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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2011.12
- 出版社: 角川春樹事務所
- サイズ:20cm/201p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-7584-1185-1
紙の本
山本周五郎戦中日記
著者 山本 周五郎 (著)
太平洋戦争中の緊迫した状況のなか、作家として、そして家族の大黒柱として、何を考え、どう生きたか。山本周五郎が遺した日記のうち、1941年12月8日から1945年2月4日ま...
山本周五郎戦中日記
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商品説明
太平洋戦争中の緊迫した状況のなか、作家として、そして家族の大黒柱として、何を考え、どう生きたか。山本周五郎が遺した日記のうち、1941年12月8日から1945年2月4日までを全文収録。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
山本 周五郎
- 略歴
- 〈山本周五郎〉22歳で文壇デビュー。著書に「樅ノ木は残った」「赤ひげ診療譚」「ながい坂」など。
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紙の本
1945年2月までで終わっていることが仕方ないと思いつつ、惜しまれる
2012/02/04 10:37
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
山本周五郎の戦時中の日記である。ほぼ同じ時期に添田知道も日記をつけており、それは『空襲下日記』として以前に本になっている。当時、馬込の近所に二人の家族は住んでおり、日記ではひんぱんに互いのことにふれている。
たとえば1944年11月25日、添田知道はこう記す。《九時、山本を誘はんと行けば、彼既に自転車を借りて行ったと細君いふ。》この部分に対応する周五郎の日記は次のごとしだ。《新聞でみると荏原の方がだいぶやられているようすなので、河原の自転車を借りて戸越を見舞った。》続いて少しあとに《午近くに警・報発令、支度をして添を見舞う、……》とある(周五郎の日記では添田知道のことは「添」とだけ書かれることが多い)。一方、添田の日記はこうだ。《十一時半戻れば、すぐ警報。……狭い庭のヒマラヤ杉の枝を切り、焚きものとすべく、そこへ山本来て、小談。》(……は引用者による略)
こういった調子で、驚くほど密に近所づきあいをしていたことが分かるのだが、二人の戦時中の日記には、日記にこめた思いの強さによって異なる肌合いがある。1944年11月24日から1946年8月29日までの添田知道の日記は膨大な分量のせいか、編者によって細かな省略がほどこされている。空襲がひどくなってから書き始められたその日記は、空襲にかかわるラジオのアナウンスを一語も洩らさずに書きとめようとする執念によって、記録的な価値が大いにある文献である。没後発見された、桐箱におさめられた10冊近いノートが基になっている。
一方、1941年12月8日から1945年2月4日までの山本周五郎の日記は、基になっているのが大部とはいえ一冊の日記帖にすぎない。前半はとびとびの記述で(真珠湾攻撃の12月8日のあとは、翌年2月18日まで日記の記述はない)、気の向いたときに書かれた形跡がある。また本書の編者は次のようにあとがき的解説のなかで書いている。
《一九四四年の十一月からは、日記の分量が急激に増えた。理由の一つに出版事情がある。多くの雑誌は統廃合され、割り当てられる頁数は激減していた。……書くことが生きることでもあった作家にとって、反動のように日記の記述が増えるのはきわめて自然なことであったといえるだろう。》
日記は2月4日で終わっているが、3月には東京大空襲があり、それ以上に周五郎に過酷だったのは妻の病気、そして5月の死去だった。『空襲下日記』には本箱を棺桶にして運んだ経緯が記されている。そうしたことを日記につけることが周五郎にはできなかった。
山本周五郎にとって日記は、自身の小説を書くことにくらべ、二義的な位置にあったと思う。公表の意図もまったくなかっただろう。文字の間違いにもあまり気にかけていない。だが本書が価値あるのも、まさにそこ、公表を意図していないものが公表されるところにある。
この日記が書かれていたころの山本周五郎の小説に、直木賞を辞退した『日本婦道記』がある。そのなかの「松の花」と「箭竹」を再読してみたが、徹底して封建主義的なその中味と徹底して涙腺を刺激するその語りのうまさとのバランス(あるいはアンバランス)にあらためて不思議な思いをいだいた。空襲にあけくれ、家族を思い、ときに添田知道をはじめ仲間と酒をのむ戦時中の周五郎(それらがこの日記のなかに本人の手によって描かれている)のなかから、周五郎自身、戦前の作品では例外的に評価している『日本婦道記』の諸作が生まれた。
そして再読こそしなかったが、山本周五郎が戦後に満を持して書いたと思われる『柳橋物語』は要所にぱらっと視線をやっただけで、もうじわりと涙が浮かぶのを防ぎきれない。最も見事な恋愛小説であり、その涙腺刺激度の高さは超弩級といえる。そしてこの小説に描かれた江戸の大火(そのなかでヒロインは、彼女を愛する男を喪うが、彼女を助けながら死んでいった男のことを「真に」思い出すのははるか後のことになる)こそ、関東大震災を体験し、戦時中のたびかさなる空襲を経験したがゆえに生まれた描写であることが、この戦時日記を読むことで想像される(ただし2月4日までの本書の日記は、東京の下町を襲った大空襲についてはふれていない)。
さて戦前の代表作といえる『日本婦道記』と戦後まもなく書かれた『柳橋物語』、二つはともに周五郎的でありながら、決定的な差がみられるところが面白い。『柳橋物語』は戦争を経ることによって大火の描写が生まれたことを別にしても、まさに戦後という時代においてこそ書かれた圧倒的に素晴らしい小説なのだ。ヒロインは『日本婦道記』のヒロインたちと異なり、封建主義的にではなく凛としている。『柳橋物語』は戦中、戦前には決して書かれなかった小説だろう。
本書には周五郎なりの過酷な状況への決意や思いが述べられており、具体的に『日本婦道記』の内容にはふれていないものの、あの小説が生まれた心理的な背景は分かる。だが残念ながら、戦後の『柳橋物語』へ至る周五郎小説の決定的な推移を示すものは、1945年2月4日までの日記からは読みとれない。
山本周五郎と添田知道の関係に戻るが、『空襲下日記』の編者解説では、添田が無私の精神をもって、曲軒とあだ名された、つきあいにくい周五郎の面倒をみたように書かれている。私もかつてサイト「戦争と日記」のなかで、そのような引用をしていた(不覚にも二人の名のインターネット検索を通して自分が書いていたことを知った)。だが今回、二つの日記を読みくらべてみると、まさに対等のつきあいではないかと感じた。
紙の本
命懸けの文学戦争の記録
2012/05/25 12:43
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書には1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃の日から1945(昭和20)年2月4日までの日記が全文復刻されている。
当時彼は38歳。東京大森の馬込文士村に居を構え、連夜の空襲の中を防空壕と行き来しながら代表作となる「日本婦道記」などを雑誌に連載していたようだが、空襲を今か今かと待ちながら彼は「鉄兜をかぶって玄関先で小説を書き」、空襲警報が鳴ると組長として隣組を駆けずりまわって避難させ、敵機が去るとまた原稿用紙を広げ、ヒロポンを打ちながら徹夜して書きまくという日々が続くのである。
この頃の出版社は用紙が配給になり短編の依頼ばかりだったようだが、作家は愛する妻子のために、否それ以上に鬼畜米英と戦う祖国と同胞のために、彼の最善の小説を書くことをもって彼の戦争とみなしている。ここでは書くことが最前線で敵と砲火を交えている兵士の戦闘と完全に等価になっており、空襲で死ぬことも恐れぬ文字通り「決死の文学戦争」が書斎で戦われていたことが分かる。
昭和19年11月9日には「スターリンが革命記念日に日本を侵略者と断言した。この事実の重さを責任者は正当に理会しているのか」という記述があるが、著者の願いも空しく当局はソ連に対する備えを怠り、昭和20年8月の対日宣戦と南樺太や北方領土の不法占領を許したことを我々は記憶し続けてなければならない。
「己には仕事より他になにものも無し、強くなろう、勉強をしよう。
己は独りだ、これを忘れずに仕事をしてゆこう。
神よ、この寂しさと孤独にどうか耐えてゆかれますように」(昭和19年10月19日)
「しっかり周五郎」と綴った著者だったが、この日記が終わったあとの3月には東京大空襲で長男が行方不明となり、5月には愛妻を喪う。作家の命懸けの戦いは、その後も長く続いたのである。