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25年後のチェルノブイリはゴーストタウンと化している。フクシマも同じような光景となっていくのだろうか…。原発事故がもたらした喪失感のなんという淋しさ。
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視覚で聴覚で数字で肌で感じたチェルノブイリの現状を伝える新書。著者の感じたことには遠く及ばないだろうが、写真と文章から人間の無力さが伝わってきた。ただ内容について細かい説明を私はできない。感じ取ったことが全てだった。読み始めると読み終わっていた。そんな本。
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チェルノブイリのありのままが伝わる感じ。「進めば進むほど、土地は安くなり、人は少なくなり、自然は美しくなる。」
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ああ。福島も将来、このチェルノブイリのようになってしまうのだろうか。あまりにも、あまりにも、悲しい。チェルノブイリの写真満載だが、福島と重ねると悲しくなってくる。
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キエフ生まれで、チェルノブイリの撮影をいまも続けている写真家の作品。福島第一原発近隣の施設に2度ほど研修で行ったことがあり、その後あの土地はどうなってしまうのだろうか。という思いから読んでみた。
チェルノブイリ原発周辺の土地は荒れ果て、現代のポンペイとまで言われている。人間の生活が感じられるものは朽ち果て、オオカミの楽園となった土地の写真には寂しさや、悲しさしか感じなかった。グラウンドゼロから50キロ離れた街は今も廃墟だ。当然、チェルノブイリと日本では事故の大きさや悲惨さは異なるが、土地のせまい日本で、子供たちの未来が明るくなるように大人が頑張らなくちゃ。
メモ
ウクライナ語で、チェルノブイリはニガヨモギの草(アブサン)
聖書には、ニガヨモギが黙示録(世界の終りを予言する)中に書かれている。
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チェルノブイリの事故から20年(?)くらい経った今の、住む人が殆どいなくなった原発周辺の町の様子が写真を通じてわかった。地の文章がちょっとかっこつけかな、と思った。チェルノブイリに行くと自然とそういう気分になるのか、それともそれは作者の性格なのか。
いずれにしても写真に写っているすべての寂しい光景を作り出すことになったのは、人間の行いなのだと思うと、人間は大変なことをしてしまったのだなあ、と感じた。
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(推薦者コメント)
2011年3月11日、福島第一原発事故。日本は、今もこの事故に由来する放射線などの問題に慌てふためいている。この問題はこれから数十年間、ずっと日本に暗い影を落とし続けるだろう。1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故が、現在でも収束していないことから、容易に想像がつくことだ。本書は、チェルノブイリ地区をバイクで旅し、現地の現実を写真にとらえ、まとめたものである。無人の街の姿は、今の私たちに畏怖を覚えさせるのに十分すぎるくらいの存在である。チェルノブイリの姿がここにある。
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運命の日、1986年4月26日。旧ソ連のチェルノブイリ原子力
発電所で爆発事故が起こった。この日から、チェルノブイリ
地域からは続々と住民が避難し、現在でも放射能の強い
影響を受けている為に広範囲で立ち入りが禁止されている。
そんなチェルノブイリを愛車KAWASAKIのNINJAで走り、レポートを
続けているロシアの女性写真家のウェブサイトの書籍化である。
ビジュアル新書という分野になるのか。豊富に掲載された写真からは、
人間がいなくなった街々の怖いまでの静寂が伝わってくるようだ。
メンテナンスされることもなくなったアスファルトから芽を出す木、
玄関が蔦に覆われた民家、写真も手紙も思い出の品も持ち出す
ことなく住人が去った室内、散乱した荷物の中に取り残された人形
だけが転がる幼稚園。
添えられた詩的な文章と写真に交互に目をやると、切々とした哀しみが
込み上げている。
今年はチェルノブイリ事故から25年目。今から20年後、もしや福島は
本書に映し出された街々と同じようになってしまうのか。
「石棺の放射能は、少なくとも10万年残る。エジプトのピラミッドは、
5000年から6000年前に作られた。文化はその区切り区切りに、消えない
ものを残してくれる。ユダヤの時代は聖書を、ギリシャの文化は哲学を、
ローマは法律を。そしてわれわれは、この石棺を残す。石棺は、この時代
の何よりも長く、ピラミッドより長く残るだろう。」
我が旦那が買って来たものを略奪して読んだのだが、略奪してまでも読む
価値ありである。
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とっくに読み終わっていたものをレビューし忘れてた。
チェルノブイリをバイクで走りながら、その現状を淡々と、しかし重い言葉と写真で綴っている。決して押しつけでない書き方の中に、底知れぬ恐怖を感じる。以前見た象の足の映像もそうだが、そういうものを見せられると、圧倒的にどうしようもない現実を感じてします。そういうともちろん福島の方々には失礼だが、福島の地にもう一度住むということが決して簡単なことではないということが分かる。もちろん放出された放射能の量は決定的に違うとはいえ、政府も今のチェルノブイリの現状を見ながら、福島の現実を考えてもらいたいと思った。
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震災から1年を迎えようとしているフクシマ。今 この時期に震災、原発関連の本を集中して読む。
~自然は容赦なく、土地を再生させる。数百年の間に、人がここにいた証拠は消え去ってしまうだろう。放射能だけを残して。~
ーオオカミの大地よりー
すべてが絵に描かれたようで、絵の中を歩いている感じがする……と。
彼女の一言一言、一枚一枚が身にしみる良書だと思う。
放射能でどれだけの人が亡くなったのか誰も知らない。最終的な犠牲者の数は私達が生きている間には分からない。
チェルノブイリから25年、フクシマの事故をキエフで知る著者。
私達は同じ過ちを犯した。
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女性が、バイクでただ一人、
チェルノブイリ事故後のようすを写真でレポートする。
その勇気に脱帽。
でも、人が誰もいない世界では、暴力という危険とは無関係なんだね
女性にとっての一番の危険はないのかもしれない(何だか複雑)。
ただし、自然という脅威と、孤独との闘いは厳しさを増しているはず
それだけで十分に厳しい闘い。
以前に読んだ 『チェルノブイリの森(メアリー・マイシオ、NHK出版)』を思い出した。
事故後、人間のいなくなった世界は自然の王国だった
と 書いてあった。
きっと、そうなのだろうと思った。
この写真集のような本からは、それを窺い知ることはできなかった。
写真はすべて曇天の下のような灰白色のトーンで、
木々は枯れ朽ちていて、冬の景色のようだった。
私は、実は、春や夏のようすがとても見たかった
新緑萌える若葉や、青々と茂る草木を、見たかった
たとえ遺伝子が傷ついていても、
生き生きと成長する自然の姿が見たかった。
もちろん、その自然の中に取り残された
人間の痕跡は廃屋になり、ビルは白々しい姿をさらすのだろうけれど・・
そして、音!!
「耳が聞こえなくなったかと錯覚するほどの静寂」
そう表現されていた。
これを、きっと、伝えたかったんだろうな、
グレイの荒涼たる写真の数々で。
私がざまあみろって言ってるような自然を見たいというのは
きっと『チェルノブイリの森』の衝撃が後を引いているせいなのだろう
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ウクライナの写真家(兼バイク乗り)による、チェルノブイリ地域の写真集です。原発に対する考えにはそれほど触れず、写真に写った現状を詩のように淡々と語っている感じが、荒涼とした廃墟の写真にマッチして妙に印象的でした。
放射性物質が完全になくなるためには、これから途方もない時間がかかります。その間に、その土地に住んでいた人々やその子孫の生活はどんどん変化していく。日本は資源産出国ではないため、感情論での議論ではいけないと思いますが、自分が住んでいた町がこの写真のようになったら、きっと涙が止まらないんだろうなと思いました。何かを代償にして何かを得るって、難しい。
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チェルノブイリ原発事故からはや四半世紀。誰も彼もがすべてを置き去りにして退去しなければならなかった。ページをめくるにつれ胸苦しい思いに苛まれた。これが現実であることを直視する勇気と覚悟をもらったようにも感じた。福島の将来を考えるうえでの貴重な資料でもある。
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かつて人が生活してた場所で、誰も写ってない写真を見ていくのは、見ているうちにだんだん不安になってきて怖かった・・・。写真を見ていて、その場の雰囲気を漠然とでも感じたのかもしれないなぁ・・・。
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[ 内容 ]
「チェルノブイリの原子炉から二五〇キロメートル圏内では、二〇〇〇を超える街や村が消えた。
毎年ここに来る度に、朽ちていくものが増えていく」一九八六年の事故から四半世紀後のチェルノブイリの世界。
放射性物質による汚染の末に無人となり、時間が消えた大地をモーターサイクリストにして写真家のエレナ・ウラジーミロヴナ・フィラトワが走破する。
本書は、廃墟に残るかつての暮らしの気配をたどり、人工物を無造作に覆いつくしていく自然、そして原子力災害の現実を静かに表現した詩的文明批評である。
[ 目次 ]
第1章 ゴーストタウン
第2章 オオカミの大地
第3章 二〇〇七年春
第4章 冥王の国(プルート・レルム)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]