紙の本
日本の中世史を塗り替える驚きの書
2008/11/02 19:08
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る
ずばり歴史ファン向けの本といっていいだろう。著者は、おそらく学会のことを意識しており、通説を否定するような挑戦的な姿勢で執筆に臨んでいる。
それにも関わらず、歴史の専門家向けとせずに、歴史ファン向けとするのは、新書での出版であることと、著者がところどころに見せる茶目っ気のためである。
特に茶目っ気がいい味を出しており、読者を楽しませる。例えば、「境内都市」という表現が適切かどうか、著者も完全には満足していない。そこで、読者にもっとよいネーミングを書中で募集していたりするのだから、型破りだ。
この型破りな気質は、そういう細部だけではなく、本書全体にわたって生きている。「歴史」と言えば、教科書にあるような確定的な事実で固まっていると思うのがふつうだろう。歴史観がゆらぐのは、昭和以降の近現代史ぐらいという受け止め方が多いと思われる。
ところが、著者は「中世」という、はるかに時代を遡る歴史を再構築してしまうのだから驚きである。書名のとおり、中世には「寺社勢力」が力をふるっていたという持論を展開していくのだが、なかなか痛快である。
ほとんどの人は、平安時代は「朝廷」が支配し、鎌倉時代・室町時代は「武士」が政権をうちたて、その後の戦国時代・安土桃山時代も、朝廷の存在はありながら、「武家政権」が続いたという風に、教科書を通じて学んだはずだ。
しかし、著者はこうした時代区分に、まったく新しい見方を持ち込んでみせる。上にあげた時代区分とそぐわないのだから、読みながら戸惑うことしきりである。ただし、その戸惑いは、読者に同時に喜びも与える。
なぜなら、それまでの通説を巧みにひっくり返して、新しい見方を読者の頭に流し込んでくれる快感をともなうものだからである。本書を読み終えて連想が働いたのは、梅原猛の『隠された十字架』である。梅原は法隆寺にまつわる数々の謎を解き明かしながら、読者を知的興奮に導いた。それに近いものを本書に感じたのである。梅原は、史料を駆使しながらも、大胆な仮説や推理を織り交ぜながら論じて見せた。
本書の著者の伊藤は、あくまで史料に依拠する。あまり大胆な推理はしない。史料の欠落を想像力で補うことはあるが、あくまで史料第一主義である。それでも、これだけ確定的な歴史をひっくり返してみせるのだから見事である。
ここでいう史料とは、寺院に残る記録である。朝廷や幕府に残る公式の資料は、時の政権に都合のよいように書かれていたり、そもそも信頼のおけるものがなかったりするので、あまり信を置かない。
歴史の表舞台から離れて存在した寺院の記録の方が、本当のことが書かれているとして、11世紀から16世紀の歴史を再構成していく。そうすると、「寺社勢力」というものが、朝廷や武家政権という中心軸から距離を置きながらも、相当な力を持っていたことが分かってくる。
比叡山延暦寺というと、たいていの人は最澄が開いた天台宗の拠点という認識くらいしかないが、歴史を大きく揺り動かす存在であり続けた。
比叡山は、京の都にいくつかの有力な末寺を持ち(祇園社=今の八坂神社)、朝廷や幕府に圧力をかけることがたびたびあった。というより、時の政権は、武力も経済力も持ち、なおかつ宗教的な意味からも手出しできない領域であった比叡山を決して支配できなかった。そして、これは奈良の興福寺や和歌山の高野山などにもあてはまる。
こうした有力寺院は、いわば境内都市ともいえる機能を発達させていた。今日の神社仏閣のイメージからは、大きくはずれた存在であったことにおどろかされる。ここには政権の警察力も及ばないのであるから、自律的な動きをすることができた。神威を背景にして、内裏に神輿をもって押し掛け、要求を突きつける強訴は当たり前の時代であった。朝廷も警護する武士も及び腰にならざるをえなかった。
著者は有力寺院が力を維持した1070年から1588年までの約500年間を明快に「中世」と定義する。この中世は、教科書で教わる歴史とは、似ても似つかない時代であったことを例証していく。その手さばきは鮮やかというほかない。
1571年に織田信長は比叡山延暦寺を徹底的に焼き討ちにした。そうしなくてはならないほどの力を、当時の有力寺院が持ち合わせていたことを示す好例だ。ここに信長の残酷さを見るというより、「中世」の「寺社勢力」の存在感をみるべきなのだ。信長は存命中、比叡山の再興を許さず、これ以降寺社勢力は衰退していき、やがて「中世」は終わりを遂げる。
本書を閉じるとき、この500年間の歴史を塗り替えて見せた著者に、敬服せずにはいられなかった。
紙の本
中世日本のことながら、現代日本にも十分に共通項を見出せる内容でした。
2008/09/01 21:24
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
長い日本の歴史の中で、複雑で興味がぶれてしまうのが中世史だが、「無縁所」という観点から中世史を見直してみると現代の日本に重なる部分が見えてくる。物価高、狭い住居、長時間の通勤時間を要する都市でありながら、都市に人々が集中する要因を読み解くことができる。都市の資源はヒト、モノ、カネだが、その構成の中心をなすものはヒトである。そのヒトが中世日本の都市、京都に集中していた。
そして、そのヒトの拠り所が「無縁所」だった。
格差社会といわれながら、かつての日本には現代よりもさらに厳格な身分社会が横たわっていた。その厳格な身分社会において、縁を切られた者、切った者が混在しながらも生きていける場所が都市だった。社会的アウトローに分類される人々が中世における都市である京都に集中してきているが、寺社が営む商工業に従事し、なかには比叡山の僧兵という形で武力集団の一員となっている。その武力集団は比叡山の代表として政治に圧力をかけ、反面、比叡山における身分格差に異議を唱える集団でもあった。
そこには宗教による平等思想というものが背景にあるが、現代日本における資源であるヒトは都市という枠のなかにおいて平等思想で守られている。自然の流れとして、窮屈な縁を切ってヒトが都市に集まるが、有形でありながら無形の都市は現代日本における教祖不在の新しい宗教なのかもしれない。
武士による天下統一の以前、織田信長は比叡山の焼き打ちを仕掛けたが、このことは比叡山が既成宗教として社会に変革をもたらす存在ではなく、保守層が利権の確保に利用する場所になったことを打破するためのものだったのかもしれない。
中世における日本史を朝廷、比叡山、高野山、武士という視点で見ていきがちだったが、「無縁所」から読み解いた本書は発想の転換をもたらしてくれた。
この中世日本の姿をみながら、いまだ中東で解決しない民族、宗教紛争の陰にはヒトの権力という欲望が渦巻いていることにもつながっていると思えて仕方がない。
果たして、都市という宗教はこれからの日本をどのように変革するのか、はたまた打倒されるのか、鴨の河原に集ったと同じようにネットカフェ難民が都市に集中する。その混乱のなかから、また新しい何かが生み出されていくのだろう。
なお、読んでいておもしろいなと思ったのは、日本の歴史でありながら全ての歴史的事実の表記が西暦で表わされていることだった。ここに、なにか著者の意図が隠れているのではと思うが、それは次の機会にと楽しみにしている。
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10年4月10日開始
10年4月24日読了
日本の中世は朝廷(貴族)と幕府(武士)の権力争いと認識していた身には目から鱗の本。
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[ 内容 ]
日本文明の大半は中世の寺院にその源を持つ。
最先端の枝術、軍事力、経済力など、中世寺社勢力の強大さは幕府や朝廷を凌駕するものだ。
しかも、この寺社世界は、国家の論理、有縁の絆を断ち切る「無縁の場」であった。
ここに流れ込む移民たちは、自由を享受したかもしれないが、そこは弱肉強食のジャングルでもあったのだ。
リアルタイムの史料だけを使って、中世日本を生々しく再現する。
[ 目次 ]
序章 無縁所?駆込寺と難民
1章 叡山門前としての京
2章 境内都市の時代
3章 無縁所とは何か
4章 無縁VS.有縁
終章 中世の終わり
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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網野善彦氏の名著「無縁・公界・楽」から、
さらに「無縁」について踏み込んで論じている良本。
「無縁の世界」である中世の寺社を宗教施設としてではなく、
経済活動の拠点である「境内都市」として捉えることで、
従来の政治的な視点ではなく、
経済的な視点から「中世」という時代をとらえなおしている。
個人的には室町以前の混沌とした状況における寺社の役割についての部分が面白い。
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中世の見方がまるで変わった、というか、揺さぶられ、変えさせられたと言うべき。
インパクトのあった一冊。
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日本中世史における寺社(特に比叡山や高野山といった大規模寺院)と、その支配地に発生した「境内都市」についての新書。
中世の寺社の経済的側面を強調し寺社内部の権力構造を解き明かすことによって、所領内に多くの「無縁の人」が流入する事によって都市的共同体が発生し、その大きな軍事力・経済力を行使することによって朝廷や幕府といった政治プレイヤーにも大きな影響力を及ぼしていたことを明らかにしています。
これによって網野善彦氏によって注目された「無縁/苦界/楽」といった存在について、伊藤氏は従来考えられていたよりももっと強い影響力を持っていたのだということを主張しています。
基本的には東大寺文書や高野山文書等の寺社由来の文書に依拠し、「吾妻鏡」や「太平記」といった年代記に記載されていない『民衆の歴史』を明らかにしています。この文書から再構築されている中世の世界は名も無き人々が集まり蠢きあう世界です。軍記物語では決して光の当たらない部分にも、世界は存在しており、それはむしろ飾られた歴史よりも強固な構造を持っているように感じられました。
しかし、境内都市として本書で取り上げられた事例については基本的に畿内の例がほとんどです。
例えば網野氏が注目した農業民以外の常民の世界は、都市民にかぎらず海民や狩猟民、漂流者といった様々な人々に光を当てていました。それに比べると大寺社とその境内に暮らす人々をフォローアップするだけでなく、地方における境内都市の有り様についてもっとクロースアップすることで、無縁世界の影響力が遍く広がっていたことがわかるのではないかと考えます。
最後に、著者自身は境内都市については先行研究は存在せず自らがこの分野を切り開いたということにかなり強い矜持を持っていらっしゃるようで、そういった記述が中世の無縁世界を純粋に知りたい人間には正直邪魔だったなと思いました。
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日本史の中世でもっとも不変的は権力を持ったのは、幕府でも朝廷でもない。寺社だった。だから、中世で一番大事なのは寺社だ!
興味深い話だったけれど、思ったよりも心に来ない。
他の方のレビューにもあるが、独りよがりな書き方がいけないのかな。途中から筆が乗ってきて、読者を置いてけぼりにしている。それほど熱く語りたくなったんだろう。
書き方次第で化ける内容の本である。なんちて
______
p18 添加物を加えた歴史
歴史は後世の物によって編纂された、いわば加工食品。さまざまな添加物を加えて、腐らないよう加工しているのである。世の中そういう歴史ばかりなのである。政治が絡んでいるからしょうがないけれど。
当時の生の歴史をそのまま冷凍保存した史料というのはないのか。日本にはある。それが寺社である。
p21 義経が平泉まで逃れられた理由
義経には京都朝廷内部に支援者がいたこと、追手が捜査に立ち入れない場所があったからである。それが、興福寺や延暦寺の勢力圏にある寺社である。
p26 駆け込み寺
江戸時代、鎌倉の尼寺、東慶寺は離縁が許されなかった社会で夫の暴力から逃れるための駆け込み寺として機能していた。このような駆け込み寺や縁切り寺は中世においてもっと盛んであった。
p29 『怒りの葡萄』 スタイン=ベック
アメリカ文学の傑作。移民社会アメリカで飢饉によって難民化した人々のルポルタージュ。現代でも難民は農地を放棄して都市に集まる、中世の日本でも駆け込み寺という難民収容所は都市になっていたに違いない。それほど大きな社会を形成していたはず。
p35~6 京都の分け方
鴨川を東西に分けて、清水寺などのある河東を「洛外」と、河西を「洛中」といった。河西は二条通を境に南北に分けて、花の御所のあった北側「上京」と南側「下京」に分かれる。「洛外」「上京」「下京」の3つの複合都市が京都である。
p37 自力救済
中世の検断権(警察権)は現代の概念とは程遠い。警察機構である検非違使や六波羅探題は幕府と朝廷に関することしか治安保証はしない。市井の軽犯罪などは取り締まらない。町人たちが「自力救済」しなければならなかった。当時の金融機関である土倉などは自分たちで盗賊に立ち向かう用心棒を用意した。
このように、幕府、朝廷、庶民は身分だけでなく、生活領域にて不干渉なところが多分にあった時代だった。
p41 日吉大社と延暦寺
日吉社と延暦寺は中世の神仏習合の「神かつ仏」の二つの顔を持つ寺社勢力だった。
「墓所の法理」というものがある。自社の僧や神人が死んだ場所を墓所として、怨霊を沈めるため寺社が地主から土地を召し上げることができるという、寺社が荘園をブン捕るためのこじつけ理論である。これでもって、延暦寺は下京の真ん中の五条前後八町という120m×240mもの広大な土地を召し上げ、地代を集めた。
p46 朝廷の課税制度
当時の朝廷は課税制度に不備があった。旧来、課税は租庸調のように農産物で治め��もので、貨幣経済の発展してきた中世において、最も金持ちであった金融業者(土倉、油屋、米屋、酒屋、、質屋、味噌屋)は課税されていなかった。朝廷が貨幣の仕組みや重要性を十分に理解できていなかったのか。
そして、寺社も免税特権を持っていた。当時の課税制度は時代遅れの穴だらけだった。
後醍醐天皇は1322年に「神人公事停止令」を出して寺社の私的な徴税権を取り上げ、朝廷が徴税するようになった。
p50 祇園社は疫病から
中世になり、京都への人口流入が増加した。それに伴い、疫病の流行も悪化し、人々の怨霊信仰が強まった。この怨霊を鎮めるのが祇園信仰であり、その最大儀式が祇園祭(祇園会)である。祇園会は疫病の最も流行る6月に行われる。この祇園会は各地の都市にみられ(博多どんたくとか)、当時の都市における疫病への恐怖心を物語っている。
p53 最初の神輿動座
1095年に山僧による日吉神輿を担いだ最初の強訴が行われた。決して動くことのない神が自ら朝廷に直訴に行くという、怨霊信仰における最大の恐怖である。この時、関白:藤原師通は神輿を射ることを命じ祟りを受けて死ぬ。ここから強訴が意味あるものになった。
p56 有徳人
保元の乱後、後白河天皇は市中の金持ちに祇園会で用いる山鉾を作る費用を供出させた。朝廷が財政難に陥っていたのだ。「潤屋の賤民」に名誉を買わせる仕組みを作った。これらの名誉ある庶民を「有徳人」といった。
市井の金持ちが無視できない存在にまで登ってきた瞬間である。
p61 行人と神人のカオス
寺社の下級僧である行人と下級神官である神人、神仏習合の中世では同じようなものだった。彼らが寺社への特権を悪用して幅を利かせたりしていたから、後白河帝は信西入道の進言のもと保元新政をしいて、悪僧取り締まりをした。
p62 中世の始まり
一般的に1160年代の平治政権の登場から戦国末期までの武士政権の時代を中世と言う。
しかし、筆者は1070年の祇園社が下社に巨大な領地を獲得して、寺社の不入の地を初めて露骨に手に入れた時を中世の始まりと考えている。
p72 雲母坂がキララである意味
この坂道は花崗岩質でキラキラ輝くから
p80 信長め!
信長は比叡山焼き討ちという非情な行いをした。この時、多数の寺社史料(生の歴史の冷凍保存)も焼失した。信長は現代の歴史家からも恨みを買っている。
p83 寺院は当時の前衛空間
寺院は当時、建築物の中でももっとも意匠を凝らした建築だった。天皇の住まいなんて、当時の興福寺や東大寺、根来寺とは比較にもならない。寺院を超える豪華建築が出始めるのは、安土城から。
p100 親鸞の女犯は誇張されている
当時、自堕落な僧の女犯など当たり前に横行していた。しかし、親鸞だけは糾弾の的になっている。これは政治的意図がある。これは法然率いる吉水教団が既存の北嶺南都の仏教権威から弾圧を受ける際の難癖であった。
それが現在に至るまで、すべて親鸞たちが悪いようにとられている。
まぁ、妻帯を公認したから注目されてるんだけど、自堕落な僧よりもずっと真面目な人たちだった。
p113 根来寺の武器
鉄砲の生産に成功した根来衆で有名な根来寺。応仁の乱で荒れた室町から、群雄割拠の戦国時代まで、武器供給地として栄えた。寺社なのに。
p115 返済遅滞には神罰
比叡山、熊野、高野山は高利貸しでも有名だった。寺社の高利貸しは、返済が遅れれば神罰が下るという恐怖があったため、貸し倒れや滞納がほとんどなかった。
貴族、将軍、武士、あらゆる地位の者が寺社の金融を利用した。
p122 弁護士の一面
当時の争い事で、自分よりも優れた訴訟遂行人を代理にたてることがあった。それは文字の能力が高く、判例などの情報をよく持っている者が採用されたが、僧こそうってつけの人材である。寺社は京都に近く情報網も広く太い。寺院は当時唯一の図書館でもあったから、これ以上の適役はいない。
それゆえ、当時の政治の世界にはよく、頭の切れる僧侶が側近として登場する。
p127 安土城は石仏でできている
信長は安土城の築城に際し、石仏の強制徴収を行って民を泣かせたという。
p133 検断得分
当時の武士は犯罪人を捕まえたら、その罪人の持つ財産を自分のものにできた。それが「検断得分」
なんというヤクザな法令。実際、この悪法を悪用して無罪の人から財産を収奪するというヤクザ武士がいたようである。地頭の設置された荘園は特にひどく、地頭の好き放題だったようである。幕府もこれを禁じる法律を出していたが、ガバガバの法だったようである。
寺社が不入の権を持って、検断を回避していた理由がわかる。
p134 ヤクザが一日警察署長
戦後直後の無警察状態の東京・大阪の代行したのは暴力団だった。現代の「検断得分」として、警察と暴力団の共存が約束されていたようだ。
山口組の田岡一男は兵庫県警水上署で一日署長を務めている。
宮崎学 『近代ヤクザ肯定論』に詳しい
p164 良源
比叡山の創始者は、天台宗の祖:最澄であるイメージがあるが、18代天台座主:元三大師 良源なのである。
良源は、根本中堂の巨大建築、横川の建築、退廃した比叡山僧の清浄化、祇園社の奪回、角大師、慈恵大師、など功績多数。
p191 無縁所は経済的自立があった
無縁所は政治からはなれ、影響を与えることも受けることもなかった、浮世である。しかし、経済の発展はこの無縁所から始まったといってもいい。難民たちが生き抜くために経済を活性化させたのである。
p197 武士は浮ついた立ち位置だった
中世の武士は、主君に仕えるという立場にありながら、片足は無縁所に突っ込んでいるような存在だった。一向宗に入信している武士も多く、無縁所で農民や商人としての一面を持つ者もいた。そういう無縁所の自由と仕官による安定した庇護をどちらも捨てきれない半端者をどうコントロールするかが大名の悩みどころだった。
p207 叡尊が神風を起こした
元寇で神風を起こしたのは、西大寺 叡尊と言われている。彼は御用寺社の僧侶として政界のご意見番だった。
古代の道教、近世の天海と並ぶ、三大政僧である。
p209 南都北嶺対策
幕府は寺院紛争に際しては必ず、反南都北嶺の立場に立った。すこしでも敵対勢力の力をそぐためである。
p219 室町時代は財政基盤ゲットの時代
室町幕府は寺社のもつ座という特権を奪うわけでなく、維持しながら課税して、うまく財政を安定させた。
しかし、この座の保守的な仕組みが経済発展を停滞させたので、信長がぶっ壊そうとした。
p227 固定的な縁が成立したのは室町時代
家という血縁を超えた固定的な縁の概念が登場したのは15世紀であった。
それまでは血縁的なものが尊ばれた。養子という概念もこの頃に発達して、「血縁としての家」ではなく「格式としての家」を守るという概念が生まれた。例えば、歌舞伎や落語のような演芸のお家家業のようなものもこの頃できる。
司馬遼太郎風に言えば、「室町の著しい農業技術の発達から経済も発展を遂げた。経済には抽象的概念が多分に含まれ、人々の抽象的思考が育てられた。。
こういった抽象的な考えのもと、こういう格式としての「家」の概念が生まれたんだろう。そして、抽象的な「村」「町」の格式が生まれてくる。
p233 大黒天
空海がつくった神様。七福神の一人
p242 刀狩が中世の終わり
秀吉の刀狩は無縁所の自治能力を奪うものだった。それは寺社勢力には特に厳重に行われた。
無縁所が不入権を持つ自治領を手に入れた時が中世の始まりだった。政治社会とは一線を画した領域の消滅。これが中世の終わりだと筆者は定義する。
p248 フランス革命起きえた理由
フランス革命は聖職者の第一身分、貴族の第二身分、庶民の第三身分の格差闘争の結果である。しかし、普通に考えれば特権階級である第一と第二身分は結託し、二対一で第三身分が不利になるように思える。しかし、そこには第一身分の中での格差がキーになっていた。
聖職者にも司教と司祭とがいて、司教の年収は4万リーブルで、司祭の年収は750リーブルと第三身分と大差ない。この格差に不満があったため、第一身分では数の多い司祭が平民派に流れ、最終的に第一身分の総意は第三身分寄りになった。
これで第一と第三身分 対 第二身分の形になって、革命への大きな前進になった。
p254 ネットが現代の無縁所
無縁といっても「人の繋がりがない」のではなく、「政治など世のしがらみから独立した場」としての無縁。
こういう駆け込み寺的なものは、いつの時代も必要で、形を変えて存在していくのであろう。
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悪く書いた割にはメモることが多かった。
興味深い内容だったんだあよな。
でもなんかいまいち信憑性が無く感じるのはなぜなのか。とても勉強になりました。
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2008年刊。元文化庁記念物課技官・元長岡造形大学教授。◆網野善彦氏の提唱する宗教のアジール性に依拠する無縁概念。これを政治的勢力に擬してみたらどう見えるか。本書は祇園社や叡山等、無縁勢力の中でも巨大勢力を具体的に分析することを通じ、中世の無縁対有縁の対立構図を具体的に切り取る。中でも、寺社勢力の経済力の源泉に言及があるのは特異(金融業・市場掌握・軍需産業・さらには建築業)。◆ただ、その解体過程がやや雑駁。大まかに無縁所のアジール性が徐々に消失(それに寄与したのが戦国大名との軍事衝突)と言うに止まる。
◆とはいえ、あまり言及されてこなかった経済力の具体的源泉(この点は中世の徴税システムも同様だが、本書はここは乏しいかも)に言及ある点は意義深い。更には言えば、有縁勢力の経済力の源泉・徴税システムにも言及された書を見てみたいところ。
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中世の主役は、幕府でも朝廷でもない。
江戸時代以後の歴史書は、中世史を幕府と朝廷の対立としか描いてこなかった。その姿勢そのものが間違っている。・・・史料の圧倒的な豊富さはもちろん、経済シェアや巨大な武力など、寺社勢力の存在の大きさは、専門家なら知らないはずのない事柄ばかりなのだが・・・・・
南北朝時代の本を読んでいるうちに、寺社勢力をもっと知らなければと購入した本です。
恥ずかしながら、中世の寺社勢力がこれほどにまで大きいものだとは知りませんでした。
無縁・有縁・移民・公界など、寺社をなくしては語れない要素がたくさんあります。
公家や武家(幕府)も、寺社勢力を利用したり圧迫したりしながら権力を保っていたともいえるかもしれません。
「なるほどー!」と思える1冊です。
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他の方の感想と同じになるが、網野善彦の無縁から発展させて寺社勢力に着目したとても興味深い本。
中世資料がほとんど寺社にしかないとは知りませんでした。
京都祇園社まで延暦寺だったとも知りませんでした。
目から鱗が何枚も落ちたが、その割に凄くいい本のときに感じるオーラがないのは何故だろう。
網野善彦の異形の王権なんかはオーラ感じまくりだったのだが。
著者の思い入れや主観が入りすぎているためかもしれない。
勉強にはなったが、今ひとつ入りきれなかった。
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中世は「警察官が罪もない者をつかまえて、犯罪人のレッテルを貼って財産を自分のものにする」ことが検断得分として横行していた(伊藤正敏『寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民』筑摩書房、2008年、133頁)。冤罪を作ることが利権となっていた。
「地頭側は百姓達に様々な嫌疑をかけ、科料をとったり、その身を押さえたり、あるいはその一族を身代として捕らえる等の行為に及んでいる。その際、十分な捜査を行っていないことについても訴えられている。そのうえ、百姓達の財産を押収していることもある」(高橋典幸、五味文彦編『中世史講義 院政期から戦国時代まで』筑摩書房、2019年、110頁)
近年の歴史学は百姓らが支配され、搾取される一方ではなく、逃散や訴訟など抵抗する存在であったことを重視する傾向がある。紀伊国の荘園の百姓の訴状では「ミミヲキリ、ハナヲソキ」と地頭の非道を訴えている。これも近時は百姓が地頭の一方的な支配に抵抗していたことを示すものと解釈される傾向がある。
とはいえ、百姓が抵抗していたことは、地頭の非道がなかったことを示すものでも、地頭の非道が常に是正されたことを示すものでもない。ブラック企業が社会問題になり、糾弾されているとしても、世の中にパワハラや出社ハラスメントがなくなった訳ではないことと同じである。
むしろ、「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉が生じたように地頭の非道に泣き寝入りすることが多かっただろう。この「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉が流布したところに日本社会の後進性がある。
現代日本の刑事司法は人質司法や弁護人の同席なしの取り調べなど人権無視の状況である。これは国際的には日本の刑事司法は中世レベルと批判されている。これは非常に深刻な問題であるが、批判された日本側の意識は低い。そこには中世の非道な状況も「泣く子と地頭には勝てぬ」で受け入れている鈍さも一つの要因だろう。