電子書籍
ラフにまとめてみましたよ。
2015/11/21 00:56
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投稿者:朝に道を聞かば夕に死すとも。かなり。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
西ヨーロッパは案外、社会民主主義政党が多いです。左派を支持するのが必ずしも社会主義革命応援ではないから、っていう意識が国民にあります。
フランスは社会全体に関わる領域においては、個人や民間の自由が制限されるもので、平等主義だからこそ、自由を制限することに積極的なんです。ときには公権力が介入して自由を制限していい。
60年代、日本共産党がソビエト共産党と「たもとを分かった」ってしていますが、マルクス主義に立脚していた過去があるもんだから、私たちおじさんには、いまだに記憶があるから何を言っても「どうせ、やるやる詐欺なんだろ?」っていう受け止め方。
63年にこの国の統一地方選挙で大阪や横浜、北九州で左派市長が誕生します。でもその革新自治体がやったのが「バラマキ福祉」。高度経済成長で拡大した富に寄生していたから「高負担・高福祉型」じゃなくて、富が拡大したから内的格差を埋めた、っていう資本主義拡大ありきのものでした。
で、日本の左派はその後も「高福祉・高負担型の平等化政策」を訴えず、ひたすら消費税反対を叫んでいたとのことです。政府の上からの社会介入によってしか成り立たない福祉国家なんだけど、「市民の力」がどうこう言いだした。
フランスは平等主義だから特定の政策を訴える団体を自主的に組織するだけの力を持つ人間がいるのは、政治的に不平等と考えます。ロビイストとか嫌なんです。
わたしたちが、かりに100円の税金を支払ったら、100円の公的サービスが提供されるわけじゃない。これは筆者も「商業経営の論理」と言います。もともとは福祉のお金は「自分が世話になるかもしれないから、社会全体のために使っておくれ」っていうお金です。
もし、商業経営論理でいくなら、自分の個別サービスの分だけ民間業者に頼むというやり方になります。税金とか社会保険とかは不自由だけど、不平等ももたらします「市民じゃなくて、お客様」ってやつです。
全ての国民が私的幸福を求めるのなら政府は不要だし、官僚や公はたんに邪魔です。社会全体を守るための不自由は、どれくらい貧乏になったら「これはまずいな」って思うかはわかりません。「高福祉の受益者で助かったわぁ」てな人が自分に近ければ近いほど実感は高まると思います。
フランス革命はもともと封建領主たちを嫌っていた王と市民が一緒になって領主たちを弱らせ、市民が「王もいらなくね?」ってことでギロチンにかけます。
絶対王政の遺産は残っていて、中央集権国家の伝統はありました。で、国を作って気づくのです。「あれ?俺らの国、3分の1しかフランス語、話せなくね?」って。そこで全ての国民が単一の中央政府の下で暮らす同胞という資格において、全ての国民が、同じ言語で、同じ歴史を持っている仲間という前提でものごとが動いていきます。
人工的な同化政策で地域間の格差や異質性を縮める同化政策が開始されます。国家と国民の義務関係は相互です。ある日、問題が起きました。高度成長期に人が足りなくなって自由主義的な労働力を、ってことで移民の人たちが大集合します。
もともと定収入だったら一家の働き手は多い方がいい、ってことで、彼らは「まとまって」住みはじめました。しかし、失業率が増えると、家にいる多くの働き手だった人が被扶養者に代わります。
差別的な意味あいで異文化に不寛容じゃない。同化主義と平等主義は双子です。2004年にイスラムの女の子が頭にかぶるフラールっていう頭巾については、公的な領域に宗教色や民族色を持ち込むのは許されない、家でやりなさい、そんなの、と着用禁止を改めて明確化します。
紙の本
日本という国に欠けたジグソーパズルのピースをはめてくれる本
2006/11/09 23:35
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本とフランスという2つの民主国家を比較対照して、今の日本に何が欠けているのかを実証的に教えてくれる本である。読み終わった後に、「ためになった」と思わせてくれるよい本だと思う。フランスといえば、だれもが知る国なので、いまさら新しく学ぶこともないだろう、と思っていたら大間違いであった。
著者はフランスにも生活しながら、実感として知るフランスの実像を描き出してくれる。そういえば、2005年の秋に北アフリカからの移民2世,3世を中心とした若者たちが、フランスの国中で騒乱を起こしている、と日本で報道されて驚いた覚えがある。フランスまでもが、国内にそれほど大きな移民問題を抱えているとは、思いもよらなかったからだ。ただし、この日本における報道も必ずしも正確ではなかったことを著者に教えられて、もう一度驚くこととなる。
さて、本書が論述する中心的な事項は、自由主義対平等主義のことである。日本では、自由と平等とは同じくくりに入れて扱われている。しかしながら、フランスをはじめとする欧米諸国では、自由を重んじる立場と平等を重んじる立場は、政治的には対立するものだという。
自由を重視し、なるべく規制をなくして、小さな政府を指向するのが自由主義。個人の能力が表面化するので、ここからは勝ち組と負け組が生じるが、これも自由を重んじるが故に必然的に生じることとされる。一方の平等主義は、自由をある程度制限してでも、人と人の間の格差を小さくしようと指向するものである。
政治的には、自由主義を右派と言い、平等主義を左派と言う。日本では、右派と左派の違いが正しく了解されておらず、平等主義を重んずるべき左派の政治勢力が衰退してしまっていると憂える。ヨーロッパでは、著者の定義づける左派勢力は健在であるどころか、むしろ優位にあるというのだ。
確かに、自由と平等とは、どちらに力点を置くかで、異なった結果を生ずる。したがって、日本にも2つの政治勢力があっていいはずである。日本でも自民党と民主党が、2大政党制を目指しているが、この2つの政党の違いが分かりにくいきらいがあったが、本書を読んで、その理由がよく分かった。
日本の場合、結局与党である自民党が、その内部に、自由を重んじる姿勢と平等を重んじる姿勢を共存させており、そのために民主党は、政党としての輪郭をクリアにし損ねているのである。
つまり、日本人は、自由主義か平等主義か、あるいは右派か左派かという選択肢をもっておらず、損をしていることになる。著者は、日本も左派というものを正しく理解し、政治勢力として一定の場を確保することを提唱している。
それにしても、フランスの自由か平等かをめぐるつばぜり合いはすさまじい。日本では迷惑がられるだけのストライキでさえも、この2つをめぐる争いとして済まされるのだという。ストがあるというのは健全な批判精神の現れだということになる。
2005年秋の移民2世、3世の騒乱もそういう文脈で理解すれば、突飛なことではないことになる。また、国中が焼き討ちにあっているかのような報道は、日本の報道機関の脚色のせいであるという。フランスでは、あれは非暴力的な抗議活動であったとして、冷静に受け止められていたというのだ。
著者の、いかにも「みなさんはこういうことも知らなかったでしょう」というような書きぶりには、やや抵抗を覚えるときもあるが、本書の全体的な内容の面白さの前には、ご愛嬌として、受け流して読み進められるといいと思う。
紙の本
自分の視点としての自由と平等
2011/01/26 14:30
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Genpyon - この投稿者のレビュー一覧を見る
自由と平等を対立する政治的選択という概念で捉え、この視点から現代の政治状況を冷静に分析してみせてくれる本著。豊富な事例を掲げ、なるほど、と思わせられる点が多い。
『日本とフランス 二つの民主主義』というタイトルだが、著者は、アメリカとフランスを「自由の民主主義」と「平等の民主主義」の典型として提示する。選挙においては、自由と平等の間で政治的選択が行われるべきであるにもかかわらず、日本では、そもそも平等という選択肢がないまま、新自由主義という名のアメリカ化が進んでいく現状を問題視している。
日本では、いずれの政党もが自由と平等の両方の主張を混然と内在させており、政党Aと政党Bを選択することはあっても、自由と平等を選択することにはなっていない、と著者は主張しているようだ。
しかし、各々の政党内では、自由と平等が競っているはずで、たとえば小泉首相の郵政解散のように、選挙とまったく無関係というわけでもない。あの時、国民はアメリカの自由を選択したのだ。
とはいうものの、日本の場合、この対立軸がわかりにくい。マスコミは、意図的にわかりにくくしているのではないかと思えるほど、情緒的な報道に終始してしまう。何を選択したかわからないまま、アメリカの自由を選択させられた人も多いのではないのだろうか。
こういった状況だからこそ、本著が説く「自由と平等の選択」という視点は、自分が何を選択しているのかを理解するための一つの視点として、ますます重要なものとなってくると思う。
投稿元:
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フランスの社会のしくみと日本の社会のしくみが対比されていて、戦後左翼の自由主義への標榜が、まったく間違った方向に進んでいってしまった事が良く分る。自由平等は民主主義の目指す基本だが、それは対立する観念であり、左翼は平等と国家主義であることを論理的には目指すものだと力説されている。フランスの現状のみならず、政治の基本用語の実情がフランスを例にして具体的に分りやすく述べられている。以下引用。
フランス革命と国家統一
それでも、12世紀の後半に入ると、新たに台頭してきた市民層(商業ブルジョワジ⊥と
結びつくことによって、国王の支配力は急速に高まってゆく。規制緩和と市場統合を求め、
土着的な束縛や地方分割を嫌悪した商人たちの利害は、王権の強化による国内統一と一元管理とを目指す国王の目的と表していた。そこで、商人たちは、王権を支持し、その庇護を獲得するため、国王にカネを大量に貴いだのだ。その結果、商業の発達と貨幣経済の進行の中で金策に苦しむ地方領主たちを尻目に、商人層と結託した国王ばかりに富が集中し始める。農民からの年貢を基本的な収入源とする封建領主たちが現金を手に入れることに苦労し、商業化の波に次第に対応できなくなる一方、国王だけは商人からの政治献金で潤うという次第である。
やがて、地方の封建領主たちは没落し、国王の支配圏が拡大してゆく。ついには、147
7年にはブルゴーニュ公国、1532年にはブルターニュ公国が、それぞれフランス王国に
併合され、王権による国内統宗実現される0さらに、アンリ4世の即位T589年)に
よって誕生したブルボン王朝が絶対王政の基礎を確立し、1643年に即位したルイ14世の
時代には、王権の支配力がピークに達することになる。
この時点で、首都の政府が全国を一律に統治するという中央集権体制が成立し、一つの国民に一つの国家という国民国家の原型が形作られたのである。それでも、当時のフランス国民なるものは、単に一つの国家に所属する人間の寄せ集めでしかなかった。地域の壁に加えて、身分の違いが人々を分断していたのである。
ともあれ、国王の勝利は、市民層の勝利でもあった。しかし、国内市場が統合され、地方
領主による土着的束縛から解放されてしまうと、市民層にとって最も邪魔な存在は、国王だということになる。もう共通の敵 (=地方領主) はいない。となると、国王にヘイコラする理由も、カネを貢ぐ理由もない。
かくして、1789年7月14日に始まるフランス革命が起こったのだ。王政を排して共和
制を樹立し (1792年)、国王の首をギロチンでチョン斬り (1793年)、多くの紆余曲
折を伴いながらも、「自由・平等・博愛」を旨とする共和国がその第一歩を踏み出したので
ある。
革命によって成立したフランス共和国は、絶対王政の遺産を継承した中央集権国家であつた。だからこそ、すべての国民が、単一の中央政府の下に暮らす同胞という資格において、平等で均質的な存在だと位置づけられたのである。もちろん、身分制も廃止された。フランス革命は、この単一身分の同質的な国民集団が、君主に代わって主権者の地位に就く過程に他ならなかったのである。
自由な議論に基づく議会制民主主義にしても、すべての国民が同じ国家に所属し、同じ身分であり、同じ言語を持ち、同じ歴史を共有する仲間なのだという前提に基づいて成立した制度なのだ。要するに、同じ国民なのだから、殺し合わずとも話し合えば共存できるという理屈である。逆に言えば、一国内の民主主義は、全国民の同等性と統一性を前提とするということなのである。
ただし、共通の法、言語、文化、伝統を共有する人々の分布に応じて国境線を引くという理屈は簡単でも、現実の民族分布はそれほど単純ではなかった0たとえば、どこまでがドイツで、どこまでがフランスなのかを具体的に決めることは、非常に困難だったのである。
だから、国民国家の基礎となる民族意識が国境問題に結びつくと、それが戦争の火種になってしまう。実際、20世紀のヨーロッパでも、民族と国境を巡る争いが繰り返されてきたのである。
ちなみに、フランス革命を主導した共和主義市民たちが敵視したのは、絶対王政だけではなかった。宗教勢力、具体的にはカトリック(=旧教)教会もまた、単一の権力による一律統治を阻害する旧体制的要素として敵視されたのだ。
だが、 共和主義老と教会との願いは、絶対王政との闘いよりも長く続くことになる。地方では宗教の影響力が強く、教会と妥協せずして国民をまとめることができなかったからである。実際、1848年の憲法前文にさえ、「神の前で」という一語が付記されているのだ。最終的に、フランスの国家権力が教会勢力からの離脱に成功したのは、ようやく1905年になってのことであった。
日仏両国の右派の源流
ここで、フランスと日本を少し比較してみよう。日本の右派の源流は、明治維新の際に王政復古を呼びかけた藩閥政府である。逆に、今日のフランス右派の源流は、革命によって王政を打倒した共和主義者たちなのだ。
すでに絶対王政によって国民国家の素地ができ上がっていたフランスに対して、日本の場合、近代国民国家の建設のためには、まず全国を統合する中心的存在を必要としていた。だからこそ、明治政府は、近代化を目指しながら王政復古を呼びかけるという、いささか矛盾した行動に出なければならなかったのだ。日本は、天皇を中心とした統一国家だというわけである。
ともあれ、この歴史的経緯の違いから、日本では、右派=君主制支持という図式が成り立ってしまった。しかし、その善悪は別として、この図式は、必ずしも世界共通の認識ではないのである。
中央集権体制≠非民主的
いずれにせよ、中央集権体制が非民主的であるという考え方は、大いなる誤解だと言わざるを得ない。王政を打破したフランス革命は、中央集権体制があつたからこそ、民主主義を志向することができたのである。
この場合、自由と並んで、平等もまた民主主義の基本要素にならざるを得ない0中央政府は、国土を均質な空間として差をつけずに扱い、国民を同質的存在として差をつけずに扱うというわけである。逆に、宗教や民族や地域性に基づいて国民を分断するような行為は、非常に厳しく制限されていた。実際、フランス革命直後は、市民団体の結成さえも禁止されていたのである。現憲法もまた、自国を「���割しえない共和国」と定義している0
明治維新期の日本の場合、近代化を進めるにしても民主化を進めるにしても、まずは国内の統言均質化が不可欠であり、それがために、君主を中心とする中央集権体制が打ち立てられたのである。
言わば、明治維新期の日本は、絶対王政と近代国民国家が遅れながら同時にやってきたよ
ぅな状況であつた。この一種ゴチヤ混ぜ状態の経験が、戦後になって、君主中心=戦前=中央集権=反動的といった、何とも奇妙な誤解を生んでしまったと思われるのである。
もちろん、フランス革命は、農民層や都市庶民層による実力行使に支えられて実現したとはいえ、その中心的な担い手は、経済的自由を求める市民(ブルジョワ) 層であつた。だから、この時点では、フランスにおいても特に経済面ではまだまだ自由民主主義の勢
力が強かった。
それでも、民主主義を中央集権体制の下で推進しようとしたことだけは事実だし、1789年のフランス人権宣言第一条が「法律上の平等」を明記し、同一国家に所属する同質的な人間の普遍的平等を志向していたこともまた、事実なのである。
同国民≠同人種
しかしながら、フランス革命当時は、国民の同質性など、まだまだ机上の空論であった。
当時フランス国民とされた人間の約3分の1は、フランス語さえ話せなかったのだ。共通の法、言語、文化、伝統を共有するフランス国民なるものは、中央政府の同化政策によって、事後的に、かつ人工的に形成されてゆくことになる。
中央集権体制≠非民主的
いずれにせよ、中央集権体制が非民主的であるという考え方は、大いなる誤解だと言わざるを得ない。王政を打破したフランス革命は、中央集権体制があつたからこそ、民主主義を志向することができたのである。
この場合、自由と並んで、平等もまた民主主義の基本要素にならざるを得ない。中央政府は、国土を均質な空間として差をつけずに扱い、国民を同質的存在として差をつけずに扱うというわけである。逆に、宗教や民族や地域性に基づいて国民を分断するような行為は、非常に厳しく制限されていた。実際、フランス革命直後は、市民団体の結成さえも禁止されていたのである。現憲法もまた、自国を「分割しえない共和国」と定義している。
明治維新期の日本の場合、近代化を進めるにしても民主化を進めるにしても、まずは国内の統言均質化が不可欠であり、それがために、君主を中心とする中央集権体制が打ち立てられたのである。言わば、明治維新期の日本は、絶対王政と近代国民国家が遅れながら同時にやってきたような状況であつた。この一種ゴチヤ混ぜ状態の経験が、戦後になって、君主中心=戦前=中央集権=反動的といった、何とも奇妙な誤解を生んでしまったと思われるのである。
もちろん、フランス革命は、農民層や都市庶民層による実力行使に支えられて実現したとはいえ、その中心的な担い手は、経済的自由を求める市民(ブルジョワ) 層であつた。だから、この時点では、フランスにおいても特に経済面ではまだまだ自由民主主義の勢力が強かった。
それでも、民主主義を中央集権体制の下で推進しようとしたことだけは事実だし、1789年のフランス人権宣言第一条が「法律上の平等」を明記し、同一国家に所属する同質的な人間の普遍的平等を志向していたこともまた、事実なのである。
同国民≠同人種
しかしながら、フランス革命当時は、国民の同質性など、まだまだ机上の空論であった。
当時フランス国民とされた人間の約3分の1は、フランス語さえ話せなかったのだ。共通の法、言語、文化、伝統を共有するフランス国民なるものは、中央政府の同化政策によって、事後的に、かつ人工的に形成されてゆくことになる。
社会民主主義の寵生=愛国主義の強調
国家が個人の幸福を実現するための手段でしかないのなら、愛国心など不要である。しかし、国民の間に社会的連帯を求めるのであれば、何らかの形の愛国心を前提とせざるを得ない。愛国心の重視自体は、特に右翼的な主張でもなければ、軍国主義的に直結する思想でもないのだ。
むしろ、民主主義が自由主義から解放され、国家的支配に対する個人の自由ではなく、国家的支配に各個人が参加することが求められるようになったとき、社会民主主義的な愛国心が登場してくるのである。
ここで、フランスという国家が愛国心をいかに規定し、愛国心と民主主義をいかに共存させようとしてきたのかを、二月革命後に制定された1948年憲法の前文を参考に考えてみたい。
たしかに、二月革命によって成立した第二共和政自体は、ブルジョワ (市民) 階級、プチブル (小市民) 階級、労働者階級のギクシヤクした三者関係によって、非常に不安定なものであつた。それでも、1948年憲法には、自由民主主義から社会民主主義への移行の出発点が垣間見られる。
右の憲法前文に書かれている内容を要約すれば、国民は祖国を愛する義務があり、国家は自国民を愛す義務があり、同様のことは他国や他国民にも認められるということになる。自国民に強い愛国心を義務づけ、国家全体に対する奉仕を義務づけるがゆえに、またそうであるからこそ、国家には国民を保護する義務が生じ、国民の生活の保障者となる義務が生じるのだ。
ここでは、国家と国民の義務関係が、相互的なものとして規定されている。その場合、国家は、「国民=被支配者」 に対する支配者でもなければ、「国民=お客様」 に対するサービス業者でもないのである。
愛国心≠軍国主義
フランスの1848年憲法は、民主主義を自由主義から解放する契機を体現している。そ
こには、「国家的支配からの自由=民主主義」という保守的な図式から、「民主主義=国家的支配への国民参加」という図式への移行が見受けられるのである。その精神は、「民主的かつ社会的な共和国」を謳う現フランス憲法の源流を成していると言えるであろう。なお、この場合、全国民が参加して作る官や公こそが、民主主義の担い手となるのである。
さらに、この1848年憲法では、自分たちに祖国を守る権利があり、祖国を保持する権
利があると主張するからこそ、他国民にも同様の権利を認めるという論法が展開されている。
逆に言えば、自分たちが愛国心を持たずして、他国民の愛国心を尊重することなどできないという考え方である。その結果、軍事的には、一種の専守防衛論が展開されることになる。
要するに、自衛のための戦争を行う権利は主張する���、征服のための戦争は放棄するという結論に達するのだ。
となると、愛国心を軍国主義や帝国主義と混同することほど、非論理的な誤解はないことになる。愛国心、国家への奉仕義務、征服戦争の放棄、民主主義、国家が国民の守護者たる義務、これらの項目は、少なくとも論理的に考える限り、相互に矛盾するものではないのである。ただし、この論理をどう運用し、どう善用し、どう悪用するのかは、大きな問題であるに違いない。
いずれにせよ、愛国心があるのなら軍拡路線を容認せよという主張もバカげていれば、軍国主義に反対するならば愛国心をも否定せよという主張もまた、同じくらいバカげている。
昔、鶴田浩二さんが真理を突いていましたよね。
「右を向いても左を見ても馬鹿と阿呆の絡み合い」 (藤田まさと作詞)。
徴兵制賛成=左派的主張
フランスでは、2001年に徴兵制が廃止された01995年の大統領選挙に当選した右派のシラク大統領が、翌年2月に「国防改革計画」を発表し、その中で、徴兵制の廃止と段階的な職業軍人制への移行を宣言したのである。なお、大統領選挙の際、社会党のジョスパ
ン候補は、徴兵制廃止に否定的であった。
ともあれ、1997年2月、右派が多数派を占める国民議会は、正式に徴兵制の廃止を可
決したのである0この際も、社会党や共産党などの左派政党は、反対票を投じている。もちろん、徴兵制に反対ではなく、徴兵制廃止に反対である。
右派が徴兵制廃止を主張した理由は、かなり単純なものであった。ハイテク兵器の取り扱いやテロ対策への対応などを考えた場合、適性も希望も無視して頭数だけを集めた軍隊では訓練コストがかかり過ぎ、しかも結局は上手く対応できないと判断したのだ。
この点に関しては、左派も認めざるを得ない。それでも、左派政党が徴兵制にこだわったのは、国防を、国民全員が平等に担うべき任務だと考えたからである。
この論理は、アメリカの場合と比較すればよく分かる02005年8月12日付の『朝日新聞』朝刊紙上で、「非暴力資料センター」 のボブ・フイツチ氏という人が、ブッシュ政権の
徴兵政策について、左記のように批判しているので、紹介しておこう。
ブッシュ大統領は昨年の選挙で 「徴兵制は導入しない」と約束した。「皆さんの子どもは戦場に送らない」という中産階級に向けたメッセージだったと思う。だれが戦争に行くのか。状況を一番よく言い表す言葉は 「貧乏人の徴兵制」だ。進学や就職などの選択肢がなく、金と仕事に因っている若者が標的になる。
これは、金持ちがカネ(税金)を出して兵隊を雇うという図式である。フランスの左派は、それを嫌った。国民軍は、出身地、出身階級、宗教、民族などを超えたすべてのフランス国民によって、共通の祖国を守る集団として組織されねばならないというわけである。要するに、すべての国民の平等と、平等な国民としての国家統合を求めたのだ。
この論法は、フランス左派だけのものではない。イタリアでも、共産党は徴兵制廃止に反対していたはずである。
しかし、民主主義社会では、平等な個人による選挙で選ばれた国民の代表者が行使する国家権力にこそ、最高の正当性が与えられなければならない。しかも、左派��力が国家主義を非難することは、大いなる自己矛盾だとさえ言える。それは、ある意味で、非常に奇妙な主張なのだ。
と言うのは、社会主義や共産主義の理念は、すべての個人の平等を保障するための集権的国家体制の建設であって、言わば国家主義的平等主義とでも呼ぶべきものだからである。そこでは、国家と平等が並立して重視される一方、自由は軽視されるのだ。国家による上からの指導によって平等を実現するために、信教の自由や言論の自由を制限するのが、本来の社会主義や共産主義の考え方なのである。
にもかかわらず、日本の左派勢力は、穏健な社会民主主義ではなく、「社会主義革命の達
成を歴史的使命とする」 (日本社会党) などと言いながら、国家主導主義や中央集権制を非難し、逆にコミュニティー主義や住民運動に基づく行政を奨励してきたのだ。
これでは、社会主義も共産主義もまったく成り立たない。そもそも、生産手段の私的所有を排してゆくのであれば、国家をはじめとする官や公を中心に据えざるを得ないはずなのである。
個人主義=反コミュニティー主義
たしかに、自由主義的傾向の強いアメリカでは、自分たちの自由を求めて作った各種コミュニティー(共同体) に対して、官や公が不当に介入しないことが伝統であり、それが民主主義だとされている。だが、平等主義的傾向の強いフランスは、各種コミュニティーに 「分割しえない共和国」 (憲法第一条) だと自国を定義づけ、何人種であれ何教徒であれ、すべての国民が個人として同一国家の一員であることを前提としているのである。
言い換えれば、アメリカは、各々の仲間で作ったコミュニティーが干渉されることなく自由に生きていける国であることを目指しており、フランスという国は、国民が仲間同士のコミュニティーに分断されることなく、全員が個人として所属するソサエティー(社会) であることを目指しているということになろう。コミュニティーが仲間集団であるのに対して、ソサエティーを構成するのは、赤の他人同士の個人である。そうであるからこそ、フランスでは、赤の他人同士が、一つの共和国の下で、社会(ソサエティー) の一員として連帯する精神が求められるのである。
実際、個人主義的な考え方が強いと言われるフランスでは、社会的(ソシアル)な連帯と愛国心とが、ほとんど矛盾することなく同居してきたし、現に同居している。そこでは、個人主義や平等主義と同じく、国家や愛国心という言葉もまた、非常に肯定的に捉えられる傾向があるのだ。
だから、祖国のために犠牲になった戦没兵士を国家が責任を持って追悼することは、常識中の常識である。ただし、首相や大統領が特定の宗教施設を「公式」に参拝することはない。
大統領が聖書に手を置いて宣誓するなど、もってのほかである。信教の自由もまた、私的な領域だけに限定されるからである。
そして、愛国心は「愛政府心」ではない。むしろ、フランスでは、愛国者であればあるほど、国家を見る目が厳しいのだ。自分たちの「素晴らしい国(beaupays)」を汚す政権は、
断じて作らせまいというわけである。
いずれにせよ、少なくともフランスを見る限り、愛国心は、社会的連帯を基礎づけてき���重要な要素の一つであって、必ずしも個人主義や左派的平等主義と矛盾するものではない。
個人主義とは、非人種主義であり、非コミュニティー主義であり、非所属宗教主義であって、すべての国民が特定のグループごとに分割されることなく、個人という資格において平等なフランス国民であるという主張なのである。
逆に、人種や宗教や身分などによってグループ分けされるような社会は、非個人主義=所属集団主義であり、全体の連帯を阻害するものだと見なされる。全個人が等しく所属する国家を最重要祝するからこそ、全国民が平等な社会を構成しうると考えるのである。
国家主義≠軍国主義
当然のことながら、国家中心主義と自国中心主義とを混同してはならない。国民的連帯は、国際的連帯と対立するものではないのである。そもそも、自国内にさえ連帯の土壌がなければ、国際的な連帯もへったくれもないだろう。八紘一宇の連帯心を欠く平等主義など、あり得ない話なのだ。
逆に、自由主義的傾向が強くなりすぎる方が、国際協調を無視した一国行動主義に結びつきやすいとも考えられる。競争原理が強くなりすぎると、共存原理が軽視されてしまうからである。
また、国家中心主義をファシズムや軍国主義を同列視することも正しくない。たとえば、現フランス右派の源流は、反ナチス、反ファシズムを貫くためにロンドンに逃れて 「自由フランス国民委員会」を組織(1940年)したシヤルル・ド・ゴール将軍に求められるのである。
彼は、しばしばフランス国家について語り、国民の愛国心を高揚させた一種の国家主義者と言えるのだが、同時に、反ファシズムの闘士なのだ。2002年に再選された右派のシラ
ク大統領もまた、ド・ゴール主義者として知られている。周知のとおり、シラク大統領は、
ドイツ社会民主党のシユレイダー首相とともに、アメリカ軍によるイラク侵攻 (2003
年) に猛反対した人物である。
第二次世界大戦期にイギリスを治めたウインストン・チャーチル首相 (在職1940年〜
45年)もまた、筋金入りの保守主義者であったが、それ以上に、反ファシズム、反ヒトラ
ーの鬼であつた。その前任者のネヴイル・チェンバレン首相 (在職1937年〜40年) に
しても、保守党党首であったが、戦争回避に奔走した政治家で、軍国主義とはほど遠い思想の持ち主であつた。
イギリスでも、保守的であることとファシズムや軍国主義を支持することとは、まったく別の問題なのである。
さらにさかのぼれば、フランス右派の祖先は、大革命によって王政を終わらせた共和主義者たちであった。この点、日本の右派の源流が、明治維新によって王政復古を呼びかけた専王派であつたことに比べて、非常に対照的なのである。
君主制支持≠右派
何にせよ、フランスでは、右派がファシズムや王政復古などに結びつけられているわけではない。そもそも、ヨーロッパでは、伝統的に社会主義傾向が強い国々の多くに、立憲君主国が含まれている。スウェーデン王国やノルウェー王国などは、その典型例であろう。
つまり、左派政権が君主制と結びつくのは特に奇異なことではなく、君主制を支持するからといって右派だというわけでもなく、君主制��維持を望むからといって 「小さな政府」の支持者になる必然性もないのである。
多くのヨーロッパ諸国では、民主主義と君主制が特に問題なく同居している。スウェーデンやノルウェーだけでなく、イギリスもオランダもベルギーもデンマークもスペインも君主国なのである。
特に、スペインは、王制によって民主化された国だ。ファシストとして知られるフランコ将軍の独裁後、スペインの民主化を進めたのは、1975年に即位したファン・カルロス?世国王であつた。国王主導の民主化政策によって、1977年、スペインで41年ぶりの選挙が実施されたのである。
アジアを見ても、カンボジアの人は、得体の知れない自称共産主義政権の下に置かれるよりも、シアヌーク殿下の治世の下で暮らし続けていた方が、よほど幸福であったに違いない。
もちろん、ここで君主制自体のよし悪しを論じているのではない。ただ、民主主義政体と君主制の有無とは別問題だと言いたいだけである。おそらく、君主制の有無ではなく、そのあり方が重要なのであろう。
「連帯」と個人主義
フランス共和国の伝統的モットーは、よく知られている通り、「自由、平等、博愛」 (憲法第2条)である。この三原則は、1789年の大革命当時から、何ら変更されていない。
しかしながら、今日のフランス社会を実際に基礎づけている原則は、「連帯」
であるように思える。
その一方で、フランスは個人主義の国だと言われている。事実、フランスでは、「親子は
他人の始まり」と言われるほど、個人主義的な傾向が強い。一見したところ、社会的連帯という原則と、個人主義的傾向は、矛盾しているようにも感じられるだろう。
しかし、愛国心、君主制、中央集権といった要素が、必ずしも民主主義と矛盾するものではないのと同様、個人主義と社会的連帯もまた、相矛盾するものではない。社会的連帯は、同じ社会 (ソサエティー) に暮らす赤の他人同士が、個人として協力し合うことを意味し、共同体(コミュニティー) 的な仲間関係に基づく協力ではないのである。
言い換えれば、特定の集団や組織への所属を抜きにして、全員が「個人としての資格で協力し合うことが連帯なのである。ともあれ、現代のフランスではいかに連帯という価値が重視されているか、それを示す例を一つ挙げよう。
2005年5月、フランスでは、ヨーロッパ憲法条約の批准の可茶Hを問う国民投票が行わ
れ、否決派が完勝した。その際、否決派の代表的なスローガンが、「連帯的で社会福祉的な
ヨーロッパを」というものだったのである。
たとえば、一般医師組合などは、投票後、「自由主義のヨーロッパではなく、社会福祉的なヨーロッパを」との声明を出し、否決派の勝利を祝福していたのである。
敗れた可決派にしても、皆が必ずしも自由主義に賛同していたわけではなく、否決派が槍玉に挙げた 「域内の〃自由〃で公正な競争」 (ヨーロッパ単一議定書、1987年) という文言を、社会政策重視の大前提の枠内に限定して捉えるべきだという理屈を述べる者も多かつた。要するに、前提が社会政策重視の連帯主義だから賛成したのだというわけである。
ソシアルな連帯≠コミュニティー的共闘
では���フランスで主張されているソシアルな連帯の本質とは、いったい何なのであろうか。
細かい点は敢えて無視して、簡単なたとえ話で説明しよう。
ある村の田畑は、その毎年の収穫によって、100人分の生活を充分に満たすことができるとしよう。この場合、村の定員は何人だろうか。100人を養うだけの収穫があるのだから、村の定員は100人だと考えることもできよう。田畑からの収穫を、村人の生活を満たすためのものだと考えれば、当然、そのような答えになる。
だが、別の論理も成り立つ。同じだけの収穫をあげるのに、何人の人間が必要なのかを考えることである。となると、もし仮に同じだけの収穫高を50人の労働で満たすことができるのであれば、村の定員は50人だという答えになる。田畑からの収穫を利潤獲得の手段だと見なせば、当然、そうなるのだ。
極めて大ざっぱに言えば、現在の日本は、定員100人制から、定員50人制へと移行しつつあるように感える。おぞらく、経済のグロー.バル化の中で、これは世界的な趨勢なのであろう。
ともあれ、一企業の定員なら、余った50人はリストラすればよいということで片づく。
だが、社会の定員ならどうであろうか。あるいは、世界全体で見ればどうであろうか。余った50%の人間を、この世の中からリストラするのであろうか。どうするか。われわれの選択肢は、大きく分けて、二つある。ここでも、話を分かりやすくするため、両極端の例を挙げよう。
一つは、自由主義的な発想である。すべての個人は、自分の利益を最大限にするために行
動する自由があるという考え方である。となると、他人が飢えようとも死のうとも、自分だけは何としても勝ち組に入るために争うという選択肢が選ばれることになる。同じだけの富を100人で分けるより、50人で分けた方が1人当たりの取り分は多いに決まっている。
だから、もし自分が勝ち組に入るのならば、全員平等の世の中よりもずっと得だという勘定になろう。そして、個人は自分の勝ち組入りを目指し、企業は自社の勝ち組入りを目指し、国家は自国の勝ち組入りを目指すというわけである。
ただし、この選択の下では、ある一定数の負け組が必ず生まれ、自分がそこに入らないという保証もない。自分の子や孫がそこに入る可能性もある。あるいは、自分の暮らす国全体が負け組みになってしまう可能性だってあるのだ。
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中学時代から自由については考える機会が多い。自由はそれに伴う責任があるわけで、それをどれだけ受け入れられるかにもよる。筆者は(文中では否定しているが)とても平等主義に考えがよっている気がする。
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右左を始めとして様々な政治「イズム」ジャーゴンの意味が各国で違うことを検証整理。民主主義のタイプを「米国型自由」と「仏型平等」の2つに大きく分け、仏の建国理念からくる愛国心と普遍主義の強固な結びつきを紹介しつつ、平等観念の薄い日本の現状と左派の破綻迷走による政治的無力を叱咤する。
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ヨーロッパでの左と右、日本での左と右というのがまるで違っていること、ヨーロッパの民主主義と日本の民主主義って言うのは違うってこと、民主主義は一つじゃないんだよ。
日本とフランスを特に比較して論じるわけではないが、民主主義を学ぶためにはおもしろいものであるし、フランスの民主主義が何を目指しているのか、歴史的に理解するためには大変面白い本ではある。
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[ 内容 ]
自由を求めて不平等になる国と、平等を求めて不自由になる国。
[ 目次 ]
序章 日本型「自由」偏重民主主義
第1章 “左翼”が消えた日本
第2章 日本型「珍」民主主義とアメリカの影
第3章 日本型自由主義の死角
第4章 フランス型「非自由」民主主義
第5章 フランス型平等主義の限界
第6章 なぜ、フランスはかくも不自由を求めるのか
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民主主義には、自由を重んじるアメリカ型の自由民主主義と平等を重んじるヨーロッパ型の社会民主主義がある。自由主義は地方分権的になり平等主義は中央集権的になる。日本の左派政党は、社民的な主張をしながら地方分権を説いたりして立場がわかりにくい。等々、ざっくりとシンプルに(新書らしく割り切って)話を整理しているのでわかりやすい。やや乱暴な表現も多いが、自分の主張が誤解されないよう気は配っている。日本にもヨーロッパのような社会民主主義政党という選択肢がほしい、という著者の気持ちがありありと伝わってくる。
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アメリカ型「自由」フランス型「平等」
自由主義⇒保守である
米国では宗教的自由求める
日本型 小さな政府⇒官から民
=自分の権利と自分の自由
フランスは不自由を求める?
米国は個・フランスは連携
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日本とフランスとのことだが、その媒体としてのアメリカも絡めての民主主義、保守化、リベラルのあり方について読みやすく書かれていてためになった。
共和という、あまり日本では聞かれない言葉についても例をあげて説明してあり、けっこう理解がしやすかった。
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【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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日本型自由偏重民主主義:憲法前文ー自由→平和主義 憲法が保障しない平等 左翼が消えた日本:左翼健在のヨーロッパ ソ連解体≠世界的左派衰退 左派≠教条的共産主義 左派=平等主義=自由の制限 右派自由主義vs左派平等主義 日本型珍民主主義:右派=保守=反動的=統制主義 左派=革新=進歩的=自由主義 日本型自由主義の死角:小さな政府が増税 顧客主義の代償 仏型非自由民主主義:中央集権体制≠非民主的 同国民≠同人種 神・アメリカ人 国家・フランス人 仏型平等主義の限界:同化主義 なぜフランスは不自由を求めるのか