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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2011.4
- 出版社: 国書刊行会
- サイズ:22cm/498,26p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-336-05362-6
- 国内送料無料
紙の本
世界文学とは何か?
著者 デイヴィッド・ダムロッシュ (著),秋草 俊一郎 (訳),奥 彩子 (訳),桐山 大介 (訳),小松 真帆 (訳),平塚 隼介 (訳),山辺 弦 (訳)
ギルガメシュ叙事詩、源氏物語、千夜一夜物語といった「古典」から、カフカ、ウッドハウス、ミロラド・パヴィチ「ハザール事典」まで、翻訳をつうじて時空間を超え、新たな形で流通し...
世界文学とは何か?
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商品説明
ギルガメシュ叙事詩、源氏物語、千夜一夜物語といった「古典」から、カフカ、ウッドハウス、ミロラド・パヴィチ「ハザール事典」まで、翻訳をつうじて時空間を超え、新たな形で流通しつづける「世界文学」の可能性を問う。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
デイヴィッド・ダムロッシュ
- 略歴
- 〈デイヴィッド・ダムロッシュ〉イェール大学で学位を取得。ハーヴァード大学教授(比較文学科)。元アメリカ比較文学会会長。
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紙の本
デイヴィッド・ダムロッシュによる知的・文学的好奇心を極限まで引きだす、嘘のように面白さの充満した書物
2011/08/06 15:00
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
幸せなことに、たとえば「世界映画」という言葉、概念は一般的に流通していない。そのために「世界映画とは何か?」という設問に頭を悩ませる必要がない。映画と比較して、なぜ「世界文学」という言葉、概念が存在するのか考えてみると、ひとつはその歴史的蓄積に思いがいく。ヒトの文化の発生にまでさかのぼる言語によるさまざまな表現の世界的な蓄積を全体として指す概念は、ゲーテを俟つまでもなく世界にとって必要とされたのかもしれない。
映画も各国、各地域の言葉が介在して製作されるために、文学の「翻訳」にやや相当する、話されている会話等を個別の国の言葉に訳した字幕を映画全体に打ち込む作業があって、一般に流布される。国際的な流布の状況をとれば、文学と変わりないとも言える。だが「世界映画」というなんとなくご大層な概念は、映画を論じる者の視野に入ってこない。映画がその発生時から世界が視野に入っていて、映画=世界という感じのせいかもしれない。
ごく物理的な区分けの概念として「外国映画」はあるが、それ自体、あらためて論ずる必要のないものだろう。「日本映画」と「外国映画」に分け、おのおののベストテンを選ぶことが昔からなされているが(その点では文学の一ジャンルである「ミステリー」も呼び方は「国内」「海外」だが似ている)、それが日本的に排他的であることが以前から指摘されている程度の問題なのだ。
本書において本文、解説どちらにおいても文学全集的なものが批判的に検討されている。おびただしい数の「世界文学全集」が日本において発行されてきたが、ここでも「日本文学全集」と区別されてそれらが刊行されてきたのは、映画における分け方と変わりない。たが「外国文学全集」でも「海外文学全集」でもないことと、21世紀の今、本書のようなタイトルの本が出されることは微妙につながっているのかもしれない(もっとも「世界文学全集」は、世界文学の全集ではなく、文学全集の世界版にすぎないが)。
さて本書に最初、なかなか入り込めなかったのは、何かありもしないものを抽象的に論じているかのように思っていたからだが、序章で、その「世界文学」という言葉を口にしたゲーテの本にふれ、驚いたことに日本ではちゃんとエッカーマン著『ゲーテとの対話』として訳されているこの本が、英語版では今でもゲーテ著『エッカーマンとの対話』として、しかも乱暴な削除版として訳されていることを丁寧に説明しているあたりで、ふと引き込まれた。
さらにメソポタミアで最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」が発見された経緯を見事に描く第一章を読み出して、完全に圧倒された。抽象的な「世界文学」という概念は、こうした知的・文学的好奇心を最大限に引き寄せるエピソードをたばねるための口実でしかないのかもしれない、と思ったりする。
「ギルガメシュ叙事詩」には二種類の邦訳があるようだが、それよりも幾つかの発掘にかかわる本を、これまで日本の出版界は訳していない。そのあまりに面白い引用や解読を読みながら、そのことが不思議に思えた。これから訳されるかもしれないが、ただ著者(デイヴィッド・ダムロッシュ)の凄いところは、この章にかぎらず、そうした本を読まなくてもいいように思わせてしまうほどの精密で逞しい対象への邁進である。
そしてカフカなどを例外として、世界文学全集の世界から思いきり脱しているその他のエピソードは、それら自体の面白さと別に、旧世界文学全集性とでもいうべきものからの絶縁の徹底性によって繋がりをもつかに感じられる。その繋がりが著者のめざす世界文学らしいことが、ほの見えてくる。
ともかく著者は多くの言語への精通を生かし、各エピソードのそれぞれの論述において、徹底した展開を見せる。アウエルバッハの『ミメーシス』について書いていることが、その徹底性にかんして参考になる。
《だがこの本は五五七頁もあって、もう十分に長い。むしろいくつかの章を削除していたら、さらに彼の議論は豊かになったのではないだろうか。もし彼が、二〇作品ではなく一二作品に絞り、駆け足で論じた個別の時代と文化について、専門家の文献を積極的に用いていたならば。》
著者は対象に何を選ぶかに慎重である。それは限られた時間のなかで何を読むか慎重になるべきことに繋がるだろう。年齢のせいもあって、そういう気持ちが以前よりも私をしきりに襲う。
かつて高校生のころ、図書館の世界文学全集を次から次へと読んだものだった。その最初のほうで読んだのはロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』だが、涙をぽたぽたページの上に落とす、そんな読書の記憶が今もうっすらとある。それは主人公が少年時代、金持ちの令嬢に恋をするそのこころのうちを描いたあたりだったろうか。現実の私とはかかわりなく泣けたのだが、いま読み返せば何故感動したかが分かるかもしれない。『ジャン・クリストフ』は所持したことがなく、そのあと一度も読み返してはいない。ただロランのもうひとつの長編『魅せられたる魂』を後に読むほど、惹かれたらしい。
ともあれロマン・ロランはその後、他の世界文学を読む過程のなかで忘れられた。なんとなく覚えているのだが、高校三年生のとき、三人の19世紀の小説家が私のなかで並ぶような存在としてあった。スタンダール、ドストエフスキー、メルヴィルである。