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出版元から、ご恵贈頂く。 一気読み。 東日本大震災で被災した、石巻日日新聞が、通常通りの新聞を発行するまでに出した、6枚の壁新聞をめぐる、記者達の軌跡を綴る。 ローカルメディアとして、大震災にどのように対応できるのか、すべきなのか。 地元に根付く一住民として、さらには被災者として、どう報道していくか、等身大の記録に胸をうたれる。
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【きっかけ】
読売新聞の朝刊にワシントンDCにある報道博物館に手書きの壁新聞が展示されたというニュースを見て切り抜いていたことがきっかけだ。
まさに報道の原点と受け止めていたのでその背景をそして今回の震災の地元からの視点を知りたかった。
【感想】
震災発生から6日間、壁新聞が発行された。その間の日日新聞の記者たちの手記形式で語られる。津波に流される者。家族の安否を気遣いつつ取材を続ける者。そこにあるものは地元の被災者への正確な情報を伝えるという使命感だ。
情報を伝える。正確な情報がもたらす安堵感がヒシヒシとくる。それは自らも被災しながらも地域を盛り立てようとする生の姿勢だ。一緒に掲載されている写真がさらに臨場感をかき立てる。
あまり主観は語られることはなくどの記者も終始事実のみを語っているため怖いぐらい淡々としている。この淡々さは何だろうか。最初は諦めかと思ったが新聞記者としての使命感からくる行動はむしろ熱い。言葉では言い表せない凄さが淡々とさせているのだろう。恐怖を超えた恐怖。想像できないがよく理解できた。
それにしても何故、壁新聞という疑問は解けた。やむを得ないとはいえ、防災対策ができておらず輪転機がすぐには動かなかったという事実に結局は何かあったら手が頼りになるあるいは手しかないことに強い説得力があった。
【終わりに】
3日間。地震が起きた時にライフラインが復旧するのに要する期間だ。この期間をサバイバルすることでその後の生存率が高まるという。今回の大震災の場合、とても3日間ではない。津波の凄さが全てを飲み込んだ。6日いや1か月単位でのサバイバルになる。
確認したいことが頭に浮かぶ
避難場所
通勤中で被災した場合の連絡方法
防災グッズ
お金
結局、災害に遭遇しても金が必要になる。最低限の食料と判断力と生きていくための知恵。つくづくこの本を読んで考えた。
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石巻日日新聞社は石巻市に根ざす日刊夕刊紙である。
震災後、社屋は倒壊しなかったものの、津波の被害で電源はなく輪転機が動かない。だが記者らは何とか水没を免れたロール紙で壁新聞を作ることに決める。取材し、何を伝えるかを取捨選択して、マスターを作成した後、手書きで何部か書き写し、避難所やコンビニなどの前に貼り出すことにする。
何とか電源を確保するまでの6日間、自らも被災者となっていた記者達は何を思い、どのように行動し、壁新聞の作成にあたっていたのか。本書はその記録である。
この本の主眼は、何といっても第3章の記者6人の記録である。新聞記事などで読む体験談は、生々しいものがあるものの、聞き書きであるわけで、そこに1つクッションが入る。これはさらに一枚ベールが剥げた感じ。文を書くことを生業にしている記者達が語る体験談は、ぐっと眼前に迫って感じられる。
中には実際に津波に流され漂流の後、助けられた記者もいて、生き延びるのがいかに奇跡的だったかを思うと言葉もない。
いかにひどい災害だったかと改めて思う。
そしてその災害の中、「伝える使命」を全うしようとし、なおかつ「希望を伝えよう」とする、地方紙の気概に胸打たれる。
*「顔見知りの誰々に手紙を託し」「友人の家に泊り」などといったエピソードが随所に挟まれ、都会だとこうはいかないかも、と思ったりする。都市部で災害が起きた場合、いろんな意味で別の様相を見せるのだろう。
*年若い新人記者が書く「ブリ大根」と「エヴァンゲリオン」のエピソードに、何だか若さのエネルギーを感じる。若いっていうのはすごいことだ。
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自らも被災し、家族の安否も確認出来ないなか、
真実を伝えなくては、報道をしなくてはという使命感に突き動かされ、
壁新聞を発行し続けた方々の姿勢に
最大限の敬意をはかりたいと思う。
記者達の書いた、地震発生直後からの手記は、ただ事実だけが時系列に記され、
部外者からは見えない、当時のその場が鮮明に記録されている。
そこから見えた、正解な情報の取得
と伝達の難しさ。
コミュニティとコミュニケーションの重要性が浮き彫りになった。
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2011年7月11日「【特別授業】非常食を食べたことがありますか?非常食から震災を考えましょう!」(http://www.1455634.jp/fsusvles.php?ini=13)の関連図書。石巻・女川の状況がよくわかります。
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前半が壁新聞、後半は各記者さんたちの地震発生時からの行動記録。津波にのまれた方が油のまざった水を飲んでしまったので洗浄のため入院したそうで、改めて真っ黒な波を思い出した。
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今年3月11日の大地震で被災した石巻日日新聞。輪転機が水没したり、記者が津波で流され漂流したり、と何もできないはずの中、自身の翌日からなんと手書きの壁新聞を発行。地域紙ならではの気概に元気が出た。 あの地震の日、森達也「A3」オフ会に参加するため東京に行っていた私は、大学生の娘の最寄駅に着いたところで大きな揺れに遭遇。てっきり東京が震源地かと思ったくらいだったのだけど、(だって過去二回経験した新潟の地震よりずっと衝撃的な揺れだったのだもの。)
そのすぐ後に娘の部屋でテレビをつけ、東北のあまりの惨状に愕然・・。
そのまま、ほぼ2日間、正座してテレビを見続けたのですが、同じ映像をこれでもか、と悲惨さを強調するコメントと共に流すテレビに辟易してスイッチを切った後、新潟に戻っても、先月くらいまでテレビも新聞も封印しておりました。
知りたい情報、ではなくて、より刺激的で恐怖感を煽ったり、なんて気の毒な・・と言いながらも、自分の家や家族は無事でよかった、と思ってしまうような情報がただ怖くてたまらなかったからです。
その意味で、いったいあの時、何が起こっていたのか、を地元のジャーナリストの目でありのままの姿を綴ったこの記録は、私にとってとても貴重な一冊となりました。
前半は、社長自らが語る、「壁新聞を作るまで 作ってから」の六日間。電気も水もなく、もちろん食べるものもなく、それどころか、家族や記者たちの安否もわからないまま、目の前の事実を伝えなければならない、と手書きで壁新聞を作り、コンビニや避難所に貼りに行った日々。そして、私がうんうん、そうだよね!と思ったのは、紙面が限られていたことからという理由があったにせよ、いかに悲惨か、という情報よりも、支援の状況や、地域のここは大丈夫という明るい情報を中心に載せたことでした。ボランティアや炊き出しのお願い、など、地元民の力を募る記事もあり、まだまだ自分たちにやれることがある!と思わせてくれたことも大きいと思います。
後半は、記者1人1人が、時間と日にちを追いながら、あの時の自分はどうしていたか、を語っておられ、ジャーナリストとして、また、1人の人間として、そして、家族を持つ親として子としての気持ちを率直に教えてくれます。若い記者のエネルギーに驚き、ベテラン記者の思いに共感し、と、ようやくじっくりと地震を追うことができました。
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これこそがプロフェッショナルの仕事。
原点に立ち返った時に単純に何ができるか。
新聞の場合は「伝える」ということ。
自分の場合は何か?を考えながら読んだ。
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東日本大震災ではソーシャルメディアが大きな役割を果たしたことが注目された。電話やメールが通じない中、Twitter等によるコミュニケーションが全国規模で行われたことは、今回の災害を強く特徴づけられるものだろう。
そしてそれはTVやラジオ、新聞など既存メディアの役割を新たに見つめ直すきっかけにもなった。
石巻日日新聞は宮城県石巻市に社屋を構え、同市の他、東松島市・女川町等を主な配達エリアとする8ページ建ての地域紙である。この小さな新聞社の名を一躍世界に知らしめたのが、地震の翌日から6日間に渡って発行された手書きの壁新聞だった。
3月11日、地震とそれに伴う津波の影響で印刷機器が使用できなくなった同新聞は、手書きで新聞の発行を続けることを決定。新聞用ロール紙を切り取ってマジックペンで大きな壁新聞を制作、避難所等に貼り出してしていったのだ。
輪転機どころか個人向けのプリンターでさえ高性能の機器が簡単に手に入る時代である。学級新聞でもあるまいに手書きの新聞なんて!と考えてしまうのは平常という恵まれた環境に身を置く者の特権だ。想像を絶する災害により全てを失った人々にとって情報は、水や食料、電気に匹敵する重要なライフラインである。
5か所の避難所と、コンビニエンスストアのガラスに貼り出された壁新聞を被災者らは食い入るように見つめていたそうだ。
本書は、そんな壁新聞発行をめぐる壮絶な記録である。
夕刊紙である同新聞はあの日午後2時ごろには輪転機を回していたという。新聞社にとって当り前の光景。しかしそれは未曾有の災害によって破壊されてしまう。社長の近江弘一はめちゃくちゃになった社屋の中で決意する。「今、伝えなければ、地域の新聞社なんか存在する意味がない」
もちろん社員ら自身も被災者である。家族の安否もわからない。同僚の生死もわからない。そんな異常な状況のもので手書き新聞を発行し続けた心境は如何なるものだったのか。
ここで個人的な思い出を語る。先日、石巻日日新聞社の武内宏之常務取締役報道部長の講演会が私の地元で開催された。当時の写真のスライドを交えて話される内容は壮絶の一言だった。
<会社の窓から津波に流されていく車が見えた。車内に助けを求める人の姿が見えたが、何もできなかった>
終始穏やかな口調だったが、その言葉はとても重かった。
受け入れがたい現実に直面させられた時、人はただ立ち止まってしまうのかも知れない。武内氏は「これは映画の一場面に違いない」と考えてやり過ごしていたという。そうしなければ正気を保つことができなかったのだ。
当時、大手メディアの記者が次々と被災地入りし全国に向けてその様子をリポートしていたが、被災者に必要な情報はなかなか伝わらなかった。武内氏は語る。
<被災地の様子を全国に伝えるのも大事だが、被災地の人々に必要な情報を届けることも大事だ>
本書口絵には武内氏が6人の記者と写っている写真が収められている。ここに写っているのが石巻日日新聞に勤務する記者全員である。この合計7名が伝え���うとした事は何だったのか。
また同じく口絵に6日間の壁新聞の写真も収録されいてるが、日が経つにつれ情報量が多くなっていっているのがわかる。それは復興へ向けて少しずつ立ちあがろうとする鼓動のようだ。この壁新聞はワシントンの報道博物館「ニュージアム」に永久保存される事が決定し、また同新聞社に対し国際新聞編集者協会特別褒賞が授与される事も決定。さらに菊池寛賞が贈られることも決まった。
わかるだけでいい。正確な情報を必要な人に届けること。すべてのメディアの役割の原点だ。
もちろん物事は美談だけではない。震災直後の町ではカメラを向けられた人々から怒りの言葉を投げかけられた。当然だろう。また壁新聞発行が英雄譚のように語られているが、そもそもそれは地震や津波に対する危機管理ができていなかった事の結果であり、実際印刷した新聞の発行を続けている他の新聞社もあった。
そして事実として購読する人自体が減ってしまったという現実は経営を脅かすものでもある。
暗澹たる気持にならざるを得ないだろう。武内氏は語る。新聞発行が正常に戻った現在、なるべく希望の持てる紙面を作ろうとしているが、どうしても辛いニュースも載せなくてはいけない、と。被災地で自殺者が増えているという今、何ができるのか。
この本を読んで物足りなかった点がある。新聞社には記者だけでなく、営業や販売、配達員に至るまでさまざまな職種の人間がいる。ぜひそんな人々の記録も読んでみたかった。
そしてメディア以外の職業の人々の記録も読んでみたい。あの日、たくさんの哀しみが生まれ、たくさんの想いがあの地には交錯したはずだ。そんな記録を後世のために残してほしい。
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これは新聞社としての指命とかそういう内容ではなく、東日本大震災の発生直後に、現地で何が起きたのかのドキュメントとしての価値のほうが高いように思いました。惨状を伝えると共に、記者本人、そして周りの人の心の持ち方がストレートに描かれています。
この「壁新聞」は、確かに当時の現地で何もわからないという人々には大きな価値があったに違いありません。しかし、機能としては通信社的機能であり、新聞社としてのジャーナリズムとは違うものだと思うのです。
当時の著者らの行動は素晴らしいことですが、今の新聞というのは必ずしもその延長線上にあるべきではないはずです。逆の言い方をすれば、多くの地方誌は壁新聞を印刷しているようなものだということです。「伝える使命」というのはいい言葉ですが、油断すれば思考停止に陥る道だとも思います。
というわけで、僕はあまり地方誌にいい印象をもっていませんが、この本に登場する記者の手記は、震災の記憶を薄れさせないための記録として、とても価値のあるものだと思います。
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どうして壁新聞を作ったのか。なぜ壁新聞だったのか。
私がテレビの前で呆然としていた時、石巻の新聞会社やその周辺では何が起きていたのかを記録した本です。
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世界の人々にも、あの衝撃、惨状をいまもなお
訴え掛け続けている「6枚」の壁新聞。
その製作までに至った過程を、たんたんと書き綴っている。
そこには、地域に根付く本来の記者の姿があった。
ただ、注目を浴びる一方で、記者たちは
「おれたちはただ、普通のことをしているだけ」という世間との
ギャップにも悩まされていた。
本当に支援が必要な人たちをもっと取り上げてほしい、
がれき問題など、伝えるべきことはたくさんあるじゃないか・・・
記者という仕事を考える。
**************************
手を挙げたのは、12人中わずか2人だった。
福島民友のA記者が分科会のメンバーに投げかけた質問。
「福島の農産物買ってますか」
「少なくてショックだった」。結果を見て、
少し表情を曇らせたA記者の姿が、福島県民の心情を代弁している。
震災後、連日福島の放射能事故が紙面をにぎわせた。
一方でマスコミは風評被害に苦しむ農家を取り上げ、
「福島産は安全」とPRしてきた。だが、安全を口にする、
その自らの口に福島の農産物を入れない矛盾。
記者として、この矛盾にどう向き合っていくべきなのか―
責任ある報道が求められている。
*************************
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資料番号:011421187
請求記号:070.2/ロ
※3月11日(日)TBSで夜11時から放送の『情熱大陸』
で特集される石巻日日新聞の出版の本です。
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偶然、図書館で目に付いた本。
3.11が近いので、無意識に気にしていたのかもしれない。
当日から一週間の石巻日日新聞の記録。
読み進めるなかで、津波で亡くなった知人のことを思い出さざるをえないこともあったけど、読んでよかった。
大手のマスコミは、大きな被害を伝えていたあの頃。
被災地では、大きな事柄ではなく、自分の住む地域の情報を欲していた。
それは当たり前のことなんだけど、それがかなわない時。それがあの時だった。
壁新聞が有名になり、それに行き着いた事情もなにも知らなくて、この本を読んで、絶句した場面もあった。
そして、家族や知り合いの安否もわからない不安だらけのなかで、たくさんの方々が周りを助けていることに、なんとも言えない気持ちになった。
読み終わって思ったのは、「地域との絆が大事」「本当の報道とは、地域に密着した情報伝達」ということ。
読んで良かった本です。
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2011年3月11日の東日本大震災の際、宮城県の地域紙・石巻日日新聞社では輪転機が一部水没し創刊99年の新聞発行が危機に立たされる中、彼らは『壁新聞』という方法で七日間新聞を発行し続けたその記録です。
本書は2011年3月11日の東日本大震災のときに、宮城県地元紙である石巻日日新聞社にて、輪転機が一部水没し、新聞の発行が危うくなる中、なんと壁新聞として紙とペンだけで7日間、手書きの壁新聞を発行し、自身の家族の安否もわからないまま取材の最前線を走り続けた記者たちの様子や、発行された新聞によって励まされた現地の人々の記録を綴ったものです。
あの壮絶な地震と総てをなぎ払い、飲み込んでいった津波のあった中で『伝えるとは何か?』ということを多言し続けた彼らの『心意気』に息を飲まれました。どんなことがあっても必要なものは『確実な情報』で、これは全国紙には決してできず、地元紙だからこそできたことだったのだ、ということを思いました。特に震災直後、混乱がピークになったときにも社長が自分の執務室に止まりこんで陣頭指揮を執っていたことや、取材に当たった記者たちの行動が時系列で記されている点。
合間合間にはさまれている生々しいまでの震災の爪あとを写した写真の数々には圧倒させられました。彼らの貴重な記録は僕もいつかその新聞を見てみたいな、と思っております。