サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

e-hon連携キャンペーン ~5/31

  1. hontoトップ
  2. 本の通販
  3. 新書・選書・ブックレットの通販
  4. 新書の通販
  5. 洋泉社の通販
  6. 二十歳にして心朽ちたり 遠藤麟一朗と『世代』の人々の通販

「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。

電子書籍化お知らせメール

商品が電子書籍化すると、メールでお知らせする機能です。
「メールを登録する」ボタンを押して登録完了です。
キャンセルをご希望の場合は、同じ場所から「メール登録を解除する」を押してください。

電子書籍化したら知らせてほしい

  • みんなの評価 5つ星のうち 5 1件
  • あなたの評価 評価して"My本棚"に追加 評価ありがとうございます。×
  • カテゴリ:一般
  • 発行年月:2007.11
  • 出版社: 洋泉社
  • サイズ:18cm/369p
  • 利用対象:一般
  • ISBN:978-4-86248-164-1
新書

紙の本

二十歳にして心朽ちたり 遠藤麟一朗と『世代』の人々 (MC新書)

著者 粕谷 一希 (著)

昭和21年夏、学生たちが創り上げた総合雑誌『世代』の伝説の初代編集長・エンリンこと遠藤麟一朗。著者自らの青春の構造を確認すべく、青春の前景にあった彼の姿を辿る。〔新潮社 ...

もっと見る

二十歳にして心朽ちたり 遠藤麟一朗と『世代』の人々 (MC新書)

税込 1,980 18pt

予約購入とは

まだ販売されていない電子書籍の予約ができます。予約すると、販売開始日に自動的に決済されて本が読めます。

  • 商品は販売開始日にダウンロード可能となります。
  • 価格と販売開始日は変更となる可能性があります。
  • ポイント・クーポンはご利用いただけません。
  • 間違えて予約購入しても、予約一覧から簡単にキャンセルができます。
  • honto会員とクレジットカードの登録が必要です。未登録でも、ボタンを押せばスムーズにご案内します。

予約購入について詳しく見る

ワンステップ購入とは

ワンステップ購入とは、ボタンを1回押すだけでカートを通らずに電子書籍を購入できる機能です。

こんな方にオススメ

  • とにかくすぐ読みたい
  • 購入までの手間を省きたい
  • ポイント・クーポンはご利用いただけません。
  • 間違えて購入しても、完了ページもしくは購入履歴詳細から簡単にキャンセルができます。
  • 初めてのご利用でボタンを押すと会員登録(無料)をご案内します。購入する場合はクレジットカード登録までご案内します。

キャンセルについて詳しく見る

このセットに含まれる商品

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

商品説明

昭和21年夏、学生たちが創り上げた総合雑誌『世代』の伝説の初代編集長・エンリンこと遠藤麟一朗。著者自らの青春の構造を確認すべく、青春の前景にあった彼の姿を辿る。〔新潮社 1980年刊の再刊〕【「TRC MARC」の商品解説】

著者紹介

粕谷 一希

略歴
〈粕谷一希〉1930年東京生まれ。東京大学法学部卒業。中央公論社を経て、作家、講演活動などを行う。著書に「鎮魂吉田満とその時代」「戦後思潮」など。

関連キーワード

あわせて読みたい本

この商品に興味のある人は、こんな商品にも興味があります。

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

この著者・アーティストの他の商品

前へ戻る

  • 対象はありません

次に進む

みんなのレビュー1件

みんなの評価5.0

評価内訳

  • 星 5 (1件)
  • 星 4 (0件)
  • 星 3 (0件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)

紙の本

失敗した学校秀才あるいは学歴エリートの末路

2009/03/27 22:22

13人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る

遠藤麟一朗。今では誰も知らない無名の男。こんな男を主人公にした作品が、かつて中央公論で名編集長の名を欲しいままにした粕谷一希のデビュー作品だったとは。実は私は今を去ること29年前、この作品を購入していた。なぜこんな無名の男を主人公にした意味不明の作品を当時学生だった私が購入したのか?それは当時から私が中央公論の愛読者でオピニオンリーダーだった高坂正尭教授や永井陽之助教授、入江明教授と並んで編集者の粕谷氏の名前になじんでいたからと、この「二十歳にして心朽ちたり」というタイトルの力による。これは27歳にて没した中国は長安の秀才李賀が作った漢詩の一節からとったものだ。本の売れ行きは中身とは関係なくタイトルで決まるという。しかし買ったは良いが、陰鬱そうな中身が私を避けさせたのか、購入から29年間、本書は私の書棚の奥底に積読され、今、晴れて通読の運びとなった。きっかけは、愛するオネエさま、高田里惠子教授の著作に本書が引用されていたからだ。「あ、確か、この本、昔かっていたなあ」。読書の基本は身銭を切って買うことにある。書店で手にとって買う以上、その本には私を引き付ける何がしかがある。その何がしかは買った時点では不明で、多くの場合、書店から自宅に帰るまでの間に脳裏から蒸発し去り、買った事で私も安心し、たいていは積読となる。しかし、この手元に置いてあるという事が極めて重要で10年、20年、30年後にふとしたことから猛烈にその本を読みたくなるときが来るのだ。その瞬間に読むことをはじめないと、その時は次の数十年後まで順延されてしまうだろう。

前置きが長くなった。本書は、一世を風靡した、ある伝説の学校秀才あるいは受験エリートの栄光とそのグロテスクな挫折の物語である。遠藤麟一朗は、今で言うお受験ママの手厚い看護の下、番町小学校、府立一中(現東京都立日比谷高校)ときて、日比谷四年生のとき、旧制一高に合格(いわゆる四修組で秀才の証)。一高でも秀才の名を欲しいままにし、東大に進学と当時の超エリートコースを最速で突っ走っていった。しかし、一高東大であれだけ秀才の名声を欲しいままにした遠藤君は、大学も後半になると、あまりに秀才とほめられすぎたのか、己の分際(国家公務員上級職試験、司法試験、名門企業就職試験に受かってナンボの受験秀才に過ぎない学歴エリートの分際)を忘れ、芸術・文化・哲学にのめりこみ、酒と薔薇の日々に埋没し、ついには公務員にはなれず、住友銀行に就職してしまう。そこでドブ板踏んでも頑張る気概を示せば良かったものの組活動に血道をあげて経営層からにらまれ左遷。そこで当時新興企業だったアラビア石油に転職すると砂漠に10年超駐在し、その間に家庭が崩壊。著者は遠藤夫婦の関係がなぜ崩壊したかについて、遠藤氏の浮気、あるいは遠藤氏の男色疑惑について触れているが「それを追求するのが本書の目的ではない」と深入りを避けている。

私は日本の学歴システムというのは非常に良く出来た「良い仕組み」だと思っている。このシステムは身分、門地の区別なく極めて公平、平等に人間を選抜し登用する仕組みである。この公平さは日本全国に知れ渡っていて、だからこそ日本では受験が常に過熱するのである。どんなに勉強しても「お前のような労働者階級や有色人種が、我々のためにつくられたエリート校に、何が楽しくて入ってきたんだ」と不思議がられる欧州のエリート校と日本のエリート校は、その公平さにおいて、そもそも根本的に異なるのである。そして、日本でエリート校に入るために問われるものは「階級文化」とは程遠い客観的な知識の量や計算力である。そこでモノをいうのは家庭文化力よりも地道な本人の努力である。日本でエリートに求められるのは禅宗の修行僧のような真面目さ、粘り強さ、己を空しくしてカリキュラムに向き合う忍耐力なのである(創造性や自己主張能力、プレゼンテーション能力は問われない)。

ただ日本の受験システムには欠点もある。社会の上位に立つ支配階級を、ゼロから客観テストでふるいにかけながら選抜する過程があまりに公平であまりに熾烈なので、何時の間にか、名門中学、名門高校、名門大学とエリートコースを歩む連中を、あたかも「人類の上位5%に属する最高能力者」であるかのような錯覚を与えてしまうのだ。こうなると周囲にとっても本人にとっても不幸なこととなる。日本の学歴の頂点は東京大学で、その中でも法学部と医学部が難関学部として双璧を為している。日本のエリートに求められるのは先にも書いたとおり「己を空しくして定められたカリキュラムを黙々とこなす忍耐力」なのだが、人間そうそう長期間己を空しく出来るものではない。日本の受験戦争はどんどん低年齢化し、昔は公立高校に勢いがあったこともあって高校受験が受験の第一ハードルだったが、サヨクが公立高校(特に首都圏と関西都市部)を潰してしまってからは私立を中心とした中高一貫校に入る中学受験へと低年齢化している。しかし中高一貫校は6年間もある。6年ははっきり言って長い。長すぎる。ここに大きな落とし穴があるのである。日本の学歴エリートは、最終学歴を獲得してはじめてエリート足りうる。その学歴とは東大を筆頭に京都大、一橋大、東京工業大、大阪大くらいであろうか。これらの大学に見事受かってはじめて日本では学歴エリートとなるのである。昔、「サルは木から落ちてもサルだが代議士は選挙落ちればただの人」と大野バンボクは喝破したが、名門エリート中学に合格しても名門大学を落ちればただの人になってしまうし、名門大学に受かっても名門官庁名門企業に受からなければ「ただの人」になってしまうのが日本的システムの真骨頂なのだ。だから最終学歴獲得を経て就職先が確定するまでは、実は日本的学歴システムの中での「学歴エリート」の地位は極めて不安定なものなのだが、若者は往々にして錯覚を犯す。自らの地位が極めて脆弱であることに気がつかず、あたかも己が「人類の上位5%に属する超人」と錯覚し、試験勉強を蔑み、文学だの芸術だのの「教養」に至高の価値を見出す「勘違い君」が出てきてしまうのだ。

諸君、日本のエリートは欧米でいうエリートとは根本的に異なる。世に恒産無ければ恒心なしという。生涯食うに困らない収入がある人々にとって、人生は長い。膨大な時間をもてあますエリートが編み出したのが「教養の追求」と考えると理解が早い。普通の人にとって、人生の目的とは明日の食い扶持を確保することであり、それ以外の目的など考える暇がないものであるが、生涯無為徒食が保障された人々にとっては人生の意味はしばしば深刻な問題となる。そこで生まれたのが哲学だと考えたほうが分かりやすい。だから明日も知れぬ「学歴エリート」予備軍にとって、哲学など無意味な科目のはずだが(それが故に、今では東大でも哲学科の人気は低い)戦前の一時期、旧制高校ではこうした哲学を議論することが真面目に行われるという滑稽な状況があった。エリートとは本来財産の裏づけがあって初めてエリート足りうるが我々はそうではない。ここを忘れると思わぬ四次元空間に迷い込んでしまうのだ。くれぐれもご用心、ご用心。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。