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祝島の人たちが、上関原発を建てさせないように、この30年闘ってきた様子がよく分かった。彼らが、日本に原発が増えるのを阻止してきてくれたことは、島民500人で、他の日本人1億3千万の命を守ってきたのと同じことだと思った。遠くに住んでいても、一緒に闘わないといけないと、この本を読んで思った。自分たちのことだから。
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あたりまえのことだが、原発の計画さえなければ未来はバラ色、というわけにはいかない。原発計画がなくなっても、生きるということは、それぞれの状況なりに、やはりしんどい。それでも「原発あり」で生きるか、「原発なし」で生きるかは、まるで違うと私は思う。
ならば、やはり「原発なし」で、しんどい生を生きてゆきたい。祝島や珠洲の人びとは、そのしんどさを、安易に解決しようとはしなかったのだろう。
「抵抗しつづければ、原発は経済的に破綻して、撤退せざるを得なくなる」(序章の立花正寛さん)という言葉のとおり、珠洲の原発計画は「凍結」となった。いままた上関の原発計画も、原発をつくるための海の埋めたて免許が失効しつつある。(210p)
2011年3月14日、私は祝島にいた。原発事故があったからではなく、前から観光旅行を決めていたからである。柳井港から船に乗る直前に、私は福島第一原発が二回目の大爆発をした映像を見た。その時には知らなかったのであるが、それからの数日間が日本史上最も危なかった日々だった。下手をすると連鎖的なメルトダウンが起きて、関東一円が避難地域になっただろう。そうなれば、日本全体が精神的に沈没していたかもしれない。
私は祝島が原発計画に長い間島ぐるみの闘いをしていることは知ってはいたが、ただそのことだけを知っていただけだった。あとから考えると「しまった」と思うのだが、上陸したその日の夕方、いつものように月曜日デモがあったはずなのだが、宿に入っていた私は「団結小屋に人が集まっていたのは原発事故を受けて緊急集会をしているのだろう、他所者がみだりに見物するべきではない」と出て行かなかったのである。私は、夕方の散歩をする中で、島民たちの笑顔を幾つか見た。山口県知事が上関原発の埋めたて工事について「一時中断」する意向をいち早くつかんでいたためだろうと、今ならばわかる。
祝島の闘いをテーマにした映画をその後二本観て、私は祝島の見事な闘いにいくらか詳しくはなったが、やはり映像と本は違う。いくつも発見があった。
2012年になって、私は民主党の方針や山口県知事の宣言もあって「祝島の闘いは勝利した」と思っていた。しかし、月曜日デモは止むことがなかった。安倍政権に変わって、「新規建設の白紙方針は撤回する」と報道があった。そういえば、2013年3月4日にも 建設予定地海域の埋め立て免許の延長申請について、山口県の山本繁太郎知事は「今後も審査を継続する」と述べ、許可、不許可の判断を1年程度先送りする方針を表明した。知事は知事選での公約を事実上反故にしたのである。彼ら祝島住民たちの闘いは、メデイアの様に一喜一憂はしない。それ程までに生活そのものなのである。
しかし、私の旅の時もそうだし、この新書の中でも彼らは明るい。勝算があるからだろう。「抵抗しつづければ、原発は経済的に破綻して、撤退せざるを得なくなる」という珠洲の立花正寛さんの言葉は確かに説得力があった。たとえ、そのために30年間経ったとしても。
もう一度、祝島に行きたい。
2013年2月6日読了
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寡聞にして知らない・・・・・というより、メディアには取り上げられないのだろう。珠洲についても、もちろん祝島についてもほとんど知らない。
全国でこのような戦いがなされているのでしょう。
それにしても、この新書がなければ知ることもなかった、この、まるで他国の出来事のような。
メディアは本当のところ、どちらの味方なのだろう。
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原発をつくらせなかった人がどれほどの苦労をしたかを、祝島を取材して書いた本である。海上保安庁の巡視船は尖閣列島問題で注目を集めているが、祝島では民間企業の中国電力の味方について、祝島の原発反対住民をいかに苦しめたかがよくわかる。
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原発立地の候補に挙がり、原発建設をやめさせるべく30年間闘い続けている祝島の人びとを追ったルポルタージュ。
その場所に通って、土地を見て海を見て、歴史を調べて、人と話して一緒にご飯を食べて、しっかり関わりあったから書けた本。
仲良く助け合って暮らしていた祝島の人たちは、建設計画を機に「ハンタイ」「スイシン」のまっぷたつに分断される。
この本はハンタイの立場に立脚して書かれたもの。
スイシンの側の話も見たいと思ったけれど、こんなにも分断されてしまった場所で、きっちり関わるスタイルで双方の意見を聞くのはきっと無理だ。
助け合った友人も親しい親類も、立場がわかれてしまってからは口もきけない。
激しいときは親の葬儀にさえ行けなかった。千年続く祭りも止まった。
遠くで見ているだけだと「なんでそこまで」って思う。
だけど、そこまでしなくちゃ止められない。
原発問題は原発問題として、と仲良くしていたら反対運動は五年ももたなかっただろう、ほんとうはそんなことしたくなかったけれど、という島民の言葉が重い。
なあなあで済まさなかったから今があるけれど、ここまでの闘いを強いられる時点ですでに公害だ。
傷つくのは当事者だけじゃない。最前線に駆り出される下っ端たちもそうだ。
中電に雇われた警備員だって本当はじいさんばあさんを力づくで抑え込むなんてしたくない。
お国に歯向かう「反逆者」をやっつけるつもりで来た海上保安官たちだって、事情を知ってしまえば無体なことはやりにくい。
なんだか、イラク国民に歓迎されると思い込んでウキウキしながら出かけて行って憎しみの目で見られることにショックを受ける米兵を思い出した。
Uターンの出身者が、
自分はここで育って原発問題も親が反対していたから関心を持っていたけれど、自分でなにかするわけじゃなかった。島に戻ってくるまでここまで闘う理由はよくわかっていなかった。関心を持っているだけじゃ「無関心層」でしかなかった。
と、言っていたのが耳に痛い。
まあなんてひどいのって思ってるだけじゃ力になれない。
祝島には「入会地(いりあいち)」が残っている。
入会地とは、共有の土地。誰でも入ってたきぎを拾える山だとか、そういった場所。
漁業権のある海や、鎮守の杜もそういった機能を果たしているのだとか。
原発立地予定の場所にはそういった入会地が含まれる。
鎮守の森は予定地の大きな部分を占めていた。売却を拒んだ宮司は神社本庁に解任される。
私が入会地という言葉を初めて知ったのは歴史の本だったと思う。
農民たちが共有の財産として使ってきた場所を、「近代的」な貴族や植民者が所有権を明確にしろとせまり、二束三文で取り上げました、というエピソードをアジアでもヨーロッパでもアフリカでもアメリカ大陸でも、色んな場所で見かける。
共有の土地を認めない思想は、植民地的な考えなんだろうな。
これは原発と闘う人たちを追ったルポルタージュであり、この島の人たちの暮らしや文化や歴史を丁寧に描いた本���もある。
原発反対はこの人たちの生活を圧迫している重大な要素だけれど、この人たちの人生はそれだけでできているわけじゃない。
暗雲の立ち込める現在で終わるノンフィクションは決してハッピーエンドとは言えない。
それでも、人の描き方に希望が見える。
ドイツの市民電力会社も、反原発の活動当初は町が分断されていた。けどここまでじゃなかった。http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4272330764
『発電所のねむるまち』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4251073045
発電所になってしまったまちを題材にした児童書。これも分断されている。
『雨ひめさまと火おとこ』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/B000J8LURU
神人(じびと)をはさんだ神と人の間柄に似ている。
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わたしは能登半島の珠洲原発建設計画に揺れた珠洲市に住んでいます。この著者とも顔見知りです。
珠洲原発計画が凍結されたあと,祝島に行っていたんですね。
山口県上関町の祝島も,ずっとずっと前から原発計画に反対してきた地域です。
どちらの町でも,市民が推進・反対に分かれて,余計に地域の活性化のブレーキとなっていくのが悲しいです。
「国策」の「国」とは,「国民」の「国」ではないんです。
「国策」の名の下でいろいろな施設を押しつけられた地域に住んでいる人たちは,とっくの前に,そのまやかしに気づいています。だからこそ,大量のお金をもらうことで,納得する人がいるのです。
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オシャカ様さえ言い残す
金より命が大事だと
人間はほろびて町が在り
魚が死んで海が在り
それでも原発ほしいなら
東京 京都 大阪と
オエライさんの住む町に
原発ドンドン建てりゃよい
ここは孫子に残す町
原発いらないヨヨイのヨイ
反対反対ヨヨイのヨイ
あたりまえのことだが、原発の計画さえなけえれば未来はバラ色、というわけにはいかない。原発計画がなくなっても、生きるということは、それぞれの状況なりに、やはりしんどい。それでも、それを「原発あり」で生きるか、「原発なし」で生きるかは、まるで違うと私は思う。
ならば、やはり「原発なし」で、しんどい生を生きてゆきたい。祝島や珠洲の人びとは、そのしんどさを、安易に開結しようとはしなかったのだろう。
「抵抗をしつづければ、原発は経済的に破綻して、撤退せざるを得なくなる」(序章の立花正寛さん)という言葉のとおり、珠洲の原発計画は「凍結」となった。いままた上関の原発計画も、原発をつくるための海の埋め立て免許が失効しつつある。
どちらも、わかりやすい勝利とはほど遠い。それでも、たたかいの日々を実際に保ちこたえ、事実として原発をつくらせていない人びとが、祝島にも珠洲にもいる。
山秋真『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』岩波新書、2012年、210頁。
山秋真『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』岩波新書、読了。半世紀の間に、日本列島の17カ所に原発ができた。一方で原発を作らせなかった地域も30カ所以上ある。本書は祝島(山口県・上関原発構想)に30年近く通い続けた著者による「原発をつくらせない人びと」のドキュメント。千回を超える女性中心の週一回のデモ等々、日常生活のなかでの人びとの戦いを描く労作。
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祝島の長年にわたる粘り強い闘いの様子を知ることができた。
村が”スイシン”と”ハンタイ”に分断される悲しさ。
この分断を積極的に作り出し利用して、反対派の孤立化・弱体化を図る国と電力会社。住民同士を対立に導く方法が今、福島で、あるいは放射能汚染問題、原発再稼動をめぐって全国にある。
これをどう乗り越えていくか。祝島の実例にたくさんの示唆が含まれているように思った。
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読んでいてため息の出る本だ。本当に頭が下がるというか、信じられないような心の強さを思い知らされる。目と鼻の先の対岸に計画された原発に対し、自分たちの生活の基盤である恵み豊かな海や自然を守ろうと、男女年齢を問わず懸命に繰り返される、瀬戸内海に浮かぶ小さな島「祝島」(いわいしま)の島民たちの30年にも及ぶ原発阻止運動のレポート。驚くべき粘り強さと行動力のドキュメンタリーだ。
中でも印象に残ったのが、「どうしても原発が必要なら、交付金を出さんようにしてください。(中略)そしたら、原発をほしい自治体しか手を挙げんと思います。」という漁民の声。もう一つは原発計画が浮上して間もないころ作られたという「上原(かみのはら)原発音頭」の一節。
オシャカ様さえ言い残す
金より命が大事だと
人間ほろびて町が在り
魚が死んで海が在り
それでも原発欲しいなら
東京 京都 大阪と
オエライさんの住む町に
原発ドンドン建てりゃよい
ここは孫子に残す町
原発いらないヨヨイのヨイ
反対反対ヨヨイのヨイ
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山口県上関原発計画に30年以上反対して来た祝島島民の運動に寄り添ったルポ。ほぼ毎週、1000回以上にわたるデモや中国電の台船との一触即発の様子の合間に豊かな自然の描写が挟まる良書。建設ギリギリのところで震災が起きたものの、完全に中止には至っていない。これを読むとこの原発はできないといいなと思わされます。絶賛お薦め。
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日本は原発列島。でも、原発を作らせなかった地域も3か所以上
ある。紀伊半島がそうだし、石川県珠洲市もそうだ。
そして、西瀬戸内海の小島で原発反対を唱えて活動し続けている
人たちがいる。
中国電力が建設計画中の上関原子力発電所。予定地である田ノ浦
の対岸にあるのが本書の舞台となる祝島だ。
中国電力が建設を予定した地域の海には希少種の生物も棲息して
いる。海からの恵みを受け取って来た島に生まれ、歴史を辿れば
村上水軍の血を受け継ぐ人々は、海を守る為に巨大な権力機構で
もある電力会社に立ち向かう。
反対運動の中心となったのは島の女性たちだ。正に「おばちゃん」
パワー。毎週のデモに加え、船に乗り込み中電の作業を止めさせ
ようとする。中国電力本社前の座り込みにだって積極的。
常に非暴力。力に力で対抗するのではなく、自分たちが愛した
海を汚されることに対する憤りが、捨て身とも言える反対運動に
結びついていた。
反対運動を始めた時、40代だった人は70代に、50代だった人は
80代になっている。それでも、島のおばちゃん・おじちゃんは電力
会社からの一切の金銭を拒否し、反対運動を続けている。
交付金だとか、補助金だとか、補償金だとかをばら撒いて、推進
派に転向させるのがどの電力会社にも共通の手口だ。だが、この
島ではそえは通用しなかった。
金じゃ購えないものがある。それを知っている人たちの運動の
軌跡は一読の価値あり。
しかし、凄いわぁ。祝島のおばちゃんたち。嫌がらせに島へやって来た
右翼さえもおちょくっちゃうんだもの。
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カテゴリ:図書館企画展示
2016年度第9回図書館企画展示
「災害を識る」
展示中の図書は借りることができますので、どうぞお早めにご来館ください。
開催期間:2017年3月1日(水) ~ 2017年4月15日(金)
開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース
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フォークシンガーの笠木透さんから
「祝島」のことを
教えてもらったのは
もう何十年前のことだろう…
写真家「福島菊次郎」の
「祝島」の写真展を
見せてもらったのは
もう何十年前のことだろう
数年前に
ドキュメンタリー映画『祝の島』(纐纈あや監督)を
御ところだ
あの時も
そして
今も
「祝島」のおばちゃんたちの
原発ハンタイの「月曜デモ」は続いている
いつの日になれば
「月曜デモ」の声がなくなるのだろう
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タイトル中の「原発をつくらせない」という表記を見て、「著者は原発推進派。しかし世の中には、原発を作らせない反対派もいるので、推進派から見た反対派を描く」という内容かと思いましたが、実際には、「著者は原発反対派。そして、反対派から見た反対派の活動を描く」という内容でした。
小さく切り取られた範囲の中での話でしかないので、この本の内容をもって「やっぱり原発反対」となる人がいたら(著者の狙いはそこにあるのかもしれませんが)、それには違和感があります。
原発に関しては、もっと根本的なところから、あるいは、もっと長いスパンで、あるいは、もっと広い範囲で考え、ステークホルダーを事前にできるだけ多く巻き込みながら進める(推進や反対を決める)必要があると思うのですが、この本に出てくる推進派(主に中国電力や経産省(旧通産省)の人)は、「決まったことだから進める」、反対派は「自分の生活を守るために反対」という色合いが強く、お互いの正義がぶつかり合うしかない状況だと思いました。
著者は、原発反対派の現場を大切にしているのだと思いますが、もう少し高い視座からの思考や記述が必要だと思いました。
おそらくは、高い視座がないがゆえに、祝島の歴史や習慣の説明に、必要以上の紙面を割くことになったのだと思いますし、安易なタイトル(反対派の活動の名称の一部をそのままタイトルに入れ込むようなこと)になったのだと思います。
ただ、原発立地が流れた地域については、恥ずかしながら知らないところが多かったので役に立ちましたし、その中に珠洲市(2024.1.1の地震の被災地)が含まれていたことは、今回初めて知り、いろいろと考えさせられるきっかけにはなりました。