紙の本
神学を「虚学」と断じた上で
2009/11/09 14:52
10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くにたち蟄居日記 - この投稿者のレビュー一覧を見る
佐藤優のユニークな経歴の原点が神学部卒業であるわけだが その「原点」の背景が良く理解できる一冊である。感想は二点だ。
一点目。
神学は「虚学」であると断言している点に驚いた。
言われてみると「神とは何か」というような問いには 絶対に正解は無い。いや 佐藤の言葉を借りると「正解はあり かつ いくつも正解があり しかもその正当性は証明不可能」ということになってしまう。
「実学」とは 大なり小なり「正解は一つである。もしくは複数の解があるにしても その正当性は証明可能」というスタンスだとする。「正解の数がいくつかある」ところまでは実学も譲歩出来るかもしれない。しかし「正当性は証明不可能」という部分にはついてこれないはずだ。
「正当性が証明できない」なら やめてしまおうというのが普通の人間の考えかもしれない。しかし 振り返って自分を省みると 我ながらなんでそんなことを考えたりやったりしているのか 全く正当性が証明できない自分がいることに気がつかないだろうか。
佐藤が踏ん張っているのは 「正当性が証明できない変な動物こそが人間である」という地点だ。そこで「正当性が証明できない」学問である神学を勉強することこそが そんな変な動物である人間と 人間が作った社会を理解することに大いに資すると主張している。それが本書の一つの主張だと僕は読んだ。
二点目。
佐藤は その著作において 非常に頻繁にフローマトカの「フィールドはこの世界である」という言葉を引用している。
佐藤にとっての「この世界」とは何なのかを考えることは 彼の著作への理解を深めるためには死活的に重要だと僕は考える。一体 神学を修めた人間が なんで 外交という極めて ドロドロしていそうな現実の世界に突っ込んだのかという点は このフローマトカの言葉をどう理解するかに掛かっているのだと僕は思う。
その後 外務省から 牢獄を経て 現在の論壇と 佐藤のいる地点は 変わってきている。但し おそらく佐藤にとっては 同じ場所に居続けているだけかもしれない。
佐藤にとってのフィールドを 僕には上手に表す言葉と知見は無い。但し うっすらと見えてきているものはある。それが ここ数年佐藤の本を理解不足ながらも読み続けてきた成果なのだとふと思った。
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タイトル通り、非キリスト教徒にとっての神学入門、です。哲学は神学のはしため(だったと思う、たしか)とか世界史で習いましたが、実際に神学て何やってんの?という疑問に応えてくれる1冊でした。
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神学は虚学である。進学の立場から見たら、文学も哲学も実学。
神学では論理的整合性が低い方が勝利する。
神学論争は積み重ねられないという進学の性質。
神学は本当の意味で役立つ。人間はいつか死ぬ。だから生きることの意味を知ることができる。人間は死ぬ時に自分の人生は何だったのだろう誰もが考える。神学はその時の備えとなる。
神学のポイントは人間の限界を知ること。
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期待していた以上の内容だった。同志社大学神学部の伝統に対する理解が少しは深まったように思う。以前に著者の講演を聞いたときは、キリスト教を弄んでいるかのような不快感を覚えたが、本書では思いのほかキリスト教が大事に扱われており、著者を「見直した」。
一点難を言えば、保守的立場(根本主義・福音主義・聖霊派など)に対する理解が大掴みに過ぎる、というところか。これらのキリスト教は、神学的活動の点では主流派に及ばないかもしれないが、そもそも、神学的にうまく言語化できるか否かが、その立場の信仰のあり方の良し悪しを決定することにはならない。確かに、「神は弱きところに働かれる」のであり、「幼子のようにならなければ神の国を見ることはできない」のである。
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2月1日読了。インテリジェンスを説き、外務省のラスプーチンの異名をとった著者が神学部出身で、これほどキリスト教の教えに対し該博な知識を持っておりまた説明上手であることには驚かされた。神学とは現実と遊離した学問ではなく(そうした面もあるのだが)、「答えの出ないものに対して問いかけ、行動をもって理想を追求していく」学問であるのだな、面白い!・・・とは言え日本の牧師や宗教者が勉強不足であること、また自らの権威を守るためにあえて民衆に向けて誤ったメッセージを投げかけがちであることなどキリスト万々歳だけではない、負の面にも目配りがされている。神学を学ぶものが進む道は、聖職者だけではないのだな!
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神学は「虚学」だが(この著者によれば文学も哲学も「実学」ということになる)使いようによっては「役に立つ」。キリスト教の歴史・思想の要点をつかむうえでよき手引き。
80年代のモスクワ大学には「ロシア語が下手になるための特別コース」があったらしい。外国人の情報収集工作に対抗するためとの由。その頃「産学協同」がどうとか騒いでいた国とはレベルが違う。
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「神学では論理的整合性が高い方が負ける傾向が強い」
歴史におけるキリスト教の異端審理で理解不能であった部分がこれで納得がいった。はっきりと正しいものは排除され、より曖昧なものが残る。三位一体というどうとでもとれる説、結局の所意味不可解な説が残ったということらしい。それでも「神学は役に立つと」
佐藤氏が力説する。大学の神学部に対するイメージはかなり払拭された。
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一般論というよりも自伝的話で興味深く読める。イエスの「思考様式の翻訳」はコミュニケーション技術としてはかなりレベルの高いものがあると認識。これは頭では判っても実際に行うのは非常に難しいように思う。
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同志社大学神学部出身の著者が、非キリスト教徒へ向けた書。
神学の基本やら、それを具体的に教えている神学部の内情とか、いろいろとぶっちゃけた話が多く、神学部ということろがよくわかった。
このような形で神学がわかりやすくなってくれることを願う。
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知らない名前がずらずら。現在はともかくとして、少なくとも中世、場合によっては近代まで西洋のトップレベルの頭脳は神学というものにコミットしてきたんだろう。それこそテーマがテーマであるから、人生をかけて打ち込んで。
そのような事実を知ってはじめてフョードルの言葉の重みがわかる。神は存在するのか?と聞くと、神は存在しないと答えた息子のイワンに対して、フョードルはこのように言う。
「まったく考えただけでも、やりきれなくなるよ、どれだけ多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力をむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう、しかもそれが何千年もの間だからな!」
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2012年のやりたいこと100のうちの一つ、宗教関連の本を数冊読もうのテーマに基づいて読んでみました。キリスト教ではなく、敢えて神学にしたのは、神とはというのは宗教を学ぶ上で普遍的な画がわかるものかという結構単純な理由により。
シスマとか大学の学部でやった法史学の授業の内容を思い出した。冒頭で著者が述べてた、他の学問はたかだか200年で発展したもの、神学は2000年の歴史を紐解くものだという件に納得。法史学は1600年位まで殆ど宗教史の色合いがあった。それは自然法の概念に宗教とか神の概念ががっしり入り込んでいるのだからではないのかな、と思ってもみました。
世界史勉強し直そう、そう思わせてくれる本。でも、入門の割にワタシの学力だと相当きつかった…。
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松丸本舗で手にした佐藤優の本。やはり、この人の本は気になる。
冒頭、「神学と虚学である」と始まる。「えっ?!」と思うが、虚学とは佐藤優が名づけた言葉で、他の工学や経済学を実学とし、それに対して神学を虚学と定義した。ここで、「虚」は普通の人間には見えない事柄を指す。したがい、目に見えない事柄を対象とする知的営為が「虚学」となる。人間の「虚」の部分を神学特有の「虚」の方法で扱う。
神学を語るのも、相変わらず切れ味がいい。個人的な経験も持ち出しつつ、神学という切り口で世界を読み解く方法は、読むものを引き込む力をもっている。これも、神学的手法というものか。
以下、いくつか印象に残った箇所を引用する。
秩序が成り立つためには、どこか秩序が完全に崩れている場所がないといけないのです。そういうふうになっていないと、秩序というものは成り立たないのです。(中略)野本先生は、ユダヤ教のカバラのことを暗示していたのだ。(p.18)
神学的な議論はだいたい、このように論理的に正しい者が負けて、間違っている者が政治的に勝利するという傾向があるわけだ。ここを覚えておいてほしい。(p.25)
人間はその本質において何かを信じる存在である。全く何も信じていない人というのは、人間として存在しえない。例えば現代日本において大多数の人間が信じているものは貨幣である。これがもっとも力を持つ宗教である。そしてこの「貨幣の宗教」に準ずるのが、「国家権力という名の宗教」である。(p.62)
私は、具体的な状況を抜きにした一般的提言はできないが、先ほど述べた、関係の類比という考え方で聖書をひもとき、イエスのリアリティというものを考えることが重要だと思う。イエスが考えていた愛というものはどういうことなのかと。それを自分の言葉で、キリスト教徒でない人にもわかるように専門用語を使わずに翻訳しなおす作業が、今の社会と国家を強化するために重要だと考えている。(p.94)
私自身がカール・バルトから強い影響を受けたことは先述したが、バルトには学生時代からずっと違和感があったし、今もある。特に、「神学とは最も美しい学問だ」というバルトの言葉に落とし穴があると感じる。私は神学が美しい学問であると思わない。その美しさにとらわれてしまったことが、バルトの限界だったように思う。(p.108)
世界には、「絶対に正しい」ということは存在するはずだ。しかし「絶対に正しい」ことは、人間の側から見る限り複数存在する。「絶対に正しい」ことが複数あるということに、絶えていく力が求められる。人間には絶対に「正しい」ことは一つであると信じたい傾向があるからである。しかし、その限界を克服しなくてはならない。そうしないと平和な形で人間が共存し、生き残っていくことが出来なくなるからだ。その点を乗り越えていかなければならないのが信仰だと思う。「私の良心」と「他者の良心」は違うかもしれない。しかし、「それぞれの良心」に従って動いている人の言動や行動というのは、どこかで共通しているものがあると思う。それは言葉では簡単にあらわせない。(p.138)
人間には元来表象能力がある。神学の基礎的訓練をきちんと受ければ、極限的な状態を追体験し、極限状態にある人に共感を持つことが出来るのである。神学のポイントというのは、人間の限界を知ることである。自分自身が限界のある人間であることを知れば、限界状況にある他者に共感することができる。
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佐藤優氏の他の著書を読み、広い知識をもっておられることがわかったので、どのような経歴をお持ちなのか調べてみた上で、この書を読めばどのような背景を持っているのかわかると思い、読んでみることにしました。
キリスト教神学が、聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の4つに分類される、といった解説はどこでも見られるものではないので、”非キリスト教徒”にとっては理解の一助となりました。
同じく佐藤優氏の『同志社大学神学部』と読むと佐藤氏自身について、または神学という学問についてより深く知ることができると思います。
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「私のマルクス」、「はじめての宗教論」でほぼカバーされている内容だけれども、進路に悩む高校生向けとして大変親切な書かれ方だと思う。ロシア人の悪に対する考え方が興味深い。
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虚学である神学について佐藤先生が解説。
各大学の学部についての説明が丁寧で進路を目指す方は一読されたほうが良いのでは。