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大風呂敷を広げておられるので、最初は何が言いたいのかよくわからなかった。
最後まで読み進むことで、また、生命誌科学館の試みを読むに至ったところで、ようやく著者の意図しているところ、著者の活動がぼんやりと理解できる。
音楽家が演奏という形で我々に身近なものになるように、科学もまた奏でることで、誰にとっても魅力あるものになればいいなと思います。
ただ、すべての科学者が死物を扱っているようにも思わない。
iPs細胞の山中教授はむしろ著者の語られるような「人間らしさ」を持ち合わせた科学者であるような印象があります。
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研究の本質を,研究者の研究に対する姿勢から問う.欧米的な機械論的世界観ではなく,日本ならではの生命論的世界観で接するべきとの主張はまさしく岡潔先生の,情緒,に通ずるもので興味深い.
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中村桂子『科学者が人間であること』岩波新書、読了。役に立つことを目指した挙げ句、狭い専門領域に隔絶された現代科学。人間や生きている社会との関係の中で自然観や人間観を形成すべき本来の役割を取り戻すべきではないか。震災以降、科学者の在り方を批判的に問い直してきた著者の科学(者)論。
著者が注目するのは大森荘蔵の“「重ね描き」の実践” 日常生活世界の外観的な「略画的」世界像と、学問が探究する…まさにメタ・フィジク…「密画的」世界像を背反ではなく相互補完的に捉え、探究の実践を人間という原点から実践する(南方曼荼羅)。
「あの大きな災害から二年半を経過した今、科学者が変わったようには見えません。…それどころか今、「経済成長が重要でありそれを支える科学技術を振興する」という亡霊のような言葉が飛び交っています。ここには人間はいません。……私たちって人間なんですというあたりまえのことに眼を向けない専門家によって動かされていく社会がまた始まっているとしたら、やはり「科学者が人間であること」という、あたりまえすぎることを言わなければならないと思うのです。」
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1308/sin_k723.html
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科学者ではない自分は、「科学」をどう受け止めるか、という点を中心に読んだ。
また、科学者の社会的役割についての筆者の見解もよかった。
前半部は読みやすく、後半部は少し読みにくかった。
再読・精読したい。
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科学は数値化し、そして死物化する。数値化を否定すると科学のいろんなところが問題になるが、そうではなくて死物化を問題にする。
研究者であっても人間であり、人間はまた生きものである、という、当たり前ではあるのに何か忘れられたようなことを、もう一度取り戻せ、ということを再三訴える本。キーワードは「重ね描き」「日常感覚と思想性」「環世界」あたり。言われなくてもわかっている、つもりだけれども…
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最初の方は、あまり印象に残らず一般的なことになってしまっている。中盤から具体的な記載で面白くなってくる。ただ、和辻の「風土」の引用など、現在の多様化の世界ではどうかな?というような引用もある。
卒論に使うのは難しく、随筆として読むのがいいであろう。
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著者もあとがきで記しているが、あたりまえのことしか書いていない。あたらしいことも書いていない。「科学者は科学者である前に人間でなければならない」と繰り返し主張している。
実際は、研究者の世界も「経済効率優先で科学技術はそれを支えるもの」となっている。現代の世界観は要素還元から成立しているが、要素のみに注力しては全体像を見失ってしまう。
「木を見て森を見ず」と言うではないか。これからの科学は常に「森」を見ていなくちゃいけないのだ。
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自然科学の分野に限らず、社会科学の世界でも同じことが言えるのではないかと思う。
専門分化が進むと、全貌が見えにくくなり、何のための学問であるのかを「人間学」として振り返り自問する。
ただ、商業ベースに乗らないこともあり、それが社会に理解されたとしても進歩と捉えられることはないのだろうと思う。
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3ヶ月にわたって本書を紹介したものです。
その1
はからずも本書が2017年度入試に取り上げられていました。滋賀県の膳所高校・特色選抜(京都でいう前期選抜)小論文の題材としてです。
著者の中村桂子さんは生物学者です。同じく生物学者で先日亡くなられました岡田節人先生と大阪は高槻市にある生命誌研究館での活動を続けてこられました。私も、何度も訪れたことがありますが、こじんまりとしていながらも、わくわくする展示がいくつもあります。機会があればぜひ出向いてみてください。では早速、本の内容に入っていきましょう。
本書は、2011年3月11日の震災のあとに書かれた。「地震がいつどこで起きるかという問いに対して学問ができることは、得られる精度最高のデータを用いての確率計算ですが、一方、被害に遭った人たちにとっては、地震発生は100%起ってしまった出来事です。これは病気についても同じで、・・・すでに病気にかかってしまった人には、確率は役に立ちません。ここが、学問が日常と接点を持つことの難しさです。けれども、だから学問は無意味ということではなく、この違いをわかったうえで学問を生かしていかなければならないのだと、震災後さまざまな場面で強く感じました。」「科学者らしくないと言われるかもしれませんが、自然は人間が制御できるものではなく、もっともっと大きなものであり、私たちはその中にいるのだということを痛感したのです。」これは、前回紹介した梅原先生のデカルト批判にもつながるだろう。本書をつらぬく一本の大きなテーマは「人間は生きものであり、自然の中にある」ということである。
(ここで、理科の担当者としてひとこと言っておきたいことがある。ヒトは生物の1つの種類に過ぎない。進化の過程で言えば、ヒトはあとからやって来た新参者だ。我々が地球を支配しているわけではない。それどころか、地球からしてみればヒトの存在なんて屁でもない(失礼!)環境問題なんて問題ですらない。だからと言って人間が何をしてもいいということにはならないが、地球の46億年の歴史のなかで言えば、いま起こっていることは異常気象でも何でもない。おごりを捨て、自然に対する畏怖の念をもち、われわれも生き物の一員であると意識する必要がある。)
第1章での中村先生からの提案。「まずは1人1人が『自分は生きものである』という感覚を持つことから始め、その視点から近代文明を転換する切り口を見つけ、少しずつ生き方を変え、社会を変えていきませんか。」具体例として、賞味期限を過ぎた食品をどうするかという話をされている。「科学的とは多くの場合数字で表せるということです。具体的には冷蔵庫から取り出したかまぼこに書かれた日時をさすわけです。・・・安全性の目安として書かれている期限を見て、その期間に食べているわけです。それを科学的と称しているけれど、これでよいのでしょうか。こうした判断のしかたは、私には、自分で考えず科学という言葉に任せているだけに思えます。『科学への盲信』で成り立っているように思います。」「科学的とされる現代社会のありようは実は他人任せなので、これは『自律的な生き方』をし���うという提案でもあります。うっかり期限の過ぎたかまぼこをすぐには捨てずに鼻や舌を使うという小さなことですが、一事が万事、この感覚を生かすとかなり生活が変わり、そういう人が増えれば社会は変わるだろうと思うのです。常に自分で考え、自身の行動に責任を持ち、自律的な暮らし方をすることが、私の考える『生き物として生きる』ということの第一歩です。」
右下の図は生命誌絵巻と呼ばれている。生命誌研究館設立以来、この図が研究館のイメージ図として使われてきた。「扇の天が現在であり、ここには現在の生きものたちが描かれています。バクテリアもいますし、シャクジクモがいたりキノコも、植物や動物もいろいろ・・・大きく分けて五界(原核生物、原生生物、植物、菌類、動物)に分類される生きものたちは数千万種もいるとされています。」ここには身近な生き物が描かれている。これらはすべてゲノムを持つ細胞から成る。ゲノムとは細胞内にあるDNAの総体をさし、ここに遺伝情報がある。「これは決して偶然ではなく、地球上の生きものは祖先を一つにしていることを示していると考えています。ここから多様な生きものたちが生まれていく過程を知ることこそ生きものを知ることと考えて、生命誌を提唱しました。」「この絵巻の語っていることの第一は、祖先は一つということです。これほど多様な生きものが皆一つの祖先から生まれた仲間だというのです。これは現在の生物学の見方の基本となる大事なことです。」生命が最初に誕生したのはおよそ38億年前と言われている。すべての生きものが、それだけの時間をかけて、いまここに存在しているのだ。そう考えるとアリ1匹殺せなくなる。いのちの重みにはこのとてつもなく長い時間の重みもあるのだろう。「もっともここで、これほど重いものなのだからどんないのちも失わせてはならないなどときめつけたら大変なことになります。私たちが毎日野菜やお肉を食べていることからも明らかなように、生きもののいのちは他のいのちの上に成り立っているものなのですから。ただ、すべての生きものが同じように持つ重みを感じて行動する。これが絵巻から読みとれる二つ目のことです。」絵巻が示す三つ目のこと、それは人間の立ち位置である。「現在の社会での人間のありようをここに描くなら、扇をはずれた上のほうに置くことになります。他の生きものたちとは別のところ、つまり自然の外にいるという姿です。しかも少し上のほうから眺めて、生物多様性を考えましょうとか、地球にやさしくしましょうなどと言っているのです。でもそれは間違っています。『中にいる』。人間は生きものであるということは、他の生きものたちの『つながりの中にいる』という感覚を持つことです。」
このあとチンパンジーを研究されている松沢哲郎先生の話が続く。そして、人間特有の能力としての「想像力」が取り上げられる。このあたりもおもしろいのだが紙数がつきた。松沢先生の著書を紹介して終わろう。岩波新書では「進化の隣人 ヒトとチンパンジー」。少し古くなるので今回は取り上げなかったが、ぜひ読んでいただきたい1冊だ。
次回は、大森荘蔵先生が描く「近代的世界観」が語られる。少し難解になっていく。
その2
昼ドラ「やすらぎの郷」を毎日楽しみ��している。その中で、主人公石坂浩二が嬉々としてメールを書いているシーンがある。「機械文明はすばらしい」という。確かにそうなのだけれど、2011年、原発事故を経験した我々は、科学技術を礼賛ばかりしているわけにはいかない。
著者は科学に対する見方、世界観について論じていく。選択肢は2つ。1つは「悪者は科学なのだから、もう科学からはすっかり離れよう。」もう1つは「科学にはたしかに多くの問題点があるけれど、そこに蓄積された知を無視することはできない。17世紀にヨーロッパで始まった科学を見直し、そこにある問題点を検討することで、科学を踏まえた新しい知を探索しよう。」著者は後者の考えをとる。特に原発事故後は、専門家の言うことなんて信じないという風潮が強くなる。それは、「専門家」たちが自らもまた社会の中に生きる「生活者」であるという感覚を失っていることが原因と言える。そこで、科学を一般の人々に紹介するコミュニケーターというような存在が生まれる。しかし、著者はここにも疑問を呈ずる。「科学を文化とするなら、本を読み、絵を眺め、音楽を聴くのと同じように、だれもが科学と接することができて初めて、科学が社会の中に存在したことになるはずです。ここで作家や画家や音楽家が自分の作品を世に出すときに、コミュニケーターを求めたりするだろうかと考えてみると、今の科学のありようの不自然さが見えてきます。」科学を表現するということを音楽になぞらえて言うと、論文という楽譜をいかに演奏するか、表現するか、その道を探っているのが、著者が館長を務める生命誌研究館である。「では、文化としての科学の表現に対して、広く一般の人々が関心を持つようにするには、科学者はどうしたらよいでしょうか。概して、人の話を聞く場合、大切なのはその内容と同じくらい、またはそれ以上にその人への関心であり、さらには信頼です。それがあれば少々難しいことでも耳を傾け、学ぶ気持ちになります。話し上手でなくても惹きつけられます。」(信頼、難しい課題です。日々その大切さを感じていますが・・・)ここで、著者が学生時代に出会った、朝永振一郎先生のエピソードが紹介されている。「教育とはまさに、こういうものでしょう。先生への信頼が基本です。最も大事なのは人間として語っているかどうかということです。それを考慮せずに、科学は難しい特別の分野とし、科学者・科学技術者は、普通の同じ考え方ができない、普通の言葉も話せない人としてしまうことには疑問を感じますし、それをしてはいけないと思います。専門のことはそれを専門とする人が最もよくわかっているのですから、その人に聞くのが最もよいはずです。」「そこでまず専門家が言葉を大切にし、だれにも話が通じるようにしなければなりません。高度の内容そのものを理解させるというより本質を語れなければなりません。それには、専門家が専門の中だけにあるのでなく、聞く側の人と人間としての共通基盤がなければならないと思うのです。しかも、人間としての魅力を持っていたとしたら、それはすばらしいことでしょう。」「研究者自身もまた、自分の研究対象という狭いところだけでなく、自然そのものに向き合い、自然観、人間観を培う努力が必要です。自然とはなにか、生命とはなにか、生きものの1つである人間とはなにか・・・哲学というほど難しくなく素朴な問いでよいので、つねにそれを考え続けていたいと思います。生活者の感覚を持ちながら世界観を探っていくことも含めての研究と考えて、初めてその人のすすめる研究は社会から信頼されるものになるのではないでしょうか。」将来研究者になろうとする人がいるなら心にとめておいてほしいことばだ。
次に、近代科学がはらむ問題が語られる。17世紀、近代科学の誕生を振り返ると、その中心になる考え方は以下の4つである。ガリレイ「自然は数学で書かれた書物」、ベーコン「自然の操作的支配」、デカルト「機械論的非人間化」、ニュートン「粒子論的機械論」。そして、「自然は私たちと一体のものではなく、「未知なる第三者」として、外から実験的に把握されるもの、解剖されるものと位置づけられるようになった。」(伊東俊太郎「近代科学の源流」より)著者はこういったところに問題意識を持ってきた。いくつかの具体例をあげた後、著者は次のような結論に達する。「このような例に次々出会うなかで私自身は、生命や自然を機械として見ることの問題の核心は、数値化にあるとなんとなく思ってきました。すべてを数量化し、それを生かした技術によって利便性だけを求めていくやり方に疑問を持ち、単により速く、より大きくという形で進歩を求める動きの中では、生きものとしては生きにくいと実感し、悩んできました。しかし、科学を全面否定するのでない以上、数値化をすべて否定することはできません。ではどうすればよいかを考えたときに、大森がひじょうに重要な視点を与えてくれました。問題の本質は数値化そのものではなく、その数値化をする際に、自然を『死物化』していることだというのです。これは数値化を否定せずとも、『死物化』を回避するという方法で新しい知を生みだすことができるという示唆です。」ここで、大森とは科学哲学者の大森荘蔵のことであり、その著書「知の構築とその呪縛」によって、この後の話はすすんでいく。
大森の考え方に2つのキーワードがある。「略画的」と「密画的」。日常、自分の眼で物を見、耳で音を聞き、手で触れ、舌で味わうという形で外界と接している時に私たちが描く世界像が「略画的」である。それに対して、近代科学が生まれたことで可能になった世界像の描き方が「密画的」である。近代科学は「略画的」な見方を排除し、「密画的」な見方を進めてきた。その結果、自然は「死物化」していった。ここで、「略画的見方、より平たく言うなら日常的な見方を否定することを考え直す必要があります。」そこで登場するのが大森の「重ね描き」という方法だ。それは「DNAやタンパク質のはたらきを調べるという生命科学の方法で見ているチョウ(密画的描写)は、花の蜜を求めて飛んでいる可愛いチョウ(略画的描写)と同じものであるというあたりまえのことを認め、両方の描写を共に大事にする」ということである。「重要なことは、『科学的』だからといって、密画の方が略画より『上』なわけでも、密画さえ描ければ自然の真の姿が描けるわけでもないということです。密画を描こうとする時に、略画的世界観を忘れないことが大事なのです。」「密画的世界は、略画的世界と重ね合わせることで生き生きとした自然につながる魅力を持ちうるのだということは、科学者の側から伝えていかなければならない大事なことです。科学の専門家でない方の中には、科学による密画的世界が私たちの自然を美しいと感じる気持ちを損なうと思っている方さえあります。」ここでミヒャエル・エンデをとりあげている。科学を敵対視する発言に、著者は憤りを感じているようだ。「科学的理解が感情を豊かにしてくれると考えてほしいと思いました。研究者が発信しなければならないのはこの感覚です。」「『略画的世界観』と『密画的世界観』との重ね描きによって豊かな自然・生命・人間を見出し、それを基本に置いて社会をつくろう。建設的な答えはここにあると思います。」
この後、重ね描きの実践として、日本人の自然観が紹介される。当然、ここでも登場するのは宮沢賢治だ。さらに、南方熊楠も登場する。そのあたりについては、次回にしよう。
その3
著者は「重ね描き」の実践を考えていく中で、日本人の自然観が重要であることに気づく。科学の基本には普遍性があるわけで、日本人であるという特殊性は意識しないようにされてきた。しかし、この「重ね描き」に関しては、どのような自然とのつき合い方をしているかということが大きく関わってくる。そこであえて、日本人がこれまでどう自然と関わってきたかを確かめることになる。
まずは和辻哲郎の「風土」、それから、ユクスキュルの「生物から見た世界」における考え方が紹介されている。その上で、日本人の自然との関わり方について次のようにまとめられている。「思いきって一言で表すなら『自然の中にある』という意識が強いのではないかと思います。ここでの『自然の中にある』は、手をつけない天然の状態だけをさすのではないところが重要です。」原始林ではなく手入れをされた里山のこと、棚田のことが語られたあと、興味深い具体例が挙げられている。「花を愛でる気持も古くから私たちの中にあり、日本の文化として続いています。ただこの『花』もまったくの天然自然ではなく、徹底的に手を入れられたものです。桜がその典型でしょう。古くは花と言えば梅であったものが桜に変わり、今ではお花見と言えばまず思い浮かべるのは桜です。それも染井吉野、どこへ行っても薄いピンクの花が一斉に開く、桜並木や公園があります。そこで『花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに』という有名な小野小町の歌にも今身近にある桜を思い浮かべてしまいますが、染井吉野は幕末に江戸で作られた品種であり、平安時代にはありませんでした。当時の桜は山桜ですから花の色は白、咲き方も花と葉が一緒に出るので、花が先に咲く染井吉野とは違います。花と言い、桜を思うという点では連続した文化を持ちながら、そこへ完全な人工を持ちこむ――染井吉野はすべてクローンです――のは、自然の中にあるという原則を持ちながら人工を生かす日本人のみごとな生き方ではないでしょうか。」「つまり『自然の中にある』というのは、多種多様な生きものの一つとして生きるということですが、生きものとしての人間に与えられた知性や手の器用さを生かした人工を否定するものではありません。それどころかその能力はフルに生かすことが必要です。自然の外に出てしまわずに、中にありながら人���らしさを生かす点で、日本の文化はすばらしいものを持っているのです。」しかしながら、「近代以降の科学はデカルト・ベーコン型、つまり自身は自然の外にいてそれを操作するという自然観を持っています。近代化とともに日本に入ってきた科学が、外から自然を客観的に見るという方法を持ちこみ、これが進んだ考え方とされたために、『人間は自然の中にいる』という自然観は遅れているということになり、日本人はそこで自信を失ってしまったように思います。遅れている、追いつかなければという落ち着かない気持ちで過ごしてきました。けれども冷静に考えて、日本人の自然観は『重ね描き』に有効な一面を持っています。『重ね描き』をするには、いかに自然と親しむか、自然と近いところにいるかということが大きな意味を持ちますから、そこでは自分自身が自然の中にいるという認識が重要だからです。」さらには万葉集の自然観について。「朝露にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ」鳴き渡る鳥がいるのを見ている私がいることが重要。「主体と客体として一度は分離しながら、客体を主体とまったく独立の存在とするのではなく、主体がある意味そこに入りこむ、あるいは、客体を自身と同じ感情を持つものとして見ている」つまり「自然は人間と密接な関係にある存在なのです。」「この自然を通してつながる感覚は、同時代の人どうしのものとは限りません。私たちが今万葉集を読むと、具体的な生活様式は大きく違っていたでしょうに、そこに歌われている生活や感情を通して、万葉人とのつながりを感じます。その感覚は、科学技術に支えられた都市に暮らす若い人たちも同じなのではないでしょうか。そう感じるのは、そこで歌われている自然への共感から来るのだと思います。」
次に、日本の理科教育について。幼稚園における教育目標には「自然に触れて生活し、その大きさ、美しさ、不思議さなどに気づく」とある。小学校1,2年生の生活科でもほぼ同じ。3年生になって理科が始まると、「科学的な見方や考え方を養う」と、ここで初めて「科学」という言葉が登場する。実はここに、「略画」と「密画」の両方が現れている。日本人的な自然観として、自然に親しみ、自然を愛する心情を育てる、これは「略画的」そのものである。一方、自然科学的な要素である観察・実験・問題解決能力、科学的な見方・考え方などはまさに「密画的」なものである。目標としては良いものを持っていながら、どうもうまくいっていないのではないかと著者は考える。「進歩した社会のありようとして『科学的』であることを求めながら、一方で、日本社会、日本文化の根底にある『自然に親しむ』をその教育の基本に置いたのが『理科』というわけです。この『接ぎ木』によって生じた混乱が、これまでの科学の歴史の中で、日本人を中途半端なところに置いたのかもしれません。」自然に親しむという感覚と論理的思考の両方を持つことは正しい。ただそれがうまくいっていないのではないかと言う。「21世紀の科学は、自然の複雑さにそのまま向き合うものへと変わりつつあります。17世紀以来の機械論的自然観に対して生命論的自然観を持つものに変わろうとしているのであり、そのためには重ね描きが必要だというのが、ここで考えていることです。日常の自然への親���みと科学をつなぐことがこれから重要になります。実は日本の理科教育は、まさにこの『重ね描き』のできる人を育てるものになっているのです。」この後、福島県喜多方市の小学校における農業科の取り組みについて紹介されている。さらに、宮沢賢治、南方熊楠、ポランニーなどの考え方についてかなりのページを割いて紹介されている。その後にまた、農業高校での実践例が紹介されている。「豚を飼っている女子高校生は夏休みも登校です。長靴をはき、汗だくになって豚の世話をしているのを見て、大変ですねと先生に伺ったら、私が代わりに見ておくからと言っても来てしまうんですよ、との答えでした。時間と手間のかかることを楽しむ気持ちが彼女たちの中にあるということです。私が近寄っていくと豚がシッポを振ってくれました。…よほど大事にされているのでしょう。しかも女子高生たちは育てた豚がソーセージになることを承知している「のです。ときには自分たちでソーセージづくりもします。」日本の理科教育に「自然に親しむ」という考え方があったが、ここでの「親しむ」は、自然の本質を知ることでそれを愛する、『愛づる』であると言う。「農業による教育は、理科教育の基本であり、人間を育てることでもあるのです。」
最後に、著者が今現在実際に取り組まれている生命誌研究館での具体的な取り組みについて語られる。そこが面白いところではあるのだが、紙幅にも限界があるので、実際に、皆さんに訪れてもらうことを期待して、ここでは、その考え方だけを紹介するにとどめる。「重ね描きを意識しながら『生きているとはどういうことだろう』と考え、そこから生まれる世界観を持ち、そのうえで社会人として生きることが今私にできることです。そして、その世界観から見えてくる、誰もが生き生き暮らす社会の構築に向けてできることを続けていきたいと思います。」「もちろん研究館で行なう研究だけで世界観が見えてくるわけではありません。世界で進められている最先端研究に目配りし、データを集め、生命誌のデータベースを作るなどして全体像を作っていく作業を進めています。論文という形でなく物語を作り表現していく試みです。」具体的な取り組み方が図示されている。(右図)「くり返しますが、密画を描くのはよいのですが略画の世界を捨ててはいけないのです。サイエンス・コミュニケ―ション活動は、密画の世界を伝えているだけです。音楽と組み合わせて楽しい夕べにしても、それは密画の世界に伴奏がつくだけで重ね描きにはなっていません。画家が絵を描き、作家が小説を書き、歌人が歌をつくるとき表現したいものと、私が生命誌研究で表現したいものは同じです。ですからいかに表現するかが重要であり、表現が稚拙であれば何も伝わりません。」
ここまで、科学者のものの見方・考え方について話はすすんできたが、最後の1ページで、これを人間全体に展開されている。「科学者だけでなく、現代社会に生きる人皆が、それぞれの立場で、日常感覚と思想性に基づくバランス感覚を発揮してこそ、新しい文明、新しい科学への道が開けてくるのだと思います。」
3回にわたって中村桂子著「科学者が人間であること」を紹介してきた。将来、科学者を目指す人はもちろん、そり以外の人も、日々の暮らしの中に必ずや科学技術は入りこんでくるわけだから、ぜひ本書を読んで、科学に対する見方・考え方を学んでほしいと思う。まずは、一度、高槻市にある生命誌研究館をのぞいてみてくださいね。
最初に書いたレビュー
科学者は人間に決まっている。しかし本書によるとどうやら科学者はふつうの自然の中に生きる生き物としての人間とは言えないらしい。自分も地球上の生き物の一員であることを忘れてしまっているようだ。木を見て森を見ない状態になっていることが一つ、それから研究費を捻出するために、経済成長に役立つ研究ばかりを優先させる。そういう人を何人も見てきたと著者はいう。そのことばは辛辣だ。挙句の果てにはあの原発事故。それを経験したにもかかわらず、相変わらず同じ調子が続いているのだ。科学者に日常感覚を取り戻してもらわなければいけない。そういう教育をしなければならない。具体的な施策としては、小学校での農業科の取り組みが紹介されている。これは一つのヒントになるかもしれない。梅原猛先生が考えている哲学も役立ってくることと思われる。著者が館長を務める生命誌研究館には足繁く通った時期がある。できて間もないころ、岡田先生が館長のころ。自分もこんなところで働きたいと思ったものだ。10年ほど前、子どもが小さかった頃にも行ったようだが、あまり記憶にない。ホームページを見てみると、館長自ら本書の感想のメールにお答えされている。これは過去にはなかったことだ。これをし出すと、忙しくて仕方ないだろうなあ。
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1 「生きものである」ことを忘れた人間(「生きものである」とはどういうことか;「ヒト」の特徴を考える;近代文明とは何だったか―「生命」の視点から)
2 「専門家」を問う―社会とどう関わるか(大森荘蔵が描く「近代」;専門家のありようを見直す;社会に対する「表現」;生活者として、思想家としての科学者)
3 「機械論」から「生命論」へ―「重ね描き」の提案(近代科学がはらむ問題;「密画化」による「死物化」;「重ね描き」という方法;自然は生きている;「知る」ことと「わかる」こと)
4 「重ね描き」の実践にむけて―日本人の自然観から(日本人の自然観;「重ね描き」の先達、宮沢賢治;「南方曼陀羅」と複雑系の科学;重ね描きの普遍性)
5 新しい知への道―人間である科学者がつくる(生命科学の誕生;アメリカ型ライフサイエンスの問題点;何を変えていくか;生命誌研究館の二〇年とこれから)
著者:中村桂子(1936-、東京都、生命誌研究者)
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上品で淡々とした筆致だが、考え抜かれた言葉と表現。そして、根底にある信念。見事な本であった。個人的には、宮沢賢治についての、本当の幸せ、本当の賢さ論が発見であった。
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言葉は優しいが、厳しい問いかけである。「役に立つ」研究への「選択と集中」が、何をもたらしているのか。研究者が本来持つべき資質とは。
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うーむ
人間と言うより個人的見解ではないか
中村さんの意見であればいいが「科学者が」と主語が大きすぎる
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今まで読んだ本とは異なる雰囲気でとても楽しめた。具体的な例で中村桂子さんの主張がより明確に伝わり、納得できる部分も多くあり、共感できた。普段は便利な世の中で生き、なかなか気づかない「生きものとしての感覚」についても改めて自分の五感を用いて判断し、責任を持つことが大切と分かった。最新の科学や数字に頼りがちな世の中で、「生きものとして生きる、『自律的な生き方』」ができればなと思う。
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880
科学的とは多くの場合数字で表わせると いうことです。
東京への一極集中は、生きものとして生きるとい う生き方を許しません。しかも、多くの発信が東京からなので、社 会としての価値観や生き方の選択が東京で決められてしまうことに なります。北海道から沖縄までさまざまな自然の中でそれを生かし た暮らしを作っていくことが、「ヒト」としての豊かな暮らしにつ ながるのに、です。
生命誌の立場から、 一極集中は改めなければならないと言えます。
科学が明らかにしてきた知は放棄しない。しかし同時に、大森の示したような二元論 に基づく「科学」では、痛みや美しさの感じなどが語れないことは明らかなのですか ら、科学だけで世界を理解することはできないとする必要があります。
科学はすべてに答があるとするものです。しかも最近 は、答えるのがよいという風潮がありますので、答のない問いを問い続けることを大切 にしません。そのために、心は最もわからないものと思いこむのではないでしょうか。
ところが日本が近代科学を取り入れた時に、その基本にあるキリ スト教が多くの人々に受け入れられることはありませんでした。日 本の風土として培われた、自然の中に多数の神を見る文化は一神教 とは合いません。しかし、先進国となるためには、ある意味キリス ト教の申し子とも言える科学は、取り入れなければなりませんでし た。
このような考え方には、熊楠の日常にあった仏教が生きているよ うに思います。事実熊楠は、「科学哲学は仏意を賛するものとでも 見て」と言っています。西欧の科学を知識として学ぶだけでなく、 自身の中に取りこみ、それを仏教と組み合わせて新しいものを生み 出そうとする心意気が見えてきます。熊楠は科学を仏教の眼で見よ うというだけでなく、仏教も科学に眼を向けることで隆盛すると考 えています。
そのためにはまず、自然科学者であっても人文・社会科学を学ば なければいけないというのが当然言われることでしょう。