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素敵なタイトルと落ち着いた雰囲気の表紙に惹かれて購入。
ティータイム、スコーン、辻馬車、ホイストといったものから
19世紀のイギリスの雰囲気が感じられるのがとても良い。
全体的に散りばめられた社交界への風刺や、
作家・批評家の世界についての記述が面白くて
最後まで退屈せずに読めるが、全体として何を言いたいのかはさっぱり。
結局モームが愛した女性をモデルにして、
奔放ながらも純真で魅力的な女性・ロウジーを書きたかったのかなと思った。
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最初の20ページがなんとも楽しい。学生時代は受験に必ず出る英語として勉強させられた。それも思い出だ。こういう洒脱な文章をいつかは書いてみたいと思ってきたが、それだけは叶わぬ夢だな。
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読書好きなら一度くらい作家に憧れたことはあるんじゃないか。
このお話の登場人物たちには作家が多い。そして作家や作家の人生の評価がいかに適当か、本人からいかに遠ざかっているかよくわかる。
非の打ち所のないスマートで立派な作家のロイとちょっとひねくれている主人公。
ある日主人公がロイに呼び出される。用件は、ロイが亡くなった有名な作家「エドワード・ドリッフィールド」の伝記を書くことになったため、その作家と古くからの友人であった主人公に協力して欲しいということだった。
しかし、ロイの”しっかりとした階級意識”で、実はその作家は元は水夫であり、ロイが想像する崇高な教養人とは全く異なる人間であること、彼の元奥さんロイジーも性的に奔放な人であること、はばっさりカットして、”彼の尊厳”のためになかったことにする。そして主人公には作家との文学的なエピソードを求めるのだ。
夫妻は階級など意識しない、自由でおおらかなひとたちだった。問題がなかった訳ではない、特に奥さんのロイジーは他の男と駆け落ちしてしまう”妻失格”な女である。けれど、主人公はそういった問題も含め、魅力のうちだと感じていた。
主人公は若いころ、そのロイジーに惚れていたのだが、主人公が語るロイジーの魅力がおもしろい。
もともと私はモームの書く女の人がとても好きだ。不実な人は嫌いだけれど、モームが書く女性はどんなに不実でも憎めない。それどころか魅力的に思える。
他の小説の女と違って流されて不実なことをするのではなく、自分の選択で生きているのだ。そして自分の選択したことだから、不実だろうと世間から白い目で見られろうと気にしない。そんなしたかかさに人間的魅力を感じる。
ちなみに題名の「お菓子とビール」はシェイクスピアの「十二夜」にある句で「人生を楽しくするもの」「人生の愉悦」という意味である。
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おもしろかったですね~ リアリティある感じで。
印象に残ったのは、「美は袋小路である。~だから我々は~完全な傑作よりも~不完全な作品に、より多く魅了される~美は退屈なのである」
「僕が真面目に話すと人に笑われてしまう。自分でさえ、感情をこめた文章を後で読み返すと笑いたくなる」
幼い子供を失った夜に、悲しみのあまり知人の男と浮気をしたヒロイン、ロージーの台詞。
「女房が出産で苦しんでいる最中に、夫が耐え切れなくなって、外へ行ってどこかの女と寝ることがあるでしょ。女房はそれを知ると~かんかんに怒って大騒ぎするわ~でも、わたしは言ってやるのよ。旦那があんたを愛していないとか、女房が苦痛など平気だとか、そういうことじゃない。逆に女房の苦痛に接して神経的に参ったからなのよ。~わたしも同じ気持ちだったから、よく分かるわ。」
風景描写や文芸論など、ちょいクドいかなー、というところもあるけど、飽きずに読み進めました。
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読者は、冒頭の電話についての軽妙な語り口に誘われて耳を傾けているうちに、人間と人生の裏表に通じる、多少皮肉な語り手のペースに乗せられて最後まで話を聞いてしまう――訳者の行方氏による解説の中の一文である。これほどまでに“人間臭い”作品も珍しいと思う。「有名作家」と「魅力的な女性」をめぐるさまざまな事情が、自身もまた作家である語り手の回想を織り交ぜながら語られる。人生の愉悦(=人生を楽しくするもの)について、『お菓子とビール』を片手に改めて考えたくなる、そんな印象をもった。
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主人公の語り口に導かれるまま、すらすらと読み終えてしまった一品。
読んでいる間、「ずいぶんと皮肉屋だなぁ。『回想のブライズヘッド』(イーヴリン・ウォー)の主人公を思いだすなぁ」と思っていたら、作中にウォーその人の名前が出てきて驚いた。
行方さんの解説にて「喜劇」という言葉が出てきてようやく、ああ、なるほどこの話はそういう風に読めばよかったのか、としっくり来た。
話に大きなストーリーはなく、主人公の人間観察ぶりや物の見方が滔々と語られる。それは時に辛辣で、ときにしっとりと感傷的である。
美は退屈だ、とこの語り手は言う。「美は恍惚であり、空腹のように単純だ」と。いかにも「私は通俗作家だ」とうそぶいていたというモームらしい言葉だと思う。
モームがロマンチストであるのは間違いない。しかし、彼に真正面からそう言っても、彼は素直には頷かないであろうと思った。
また、だからこそ、この話は一人称で語られるのがふさわしいと思った。
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表題の意は「人生の愉悦」―1人称の語り口に誘われる、記憶の旅。作家の描く作家。英国の階級社会。皮肉とロマン。タイトルの意味をしみじみと感じながら読みました。お菓子のような甘さにうっとりし、ビールのようなほろ苦さに酔う、とってもとっても楽しい旅。モーム、すごい。訳もよく、引き込まれました。ロウジーのような女性、素敵すぎます…
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すごくロマンチストな主人公の語り口。
もはや、老作家に近い主人公のアシェンデンが友人作家、アルロイ・キアからとある大作家エドワード・ドリッフィールドの伝記執筆に力を貸して欲しいと頼まれる。
アシェンデンは15歳ごろからの数年間と20から30歳の間、偉大な作家ドリッフィールドと交流を持っていた。
しかし、その間のドリッフィールドと周りの人々はおおよそ伝記で語るに値しない卑下た人々というのがロイの見解であり、世間の求める大作家の過去には値しない。
アシェンデンは伝記の資料提供の依頼を受けて、その数年間を思い出していく。
アシェンデンの思い出すドリッフィールドとその妻ロウジーは当時のイギリス文化から見た印象などまるで関係無く、かと言って特別美化されているわけでもない。
この作品で書かれているドリッフィールドとロウジーはアシェンデンのロマンであり、その観点は読んでいる私達にも乗り移ってくる。だから、ものすごく魅力的に見える。
一人称小説という文体と回想録の形を完璧に使った小説。
最後の場面でのアシェンデンのセリフがものすごく良かった。
「要するにいかなる感情でもいかなる苦しみでも、それを文章に書いてしまって、物語の主題やエッセイの添え物として活用しさえすれば、すっかり全部忘れられる。自由人と呼べるのは作家だけである。」
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作家の主人公が、故人でかつて親しくしていた文豪の伝記執筆の依頼をきっかけに、その文豪と周辺の人々について主人公が思い出しながら語る。
人物の描写が繊細。比喩で表現した部分が気に入った。特に、ミセス・ドリッフィールドについて「譬えてみれば、林間にある澄んだ池でしょうか」(pp.283-284)が印象的だった。
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ロウジーの言葉「あるがままの私を受け入れるのよ」
この言葉が主人公を救い自由にした。人生の愉悦を緻密な物語に落とし込む技量は天才の成せる技だと思う。長い年月生き残ってきた、価値のある一冊。再読の価値あり。
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2014 4/20読了。Amazonで購入。
『月と六ペンス』が好きだったのでモームをいくつか買ってみたうちの一冊。
作家の主人公が、亡くなった古い知人の作家について、伝記を書こうというその未亡人と別の作家から資料の提供を求められることからよみがえる、知人作家の未亡人の思い出の話とか。
実生活は割りと普通だった知人作家が偉大な文学者として崇められていることや、多くの人から好かれる快活なその前妻がすっかり貶められていることのギャップとかが、全然深刻じゃない感じで描かれる。
『月と六ペンス』同様に主人公は作家だけれど、こちらは知人作家の前妻(ロワジー)との関係の当事者になっていたりして、扱いはだいぶ違う。
作家論的な軽口/箴言とかも入ってきたり、気軽に楽しめる感じが良い。
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とにかくモームが好きなもん好きはもんで。文学やら芸術やらで[好き]とか[嫌い]なんて言い出しちゃったらもうその時点で【評価】する立場ではないしレビュー描く事すら意味がない。
どう転んでも[好き]なもんは好きでしゃーないのだから!そういう作家を個人的に何人かはいて良い。好きか嫌いかしかないのは無知の偏りとは分かっているが
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中年作家のアシェンデンは作家友人のロイ・キアからの伝言を受ける。
ロイは先日亡くなった作家の巨匠、テッド・ドリッフィールドの伝記を引き受けていたが、後半生しか知らない。
そのためドリッフィールドの若い頃を知っているアシェンデンから情報を欲しがっていた。
連絡を受けたアシェンデンは、ドリッフィールドとの交流を回想する。
アシェンデンがドリッフィールドと知り合ったのはまだ彼が学生の時。ドリッフィールドがまだ最初の妻ロウジーといた頃だ。
ロウジーはドリッフィールドを知る者たちからは評判が悪い。身分が低く浮気症で飾らず、ついにはドリッフィールドを捨てて別の男と駆け落ちした女。
ロウジーと別れたドリッフィールドは、芸術界の後見人にして社交界への仲介役ミセス・バートン・トラフォードにより作家としての地位を得て、高齢になったことにより巨匠に格上げされた。
二度目の妻のエイミは、ドリッフィールドが生きているときは田舎に隠居した巨匠を完璧に演出し、死後は巨匠の未亡人として完璧を装う。
でもドリッフィールドだって低層階級出の元水夫、風呂に入らなかったりパブで労働者と飲んだくれたり、家賃や家具の代金を踏み倒して夜逃げして自分の起こした騒ぎを聞いて大笑いするのが本質だ。
だから”巨匠”となった後でも彼が書く作品では社交界の人間より市井の人間の方が生き生きしているではないか。
だがそんな話はドリッフィールドの”巨匠”としての姿だけを求める人々は聞きたくないだろう。
だからアシェンデンは1人で回想する。
美しく魅力的な女性とその夫との思い出、不道徳で解放的で傷つきもしたが楽しかった日々、そしてとびきりの秘密を。
===
題名の「お菓子とビール」は、人生を楽しくする物、という言い回しだそうです。
そして甘いお菓子とほろ苦いビール、子供のお菓子と大人のビールという人生の機微も感じられる題名です。
モームは「月と六ペンス」と、短編集を読んだことがありましたが辛辣で突き放した印象があったのですが、
こちらは辛辣さや皮肉さの底にユーモアと愛嬌がありました。
したたかな社交界での上っ面と本音、甘く苦い青春の思い出、人生の愉しみ、映像が頭にすんなり浮かぶような流れる物語です。
最近ヘンリー・ジェイムスを読んだのですが、サマセット・モームとは同じ社交界に所属していたのか、「ヘンリー・ジェイムスならこう言うだろう」なんて出ていたので確認。モーム1874年生まれ、ヘンリー・ジェイムス1843年生まれ、モームのいた頃の社交界ではヘンリー・ジェイムスは真面目で堅物な伝説的(今風にいうとネタ的?)存在だったのだろうか。
ヘンリー・ジェイムスは幻想譚の中でも直接的な風刺を施し、モームはオブラートで幾重にも包みながらも非常に辛辣な表現です。
本作の登場人物に対しても、大衆的に成功した作家のロイ・キアに対して、
「人当たりが良くて謙虚、誰にどうふるまえばいいかを察して、自分を批判する相手にも誠意を見せ、社交界で作家界で認められてきた」などと褒めつつ、
冒頭でロイ・キアからの���話を「留守をしているときに電話があり、ご帰宅後お電話ください、大事な要件なのですという伝言があった場合、大事なのは先方の事で、こちらにとってではないことが多い。贈り物をするとか、親切な行為をしようという場合だと、人はあまり焦らないものらしい」から始まり、
「仲間の小説家が世間の評判になっている場合、その作家にロイほど心からの愛想良さを示すものはいない。だが、その作家が怠惰や失敗の成功などのせいで落ち目になった場合、ロイほど手の平を返すようにつれなくできるものもいない」
「物言いは気が利いくものでもないし、機知に機知に富むものでもない」
「あんな僅かな才能であれだけ高い地位を得た作家は私の同年代には見当たらないと思う」とまで言っています(^_^;)相当な皮肉ですが嫌らしさは感じず、あまりに作者の筆が進んでいるので、むしろ褒めてるのか?とさえ思えてしまいます。
”巨匠”ドリッフィールドに対しても、無邪気な面を持つ彼に親しみを感じながらも、
「彼は一つの情念を味わい尽くした後は、その情念を起こさせた人にもう関心を抱かないと思うからです彼は強烈な感情と極端な冷淡さを持ち合わせた特殊な人でした」と冷静な目線も持ちます。
こんな作者がただ愛おしさを語るのがロウジーに対してです。
ドリッフィールドと楽しい日々を送りながらもあらゆる男と関係し、作家の妻として振る舞おうとしない、輝く肌と魅惑の笑顔を持つ女性。
「彼女はごく素朴な女でした、彼女の本能は健康的で純真なのもでした。人を幸福にするのが大好きでした。愛を愛したのです」
「彼女は欲情を刺激する女ではなかったのです。誰もが彼女に愛情を抱いてしまいます。彼女に嫉妬を感じるのは愚かなことです。たとえてみれば、林間にある澄んだ池でしょうか。飛び込むと最高の気分になります。その池に浮浪者やジプシーや森番が自分より先に飛び込んだとしても、少しも変わらず澄んでいるし、冷たいのです」
語り手が作家の為、ところどころに作者の実体験や考えがそのまま述べられていると思われるところもあります。
作者が、作家にとって一人称で書くこととは、という考えは以下の通りです。
初めに「自分の愛想の良い所とか、いじらしい所などを書くならこの手法で結構である。(中略)しかし、自分の間抜けな姿をさらす場合には、あまり具合の良い手法とは言えない」と言います。
しかしモームがある作家に小説における第一人称を否定され、その真意を考え、色々な小説論を読み結局作者なりの考えを書き続けます。
「人は年齢を重ねるにつれ、人間の複雑さ、矛盾、不合理をますます意識するようになるものだ。これこそ中年か初老の作家がもっと重要な事柄を思考するのでなく、架空の人物の些細な関心事を書くことに熱中する唯一の弁解である。(中略)
小説家は時に自分を神のように思って、作中人物についてあらゆることを述べようという気になることもある。また、時にはそういう気にならないこともある。後者の場合、作者は作中人物について知るべきすべてでなく、作者が知っていることだけを述べることになる。人は年と共にますます神とは違うと感じるものだから、作者が彼と共に自��の経験から知ったこと以外は書かなくなると知っても僕は驚かない、第一人称はこの限られた目的にきわめて有効なのである」(P216〜)
話もよくてモームの喋りも絶好調というような実に素晴らしい小説体験ができました。
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人間くさく、でも綺麗な小説だなーという印象。
一本の良い映画を見た後みたいな読後感。
年配の小説家の男の記憶を通して、
奔放で魅力的な女性ロウジーを描いた作品。
このロウジーは、著者モームが人生で最も愛したとされる女性をモデルとしている。
欠陥も多く、思い通りにならないロウジーとの思い出が、
主人公にとって、モームにとって、
そして彼女を愛した他の男たちにとっての
「CAKES AND ALES」(=人生の愉悦、つまり人生のすばらしいところ)だったという。
叶わなかったけど、散々だったけど、
それでも大好きだった人との思い出を
心の片隅に持ってる読者は、
切なくても悪くないなあ、人生味があるなあ、なんて思うんじゃないのかな。
主人公の抱くノスタルジーを通し、
過ぎていく人生というものを素敵に思わせてくれる、ある意味での前向きさが、
この小説を好きだなあと思った理由なのかも。
100年前も今も、人間って変わらないんだなって感じます。
奔放で自由な人たちの魅力も。
初めてのモームだったけれど、他の作品も読んでみたくなった。
主人公の皮肉屋な性格から飛び出す文壇界への批判や、
イギリスの階級社会の様子も目に止まって興味深い。
本の中盤までは退屈だと感じて、中々頁が進まなかったので、
忍耐して読んでください。
途中から急におもしろくなります!
P.232
「わたし、あなたを楽しくさせてあげるでしょ?わたしといて幸福じゃあないの?」
「すごく幸福さ」
「だったらいいじゃない。
いらいらしたり嫉妬したりするなんて愚かしいわ。今あるもので満足すればいいじゃない。
そう出来る間に楽しみなさいな。
百年もすれば皆死んでしまうのよ。」
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語り手がモームを思わせる作家で、作家という立場についての語り方が面白い。この小説の魅力はロウジーに尽きるだろう。道徳的にはいろいろと破綻しているが、自分の良心に素直でいきいきと人生の舵をきっていく女。お菓子と麦酒のタイトルは両方の味わいのある人が面白いということかな。