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- カテゴリ:一般
- 発売日:2015/03/26
- 出版社: クオン
- サイズ:21cm/149p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-904855-28-7
紙の本
酔うために飲むのではないからマッコリはゆっくり味わう (日韓同時代人の対話シリーズ)
著者 谷川 俊太郎 (著),申 庚林 (著),吉川 凪 (訳)
さあ、詩のことばで語り合おう。日韓を代表する詩人ふたりによる未発表対詩のほか、代表的な詩作品、エッセイを収録。日韓同時出版!【「BOOK」データベースの商品解説】日韓を代...
酔うために飲むのではないからマッコリはゆっくり味わう (日韓同時代人の対話シリーズ)
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商品説明
さあ、詩のことばで語り合おう。日韓を代表する詩人ふたりによる未発表対詩のほか、代表的な詩作品、エッセイを収録。日韓同時出版!【「BOOK」データベースの商品解説】
日韓を代表する両詩人の合作「対詩」、初公開! 代表作、対談も収録した充実の一冊
幅広い世代の読者を持ち、人気・実力ともに日本を代表する詩人である谷川俊太郎。そして、韓国「民衆詩」の時代を作り、民主化運動においても重要な役割を果たした韓国の国民的詩人・申庚林。
ふたりの交流は、2012年に出版された申の詩選集『ラクダに乗って』(小社刊)に谷川が帯文を寄せたところから始まりました。
詩集出版記念に来日した申は、韓国YMCAで谷川と初めて対談。翌2013年には、谷川の童話が韓国で翻訳出版され、今度は谷川が本の祭典「ブックソリ」に参加するために訪韓し、対話を深めてきました。意気投合したふたりは、2014年1月から6月にかけて、「対詩」※という形で互いに詩を交換し合い、24のあたらしい詩が生まれました。
本書では、未発表のふたりの「対詩」作品全文を初掲載するほか、両詩人それぞれの代表作、エッセイ作品、日本と韓国で2回にわたっておこなわれた対談を収録しています。
【商品解説】
著者紹介
谷川 俊太郎
- 略歴
- 〈谷川俊太郎〉1931年東京生まれ。詩作のほか、絵本、エッセイ、翻訳など幅広く作品を発表。
〈申庚林〉1935年忠清北道中原郡生まれ。東国大学碩座教授。詩集に「農舞」など。
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紙の本
短い言葉に残された何かをたどる
2024/03/04 12:01
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あお - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書を知ったのは、東京混声合唱団の第264回定期演奏会で「星の名を知らずにいたい」が委嘱作品として初演されたからである。
日韓の詩人二人が互いの作品に呼応するような形で詩を創っていく≪対詩≫という形式が取られている。演奏会で初演された曲はその17番目、谷川俊太郎による詩に信長貴富が作曲したものだ。
詩集というものは普段、なかなか手に取らない。自分は小学生の頃、国語が一番苦手な教科で、その真髄(?)を理解したいとも思えなかった。その理解できない分野の最たるものが小説と、詩だった。文字の海に散逸し、隠された意図を読み取るのがどうにも苦手で、詩だと言葉が短い分余計にヒントが少ない。「登場人物の心情」やら、「作者の気持ち」やら、そんなこと訊かれても困る、と試験の問題文に対して半ば恨めしい気持ちになっていた。
それから数十年、良くも悪くも知識や経験がついてきたからか、詩に対する抵抗感というものはやや薄れた印象ではある。
日韓のみならず、世界中の至る所で国家間のあり方について様々な議論があるわけだが、個人レベルに視座を下げて考えれば、言語や習慣が互いに違うだけの≪人と人≫なわけである。対詩の数々から、国家レベルで見えるものと個人レベルで見えるもの、それぞれの視座の対比が柔らかく、かつ、まるで金属が何かと擦れる甲高い響きが身を竦ませるように、心に入ってくる。
対詩の後には、詩人の既出の作品がそれぞれいくつか掲載されている。まず印象に残ったのは谷川俊太郎の「かなしみ」と申庚林の「さすらいびとの唄」である。発想に似通ったものがあると詩人の対談でも語られているが、忘れもの、捨ててきたものがあるような気がするけれどもそれが分からない、≪探してください≫と人に頼もうにも、探す対象が分からないのでどうしようもない虚無感を思った。その時なぜか自分の脳裏には「千と千尋の神隠し」に出てくるような、鉄道沿線の水浸しになった地上の青さと空の青さが繋がった風景、そしてそこにぽつんとある透明な人型のシルエットが思い浮かんだ。蛇足ながら発想の根底は異なるだろうが、似たような詩作があるとしたら工藤直子の「あいたくて」だろうか。
あと個人的には「臨死船」と「息苦しい列車の中」も似ているのではなかろうかと思う。
また申庚林の「葦」「ラクダ」では、人の背負う業のようなものを静かに、そして少しばかり物悲しく感じ取れるような気がした。
詩と言うのは語られる言葉が短い分だけ、その言葉選びが光ってくる芸術なのだろうと今なら思える。いかにその言葉に語らせ、読む者に訴えかけることができるか。
言葉は人類に付された特権で、言葉がなくては伝わらないことは数多ある。しかし同時に、言葉の力をもってしても語り切れないものはどうしてもある。逆にだからこそ、詩の本領が発揮されるとも言えるのかもしれない。
読んでも分からないことはある。その≪分からない≫に浸る余地、また、運が良ければ≪分かる≫に半歩でも近づいた時の、閃きのようなときめきがやってくるのを待つ大らかさが欲しい、と思う。