばしば不公平であったが、その如何に関わらず、法制度の確立は経済発展と社会の進歩に必要な地盤を提供した。(中略)一九世紀の混乱と不安定は秩序正しい進歩がとって変わった。政府転覆や反乱の問題さえ起こさなければ台湾人は個人の生命財産を保障され、彼等はそれを享受することが出来た。法廷の権威は尊重され、市民の公訴権は認められていた。
もしも一人の台湾人が法廷で一人の日本人と争った場合(町角の警察発出所で口論しても同様)裁判の公正な天秤はしばしば平衡を失ったが、正常な田舎の生活ではすべての人間が法律による保障を受けていた。
P.250
中央政府に対する信頼はなかなか消えなかった。台湾人は彼等の問題はあくまで地方的なものであり、もしも蒋介石が台湾の事情に気づくことが出来たら、この状態を是正するであろうと思いたかった。一九四六年に入っても彼等は依然として蒋介石に対して誠実であり、「新中国」の将来を信じていた。
P.287
一月三日政府機関氏「新生報」は「台湾には過去の日本の強い抑圧のため、政治的、行政的な人材が非常に不足している」と述べ、台湾人はもっと謙虚になって、大陸からわざわざ来た指導者に導いてもらって民主主義的の色々な方法を習わなければならないと教訓をたれた。
P.309(228事件発生直後)
道を行く中国人は「おまえは芋か?豚か?」と尋問されるようになった。そして正しい返事が直ぐに出てこないと追い回され、時には殴られた。
P.313
中国人の性格の一つの特徴は自分さえ良ければいい、早い者勝ちだという点である。この場合、女や事務員が後から遅れて逃げて来たが先に領事館に着いた者が自分だけ門内に入るや否や自分の仲間を締め出そうと領事館の門を閉めようとした。結局一番遅れた者は塀を乗り越えて入って来たが、その時街路上の民衆の誰かがその者を狙って石を投げた。
P.328
台湾のあちこちに色々な目的で散らばっていたアンラの職員によって収集された、この週の事件の目撃報告が多数残っている。(中略)戦時中あるいは戦後にアメリカ政府が海外に向けて宣伝した民主主義の原則を、当時の台湾人が実現させようとした驚くべき努力を我々は目撃した。もしあの時、台湾人が一九世紀の彼等の祖先が振る舞ったように行動したら、台湾人は中国人を台湾島から一掃してしまうことが出来た。当時台湾に駐屯していた中国軍を、台湾人は圧倒しようと思えば簡単に圧倒することが出来た。彼等は大陸から来た中国人の大虐殺をやろうと思えば簡単に出来た筈だった。
しかし、台湾人はそれを実行しなかった。その代わり既存の政治機構を改革しようと努力した。
P.356(三月の虐殺に関して)
ある著名人は驚きを顔にあらわして私にこう言った。
「私は一九三七年、あの悪名高い日本人の南京虐殺を目撃したが、これはまさにそれ以上にひどい。南京の虐殺強姦は戦争の産物であり、荒んだ戦争の野蛮性の爆発したものと解釈出来るが、今度のことは全く理由になる口実もない。国民党が自分の同胞に対して極めて冷酷に仕組んだ計画的な復讐行為であるというほかない」
国民党政府はこの三月の大虐殺を世界に知って貰いたくなかった。卓越した国民党の官僚はその後、この虐殺の話が共産党の悪宣伝による創作にあるとなすりつけたが、島の至る所に外国人目撃���や承認がいたことを忘れていた。
P.363
台湾人は我々に助けを求めていた。我々は国民党に武器を与え、経済援助をしていた。そして国民党は、台湾人のアメリカ合衆国に対する訴えや「民主主義」に対するアピールを2度とおこなさないように、そうした動きを完全に消滅させようと出来る限りの努力をしていた。
P.393
ひたすら中国の平和と国家の復興を願っていた無党派の一人の中国人エンジニアの見解を例にひこう。(中略)「あなたは多くの中国知識人が米国の蒋一味に対する援助が中国人民の苦痛を長引かせている一番大きな原因だと考えていることをご承知の筈だ・・・」と彼は書いていた。しかし台湾を信託統治することに関しては彼は強烈に反対であった。
一般の中国人はそういう解決は不当だと考えている。・・・台湾は歴史的にも民族的にも中国と繋がっている。故にアメリカ自身が支持している政府が腐敗しているからという理由で台湾を中国から切り離すことは二重に間違っている。〔彼は陳儀を蒋政権の一味と考えている〕・・・私は過去において台湾人が日本の教育と宣伝によって我々から離れていった事実を自分の目で見て来た。我々との離間がひどくなって、一九四一年頃には、大陸に渡って来た日本軍の中に混じっていた台湾人を見分けることができなくなっていた。戦後、平和が訪れても未だ時間が短く、台湾人は再認識するに至っていない。ここでもし台湾がアメリカの信託統治下に置かれることになれば、台湾人はますます我々から遠ざかってしまう。そして我々の間の離間は永久となり、二度と回復することがないだろう。
P.402
台湾は思考の上でもまた習慣の上でも古い中国に戻りつつあった。台湾の商人はもはや性格な会計帳簿を維持することが出来なくなっていた。移住して来た中国人は台湾人が慣れ親しんで来た「定価制度」を受け付けなかったからである。同じ一つの商品が商人の能力次第で同じ日に十人の客に十の異なった値段で売られるようになったからである。商品につけられた値札はもはや何ら意味も持たず、在庫品を調べて損得を推算することが出来なくなった。色々な人かをもらったり、特別な計らいをしてもらったり、また安全に商売が出来るようにと軍、党、政府に絞られる貢ぎ物には際限がなかった。
P.435(台湾に来た中国人について)
既に二百万人の中国人が台湾に入り込んでいた。この数字は自ら選択して台湾に渡って来た者だけでなく、命令で連れて来られた兵士も含んでいる(彼等は何も知らされず、輸送船に追い込まれ、台湾の海岸に運ばれて来た)。
戦闘の波が押し寄せて来る前に逃げて来た一般避難民の大部分も同様、あまり選択の余地はなかった。彼等は台湾や台湾人に対して好感をもっていなかった。昔から大陸の中国人は台湾の荒れ果てた蛮地としか見ておらず、本当の中国人が先祖代々の墳墓の地を離れて、自分の骨を埋めたり、先祖の位牌を移して行くべき所ではなかった。さらに悪いことに台湾人は日本教育の汚染を受け、中国人に対して強い敵意を持っているということを知らされていた。
P.482
終戦後二十年の間、私は台北やワシントンで台湾問題に関わったたくさんのアメリカ人と話しあった。これらの会話を通じて��が印象づけられたことは、我々アメリカ人があまりにも自信過剰になりすぎていたことであった。そのため我々は蒋が喜んで我々の傀儡になると思い込んだり、あるいは彼がアメリカ合衆国の好意と軍事援助に非常に依存しているため、危機の時に不本意かも知れないが我々の言いなりになる「龍」だと勝手に思い込んで自己満足していたことであった。