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別の訳を図書館で読んだことがあった。あと、どこかで立ち読みもしてると思う。でも、今回また目を通してみてもあまりに良く分からなさ過ぎて、本当に以前読んだことがあるのかすら怪しい。その都度混乱して記憶飛んでる。混乱するが、嫌いじゃない。
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「ダダとは強烈さだ。」「ダダは何も意味しない。」
何か強烈さがあれば、爆発すれば、それがぼくであり、きみであり、ぼくらだ。何故そうなのか、意味を問うことは見失うことなんだ。
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おれは宣言を書くが、何も望んでいない。
腹を空かせたどんにょ九な大衆のもとには決して辿りつかない文学が存在する。作家の真の欲求から作家自身のために出現した、創造者たちによる文学だ。最高度のエゴイズムの認識。
芸術には手術が必要だ。
自然発生的アクロバットという反哲学。
思考は口の中で作られる。
思考し、望み、思考することを望む。
芸術は、時代の幼年期には祈りだった。木と石が真実だった。
幻想が目的となったので、人間は神を凌駕することを望んだ。けれども、波乱に満ちた人生の諸問題が怒って、人生は興味深く、あいにくながら生産的にさえなった。
詩はまずはじめに、ダンスと宗教と音楽と労働の務めを果たすために存在する。
知性は秩序を創造し、光のない暗い場所を明るくするのに役立ちます。
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ツァラはチューリッヒで華々しくダダ宣言をして、パリに移ってからまたちょっとダダをこねて、こねくりまわして、それで終わっちゃったみたいに思われている節もあるけど、どっこい1963年のクリスマスまで生きて詩作をつづけていたわけだから、ケネディ暗殺をたぶん知っていたはず。
ほんのちょっとの期間だけれど、ツァラと同時代を共有していたなんて、なんだか感慨深い。そんなこと言ったら高橋新吉とはかなりの期間を共有してたわけだけれど、それはまた・・・別の機会に。
ツァラが亡くなった翌年、The Whoが結成され、“それ”は預言になった。ピート・タウンゼントはステージで楽器を壊した(おそらく)最初のミュージシャンだ。ピートは詩や小説を書くひとだけど、ツァラを読んでいたかどうかは知らない。
ツァラの詩を読むとThe Whoが聴きたくなる。
・The Who--My Generation, Monterey Pop Festival 1967
http://www.youtube.com/watch?v=kUseoWDXqvg&feature=related
追記:
ちなみにジミヘンのギターを燃やすパフォーマンスはこのあとなんですけど、なんかダダのあとにシュールレアリスムがうまれたみたいな流れですね。デュシャンの『泉』と“Wild Thing”が意味するものはじつはヒジョーに近いのかもしれませぬ。
Jimi Hendrix - Wild Thing, Monterey Pop Festival 1967
http://www.youtube.com/watch?v=gPvehX2aWb8
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トリスタン・ツァラによる「ダダ宣言」などを収めた本。
ダダ宣言自体は昔読んだことがあるが、この本は評論なども載っている。いつのまにかこういう文庫本が出ていたらしい。
第一次世界大戦下、1916年以降順次出された「ダダ宣言」は、「DADAは俺たちの強烈さだ」「DADAは何も意味しない」と、激しい革命的意志をもって表明される。
既製のアカデミックな芸術観を否定しようというこの激しい「若さ」は、ヨーロッパが直面した世界大戦という危機とシンクロしているが、現在でもパンクとか、ノイズミュージック、ハードコアとか、そういう音楽に集っている若者たちの感性と通底していると思う。
DADAはこのように普遍であり、「何も意味しない」行為を意図することによって、明確な意味を持つのであるから、それは決して本当に無意味なのではない。意味を無意味へと変換してしまう終末的カタストロフィーの衝撃的快感を求め、そこに意味を見いだしているわけだ。
ここに収められたツァラの文章や詩にも、語句の選択に一定の方向性が見える。真に意味を排除していけば、方向性のないカオス状態になるはずだが、ここではそうならない。まだ若く、エネルギーが躍動している。
モダニズムである。それは、何かの始まりでもあった。
芸術を志す人は一度読んでおいて損はない。
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本書冒頭にも、訳者もふれているが、ダダと聞くと真っ先にウルトラマンの怪獣を思い浮かべる。その次に私とダダとの接点になるのは、パンク・ロックがある程度収まってきた頃に、ラフ・トレードというレコード・レーベルから「キャバレー・ヴォルテール」というバンドが「ナグ・ナグ・ナグ」というシングルを出したのを聞いた時だ。その後、きっかけは覚えていないが、シュルレアリスムに興味を持ち、関連の展覧会にも足を運んだ。ブルトンとの絡みで、ツァラはなんとなくシュルレアリスムのもとを作った人ではあるが、その後、たもとを分かち、あまり展開もなく、しぼんでいったように感じていた。ダダの末期は寂しいものだが、本書を読むと、創成期の「強烈さ」は伝わってくる。あらためて、ダダはパンクだったんだなと感じた。
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ダダの創始者トリスタン・ツァラ(1896-1963)により発表されたいくつかのダダ宣言と、同時代の芸術に対する批評、そしてダダ時代の詩作品(詩集『詩篇25+1』『ぼくらの鳥たちについて』から七篇)を収録している。以下、「宣言集」のみ収録内容を記しておく。
・「ムッシュー・アンチピリンの宣言」
・「ダダ宣言1918」
・「気取りのない声明」
・「反哲学者ムッシューAaの宣言」
・「トリスタン・ツァラ」
・「反哲学者ムッシューAaがおれたちにこの宣言を送る」
・「かよわい愛とほろにがい愛についてDADAが宣言する」
・「〈付録〉おれはどうやって魅力的で感じがよくて愛らしくなったか」
・「植民地風の三段論法」
□
ダダは、自分自身に対する一切の規定性を嫌悪し否定しようとする。その嫌悪と否定は、その徹底性ゆえに、自らを「ダダ」として規定しようとしてしまう自己自身に対しても、不可避的に向けられることになる。則ち、規定性の徹底した否定が不可避的に自己否定に到らざるを得ない精神の構え、これがダダであろうと思う。
「言葉なんかごめんだ!眼差しなんかまっぴらだ!」(「トリスタン・ツァラ」)。
「君を運命から逃がしてあげられるのはDADAだけだ」(「植民地風の三段論法」p94)。
しかしながら、一切の規定性から自由な全き不定態という境位に回帰することが不可能であることを、ツァラは痛切に認識していたに違いない。ダダとは、どこにも到り着くことのない、そもそもどこかに到り着くことを予め想定していない、ただ意味に対する嫌悪だけがそこにある、無目的な無限運動である以外に在り得なかったのではないかと思う。限定→否定→限定→否定→……という reflexive な無限系列。この自己矛盾的な自己関係性という機制を、現実の中で実際どのように現実化=作品化して生きていくのか。これがダダの根底にある関心事だったのではないか。ツァラが興味を抱く「作品の中に直接はっきりと移し変えられた個性の強烈さ」「人間とその生命力」(「ダダに関する講演」p182)というのは、ダダ的な意味で自由を志向する者に論理必然的に孕まれている自己矛盾という在り方の、その「表現=生き方」のことを指しているのではないか。
「ダダイストに関心があるのは、自分自身の生き方なのです」(「ダダに関する講演」p187)。
「嫌悪」「否定」「自由」「無意味」「AでありかつAでない」「反‐ダダ」「反‐原則」「反‐システム」「反‐論理」「反‐未来」「反‐目的(=自然発生性)」「反‐精神分析」「反‐言語」「自己窃盗狂」「白痴」「精神の独裁」「仏教に近い無関心」「ダダはひとつの精神状態である」等々も同様の文脈で解釈できるのではないかと思う。
□
「なにものにも回帰し得ない」ということに対する徹底性の度合いが、ダダとシュルレアリスムとを本質的に区別しているのではないか。則ち、「言語=理性=論理=自己意識=意味」に外部はなくそこから逃れ出ることは不可能である、という事実に対する痛切な認識があるか否か。何らかの外部(例えば「無意識」「狂気」「非‐理性」「夢」「性」「未開文化」)を持ち出してこの「なにものか」を実体化したくなる欲望を断念しているか否か。ダダの徹底性に対して、シュルレアリスムはどうしても妥協的に思えてならない。
「人類全体に共通する心の土台を見つけたと、人びとはほんとうに信じているのだろうか」(「ダダ宣言1918」p26)。
訳者による「解説」中でも示唆されているダダと20世紀思想との類似性というのは、ダダの「反‐形而上学」的で「反‐実念論」的な傾向、則ち、「否定神学」的傾向に由来しているのではないかと思う。20世紀思想のさまざまな分野の議論においてしばしば自己関係的機制が見出されるのも、ダダにも通じるこの「否定神学」的傾向ゆえではないかと推測する。
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美術史を紡いでいくのは、必ずしも画家だけとは限らない。
ダダイズム(「反芸術」運動)の創始者である詩人ツァラの
ダダ宣言集。あくまでも時代の記念碑的な感じがしたのと、
現代でもツァラの方法論がインパクトあるかといったら、
?なので、星三つ。でも、勉強にはなった。
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とても独特な印象で楽しい。
が、語呂合わせや二重の意味が翻訳しきれるわけもなく、やや煩雑に感じる部分もある。これをわざわざ日本語にして意味はなんだろうね。
(フランス語との対訳などが出たら嬉しいなー)
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『オデオン通り アドリエンヌ・モニエの書店』にブルトンが登場していたので、流れで。
DADAについて、内容まではよう知らんかったのでいい機会だと思ったんだけども。
うーん、よく分からん、特に前半の宣言の方が……終わってるな自分(笑)
評論集はなかなか面白いし、ガチガチに凝り固まった既存芸術と社会情勢(第一次世界大戦)への憤懣が、チューリッヒでのDADA宣言・創設に至り〜瞬く間に世界へ波及〜ブルトンとの決裂等を経て、最終的に政治運動にのめり込んでいく様も読み物としては興味深い。
しかしだ。どうにもその宣言とやらが響いてこない、ふーん、そうなんだ。で?ってカンジ(笑)
ほかの方のレビューを見て、理由が何となく分かった気がした。
私はもとより、良作に触れる機会に早い遅いは関係ないと思っていた。だが、本書は関係あると思う。
若いうちに読んでおかないと、(私のように)魅力を感じ取れない恐れがある。なぜなら、DADAはパンクだからだ。
とは言え、パンクも成就するとメロディックになったりするからねw
それを丸くなったとか、切っ先が錆び付いたとか言うのは簡単だけど、若いうちにしかできないことがあるのと同時に、年取ってからじゃないとできないこともあるから!ホントだよ(笑)………ようは自分が年食ったってことだorz
DADAが徐々に衰退し、シュルレアリスムに吸収された理由も、そのあたりから説明がつくんじゃって思う。
キョーレツさは大変結構だけど、いつまでも地団駄踏んでばかりで大人になりそこねた(体系化に失敗した)活動の結果——というか何というか……この種の運動は、大人になったらその時点で終了だけども。
しかし、いい意味で大人になれていたら、シュルレアリスムに吸収されずにすんだかもしれない(運動にはジレンマが内包されているものだ)。
さらに、個人的にノリきれない理由のもう一つに、訳者の“DADAすげー、ツァラすげー”が、ウザいっていうのもある。訳者あとがきを読んで萎えた(笑)
とはいえ、シュルレアリスム好き、クレー好き、オルタナティブ・ロック好きにとって、無下にできないのは確か。
さて、久しぶりにキャバレー・ボルテール(バンド)でも聞くかな。
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トリスタン・ツァラ(塚原史・訳)『ムッシュー・アンチピリンの宣言』 光文社古典新訳文庫版。
塚原せんせいの素晴らしい訳と解説でござる。
この強烈なアジテーションが素敵すぎて一気読みしてしまった。
どこかで「ダダ1918年宣言」も「ムッシュー・アンチピリンの宣言」も読んでいたはずなんだけど、こんなに生々しく響くなんて、ほんまに翻訳の力が大きいな、どんどん自己否定/自己破壊し、脱臼・骨折していくテキストの醸すビートの合間に、ときどきハッとするようなフレーズがあって、曰く「柔軟さ、熱狂そして不正の快楽さえもが、腐ったバナナたちが無邪気に実行しているあの小さな心理が、腐ったバナナたちを美的な存在にしてくれる」だの「おれは行為には反対だが、途切れない矛盾にも肯定にも賛成なのだ」だの、振幅だよね、振幅、つまりこれは宣言というかたちを装った生の記録であって、あんまり難しいことは考えず、生を組織化しようとは決してしない100年近く前のダダイストたちの心意気を感じるのが吉ということじゃまいか。
そう思った。
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足穂や中島らもが幾度も言及しているツァラ、そしてダダ。
一体なんぞ? とずっと気になっていたところに刊行されたので、思い切って読む。
ダダは無意味のお祭り、シュルレアリスムは無意識をあぶりだそうとする(恒久化を目指した)運動、といえるのか?
まだはっきり断言できそうにないが、精神分析への態度が何かかかわってきそう。
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DADAはおれたちの強烈さだ。意味を破壊する。
ひたすらに言葉で遊び組み合わせの妙を生む。
元々難解な表現で詩に実は込められた意味をこちらが窺わせてもらわなければならないのが好きではなく、詩における対象と対象、言葉と言葉の衝突や愛撫の面白さや余韻を楽しんでいる俺としては実に好み。
音楽のラップでいうパンチラインの嵐のような感覚だからHipHop好きにも響くと思う。
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ブルトンとはまた少し違う印象を持つことが出来たダダイズムの元祖。シュルレアリスムとの精神的棲み分けはドゥルーズによる。読んでいると、なにか元気にさせてくれる。シュルレアリスムがどこかブルトンに還元される気がするところ、ツァラはそういう感じが何故かない。ダダイストかそうでないかの前に公平な感じがする。それぞれに役割があるので二人いてくれてよかったかなと読んで思った。
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「ムッシュー・アンチピリンの宣言」読了。ダダによる言語に意味はない。それは新聞紙を切り刻み詩を作成する、それがツァラのダダの作品の1系統だ。ツァラは多岐にわたる著名人と交友を深め、本を作り上げる。それが後にシュルレアリスムに吸収されたとしても、ツァラの名はいつまでも残るだろう。